すこしの沈黙のあと、チヒロのお母さんは頬をゆるめ、
「よかった……。千尋、ちゃんと恋をしてたのね。わたしとの約束はいやいやながらって感じで守っていたけど、恋愛だけは守れなかったのね……。
でも、よかった。それでよかったのよ……。
安心したわ。ありがとう。あの子といっしょにいてくれて。うちまで来てくれて。 ほんとうにありがとう。
千尋と会えたことで、すこしは前へ進んで行けそうな気が……、ううん、進んでいかなきゃいけないのよね。千尋のために」
そう言ってやさしく顔をほころばせた表情は、目尻とくちびるのラインがチヒロにそっくりだった。
* * *
二階にあるチヒロの部屋を見せてもらった。
8畳くらいの広さの、昔ながらの和室。
そこは女の子らしい色合いや、可愛らしいものであふれていた。
桜色のベッドカバー。花柄のカーテン。サーモンピンクのラグ。ドライフラワーやいくつものぬいぐるみ……。
本棚には文芸書や参考書がずらりと並び、勉強机の上にはミッキーマウスのペン立てや子犬の写真のカレンダーが置いてある。
雨音はもう聞こえていなかったけど、太陽は鉛色の雲に隠れたままで、部屋のなかもおもても薄暗さに包まれていた。
お母さんの了承を得て、アルバムを見せてもらった。
チヒロの勉強机に腰かけ、デスクライトを点けてアルバムをめくる。
生まれたばかりの瞬間を写したのか、最初のページには赤ら顔で泣いているチヒロがいた。
ハイハイのポーズをしているチヒロ。
お父さんらしき人に肩車されて、笑っているチヒロ。
なかにはビニールプールで水遊びしている、パンツ一枚の写真もあった。
スナップ写真は年齢順にきちんと台紙に並んでいて、小学校、中学とつづき、去年修学旅行で訪れた奈良公園でのクラス写真で終わっている。
3冊目のアルバムのまっさらな台紙はまだ半分以上残っているのに、もう新しい写真が貼られることは────ない。
とつぜん落とし穴に落ちるように、ふっと暗い世界に心を持っていかれた。
耐えがたいほどの喪失感に襲われて、頭のなかに、また白い灰が舞い踊る。
無……。
無……。
無……。
無に巻かれる。
救いを求めるように、すうっと鼻から息を吸いこんだ。
部屋の空気にチヒロの薫りがほんのり残されている──、そんな気がして、すこし、ほんのすこしだけど、心をやすらがせてくれた。
つらく悲しい思いをしているのは、僕だけじゃない。
チヒロのお母さんは、僕の何倍も心を痛めている。
後悔も深い。
それでも、前へ進んで行こうとしているから。
僕もチヒロがいなくなったこの世界で、一歩を踏みだしていかなきゃいけない。
チヒロがそれを望んでいるから。
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ぐっしょり濡れていた僕の服は、パリッと乾いたうえに、わが家とは違うすっきりさわやかなミントの匂いをまとってもどってきた。
水滴がいくつもくっついた窓ガラスから見える空は、雨雲の名残もなく、爽快な青が復活している。
オーシーツクツク、オーシーツクツク……とどこかでツクツクボウシが、威勢よく鳴きだした。
「近いうちにこの家を売って、山梨の実家にもどるの」
そう告げられたのは、チヒロの家をあとにするときだった。
「離婚するのよ。もともとうまくいってなかったの。千尋の前では夫もわたしもどうにか取りつくろってたけど、あの子はうすうす感づいてたかもしれないわね。そういうとこ、敏感な子だから……」
さびしげに苦笑し、ちいさな紙袋を僕に差しだした。
「これ、千尋がいちばん気に入っていた“ぬいぐるみ”なの。よかったらもらって。もう高校生なのに、子どもみたいに枕もとに置いて寝てたのよ」
「ありがとうございます。大事にします。写真も」
アルバムのなかの写真を一枚、ゆずってもらったのだ。
奈良公園で撮影したと思われる、チヒロと小鹿のツーショット。
アップアングルの写真で、チヒロはくすぐったそうに笑っている。
「あの……、こんどチヒロさんのお墓にお参りに行ってもいいですか。場所を……教えてもらえたらと思うんですけど」
おずおずときくと、
「遠いわよ。山梨だから」
そっけなく返された。
「それでも、行きたいんで……」
「あなた、受験生でしょ」
警告されるように言われた。
「はぃ。いちおう進学するつもりではいますが……」
歯切れが悪い物言いで答えると、
「いいわ。じゃあ合格したら教えてあげる。ちょっと待って」
お母さんはメモ用紙に、さらさらとペンを走らせた。