待ち切れない心が、いまにも身体から飛び出してしまいそうだった。

「待ってろよぉ。チヒロちゃん」

 最高潮の気分に達して調子に乗った僕は、人にはぜったい見せられないキメ顔(とじぶんでは思ってる)で格好をつけ、トイレのドアをビシッと指差した。

 おおっ? なんだ、なんだ?

 右の腰骨あたりで、ヴィーンとなにかが振動している。
 サイドポケットのなかで、スマホがバイブしているのだ。

 手に取って画面を見ると、クラスの男子学級委員、神部(かんべ)からの着信だ。

 神部 (りく)

 あっさりした塩顔とスリムな身体つきの、放送部元部長。
 めちゃくちゃルックスがいいわけでもないのに、女子からの評判がえらく高い、うらやましいやつだ。

 雰囲気イケメンというんだろうか。

 博識(はくしき)で何事もそつなくこなし、遊び人風な面がありながら女子には紳士的で、それがちっとも鼻につかない。

 ほかのクラスや下級生にも顔が広く、今年のバレンタインデーには紙袋いっぱいのチョコをもらっていた。
 彼女持ちの身でありながら、だ。

 しかもその彼女は、都内の名門女子高に通う、べらぼうに美人な子だそうで……。

「もしもし」

「ガモ、いまどこにいる?」

 やや低めの落ち着いたトーンの声で問われ、

「え、いや……あー、ちょっと、その、トイレに……」

 しどろもどろに答えると、

「あったよ」

 と言われた。なんのことかわからずにポカンとしていると、しびれを切らしたふうに、

「あったっつーの! ガモの、チャリの鍵!」

「あぁッ! チャリの! マジで?」

 そうだ。手帳のことですっかり忘れていた。それを捜していたのだ。

「うそ。どこにあった?」

「それがさ、視聴覚(しちょうかく)室のゴミ箱んなかだって。拾ったやつが届けないで、ゴミ箱のなかに捨てたんじゃないか。ったく信じらんねぇよ」

 ポーカーフェイスな神部にしてはめずらしく語気(ごき)を荒げている。

 (みょう)に冷めているときもあれば、こんなふうに他人事で熱くなるときもある。
 いまいち本心をつかめないやつだが、腹を立てている神部の気持ちが、僕は純粋にうれしかった。

「あぁー、マジひどいな。でもよく見つけられたよなー。神部? 捜してくれたの?」

「俺じゃないよ。そこまでヒマじゃないっつーの。部活にちょっと顔だして、教室もどって、居残ってた沢口たちとダベッてたら、さっき野上が来て──」

 つまりこういうことだった。

 クラスメートの野上沙耶(のがみさや)が視聴覚室での英語部の部活中に、不注意でゴミ箱を倒してしまった。

 このとき床に散らばった紙くずのなかに、黒い革ひものキーホルダーがついた自転車の鍵を見つけた。

 野上は僕がホームルームの終わった直後から、「ない、ないっ!」と(あせ)りまくって自転車の鍵を捜しまわっていたのを思い出したそうだ。

 うちの都立高校はまあまあの進学校で、表面上ワルそうな生徒は見当たらない。

 でもどうしてか、私物の紛失事件が頻発(ひんぱつ)している。

 教師からはつねづね貴重品は廊下の個人用ロッカーに入れて、かならず南京錠(なんきんじょう)(キー式やダイヤル式の)をつけるようにと釘を刺されている。

 貴重品でなくても、たとえば机の物入れに置いていたペンケースやノートがなくなったり、シューズボックスから上履きやスニーカーが忽然(こつぜん)と姿を消していたりする。

 それらはたいがい、簡単には見つからないような場所に投棄(とうき)されているのだけど。

「野上、部活にもどってったから、明日礼を伝えたほうがいいぞ。俺も帰るわ。あ、鍵さ、ガモの机んなかに入れといたから。
 しっかし、運が良かったよな。ふつうじゃ見つからなかったよ。視聴覚室のゴミ箱んなかなんてさ。
 ガモ、今日はついてないってぼやいてたけど、そうでもなかったじゃん。
 けっきょく、まぁ、終わりよければすべて良しってことで」

 じゃあな、と通話を切った神部のなぐさめに、心からうなづく僕の(ほお)が、だらっとゆるんでいく。

 まったくそのとおりだ。

 “そうでもなかった”どころか“すごくすごく幸せ”な日だったのだ。

 女の子から好意を持たれる効果って、魔法(まほう)にかかったみたいに絶大だ。

 僕はヨシカワさんの手帳を、小鳥か(ちょう)かっていうぐらいソフトに胸に抱いた。

 どうしてだろう。

 それだけで自信と力がこんこんとわいてくる。

 不快だったあれこれが、どうでもよくなっていくのだから、ほんとうにふしぎだ。

 べつにこれまでの人生が、格別(かくべつ)不幸だったわけじゃないけど。