15歳の中坊にとって鼻先にぶら下げられた高額なふたつの餌は、目がくらむほど魅力的だった。
だけど当時の僕の学力で新武蔵高校を目指すのは、かなり無謀な挑戦だった。友だちや先生、親ですら、笑って本気にしなかった。
だからこそ、くそーっとムキになり、がんばれたのかもしれない。
マンガやゲーム、テレビを我慢して、ひたすら勉強に励んだ。
すると“やればできる子”だってことを証明し、めきめきと成績がアップした。
本番の入試では予想した問題がいくつも的中するというラッキーに恵まれ、見事に合格を勝ち取ることができた。
かくして桜の花びらが舞い散る4月、ちょっとぶかつく制服を身につけた僕は、鼻を高くして新武蔵高校の門をくぐったのだ。
でも意欲満々だったのは、1年の1学期までだった。
夏休みに突入したらマンガやゲーム、テレビや動画の誘惑に負け、やりたい放題、観放題。娯楽の沼にどっぷりはまり、抜けだせなくなった。
たぶん僕は根っからの怠け性なんだろうと、父さんを見ていてつくづく思うのだ。
僕の父親は関東圏の国立大を卒業して、大手の電機メーカーに就職した。
いまは“ITソリューションエンジニア”とかいう肩書で仕事をしているけど、内容を聞いてもちんぷんかんぷんだ。
たいがい僕が起床するより早く家を出て、帰ってくるのは夜の10時とか11時。しかも毎月どこかしらに出張している。
給料はかなりいいようだけど、朝から晩まで働いて社会人は大変だなー、サラリーマンにはなりたくねえなー、と本気で思ってしまうのだ。
だったら将来何になりたいのか考えてみても、頭に浮かぶものはなにもなく、ホワイトアウトのようなまっ白い景色が広がるばかり。
ゲームは好きだけど作る側になろうなんて情熱はまるでなく、人に誇れる才能や特技もない。
はっきり言って、じぶんの未来図がうっすらとさえ思い描けずにいるのだ。
それなのに高い学費を払って、大学へ行く意味なんてあるんだろうか。それって、お金のムダ遣いじゃないのか……。
授業もそっちのけで考えにふけっていたら、とつぜん、
「鴨生田! おい、聞いてるか!」
久我に呼ばれて驚きのあまり、椅子から尻が浮きあがった。
「へっ、はいっ?!」
「ほい、答えてみろ。第3次伊藤内閣で総辞職に至った要因は、議会でなにに対する反発を食らったからだ?」
えーっ。なんだ、それ。さっぱりわかんねー。
焦りまくって教科書を見たが、動揺のせいか文章が頭に入ってこない。
わかりません──。
正直にそう答えるしかないと観念して、「わ」と口を開きかけたとき、斜めうしろから、
「チソゾウチョウ。チソゾウチョウよ」
いつのまにか右わきに来たヨシカワさんに教えられた。
「えっと……チソゾウチョウです」
なんのこっちゃと内心で首をかしげながらも、言われたとおりのことを答えた。
「そうだな。地租増徴だ。じゃあその伊藤博文が退陣するさい、元老たちの反対を押し切って後継に推したのは誰と誰かわかるか」
は? わかるわけねーじゃんっ。
完全にお手上げ状態の僕に、またしてもヨシカワさんが救いの手を差しのべてくれた。
「えっと、オオクマシゲノブと……イタガキタイスケ……?」
自信のない声で答えた。
「おぉ。正解!」と久我のおったまげた反応に、
「おーーっ……」
教室に低いどよめきが起きた。
「やるじゃん」とか「ガモ、コソ勉してんなぁ」とか「らしくなーい」なんて声があっちこっちから飛んでくる。
僕は引きつった笑みを浮かべて、ペコペコと頭を下げた。
「静かにぃ。ほい、じゃあつぎいくぞ。えー、こうして日本最初の政党内閣がだなぁ……」
やっと質問地獄から解放されてほっとし、かたわらに立つヨシカワさんの気を引くように、シャーペンのノック部でノートをとんとんたたいた。
まっさらな紙面に『ありがとう 助かった』と書きこむ。
「いいえ。どういたしまして」
ヨシカワさんはぜんぜん得意ぶってなく、むしろ恐縮したようすでお辞儀をした。
そうか。こうすれば授業中でもコミュニケーションが取れるのか。
がぜん気分があがり、いそいそとノートに書き入れた。
『ずっと立っててつかれない?』
「だいじょうぶです」とヨシカワさんが答える。
僕の右耳を、ヨシカワさんのまろやかな声がくすぐった。もっと聞いていたいと思わせる、心地良い高さの音とやわらかな響きだ。
だけど当時の僕の学力で新武蔵高校を目指すのは、かなり無謀な挑戦だった。友だちや先生、親ですら、笑って本気にしなかった。
だからこそ、くそーっとムキになり、がんばれたのかもしれない。
マンガやゲーム、テレビを我慢して、ひたすら勉強に励んだ。
すると“やればできる子”だってことを証明し、めきめきと成績がアップした。
本番の入試では予想した問題がいくつも的中するというラッキーに恵まれ、見事に合格を勝ち取ることができた。
かくして桜の花びらが舞い散る4月、ちょっとぶかつく制服を身につけた僕は、鼻を高くして新武蔵高校の門をくぐったのだ。
でも意欲満々だったのは、1年の1学期までだった。
夏休みに突入したらマンガやゲーム、テレビや動画の誘惑に負け、やりたい放題、観放題。娯楽の沼にどっぷりはまり、抜けだせなくなった。
たぶん僕は根っからの怠け性なんだろうと、父さんを見ていてつくづく思うのだ。
僕の父親は関東圏の国立大を卒業して、大手の電機メーカーに就職した。
いまは“ITソリューションエンジニア”とかいう肩書で仕事をしているけど、内容を聞いてもちんぷんかんぷんだ。
たいがい僕が起床するより早く家を出て、帰ってくるのは夜の10時とか11時。しかも毎月どこかしらに出張している。
給料はかなりいいようだけど、朝から晩まで働いて社会人は大変だなー、サラリーマンにはなりたくねえなー、と本気で思ってしまうのだ。
だったら将来何になりたいのか考えてみても、頭に浮かぶものはなにもなく、ホワイトアウトのようなまっ白い景色が広がるばかり。
ゲームは好きだけど作る側になろうなんて情熱はまるでなく、人に誇れる才能や特技もない。
はっきり言って、じぶんの未来図がうっすらとさえ思い描けずにいるのだ。
それなのに高い学費を払って、大学へ行く意味なんてあるんだろうか。それって、お金のムダ遣いじゃないのか……。
授業もそっちのけで考えにふけっていたら、とつぜん、
「鴨生田! おい、聞いてるか!」
久我に呼ばれて驚きのあまり、椅子から尻が浮きあがった。
「へっ、はいっ?!」
「ほい、答えてみろ。第3次伊藤内閣で総辞職に至った要因は、議会でなにに対する反発を食らったからだ?」
えーっ。なんだ、それ。さっぱりわかんねー。
焦りまくって教科書を見たが、動揺のせいか文章が頭に入ってこない。
わかりません──。
正直にそう答えるしかないと観念して、「わ」と口を開きかけたとき、斜めうしろから、
「チソゾウチョウ。チソゾウチョウよ」
いつのまにか右わきに来たヨシカワさんに教えられた。
「えっと……チソゾウチョウです」
なんのこっちゃと内心で首をかしげながらも、言われたとおりのことを答えた。
「そうだな。地租増徴だ。じゃあその伊藤博文が退陣するさい、元老たちの反対を押し切って後継に推したのは誰と誰かわかるか」
は? わかるわけねーじゃんっ。
完全にお手上げ状態の僕に、またしてもヨシカワさんが救いの手を差しのべてくれた。
「えっと、オオクマシゲノブと……イタガキタイスケ……?」
自信のない声で答えた。
「おぉ。正解!」と久我のおったまげた反応に、
「おーーっ……」
教室に低いどよめきが起きた。
「やるじゃん」とか「ガモ、コソ勉してんなぁ」とか「らしくなーい」なんて声があっちこっちから飛んでくる。
僕は引きつった笑みを浮かべて、ペコペコと頭を下げた。
「静かにぃ。ほい、じゃあつぎいくぞ。えー、こうして日本最初の政党内閣がだなぁ……」
やっと質問地獄から解放されてほっとし、かたわらに立つヨシカワさんの気を引くように、シャーペンのノック部でノートをとんとんたたいた。
まっさらな紙面に『ありがとう 助かった』と書きこむ。
「いいえ。どういたしまして」
ヨシカワさんはぜんぜん得意ぶってなく、むしろ恐縮したようすでお辞儀をした。
そうか。こうすれば授業中でもコミュニケーションが取れるのか。
がぜん気分があがり、いそいそとノートに書き入れた。
『ずっと立っててつかれない?』
「だいじょうぶです」とヨシカワさんが答える。
僕の右耳を、ヨシカワさんのまろやかな声がくすぐった。もっと聞いていたいと思わせる、心地良い高さの音とやわらかな響きだ。