母さんはキッチンで、真っ赤な(なべ)のなかのアクをすくっていた。
 冷蔵庫の扉を開けながら、鍋へ視線を向ける。

 夕食はロールキャベツだ。やったぁ、と心のなかでガッツポーズを取った。

 うちの母親は料理も上手だと知ったら、吉川さんはますますうらやましがるんじゃないか。うれしいとか誇らしいとか感じる以前に、なんだか心苦しくなってきた。

 スポーツ飲料のペットボトルを取り、コップにそそいで一気飲みした。一杯では足りず、二杯目もがぶ飲みする。

「さっき、お父さんからラインが来てね」

 母さんがアクのついたレードルを水で洗い流しながら、話しかけてきた。

「今日は早く帰って来るって。夕飯、善巳も下で食べる? じぶんの部屋のほうがいい?」

「ちょっとまだわかんないな。父さんが帰ってくるまでに考えとくよ」

 コップをシンクのなかに置いて、ぶっきらぼうに答えた。

 この数日間は部屋に引きこもったり、両親によそよそしい態度を取ったり、心配や迷惑をかけてしまった。

 今日、吉川さんが現れたことで、あの絶望感は過去のものになったけど、コロッと機嫌を直すのはどうも気恥ずかしい。

 母さんにすまないと思いつつ、わざとつまらなそうな顔をしてキッチンを出かかった。その足を「あ」と止める。

「あのさ、外のフェンスのところの花だけど。紫っぽくてちっさいやつ、なんていうの」

「紫っぽくて、ちいさい……星型の花の形?」

「うーん、たぶん」

「カンパニュラね。カンパニュラ・ブルーウォーターフォールっていうの。キキョウ科の花よ」

「カンパニュラ、ブルーウォーターフォール……へー」

「なに、それがどうかしたの」

「べつに。ただ聞いてみただけ」

 いぶかしげな顔をしている母さんにかまわず、キッチンを出て階段をあがった。
 聞いたばかりの花の名前を忘れないよう、頭のなかでしつこく復唱する。

 部屋のドアを開けると、吉川さんは庭に面した上げ下げ窓から身を乗りだすようにして、おもてを見下ろしていた。

 僕の気配に気づき、顔を外に向けたまま、

「前の通り沿いに植わっている街路樹って、ハナミズキですよね。ずーっと向こうまでつづいてる」

 と東の方角へ視線を流した。

「あー、なんかそんな感じの名前がついてたような……。ここの通りに」

「ハナミズキ通り? すてき。もう花は散ってしまったんですね。残念。
 いっせいに咲き誇っているところを見たかったけど。でも鴨生田くんのおうちのお庭を見られただけで、眼福(がんぷく)です。
 わたしの部屋からの眺めとは雲泥(うんでい)の差だから」

「そんな大げさな」

 僕はふっと笑い、

「吉川さんの部屋からは、なにが見えるの」

 ときいてみた。

「川が……。それもまったくきれいじゃなくて。……うちは庭にもなんにもないから、悲しいくらい殺風景(さっぷうけい)なんです。
 鴨生田くんのおうちはいたるところにお花やグリーンが(かざ)ってあって、いいなぁって……ほんと、うらやましいです。
 あー……。わたしもここのおうちに、生まれてきたかったなぁ……」

 言葉尻のかぼそい響きには、叶わない夢とわかりながら願いを捨て切れない、哀感のようなものがにじんでいた。
 僕は返す言葉に行き詰まり、

「あの、さ。さっきおもての花を見てたとき、名前がわからなかったのがあったじゃない。あれ、カンパニュラ・ブルーウォーターフォールっていうんだって。キキョウ科の花らしいよ」

 話を変え、母さんから聞き取った情報を伝えた。

「カンパニュラ? わっ。さっきのもカンパニュラなんですか! ああいう花の形をしているのもあるなんて、知りませんでした!」

 吉川さんは力の入った声をあげ、二度三度とうなずいた。

「わたしの家のご近所にも、鴨生田くんのうちのお庭ほどじゃないですけど、たくさん鉢植えが置いてある家があるんです。
 そこのちょっと高齢(こうれい)のご夫婦が園芸好きで。毎年夏ごろにカンパニュラを咲かせて見せてくれるです。
 すずらんみたいな釣鐘(つりがね)の形をしているけど、花はもっと大きくて、紫色や淡いピンク色をした……。
 でもうちの母は、そこのお庭のことで文句をつけるんです。あのうちの花のせいで(はち)やいろいろな虫が飛んで来て迷惑だって。
 わたしの母は、花なんか育てたってどうせ()れるのにまったく無駄(むだ)なことしてる、ってそういう考えをする人だから……。
 ちょっと変わってるんです」

 吉川さんの目が反感めいた色を帯びて暗くなった。その理由を探りたくて、

「変わってるって、ほかにもそう感じることがあるの?」

 ときいてみた。