『それにしてもヨシカワさんって頭がいいんだね。尊敬するよ』
ヨイショではなく、心からの思いだった。この書きこみに、
「それほどでも……」
ヨシカワさんの声が沈み、すこしばかり低くなった。
ん?と気にはなったけどヨシカワさんとのやりとりに新鮮な楽しさを感じていた僕は、夢中でペンを走らせた。
『ヨシカワさんの名前って、漢字でどう書くの?』
「……名字は大吉の吉に小川の川。名前のほうは『千と千尋の神隠し』と同じ千尋……」
教わったとおりにノートに書いていったのだが、最後の一文字で手が止まった。
ちひろの『ひろ』の漢字が、ぱっとでてこない。
「たずねる、っていう字です。カタカナのヨって書いてその左下にカタカナのエ、右はロ、その下に寸法の寸で……」
ヨシカワさんの丁寧な説明に、僕はこくこくとうなずき、
『吉川 千尋』
とようやく彼女の名前を完成させた。そうか、千尋ってこういう字なのか。
漢字名がわかっただけで、なんだか胸がじわぁっと熱くなった。
『いままで、どこにいたの?』
さらにノートに書きこむと、
「ねぇ。ちゃんと授業に集中したほうが……」
ちょっとげんなりした口調で注意された。
『ムリだよ』
「もうっ……」
吉川さんはあきれたような息をついて、すっと僕の視界から消えた。
焦ってふり返ると、彼女の身体はうしろの出入口の戸を擦り抜けかけていた。
「ちょっ、待って!」
考えるより先に声が出て、椅子から立ちあがった。とうぜん、みんなのびっくりした視線をいっせいに浴びる羽目にあった。
「……鴨生田、どうした?」
不可解さを顔に浮かべた久我に問われて、
「すいません、ちょっと、トイレっ……」
了承を待たずに席を離れた。
「小学生かよっ! ガモ!」
すかさず男子の誰かがツッコミ、どっと笑い声があがった。
吉川さんが擦り抜けていった戸を開けて廊下へ出、後ろ手に閉める。
吉川さんは教科棟へつづく渡り廊下をすーっとすべるように歩いている。早足であとを追い、
「ちょっと、待ってって!」
肩に手をかけ止めようとして──僕の手はなんの手ごたえもなく、吉川さんの身体を貫通した。
「吉川さん、頼むっ。待って」
すぐさま彼女の前にまわりこみ、手のひらで抑えこむように行く手をさえぎった。
吉川さんはちょっとむくれた顔つきで僕を見やった。
僕を擦り抜けて行くこともできたのに、ひとまず立ち止まってくれた。
「どうして出てきちゃったんですか。授業中なのに」
「どうしてって、吉川さんこそなんで黙って出ていくの。怒ってる?」
つい声を大きくしたら、
「しーっ。静かに。誰か来ちゃうから」
吉川さんは人差し指をくちびるの前に立て、周囲を見まわした。
「あのね、わたしがいると、鴨生田くんが授業に集中できないじゃないですか」
やんわりと、にらまれた。
「集中できるよ。さっきはできてなかったけど、いまからはちゃんと集中する。ほんとに」
「うそぉ」
吉川さんの目に、はっきりと不信感が浮かんだ。でもすぐに表情をくずしてふっと笑い、
「わたし、行きたいところがあるんです。だから……」
さよなら──と告げられそうな気がして、僕はあわてて言葉をかぶせた。
「そのあとは? 夜はどうするの? 話し相手がいないってつまらなくない? 僕としか会話できないって言ってたよね。
だったら……もし嫌じゃなかったら、うちに来ない?
っていうか、ぜったい来て欲しい。吉川さんの……その……なにか力になりたいから」
「……どうして?」
ささやくような、かぼそい声で問われた。
吉川さんは素朴な形の眉を寄せ、細めた目に怪訝の色を浮かべている。
「どうしてわたしを家に誘ってくれるんですか。同情ですか」
吉川さんのその問いに、膝がくずおれそうになった。そうか、吉川さんは僕の気持ちを知らないんだ。
「えっとぉ……」
ためらいと悩ましさが、僕のなかで揉みあった。
こんなかたちでの告白は想定外だし、本意でもない。
だけどちゃんと気持ちを伝えないと、吉川さんはどこかへ行ってしまいそうだ。
僕の答えをじっと待つ吉川さんの瞳に、ふっと心もとなげな陰りのようなものが浮いた。
さびしそうな表情だった。
彼女にそんな顔をさせているじぶんが、たまらなくふがいなく思えた。
僕はぐっと頬を引きしめ、口を開いた。
ヨイショではなく、心からの思いだった。この書きこみに、
「それほどでも……」
ヨシカワさんの声が沈み、すこしばかり低くなった。
ん?と気にはなったけどヨシカワさんとのやりとりに新鮮な楽しさを感じていた僕は、夢中でペンを走らせた。
『ヨシカワさんの名前って、漢字でどう書くの?』
「……名字は大吉の吉に小川の川。名前のほうは『千と千尋の神隠し』と同じ千尋……」
教わったとおりにノートに書いていったのだが、最後の一文字で手が止まった。
ちひろの『ひろ』の漢字が、ぱっとでてこない。
「たずねる、っていう字です。カタカナのヨって書いてその左下にカタカナのエ、右はロ、その下に寸法の寸で……」
ヨシカワさんの丁寧な説明に、僕はこくこくとうなずき、
『吉川 千尋』
とようやく彼女の名前を完成させた。そうか、千尋ってこういう字なのか。
漢字名がわかっただけで、なんだか胸がじわぁっと熱くなった。
『いままで、どこにいたの?』
さらにノートに書きこむと、
「ねぇ。ちゃんと授業に集中したほうが……」
ちょっとげんなりした口調で注意された。
『ムリだよ』
「もうっ……」
吉川さんはあきれたような息をついて、すっと僕の視界から消えた。
焦ってふり返ると、彼女の身体はうしろの出入口の戸を擦り抜けかけていた。
「ちょっ、待って!」
考えるより先に声が出て、椅子から立ちあがった。とうぜん、みんなのびっくりした視線をいっせいに浴びる羽目にあった。
「……鴨生田、どうした?」
不可解さを顔に浮かべた久我に問われて、
「すいません、ちょっと、トイレっ……」
了承を待たずに席を離れた。
「小学生かよっ! ガモ!」
すかさず男子の誰かがツッコミ、どっと笑い声があがった。
吉川さんが擦り抜けていった戸を開けて廊下へ出、後ろ手に閉める。
吉川さんは教科棟へつづく渡り廊下をすーっとすべるように歩いている。早足であとを追い、
「ちょっと、待ってって!」
肩に手をかけ止めようとして──僕の手はなんの手ごたえもなく、吉川さんの身体を貫通した。
「吉川さん、頼むっ。待って」
すぐさま彼女の前にまわりこみ、手のひらで抑えこむように行く手をさえぎった。
吉川さんはちょっとむくれた顔つきで僕を見やった。
僕を擦り抜けて行くこともできたのに、ひとまず立ち止まってくれた。
「どうして出てきちゃったんですか。授業中なのに」
「どうしてって、吉川さんこそなんで黙って出ていくの。怒ってる?」
つい声を大きくしたら、
「しーっ。静かに。誰か来ちゃうから」
吉川さんは人差し指をくちびるの前に立て、周囲を見まわした。
「あのね、わたしがいると、鴨生田くんが授業に集中できないじゃないですか」
やんわりと、にらまれた。
「集中できるよ。さっきはできてなかったけど、いまからはちゃんと集中する。ほんとに」
「うそぉ」
吉川さんの目に、はっきりと不信感が浮かんだ。でもすぐに表情をくずしてふっと笑い、
「わたし、行きたいところがあるんです。だから……」
さよなら──と告げられそうな気がして、僕はあわてて言葉をかぶせた。
「そのあとは? 夜はどうするの? 話し相手がいないってつまらなくない? 僕としか会話できないって言ってたよね。
だったら……もし嫌じゃなかったら、うちに来ない?
っていうか、ぜったい来て欲しい。吉川さんの……その……なにか力になりたいから」
「……どうして?」
ささやくような、かぼそい声で問われた。
吉川さんは素朴な形の眉を寄せ、細めた目に怪訝の色を浮かべている。
「どうしてわたしを家に誘ってくれるんですか。同情ですか」
吉川さんのその問いに、膝がくずおれそうになった。そうか、吉川さんは僕の気持ちを知らないんだ。
「えっとぉ……」
ためらいと悩ましさが、僕のなかで揉みあった。
こんなかたちでの告白は想定外だし、本意でもない。
だけどちゃんと気持ちを伝えないと、吉川さんはどこかへ行ってしまいそうだ。
僕の答えをじっと待つ吉川さんの瞳に、ふっと心もとなげな陰りのようなものが浮いた。
さびしそうな表情だった。
彼女にそんな顔をさせているじぶんが、たまらなくふがいなく思えた。
僕はぐっと頬を引きしめ、口を開いた。