チヒロは即座に断ってくれた。それはうれしい。すごくうれしいけど、心苦しくもある。

 僕は、チヒロになにもしてあげられないから。

 チヒロの友人はさらに、紹介するはずだった男子の写真を送ってくる。

 すごくかっこいい、もてそうなやつだ。しかも名門校に通っている。

 チヒロと同じように、僕だってじぶんに自信がない。だから、負けた、と認めるだろう。

 悲しいし悔しいけど、こいつに負けた、完敗だ、と。

 そしてこう考えるだろう。

 僕なんかいないほうがいい。

 僕がいなくなれば、チヒロはこの男子と付き合える。

 ちゃんと手をつないだり、腕を組んだり、ふつうにデートして、友だちや家族にも紹介できる交際が──。

 だから僕は、チヒロの前から姿を消すだろう。

 チヒロはきっと心配してくれる。

 でもそれは、長くはつづかない感情だ。

 僕がいなくなってしばらくは、気にかけてくれるかもしれない。

 だけどチヒロはそのうち生身(なまみ)の異性を好きになり、楽しい毎日を過ごしていく。そうしていかなきゃだめだから。

 きっとそんなふうに、僕はじぶんに飲みこませるだろう。

 チヒロがなにを考えていたのか、じっさいのところはわからない。

 でも。

 心が傷ついて──、

 居たたまれなくて──、

 ひっそりとどこかへ行った──。

 そんな考えがどうしても拭えなくて、ひりひりとこの胸を焼いていく。

 早くチヒロに会いたい。

 会って、僕の気持ちをわかってもらいたい。

 ずっといっしょにいたいんだと。

 心が(はや)り、歩くスピードが、がぜんアップしていく。

 息もあがってきたとき、通り沿いにふと視線を引く庭があった。

 細長いプランターがいくつも並び、目に()える色や、やさしい色合いの花が咲きにぎわっている。

 もしかして……と感じるものがあり、歩みを進めると、二軒先に【吉川】の表札がかかった家があった。

 ここだ……。

 捜し当てたチヒロの家は、ひと昔前の住居という印象をいだかせる、オーソドックスな造りの二階建て住宅だった。

 通りから見える縦格子(たてごうし)のバルコニーや玄関まわりは、空き家かと思うほどきれいさっぱり片づけられている。植物のたぐいもいっさい見あたらない。

 なんとなく寒々とした、たたずまいだ。

 川に面する二階のふたつの窓に目を向けた。
 ひとつはバルコニーに出られる大きな窓。もうひとつは腰の高さの窓。

 夏に突入したこの時季、窓を開けている家が多いなかで、チヒロの家の雨戸はすべて閉まっている。

 チヒロが家のなかにいるなら、どうすれば気がついてもらえるだろう。

 足もとに視線を向けた拍子に、小石が目に止まった。

 ぐずぐず考えててもしかたない。
 物は試しとばかりに、大豆粒(だいずつぶ)くらいの小石を拾いあげ、雨戸へ向かってソフトに投げてみた。

 力は加減したつもりだ。なのにカーン、とけっこうな音が響いてしまい、心臓が縮みあがった。

 チヒロの家族が出てきたらまずいとあわてて駆けだし、すこし先の電柱の陰に身をひそめた。

 なにやってんだよ、俺。完全に不審者だ。
 警察に通報されたらどうしよう。

 臆病風(おくびょうかぜ)に吹かれながら、電柱に張りついてじっとようすをうかがった。

 でもチヒロの家の玄関に明かりが灯ったり、誰かが出てくることはなかった。

 もしかして、誰もいない?

 電柱の陰から出て、チヒロの家までもどった。

 こうなったら、しかたない。

 ほかに取るべき方法が思いつかず、堂々とインターフォンのチャイムボタンを押した。

 もし応答があったら、知り合いの家を探しているふりをしよう。
 とにかく、チヒロに僕が来たことを知らせたい。

 じっとり湿る手のひらをデニムにこすりつけて待った。でも反応がない。明かりひとつ、灯らない。

 すでに就寝(しゅうしん)していて聞こえないのだろうか。

 もう、なるようになれ、とすこしヤケ気味に、立てつづけに3回チャイムを鳴らした。

 家のなかから懐かしさを誘う音が漏れ聞こえてきたけど、人がいる気配はなさそうだった。

 やっぱり、誰もいないみたいだ。

 チヒロの葬儀の翌日にどこへ行っているのだろう。
 家族が不在中のこんな真っ暗な家に、チヒロはたったひとりでいるだろうか。僕なら耐えられない。

 ここでないなら、どこへ。

 友だちの家……親戚(しんせき)……。
 今朝は、学校にいた。それはチヒロにとってなじんだ場所だし、知った顔が大勢いるところだから。
 でもこの時刻だと、学校も闇に包まれている。