ひとりぼっちになった象が仲間を呼んでいるような、どこか悲しげな音色だった。

「信じられない……」

 チヒロは、コブ以上に青ざめた顔を左右にふった。

「伊原くんがわたしのロッカーを開けようとしてた? どうして? 
 あ、わたしのだけじゃないのかも。みんなのも……? 
 もしかしてわたしの手帳を盗ったのは、伊原くん? やだ。あれを彼に読まれてたなんて……」

 苦悶(くもん)としか言いようのない表情で身を縮めるチヒロに、

「いや、大丈夫だよ。ベテランの鍵師じゃないんだから、3ケタの番号をシロウトが合わせられるわけないって」

 僕は確信をこめて安心材料を渡した。

「でも現に手帳がなくなったし……。わたしの思い違いじゃないの。ほんとにロッカーに入れておいたの。
 それが忽然(こつぜん)と消えたのはやっぱり……。そうよ、あの日は体育の授業があって、グラウンドに出てたの。そのすきに……?」

 ふいに──まさか──と、ある懸念(けねん)が僕の心に浮かんだ。

「チヒロ、さ。ちょっと確認したいんだけど……。鍵を解錠する番号っていくつにしてたの」

「5、1、8、だけど」

「え。その番号って……あれ……だよね」

 記憶に新しい数字に、僕の懸念がじわじわ広がった。

「はい。誕生日、わたしの。5月18日だから、518」

 僕の顔色をふしぎそうに見つめて、チヒロは小首をかしげた。

 声に出さず、僕は(あちゃー)と(なげ)いて肩を落とした。

「いや、それぜったい使っちゃいけない番号だよね。誕生日とか電話番号とか。他人に知られやすいから」

「でもっ! すごく仲がいい、かぎられた友だちしか知らないし! わたしの誕生日を伊原くんが知るはずないわ」

「チヒロのクラスメートのカガちゃんと……さとリンだっけ? 彼女たちはSNSをしてるんじゃないの? インスタとかX(エックス)とか」

 チヒロは大きなミスにやっと気づいたというふうに、あっと目を大きくした。

「してる、ふたりとも……。今年のわたしの誕生日にふたりでペンケースをプレゼントしてくれたの……。
 そのとき3人で、たしかカガちゃんのスマホで写真を撮った……。
 インスタにアップしていい?ってきかれて、なにも考えずに『いいよ』って答えて、わたし……」

 それだ。伊原はその投稿でチヒロの誕生日を知ったのだ。

 そして彼女の誕生日の数字を使い、ダメもとでロッカーの解錠を(こころ)みた。

 コブに目撃されたのが初犯なのか再犯なのかはわからない。けど、やつが黒なのはまちがいない。

 伊原はチヒロの手帳を盗み、それを(のぞ)いて、チヒロが同級生の“ある男”に片想いしていることを知った。

 そしてチヒロが恋する相手に敵意を覚えた。つまりは僕。
 なぜなら伊原は、チヒロが好きだったから。

 やつは僕を見て、こんな男のどこがいいんだ、と悔しがっただろう。
 じぶんのほうがすべてにおいて勝っているのに。
 自尊心が高そうなあいつのことだから、納得いかなかっただろう。

 僕を見る目に憎しみがこもっていたのは、そのせいだ。
 だけどリスクを(おか)してまで手に入れた手帳を、なぜ校舎裏の植込みに隠したのか。

 ロッカーから手帳が無くなったことを騒がれ、持ち物検査に発展するのを(おそ)れたのか。

 ひと気のない早朝、ロッカーの鍵をいじっていたところをコブに目撃されてしまったから。
 まっさきにじぶんがあやしまれると考えたのか。

「わたしが、じぶんの首をしめてたんだわ……」

 放心状態で宙の一点を見つめていたチヒロが、消え入るような声で言った。

「うかつだった、ほんとうに……。ロッカーの鍵番号に誕生日の数字を使わなければ、手帳を盗まれることもなかったのに……」

 悔しさをにじませてひどく落ちこんでいる彼女に、

「チヒロのせいじゃないって。悪いのは伊原だよ」

 と僕は言った。

「いや、疑わしいのはたしかだけど、そもそもいまの段階では憶測の域を出てないし。
 ねえ、大事な手帳を盗まれたのは、チヒロにとって悲劇だったかもしれない。 
 でも……チヒロと正門で出会った日、僕の部屋でチヒロに伝えたことを覚えてる? 
 植込みのなかに隠されていたチヒロの手帳を僕が見つけたから、吉川千尋っていう女の子の存在を知ることができたって。
 僕たちを結びつけたのは、チヒロの手帳なんだ。
 俺はチヒロと出会えて心からよかったって思ってる。
 こうやってチヒロとずっといっしょにいられて、めっちゃ幸せなんだ。
 僕からすると感謝したいくらいだよ。 チヒロの手帳をツツジの植込みに隠したやつに」