ささやかな幸せは、ぽつぽつあった。

 家庭環境に恵まれている自覚はちゃんと持っているし、日々胸を苦しめる(なや)みなんかも、小1のときの“シカト期”ぐらいしかなかった。

 それでも、満ち足りてはいなかったんだ。

 能天気そうな顔をしてても、惰性(だせい)でくり返す毎日、(ちょう)低空飛行な日常に退屈(たいくつ)を感じていた。

 やる気が出ずに、だらけてた。
 
 おのれの努力不足に目をつぶり、なんかいいことが起きないかなぁ、なんて淡い期待を抱いては、そんなじぶんにうんざりしていた。

 欠けているものは、わかっていた。

 人生に張りを持たせてくれる、スイートなときめきだ。めくるめくロマンスだ。

 だけど、どうだ。
 
 僕の人生に欠けていたそれがとつぜん舞い降り、僕を世界一の幸せ者にしてくれている。

 ありがとう。ヨシカワチヒロさん……。僕を好きになってくれた、ヨシカワチヒロさん……。

 心のなかで熱く感謝しつつ、フルネームを唱えていたら、

 そうだ! SNS!

 はっと思いつき、ヨシカワさんの名前であわててアカウントを検索した。

 だけどそう都合よく、本人らしき人は見つからない。

 まあ、いいや。この学校の同じ学年ってことはわかってるんだし。

 余裕(よゆう)の笑みを浮かべて僕はドアを開け、歩きながら手帳をサイドポケットにしのばせた。
 ぐっと背筋を伸ばし、颯爽(さっそう)とトイレを出る。

 こんなふうに人目を意識して廊下を歩くなんて、かつてないことだ。

 だけど、いつ、どこで、誰に見つめられているかわからないから。

 だらしない姿を目撃されないよう、気をつけないと。

 手帳の内容からすると僕=鴨生田善巳は、絶対的にヨシカワチヒロさんの心を奪ってしまっているのだ。

 たった1人のファンといえども、“1”と“0”ではまったく意味が違う。

 あるか。ないか。

 僕は知らず知らず、“ある”のほうに入っていたのである。
 
 ぅわーい!

 有頂天(うちょうてん)になって階段をあがりながら、(アル♪アル♪アル~♪)なんて適当な(ふし)をつけて口のなかで歌っていたら、

「おっ」

 下りてきた神部とばったり鉢合(はちあ)わせした。

「ガモ、なにニヤニヤしてんの」

 一歩身体を引き、雰囲気イケメンにいぶかしげに目を細められた。

「し、してないよ、ニヤニヤなんて。あ、電話、サンキュー。助かったよ」

「おぉ。こんどは失くすなよ。つぎは絶対見つかんないかもしれないからさ。この学校にはゆがんだやつが(ひそ)んでるからな」

「だな。気をつけるよ」

「バイビー(バイバイ)」

 とあえて昭和時代の死語を使い(僕たちのなかでちょっとした流行中)、ひらひら手を振って行こうとする神部を、「あ!」と引き止めた。

 交友関係が広い神部なら、ヨシカワさんのことを知っているかもしれない。ダメもとできいてみた。

「神部さぁ、……ヨシカワチヒロって女子、知ってる?」

 しぜんと声がちいさくなった。名前を口にしただけで心臓がバクバクするのだからかなわない。

「ヨシカワ……チヒロ? あー、知ってる」

「え! マジで!?」

 ついリアクションがでかくなった。

「なに。ヨシカワがどうかした?」

「いや、どうもしてないんだけど。えー……、どういう知り合い?」

「1年のとき同じクラスだったけど。なに。気になるな。ガモ、正直に言えよ」

 神部はふざけてヘッドロックをかけるように、僕の首に腕をからめてホールドした。
 力は加減されていても、(のど)ぼとけが圧迫(あっぱく)されて声がかすれていく。

 そうだった。
 若干(じゃっかん)サドっ気があるのだ、神部は。野郎(やろう)に対して。

「ぐ、ぐるじ。やめろっで。言うから。同中(おなちゅう)だったやつが、ゴク(告)ろうかどうじようか迷ってるから、どんなゴ(子)かなって気になったんだよっ」

 超爆速(ちょうばくそく)でうそをでっちあげ、意外とたくましい神部の腕を首から引きはがした。

「ふーん。同中のやつねー……」

 神部は半信半疑な目で僕を見やっている。
 その視線が僕のズボンのサイドポケットに移動し、すこしはみでているピンクの手帳にじっとそそがれた。

 興味しんしんな目つきをしている。

 マズイ。
 神部は怖ろしく鼻が()くやつだ。

 この手帳のことはまだ誰にも知られたくない。話が広まって、ヨシカワさんに迷惑(めいわく)がかかっては困るのだ。

「その友だちさ、ちょっとアニオタ系のやつなんだ」

 手帳から気をそらそうと、オーバーな手ぶりで神部の目を引きつけた。