うそだ。うそだ。

 これは悪い夢だ。ぜったい。

 悪夢のなかで揺らぐコブの口が、目をむいて酸欠する魚のようにぱくぱく動いている。

 鴨生田くんっ! と強く呼ぶ声に反応して、覚醒(かくせい)したようにはっとなった。

「は……。なんか、びっくり……」

 かすれてはいたけど、どうにか声をしぼりだすことができた。

「いや、ショック……。あいつ、それ聞いたら、かなりショック受けるわ……」

 正気なのか馬鹿になっているのか、じぶんでもわからない。
 僕は自作した話の設定を守り、そう答えていた。

「でもさ、付き合ってたわけじゃないんだから、それほど引きずらないんじゃないの」

 飄々|《ひょうひょう》を通り越して、本来の無神経さを取りもどしたコブが、興奮気味にしゃべりたてた。

「それにしてもクラスのなかから死者がでるなんて、僕だってショックだよ。
 あ、そうだ。いちおう僕らのクラスは全員告別式に出ることになったんだけど、あさって。
 休みだっていうのに、ほぼ強制参列だよ。 葬儀場、よければ教えとこうか? 中野の鷺ノ寺(さぎのでら)メモリアルホールってとこ。10時からだって。
 ビックリだよ。ヨシカワさんが僕と同じ中野区民だったとは。何中だったのかな。 もっと前に知ってたら、共通の話題で話ができたかもしれないのに。
 考えてみたら、挨拶(あいさつ)しかしたことなかったんだよね。ヨシカワさんぐらいだよ。うちのクラスでちゃんと『おはよう』って声かけてくれたのは。
 なんか、死んだから言うわけじゃないけど、いい人だったんだよなぁ……ほんと……で……から……」

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気がつくとコブの姿は消えていて、前から歩いてきたエラ顔のおばさんに、

「なにボケっとしてる!チャイム鳴ったでしょうが。早く入って!」

 と注意をくらった。

 ああ、そうだ、このおばさんは国語の先生だ。

 現実味のとぼしいまま、条件反射のように廊下のロッカーからのろのろと現代文の教科書とノートを取りだした。

 席について先生が指示した教科書のページを機械的にめくり、両肘(りょうひじ)をついてうつむいた。

 先生がなにかを話しているのは、耳に入ってくる。
 だけどその声が、だんだん途切(とぎ)れ途切れになっていった。

 どうした。聴力がおかしい。
 かすかなノイズ程度の音に薄れている。

 頭のなかはぼんやりとして、30センチ先が見えないくらい深い(きり)が立ちこめている。

 考えがなにもまとまらない。
 やっぱり、夢のなかにいるような気がする。

 夢だとしても、胸の痛みはリアルに感じる。

 ぐりぐりとえぐるような痛みが、うめき声をあげそうなほど強まっていく。

 苦痛に()えかねて、ぎゅっ、と目をつむった。

 それが引き金になったのか……。

 何度も何度も読んで、すらすらと(そら)んじられるほど目に焼きついたあのきれいな文字が、まぶたの裏にくっきり浮かびあがってきた。

 ヨシカワさんが手帳に(つむ)いだ、つぶやきの数々が──。

『笑顔が大好き。恋人になりたいなんて望まないから、卒業までどうか彼女をつくらないで』

『神様、明日も善巳くんに会えますように』

『善巳くんに本命チョコを渡したいけど、どうしたらいいのかわからない。この思い、どうすればいいの』

『シュートを決めた姿、カッコ良かったぁ。すべって(しり)もちついてみんなに笑われて。照れ笑いした善巳くんの顔もすっごくかわいかったデス』

『胸が痛い……。駐輪場で楽しそうに話していた女子。もしかして彼女? あれからいっしょに帰ったの? 落ちこんでるじぶんがすっごくイヤ』

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 チャイムが鳴り、あたりが騒がしくなった。

 1時限目が終わったのか。

 時間の流れと教室のようすはかろうじてわかるものの、開きっぱなしの教科書を見つめたまま、僕は動くことができなかった。

「ガモー。目ぇ開けたまんま熟睡(じゅくすい)してんのかよっ」

 誰かに背中をたたかれた。

 眠ってなんかいない。
 いや、そうだ、眠っているのかもしれない。夢だから。これはぜんぶ夢のなかの出来事だから──。

 じぶんに言い聞かせてみたけど、自己暗示にはかからなかった。

 教室の騒がしさも、どことなく(ほこり)っぽい室内の空気も、そこらじゅうにあふれる色や動く人影も、嫌というほど生々しく感じられる。

 だからこそ音という音が気にさわり、耳をふさぎたくなった。