「そんなかしこまってないで、足をくずしていいのよ」
お母さんが、新しいお茶を盆に乗せてもどって来た。
夢から覚めたようにはっとする。
砂嵐は、たちまち消えていった。
「あ。そんな。おかまいなく。僕なんか丁重にもてなしてもらう分際じゃないので」
恐縮しきりの僕の言葉に、お母さんは「ふっ」とかすかに笑った。
あれ、笑った顔はチヒロと似ているかも。
一瞬そう感じさせる表情だった。
お母さんは僕の向かいに座ると、出し抜けにじぶんの頬をむにゅっとつまんだ。
「痛いわ」
と疑わしそうに目を細め、
「やっぱり現実よね。さっき目の前で起きていたことは」
僕をまじまじと見て、問いかけた。
「現実です。それは……まちがいないくらい」
「そうね。そうよ……。チヒロはまちがいなくいた。わたしの前に……」
お母さんは釈然としたようすで、ゆっくりうなずいた。
そして迷いを払った目をさっと僕に当て、
「鴨生田くん……でしたっけ。千尋と同じ学校ですって? 5組なの?」
「いえ。僕は3組で」
「クラスメートじゃないの? 千尋が、あなたにはすごくお世話になったって言ってたけど、どういう関係なのかしら」
明瞭かつ歯切れよい語気で、遠慮なしにきいてくる。
僕は、そもそもから説明した。チヒロの手帳を見つけたときのことから。
長い長い話になった。
お母さんはところどころで驚きや確認の声をはさんできたけど、最後まで真剣に耳をかたむけてくれた。
「千尋があなたに片想いしてたとはねぇ。ふーん。こういう趣味をしてたんだ。意外だわ」
上から下まで値踏みするような視線を這わされ、居たたまれなくて縮こまった。
こんなやつですみません、と申しわけなさをこめて、へこっと頭を下げる。
お母さんはまた、「ふっ」と笑った。
「考えてみたら千尋が高校生になってからは、あまり話さなくなってたのよ。あの子はわたしがきいたことしか答えなくなっていたから。
千尋、亡くなってしばらくはここにいたのね……。それなのにわたし、ぜんぜん気づかないで、千尋が傷つくようなことして……。
ひどい母親だわ。わたしに千尋が見えなかったのは、良い母親じゃなかったせいね」
お母さんは淡い湯気を立てる湯呑を見つめ、口もとをゆがめた。じぶんを責めているような、さみしげな笑みに見えた。
「そんなことないです。最後にはお母さんもチヒロが……チヒロさんの姿が見えましたよね。
あれってチヒロさんがどうしてもじぶんの存在をお母さんにわかってもらいたい、そう強く望んだから見えたんですよ。
チヒロさんから伝言をことづかってるんです。 『わたしはお母さんに感謝してる。ここまで育ててくれてありがとう。チヒロは幸せでした』って。
その言葉をどうしても伝えて欲しいって……。
それとお母さんがほとんど食事を取らずに痩せてしまったことも、すごく気に病んでました」
お母さんは瞳をわずかに見開き、そしてすぐにうつむいて、横ジワが浮かんだ額に左手をそえた。
くすんだ色のくちびるをぐっと結んでいる。
頭とほそい肩が、こきざみに揺れだした。
「ちょっと、ごめんなさい……」
さっと席を立ち、部屋から出て行った。
ほどなくしてもどってきたお母さんの白目と鼻の頭は、うっすら赤味を帯びていて、
「逆縁っていうのよ。子どもが親よりも先にあの世へ逝くことを……」
鼻声でそう言った。
「千尋を死なせた運転手がなぜ事故を起こしたのか、あなた知ってる?」
「いえ。原因は……。チヒロさんもそれについてはひと言も触れませんでした。ドライバーに対する恨みや怒りを……口にしたことはなかったです」
恨みつらみをこぼしたところで、じぶんが生き返れるわけじゃない。
チヒロはこの世の非情を、誰よりもわかっていたんだろう。
「運転中にくも膜下出血を起こしたのよ。千尋よりも先に亡くなったそうよ。60歳の、自動車部品工場で配送の仕事をしていた男性。
……本人の代わりに母親が謝罪に来てね……。ぼろぼろ涙をこぼしながら家の前で土下座して、地面に額をこすりつけて謝られたの。
……でも、なんにも言えるわけないじゃない。だって母親よ。その人は、ちっとも悪くないんだから。千尋が死んでしまったことと、無関係なんだから」
憤りがみっしり詰まった強いまなざしで見つめられ、僕はぎこちなくうなずくことしかできなかった。
「こんなむごいことってないわ。わたしも……千尋に衝突した運転手の親も……。
立場は違っていても子供に先立たれた境遇はいっしょ……。あちらは、べつの苦しみも背負ってしまったけどね。
未来ある娘の命を、故意ではないにしろ奪った苦しみ……。
つらいでしょうね。でも、だからといって許せはしないわ。しかたのないことだなんて言えないし、気持ちをすこしでも軽くしてあげる言葉もかけられない。
……ただ……もう80歳を過ぎているのに、余生がこんなことになって憐れだわって……」
お母さんはふうっと息をつくと、迷い悩むような目を僕に向け、言った。
「まさかね、わたしの人生でこんな地獄の苦しみに落とされる日が来るとは、夢にも思ってなかったわ。大きな罪を犯したわけでもないのに。
もしかしたら前世の報いなのかしら、って考えたりもしたの。馬鹿みたいね。前世とか宿命論とか、鼻で笑ってた身なのに」
お母さんはむなしさを持てあつかうような顔をして、かすかに笑った。
「一番かわいそうなのは、千尋だわ。わかってるの。後悔してるのよ。
あの子のためによかれと思っていろいろ制限してきたけど、こんなに早く逝ってしまうのなら、自由にさせてあげればよかったって。
いまさら悔やんでも、どうしようもないけど……」
深々とついたお母さんのため息が、室内にこもった湿った空気を揺らし、僕の心にもそっと沁み入ってくる。
うちの母さんのもの悲しげな顔が脳裏に浮かび、しずかに消えていった。