却下(きゃっか)されることはまずないだろうと踏んでいたが、予想外な沈黙が落ちた。

 僕に甘甘(あまあま)な親だ。でも当てがはずれる可能性がなくもない。
 気をもんで裁断(さいだん)がくだるのを待っていると、

「バイト……宮古島ねー、……うーん……」

 母さんは答案用紙に視線を落とし、ひとりごちて、くちびるを軽く突きだした。

 もうひと押しが必要と察した僕は、両手の指をがっしり組んで、

「なにとぞお願いします。母上様ぁー」

 とゴマをすり、必死に頼んだ。

 すると、にらめっこに負けたように、「ふっ」と母さんが噴きだした。

「わかったわ。善巳がこれほどやる気になってるんだものね。バイト、旅行、お金の件、すべてオーケーよ。ただひとつ確認しておきたいことがあるんだけど……」

 やっぱり甘甘な母さんは、一拍置いたあと急にまじめな顔になり、

「宮古島旅行に女の子はまじってないのね?」

 僕の目をまっすぐに見てたずねた。

「うん、男だけ。なんで?」

「なんでって……。そりゃあ気になるし、心配するわ。親だもの。あなたたちはまだ高校生だから。
 高校生だけど……身体は成長してる男の子と女の子でしょ。赤ちゃんをつくることだってできてしまうから……」

 は……?

 耳を疑うって、まさにこのことだ。

 青天の霹靂(へきれき)ものの発言に、僕は唖然(あぜん)としてしまった。
 婉曲(えんきょく)な表現とはいえ、母親から性に関する注意を食らったのだ。

 ショックと猛烈(もうれつ)恥辱感(ちじょくかん)と怒りで、平静が一気にぶっ飛んだ。

「や、やめろよ! 変なこというの! 男と女だからってそこらの犬猫みたいに、理性を忘れて発情するわけじゃないんだからな。
 やらしい想像するなよ。怒るよ、マジで」

 母さんに対して本気でいきり立った。

 父親ならまだしも、母親から『善巳は欲情に負けて女の子に手をだしてしまうんじゃないか。いきおい(はら)ませてしまうんじゃないか』なんて疑われているのだ。

 母親の頭にそんな考えがチラっとでもあるのが、ただただ気色悪かった。

 これ以上、母さんと話なんかしたくない。

 怒りをあらわにテーブルの答案用紙を乱暴にかき集めると、

「怒らないで善巳。大事なことなの、これは!」

 すっくと椅子から立ちあがった母さんは、手のひらでテーブルをバンッとたたいた。

 派手に響いたその音と尋常(じんじょう)でない声の迫力に、僕の動きがぴたっと止まる。

 口つきは激しかったけど、母さんの目はきつく吊りあがってはいなかった。

 必死にわからせようとする真剣な顔つきで、その張り詰めた気に圧倒されていく。

「善巳。あなた、彼女ができたでしょう?」

 瞬間冷凍されたみたいに動かない僕に、母さんは言った。

「わかるのよ、そういうの。いいのよ、お付き合いしたって。お母さんだって高校生のとき、恋人がいたもの。
 楽しいわよね。毎日が。まさにバラ色って感じよね。離れたくない……、もっといっしょにいたい……。好きだから触れあいたい。 
 それってしぜんな気持ちよ。だからプラトニックでいなさい、なんて強制できない。 でもね、大好きだからこそ歯止めがきかなくなってしまうときがあるの。
 赤ちゃんはコウノトリが運んでくるんじゃない。キャベツのなかから生まれてくるのでもない。もちろん、わかってるわよね。
 精子と卵子が出会えば、命がつくりだされる。ひとの命をつくりだすって……頭で考えてるより、とってもとっても重い出来事なのよ。
 とくに母体である女の子のほうはね、彼女の人生が大きく変わってしまうの。
 ジェンダー差別って言葉がよく聞かれるようになったいまは、“男の責任”なんて考えは古いのかもしれない。
 でもね、善巳には彼女を心から大事にして欲しい。これからどこまでも広がっていく彼女の未来をじぶんのこと……ううん、それ以上によく考えてもらいたい。
 そう願っているから、こんなにむきになって話してるのよ、わたしは……」

 母さんは僕がくってかかるのを覚悟し、それを待っているような間を取っている。

 だけど──僕は、なにも言い返せなかった。

 母さんがこれほど熱くなって、弁舌(べんぜつ)をふるう一面を見るのははじめてだ。

 男として耳が痛い説教をかまされて、おもしろくないのは事実だけど、人生の先輩(せんぱい)である母さんの魂のこもったひと言ひと言は、僕の胸の奥深いところまでぐんぐん()みていく。

 おのずと(こうべ)を垂れさせていく。

 返す言葉がなく、じぶんの足もとを見つめる僕に、

「ちょっと待ってて。いまお金を用意するわ。5万でよかったのよね」