「わたしは父の住所を知らないの。母は……母の顔はしばらく見たくない。
あの人はわたしを早く忘れたいのよ。最初からいなかったことにしたいみたいだから……」
「え。なんでそんなふうに思うの?」
「なんでって……見ててそう感じたから。 おととい……お通夜が終わると母だけ家にもどって……。なにをしたと思う?
いきなりわたしの部屋を片づけだしたのよ。
棚に飾ってあった小物とか勉強道具とかぬいぐるみとか……。段ボールや紙袋に詰めこんで、納戸に持っていったの。
昨日の夜もそう。
本棚に並べてあった本をぜんぶ紐で縛って、それも納戸行き。涙ひとつこぼさないで。
……そういうの、ヨシくん、どう思う……?」
そろりと僕をうかがう目づかいとは裏腹に、チヒロの瞳はきつく問い詰めるような熱をはらんでいた。
馬鹿っ正直に答えるなら、なんで、だった。
なんで俺の物をさっさと片づけるのか。
なにか理由があったにしろ、悲しいし、恨めしく思う。
だから親に対して、裏切られたような気持ちになるだろう。
そう思いはしたけど、
「……それは……、目に入るとつらくなるから……じゃないの」
チヒロを気づかい、違う答えを選択した。
チヒロは「そうね……」とうなずいたけど、声のニュアンスはすこしも納得していなさそうで、口の端だけでうっすら笑った。
別人格が現れたような、暗い微笑みだった。その表情のまま僕に言った。
「死んだそうそう、じぶんが大切にしてたものを片づけられちゃうって、ちょっとあり得ないでしょ。
あり得なさ過ぎて、笑っちゃう。ヨシくんのお母さんは、ぜったいそんなことしないもの」
「そうかな。ぜったいとは、言い切れない気がするけど」
「ううん。ぜったいしない。わたしにはわかるの。うちの母とは人間の種類がちがうって。
ヨシくんのお母さんは、じぶんよりほかの人のことを大事に思うひとだもの」
『ぜったい』を強調するチヒロは、うちの母さんを美化し過ぎている。
チヒロのお母さんが部屋を片づけたことにしても、ほんとうは僕たちが思いもよらない理由があるのかもしれない。
決めつけるのは、よくないんじゃないかな。
チヒロにそう伝えたかったけど、口に出せなかった。
いまはなにを言っても、否定されそうな気がする。
チヒロと言い合いになるのは避けたかった。
「ねぇ、ヨシくん」
チヒロは正面をぼんやり眺めながら、ひとりごとをこぼすように言った。
「どうしてわたしはちゃんと死んじゃえなかったのかなぁ。なにか意味があるのかな。
それとも成仏できないような、特殊な偶然がかさなっただけなのかな。
これからどうなっちゃうんだろう。
生き返るのはもう無理だから、べつの生きものに生まれかわるのかな。
それとも、そのうちほんとうの死が訪れるのかな。
ううん、もしかしたらここにいる人たちやヨシくんや学校のみんなや両親が死んでいなくなっても……。
それでもわたし、ひとりでこの世をさまよってるのかもしれない……」
せつなげな声だった。まるで秋の虫が、命を削ってしぼり出したような……。
チヒロが安心できる言葉を、なにかかけてあげたい。
でもむやみに期待を持たせたり、薄っぺらいなぐさめを口にすることは、できなかった。
チヒロがこれからどうなっていくのか。それは僕にもわからない。
わからないことをさも知っているようなふりで語ったり、励ましたりするのは、嘘でごまかすのと変わりがない気がした。
「ごめんね。わたし……ヨシくんを困らせてるね」
なさけない顔で、ちんまり背をまるめる僕を気づかってか、チヒロは申しわけなさそうに眉をくもらせた。
「そんなことないよ。困らせてなんかないから、心んなかでもモヤモヤしてるもの、ぜんぶ吐きだしちゃいなよ。
俺、いくらでも聞くから。そしたらちょっとは楽になるかもしれないよ。
チヒロがどんだけひどい毒を吐いたって、俺の気持ちは変わらないんだから。
だって無条件にチヒロが好きだし、ずっといっしょにいたいって思ってるんだ。 マジで」
チヒロは糸でそうっと引かれたように僕の目に視線を向け、瞳をこらした。
チヒロの瞳はほんのり光沢を放ち、奥からにじむもので潤んでいる。
もともと垂れ気味だった目尻がさらに下がり、泣き笑いの顔になった。
「じゃあ、いまだけ……いまだけだから……」
目に安堵の色を浮かべてそう断ると、抑えたトーンで語りはじめた。