もしも僕が「これからの人生を考える放浪の旅に出たい」と言ったとしても、心配はするだろうけど、頭から反対はしない気がする。
この家で、僕は無限の選択権を与えられている。
それはとてもありがたいことなのだけど、打ちこむものがなにひとつない身にとっては、非常に悩ましい問題だ。
どれを選べばいいのか、正直さっぱりわからない。
でも────。
チヒロと出会ったことで、僕の意識は刻々と変化しているようだ。
チヒロは何事もちゃんとしている女の子だから、僕もその彼女にふさわしいちゃんとした男になりたい。
すぐには無理でも、まずはじぶんでできることはじぶんでやろう。
そんな心もちで実践してみたのが、さっきの食器運びというわけなのだ。
二階にあがり、じぶんの部屋のドアをノックしてからなかに入った。
映画はもう終わっていて、チヒロは窓からおもてを眺めていた。
住宅がひしめく夜の通りを歩く人影はまばらだ。
眺めていてもおもしろいものなんてなにもないのに、と疑問に感じたところで、はっと気がついた。
チヒロはパソコンに触れて操作することも、本を手に取ることもできないのだ。
つぅっと針で刺されたような痛みが、僕の胸に走った。
「ごめんね。ひとりにして。あ、この家のなかとか庭さ、どこでも自由に歩いてかまわないからね。べつに見られて困るものはないし」
そう伝えると、チヒロはしずかに微笑んだ。
「ありがとう。お庭はじっくり拝見したいなと思ってたんです。明るいときに」
「そっか。……どうしよっか、つぎ。べつの映画でも観る? このパソコンで過去のドラマとかも観られるけど」
作品をチヒロに選んでもらった。
「あ、これ! カガちゃんが、すごくいいって言ってたドラマ。さとリンも同感してたの。テレビで再放送されてたのを観たって」
チヒロはするっと殻を脱ぐように素の表情を見せて、ラインナップ一覧のある作品を指差した。
僕もちいさいころに観たことがある、恋愛&アイスホッケードラマだ。
主演の男性アイドルにうちの母さんは当時ぞっこんで、いまもファンを継続している。
そのドラマを視聴することにして、ところどころで感想を交えながら一話を観終えた。
のどやかな空気にふたたび不穏な気配が漂いだしたのは、二話目に突入してしばらくたったときだった。
「……ヨシくんは……どんな女の子がタイプ……なのかなぁ。かわいい系? ……美人系?」
ドラマとは関連のないことを、チヒロがとうとつにきいてきたのだ。
「え、タイプ? 特にはないんだけど……」
「……けど?」
僕の言葉尻を、チヒロは強めの語気で掘り下げた。
「いや、違う。『けど』じゃなくて、特にないな。ほんと」
なにかミスを犯してしまったような気がして、即言い直した。
心臓がヒヤリとしてしまったけど、チヒロがなにも言わないので、その話は終わったと思っていた。
でも。
「とってもかわいかった。……神部くんの彼女のお友だち……」
チヒロがまた出し抜けに言いだした。
ドラマが流れているPC画面にじっと目をこらしたまま、姿勢をまっすぐに、ひとり言のように話しつづける。
「あの制服って、清蘭女子学院よね。うん、絶対そう。ピーチベージュのシャツに白いベスト、それにナデシコ色の大きいリボンタイ。
あの制服や学校に憧れている人が、中学のクラスメートや塾にいたもの。
わたしは都立の単願しか考えてなかったからくわしくは知らないけど、歴史と伝統があって、学費がとっても高いって聞いたことある……。
通っている生徒はみんな、いわゆるお嬢さまって人たちよね、きっと……」
セリフを棒読みするような声が、しだいに弱まっていった。
またしてもよくない空気になっているのがわかり、脇がじっとり汗ばんできた。
女の子との交際経験ゼロな僕でも、チヒロがなにを気にしているのか察しがつく。
危機を回避する動物的直感めいたものが働いて、
「いやー。みんなプライドが高い女子ばっかりだって、神部が言ってたよ。俺はやだな、そういうの。見下されそうでさ」
苦々しい顔をこしらえ、口からでまかせを言った。
横目でチヒロをそろりとうかがうと、なにを考えているのかさっぱり読めない無表情で、蝋人形みたいに身じろぎもしない。
まったくのお手上げで、まいったなぁ、と弱っていたら、またしても救いのノック音が部屋に響いた。
「善巳ぃ。お湯が冷めないうちにお風呂に入っちゃってくれるぅ?」
母さんのおっとりした声が、ドア越しに聞こえた。
この家で、僕は無限の選択権を与えられている。
それはとてもありがたいことなのだけど、打ちこむものがなにひとつない身にとっては、非常に悩ましい問題だ。
どれを選べばいいのか、正直さっぱりわからない。
でも────。
チヒロと出会ったことで、僕の意識は刻々と変化しているようだ。
チヒロは何事もちゃんとしている女の子だから、僕もその彼女にふさわしいちゃんとした男になりたい。
すぐには無理でも、まずはじぶんでできることはじぶんでやろう。
そんな心もちで実践してみたのが、さっきの食器運びというわけなのだ。
二階にあがり、じぶんの部屋のドアをノックしてからなかに入った。
映画はもう終わっていて、チヒロは窓からおもてを眺めていた。
住宅がひしめく夜の通りを歩く人影はまばらだ。
眺めていてもおもしろいものなんてなにもないのに、と疑問に感じたところで、はっと気がついた。
チヒロはパソコンに触れて操作することも、本を手に取ることもできないのだ。
つぅっと針で刺されたような痛みが、僕の胸に走った。
「ごめんね。ひとりにして。あ、この家のなかとか庭さ、どこでも自由に歩いてかまわないからね。べつに見られて困るものはないし」
そう伝えると、チヒロはしずかに微笑んだ。
「ありがとう。お庭はじっくり拝見したいなと思ってたんです。明るいときに」
「そっか。……どうしよっか、つぎ。べつの映画でも観る? このパソコンで過去のドラマとかも観られるけど」
作品をチヒロに選んでもらった。
「あ、これ! カガちゃんが、すごくいいって言ってたドラマ。さとリンも同感してたの。テレビで再放送されてたのを観たって」
チヒロはするっと殻を脱ぐように素の表情を見せて、ラインナップ一覧のある作品を指差した。
僕もちいさいころに観たことがある、恋愛&アイスホッケードラマだ。
主演の男性アイドルにうちの母さんは当時ぞっこんで、いまもファンを継続している。
そのドラマを視聴することにして、ところどころで感想を交えながら一話を観終えた。
のどやかな空気にふたたび不穏な気配が漂いだしたのは、二話目に突入してしばらくたったときだった。
「……ヨシくんは……どんな女の子がタイプ……なのかなぁ。かわいい系? ……美人系?」
ドラマとは関連のないことを、チヒロがとうとつにきいてきたのだ。
「え、タイプ? 特にはないんだけど……」
「……けど?」
僕の言葉尻を、チヒロは強めの語気で掘り下げた。
「いや、違う。『けど』じゃなくて、特にないな。ほんと」
なにかミスを犯してしまったような気がして、即言い直した。
心臓がヒヤリとしてしまったけど、チヒロがなにも言わないので、その話は終わったと思っていた。
でも。
「とってもかわいかった。……神部くんの彼女のお友だち……」
チヒロがまた出し抜けに言いだした。
ドラマが流れているPC画面にじっと目をこらしたまま、姿勢をまっすぐに、ひとり言のように話しつづける。
「あの制服って、清蘭女子学院よね。うん、絶対そう。ピーチベージュのシャツに白いベスト、それにナデシコ色の大きいリボンタイ。
あの制服や学校に憧れている人が、中学のクラスメートや塾にいたもの。
わたしは都立の単願しか考えてなかったからくわしくは知らないけど、歴史と伝統があって、学費がとっても高いって聞いたことある……。
通っている生徒はみんな、いわゆるお嬢さまって人たちよね、きっと……」
セリフを棒読みするような声が、しだいに弱まっていった。
またしてもよくない空気になっているのがわかり、脇がじっとり汗ばんできた。
女の子との交際経験ゼロな僕でも、チヒロがなにを気にしているのか察しがつく。
危機を回避する動物的直感めいたものが働いて、
「いやー。みんなプライドが高い女子ばっかりだって、神部が言ってたよ。俺はやだな、そういうの。見下されそうでさ」
苦々しい顔をこしらえ、口からでまかせを言った。
横目でチヒロをそろりとうかがうと、なにを考えているのかさっぱり読めない無表情で、蝋人形みたいに身じろぎもしない。
まったくのお手上げで、まいったなぁ、と弱っていたら、またしても救いのノック音が部屋に響いた。
「善巳ぃ。お湯が冷めないうちにお風呂に入っちゃってくれるぅ?」
母さんのおっとりした声が、ドア越しに聞こえた。