あるいは校内のどこかで拾った誰かが、隠した?

 僕のクロスバイクの鍵が視聴覚教室のゴミ箱のなかに入れられていたことからすると、やはり悪さをしたやつがいたのかもしれない。

 食事と風呂とトイレのとき以外、部屋から出てこなくなった息子の異変を感じ取った母さんは、

「ねぇ、善巳。あれはじまっちゃうわよー。ほらぁ、いつも()てるー」

 僕が欠かさず視聴しているバラエティ番組の開始をわざわざ教えにきたけど、

「いい。観ない」

 ドア越しにそっけなく返した。すると、

「ちょっと、どうしたの。具合でも悪い? 学校でなにかあった?」

 おろおろした口調で、いつになく詮索(せんさく)してきた。

 僕の両親は誰に対しても人当たりがやわらかく、思考が柔軟(じゅうなん)で、あったかい心の持ち主だ。

 これまで親子関係に問題はなく、僕たち家族はわりとあけすけに、なんでも話してきた。

 でも僕が部屋に引きこもって、テレビも観なくなった理由はぜったい言えない。こっ恥ずかしくて言えるわけがない。

 手帳を拾ってから4日──。

 そのたった4日間のあいだに、僕のなかでヨシカワさんの存在が、この世の誰よりも大きくなっていたのだ。

 会ったことも、話したこともない。

 なのに僕は、ヨシカワチヒロさんにものすごく()かれている。

 頭のなかはヨシカワさんでいっぱいで、恋している、と言っていいくらい、寝ても覚めてもヨシカワさんのことばかり考えてしまう。 

 もう制御(せいぎょ)不能だ。

 この胸のときめきは、ふつうじゃない。

 会いたい。

 早くヨシカワさんに会いたい。

 切実な願いが満ちる僕の胸は、恋い()がれる人を思うように“きゅん”と甘くしめつけられる。

 これって──好き……ってこと?

 戸惑う僕が自問する。

 そう、たぶん、好き、だ。

 いやいや。たぶん、なんてもんじゃない。

 これはもう、確実に好きになっている。

 会ったことも、話したこともない。

 それでも好きになってしまった。

 人に話したら笑われそうだけど、僕は完全に恋に落ちてしまったのだ。

 僕を好きになってくれる女子なら、誰でも良かったわけじゃない。

 ヨシカワさんだから、好きになったんだ。

 僕をひたむきに思い、遠くから見つめるだけで精一杯といういじらしさ。

 優しさや乙女チックさ。

 まじめで聡明(そうめい)そうなところ。

 手帳のつぶやきから読み取れるヨシカワさんの“人となり”に、僕はがっつり心をつかまれたのだ。

 この思いは、ヨシカワさんと対面しても変わらない。

 自信を持って言い切れる。

 見た目なんてどうでもいい。僕は彼女の内面を好きになったんだから。

 彼女のもとにそっと手帳を返したら、僕から告白しよう。

 好きです。付き合ってください、と。

 ヨシカワさんの存在を知ってから4日目の夜、僕はそう心に決めた。


 * * *


 手帳を手にしてから5日目の金曜。

 起床して部屋の窓から見上げた空は、良いことが起きると知らせている吉兆(きっちょう)のような、すばらしい快晴だった。

 今日こそは、ぜったいヨシカワさんに会える。

 そんな確信が身体中にみなぎり、僕はクロスバイクのペダルを力強く()いで学校へ向かった。

 朝のホームルームが終わった直後、5組の教室に行くことで頭がいっぱいになっていた僕のところへ、

「ガモっ。呼んでる」

 クラスの男子に教えられて指差された前側の戸口を見ると、コブがいた。

 目をかっと見開いたあわてた形相(ぎょうそう)で、必死に手招きしている。こんなコブは見たことがなかった。

「ねえ、知ってるっ!?」

 僕の手首をつかんで廊下へ引っぱったコブは、荒い息づかいで確認した。

「なに? どうした?」

「あのさ、ヨシカワさんが死んだんだよ」

 ボリュームを抑えた声で、コブは一息に言った。

「たったいま担任からクラスのみんなに伝えられてさ。交通事故だって。月曜日の夜、車とぶつかって救急車で運ばれて入院してたんだって。
 ヨシカワさんのお母さんの意向で事故の公表はしてなかったけど、ずっと危ない状態でとうとう昨日亡くなったって。
 みんな知らなかったからもうびっくりして……。鴨生田くん、聞いてる? 鴨生田くん? ちょっと、だいじょうぶ?」

 肉づきのいいコブの手のひらが、バイバイするように目の前で振り動いている。

 コブの声や、教室や廊下のざわめきが、風のうなるような音に巻かれてどんどん遠ざかっていく。

 目もおかしくなって、視界に入るすべてのものが陽炎(かげろう)のようにゆらゆら揺らいで見えた。