意味不明で、首をひねりながらアプリを閉じようとしたとき、
「かわいい……」
僕のすぐうしろで予期せぬ声がポソリと聞こえ、ぞわっと全身が硬直した。
え、なに?
チヒロが背後からスマホをのぞきこんでいるのだ。
思いもかけない行動にでているチヒロは、
「神部くんの彼女、すっごく美人。モデルさんみたい……。もうひとりの彼女もアイドルみたいで……、とってももてそう」
写真に視線を張りつかせたまま、気持ちのこもっていない声色でそう評した。
背中を、つうっと嫌な汗が伝った。
あきらかに空気が変わっている。さっきまでのなごやかなムードは、重苦しい沈黙に押しのけられてしまった。
まずいものを見られたのはまちがいないようだけど、いったい誰が悪いのか。
うかつにラインを開いてしまった僕なのか。
余計なものを送信してきた神部なのか。
それとも、かってにスマホをのぞきこんでいるチヒロなのか。
俺じゃないよなと自己弁護しつつも、だんまりしているチヒロにさいなまれているような気がして、息をするのもはばかられる空気を感じた。
なにか言わないと……。
気づまりな雰囲気を打ち払おうと、くちびるを開こうとしたとき、とつぜんドアをノックする音が響いた。
「善巳ぃ。夕飯よー。お父さん帰ってきたから食べましょうよー」
ドアをへだてた向こう側で、母さんが僕を呼んだ。
緊張感が満ちていた部屋に、のどかな声が、ぷすっと風穴を開けてくれる。
「いま行くー!」
窮地を救われた思いで、すばやくアプリの終了をタップした。絶好のタイミングで現れた母さんに、心のなかで手を合わせる。
「ごはん、行ってらっしゃい」
チヒロはかすかに顔をほころばせ、ちいさく手をふってくれた。
「うん。ごめんね、俺だけ食事取って。映画、このまま流しとくね。あ、ちょっと巻きもどしとくよ」
神部からラインが来たあたりのシーンまで、映像をもどした。
「はい、さっきのつづき。じゃ、ちょっと行ってくるね」
にっこりしてくれたチヒロに安心して、僕はスマホを片手に部屋を出た。
・
・
・
・
・
いつもならバラエティー番組を眺めながら夕飯をじっくり堪能して、そのあと季節のフルーツなんかも味わうのだけど、今夜はそうもいかない。
チヒロのことが気になるから、スピードアップしてロールキャベツとほうれん草のミモザサラダ、それとジャーマンポテトを胃に落としこんだ。
テーブルの向かいに座る黒いポロシャツ姿の父さんが、
「どうした、善巳。今日はずいぶん口数がすくないなぁ。まだ調子が悪いのか」
なんて話しかけてきた。
焦げ茶色で太めのボストン型セルフレーム眼鏡が、父さんのトレードマークだ。
あの眼鏡を僕がかけると、父さんが若いころの顔とそっくりになるらしい。
「俺、部屋でやることがあるから」
なにか言われる前に先回りして、二倍速で食事をすませた理由を伝えた。すると、
「おっ。いよいよやる気になってきたのか?!」
父さんは人が良さげな顔をにやっとさせ、からかい混じりに言った。受験勉強のことだと勘ちがいしているのだ。
「まあね」と僕は答えをぼかし、「ごちそうさまぁ」
おざなりな挨拶をして、使った食器をかさねて持ちあげ、席を立った。
すると父さんと母さんは、信じられないものを目撃した、というふうに、そろって口をあんぐり開けた。
驚きでいっぱいのふたりの視線にさらされながら、食器をキッチンのシンクへ運んでいく。
やれやれ、だ。
このあと僕がダイニングを出てからの、食卓で繰り広げられるであろう両親の会話が手に取るようにわかり、僕は嘆息を漏らした。
──ちょっと、ちょっと。どうしたんだ。あの善巳が自発的に食器を流しに持っていくなんて──と父さん。
──学校から帰ってきたときもね、ちゃんと靴の向きをかえて、しかも端に寄せたのよ──と母さん。
そして異口同音に「なにがあった?」とまるで謎ときを楽しむように、推論を交わし合うのだ。
似た者夫婦というか、そういうふたりだから。
誰もが予想しなかったがんばりを見せて僕が新武蔵高校へ入学を果たし、そのあとふたたび成績が下降していっても、両親はなにも言わなかったし、たいして落胆もしなかった。
“善巳がいいと思うことを、一生懸命やりなさい”
それが両親共通の子育ての信条だそうで、僕はいまだに進路について口をはさまれたことがない。
就職するもよし。進学するもよし。専門学校へ進むもよし、という感じだ。
「かわいい……」
僕のすぐうしろで予期せぬ声がポソリと聞こえ、ぞわっと全身が硬直した。
え、なに?
チヒロが背後からスマホをのぞきこんでいるのだ。
思いもかけない行動にでているチヒロは、
「神部くんの彼女、すっごく美人。モデルさんみたい……。もうひとりの彼女もアイドルみたいで……、とってももてそう」
写真に視線を張りつかせたまま、気持ちのこもっていない声色でそう評した。
背中を、つうっと嫌な汗が伝った。
あきらかに空気が変わっている。さっきまでのなごやかなムードは、重苦しい沈黙に押しのけられてしまった。
まずいものを見られたのはまちがいないようだけど、いったい誰が悪いのか。
うかつにラインを開いてしまった僕なのか。
余計なものを送信してきた神部なのか。
それとも、かってにスマホをのぞきこんでいるチヒロなのか。
俺じゃないよなと自己弁護しつつも、だんまりしているチヒロにさいなまれているような気がして、息をするのもはばかられる空気を感じた。
なにか言わないと……。
気づまりな雰囲気を打ち払おうと、くちびるを開こうとしたとき、とつぜんドアをノックする音が響いた。
「善巳ぃ。夕飯よー。お父さん帰ってきたから食べましょうよー」
ドアをへだてた向こう側で、母さんが僕を呼んだ。
緊張感が満ちていた部屋に、のどかな声が、ぷすっと風穴を開けてくれる。
「いま行くー!」
窮地を救われた思いで、すばやくアプリの終了をタップした。絶好のタイミングで現れた母さんに、心のなかで手を合わせる。
「ごはん、行ってらっしゃい」
チヒロはかすかに顔をほころばせ、ちいさく手をふってくれた。
「うん。ごめんね、俺だけ食事取って。映画、このまま流しとくね。あ、ちょっと巻きもどしとくよ」
神部からラインが来たあたりのシーンまで、映像をもどした。
「はい、さっきのつづき。じゃ、ちょっと行ってくるね」
にっこりしてくれたチヒロに安心して、僕はスマホを片手に部屋を出た。
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いつもならバラエティー番組を眺めながら夕飯をじっくり堪能して、そのあと季節のフルーツなんかも味わうのだけど、今夜はそうもいかない。
チヒロのことが気になるから、スピードアップしてロールキャベツとほうれん草のミモザサラダ、それとジャーマンポテトを胃に落としこんだ。
テーブルの向かいに座る黒いポロシャツ姿の父さんが、
「どうした、善巳。今日はずいぶん口数がすくないなぁ。まだ調子が悪いのか」
なんて話しかけてきた。
焦げ茶色で太めのボストン型セルフレーム眼鏡が、父さんのトレードマークだ。
あの眼鏡を僕がかけると、父さんが若いころの顔とそっくりになるらしい。
「俺、部屋でやることがあるから」
なにか言われる前に先回りして、二倍速で食事をすませた理由を伝えた。すると、
「おっ。いよいよやる気になってきたのか?!」
父さんは人が良さげな顔をにやっとさせ、からかい混じりに言った。受験勉強のことだと勘ちがいしているのだ。
「まあね」と僕は答えをぼかし、「ごちそうさまぁ」
おざなりな挨拶をして、使った食器をかさねて持ちあげ、席を立った。
すると父さんと母さんは、信じられないものを目撃した、というふうに、そろって口をあんぐり開けた。
驚きでいっぱいのふたりの視線にさらされながら、食器をキッチンのシンクへ運んでいく。
やれやれ、だ。
このあと僕がダイニングを出てからの、食卓で繰り広げられるであろう両親の会話が手に取るようにわかり、僕は嘆息を漏らした。
──ちょっと、ちょっと。どうしたんだ。あの善巳が自発的に食器を流しに持っていくなんて──と父さん。
──学校から帰ってきたときもね、ちゃんと靴の向きをかえて、しかも端に寄せたのよ──と母さん。
そして異口同音に「なにがあった?」とまるで謎ときを楽しむように、推論を交わし合うのだ。
似た者夫婦というか、そういうふたりだから。
誰もが予想しなかったがんばりを見せて僕が新武蔵高校へ入学を果たし、そのあとふたたび成績が下降していっても、両親はなにも言わなかったし、たいして落胆もしなかった。
“善巳がいいと思うことを、一生懸命やりなさい”
それが両親共通の子育ての信条だそうで、僕はいまだに進路について口をはさまれたことがない。
就職するもよし。進学するもよし。専門学校へ進むもよし、という感じだ。