「ほんとうは怖いの。……これからどうなっちゃうんだろうって考えると、すごく怖くて……、どうしようもなくなるの。
事故に遭ったときはね、そんなこと考える余裕なんかなかったの。
あー、ぶつかっちゃった、どうしようって一瞬思ったぐらい。
だってそのときまで、じぶんが死ぬなんて考えたこともなかったから。
いつかは命が終わるって漠然とはわかっていたけど、もっともっと……何十年も先の遠い未来のことだって決めつけてたから……。
でもね、いまはその死が、目の前に迫ってきてるって感じるの。
世の中的には死んじゃってるけど、わたしっていう意識はまだある。
この姿だってヨシくんには見えて、話もできる……。
でも、1時間後にはどうなるかわからないでしょう。
とつぜん意識がなくなっちゃうかもしれない。それって、なんだか殺し屋に狙われてる気分よ。ううん、殺し屋じゃなくて死神ね。
ほんとうに死ぬってどういうことかわからないから、不安だし、怖いし、びくびくしちゃう。でもね……」
チヒロの息づかいがかすかに震え、乱れた。
その横顔をそっとうかがうと、目のふちに盛りあがった雫がこぼれ、一瞬きらりと光って、頬の輪郭をすべっていった。
「正直言うと、いまのままでもつらいの……。こんな宙ぶらりんのさまよってる状態がすごくつらくて、寂しい。
……ここにいるわたしを、ヨシくんだけはわかってくれてる。それでも……。
ごめんね。ひどいこと言ってるね、わたし。ヨシくんに助けてもらってるのに。
ありがとうって心から思ってるのに、こんな、寂しいなんて……」
チヒロの目から、また涙があふれでた。
ひとすじ。またひとすじ。
さらにもうひとすじ──。
透明な雫は同じラインをつぎつぎたどり、濡れた頬をきらきらと輝かせていく。
チヒロが、すん、と鼻をすすった。
嗚咽をこらえているのか、くちびるを内側に隠すようにきゅっとしめている。
その横顔がとてもいたいけだったから、
「いいんだよ。泣きたいだけ泣いて」
僕は言葉をかけた。
「俺の前だからって我慢することないよ。 思いっきり泣いちゃいな。
これ聞いた話なんだけど、涙って、心のデトックス効果があるんだって。
くわしくはわかんないけど、なんとかっていうストレスホルモンを身体の外へ出してくれるとか……。
俺がチヒロの立場だったら、もうわんわん泣いちゃってるよ。そういうふうに泣いてる俺を見て、チヒロは引く?」
チヒロは僕のほうへすこし顔をうつむけて、はっきりと首をふった。
「引くわけ……ないよぉ……」
かぼそく伸ばした語尾を震わせると、こらえていたものをいっせいに解き放つように、チヒロはわっと泣きだした。
半透明に近い白い手のひらに顔を埋め、大きくしゃくりあげては肩を揺らし、またしゃくりあげては肩を揺らす。
僕の目の裏が、熱めのお湯をかけられたみたいにじんと熱くなった。その刺激が鼻の奥にも伝わり、染みるような痛みを加えて、涙腺を壊そうとする。
眉間に力をこめて、あふれてしまいそうなものを我慢した。
俺がもらい泣きしてどうする。そんな抵抗があった。
小学校に入学したてのころ、仲間はずれにされて、孤独感に押しつぶされそうになったことがあった。
あのときは、ほんとうにつらかった。
でも原因は僕にあったし、しゃべろうと思えば担任や両親や近所の人や親戚、相手になってくれる人はいくらでもいた。
だけどチヒロは理不尽に命を奪われ、僕以外の誰にも存在をわかってもらえないのだ。
チヒロが感じている孤独、つらさがどれほどのものなのか。
どんな思いで、ひとり夜を明かしたのか。
この身で体感したくても、同じ心境にたどり着けないじぶんが、もどかしくてたまらない。
右目の端に、アルタビジョンの広告がちらちらと映りこんだ。そっちへ意識を飛ばそうとしたけど、だめだった。
目をぐっと見開いて夜気にさらし、頭上をあおいだ。
チヒロの家のそばで見た羊雲はここにはなくて、かわりに刷毛でさっと描いたような薄い雲が、細くたなびいている。
高い建物がひしめいているから、ここでは空全体を見渡せない。
街に煌々と燈る照明で夜空はにぶい青緑色をし、変に明るいせいで、星がひとつも見えない。
無数にあるはずの星の瞬きが、人口の光や濁った空気でかき消されているのだ。
それでも、たしかに存在している。
目に見えなくても、星は、ある。
チヒロだって、ここに存在している。
ほかの人には、見えなくても。
────通り雨がゆっくり降り止んでいくように、チヒロはしゃくり泣きを鎮めていった。
そしてうっすら赤くなった鼻先を僕に向け、決まりが悪そうにそっと笑みを浮かべた。