「チヒロはほかに行きたい場所はないの? ひとりでなら世界中のどこでも、好きなところへ行けるでしょ。
アメリカとかイタリアとかフランスとか? もしかして俺に遠慮してる?」
「ううん」
チヒロは、すぐに否定した。
「そりゃあ一生のあいだに訪ねてみたかった国や、眺めてみたかった景色はあるけど。でも、ひとりで行ってもつまらないもの。
道をききたくても、会話できないし、誰とも。それってすっごく寂しい。
感動的な風景に出合ったら、その気持ちをやっぱり人とわかちあいたい。
すごいね、きれいだねって、伝えあいたいもの」
心のなかで、僕は深くうなずいた。
たしかにそうだ。
チヒロと共感しあう喜びや幸せを知ったいまは、ひとりで何かをするのがひどくつまらなく感じてしまう。
「お待たせしましたぁ」
湯気を立てたソーキそばが運ばれてきた。
「おいしそう」
チヒロは興味深そうに目を細め、丼をのぞきこんだ。
はじめて食べるソーキそばだ。そば麺と思っていたけど見た目はうどんで、豚の角煮っぽいものが乗っている。
れんげでツユをすくって飲むと、かつおだしのやさしい味が口のなかに“ふわぁーっ”と広がった。
「おいしい?」
チヒロにきかれて、「うん、うまい」と即答する。
チヒロはテーブルに頬杖をついて、僕が食べるようすをにこにこと眺めている。
その表情がどうしてか、母さんとかさなった。
僕がちいさいころパクパクとごはんやおやつを食べているところを、母さんはこんなふうにおだやかな目をして見守っていたのだ。
「わたしね……」
くちびるに微笑を漂わせて、チヒロがこそっと言った。
「ヨシくんが幸せそうにごはんを食べてる姿、だぁい好き」
爆弾発言級の告白に、僕は「んぐっ」とむせかけた。
“だぁい好き”。
好き──ってチヒロから直接言われるのって、はじめてじゃないか?
そうだ。それとなく伝えられたことはあったけど、チヒロの口からこんなにはっきり言われたことは、ない。
めっちゃ、うれしい。
だけど照れる……。
身体がすこぶる熱くなり、頭もぽうっとなって、ソーキそばの味がわからなくなった。
残りの麺と肉を胃に流しこみ、どうにか食事を終える。
こそばゆさが抜けないまま、ロビーから外へ出た。
とたんに空気が変わった。
もわっとむし暑い。けど不快じゃない。
青々した空がまぶしくて、額に手をかざす。目の前はもうタクシー乗り場だ。
ここはバスの本数がすくないので、観光客のほとんどはレンタカーを利用するらしい。
僕は原付の運転免許しか持っていないので、タクシーを使うと決めていた。
ホテルのチェックインまでには、まだ時間がある。チヒロと意見が一致し、島内屈指の景勝地とうたわれている灯台へ行ってみることにした。
タクシーに乗りこむや、
「お兄さん、ひとり? 観光? それともアルバイト? どこから来たの?」
見た目は僕の父さんよりだいぶ年配の浅黒い顔のドライバーさんが、やわらかみを感じるイントネーションでいろいろきいてきた。
「観光です。東京から」
「東京! 都会だねぇ。東京のどこ? うちの娘ふたりもね、東京に働きに出ててねぇ」
愛想ばつぐんでガイド上手なドライバーさんと話していたら、40分があっという間に過ぎ、目的地が近づいてきた。
島のもっとも東端にある、岬の上に建つ灯台だ。
タクシーは細長く伸びた崖の上の一本道を、すいすい進んでいく。
岬の全長は2.5キロ。右は太平洋、左は東シナ海。
ドライバーさんがそう教えてくれたけど、両サイドに岩や低い木やめずらしい植物が茂っているので、海はところどころでしか目に入らない。
やがてひろびろした駐車場に入ってタクシーは止まった。5、6台の普通車がすでに駐車している。
「この先は車で行けないからね。灯台まで歩いて10分かからないから。行ってらっしゃい」
料金メーターを止めて待っててくれるというドライバーさんに送りだされて、僕たちは車止めの先の舗装された道へ進んだ。
ゆるやかにうねる遊歩道のずっと先に、青空を背景にした白亜の灯台がぽつんと突きでていた。
建物はほかになにもなく、自然だけののどかな風景が広がっている。
道の両わきの崖は地面がすこし盛りあがり、植物が生い茂っている。だから、まだ海を見渡すことはできない。
それでもターコイズブルーの空と、真っ白な灯台と、白銀のような綿雲のコラボレーションが現実離れした色彩美を生み、この景色だけで心が震えた。
海風が吹いていた。