航汰の幻と現実が混ざった視界を遮り、安心させたのは芽衣奈の右腕だった。光が収まると、いつの間にか彼女の右腕は女性らしいシルエットを保ちながらも明らかに機械の腕となっていた。その事実に今度こそ航汰は自分の目を疑うも、それを振るう彼女の存在までも幻と化してしまうような気がして、それは嫌だと、はっきりと自分の目で捉えようとした。
 芽衣奈は右腕を振るい、来間の顔をした異形へただ拳を突き出す。異形のアンバランスな手が彼女の拳に触れた途端、バチンッ、という音と共に爆風が起こり、航汰は咄嗟にドア枠を掴んで飛ばされないようにした。そうやって何度か打ち合っていた芽衣奈と異形だったが、航汰から距離を取れたと分かった彼女は、今度は生身の左手で機械の右手を撫でる。彼女の動きに合わせて右手首の先から光がせり出す。それは刃の形を取り、異形とすれ違い様、一閃した。
 勝負は決した。全ての足を斬られた異形はおぞましい悲鳴を上げてその場に倒れた。これだけいくつも有り得ない光景を見せられて、混乱しない者はいないだろう。航汰もその例に漏れず、右腕を元の手に戻した芽衣奈へ、恐る恐る近付いた。

「芽衣奈、怪我、とかは……?」

 航汰が近寄ってくると、芽衣奈はバツが悪そうに困ったように笑って頬を掻く。何か言おうとして、何も言葉が浮かばないのか「えへへ」と誤魔化すように笑った。

「今の、というか、この化け物……いや、来間、先生は……」
「……ごめん。助けられなかった」

 何に対しての「ごめん」なのか、航汰にはよく分からなかった。今まで戦う力を隠していたことに対してなのか、来間を助けられなかったことに対してなのか。ともかく、今彼に分かることは、芽衣奈は何かとんでもないことに巻き込まれていることだけだ。そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、芽衣奈は気を取り直したように忠告してくる。

「ね、航汰。危ないから今日はもう帰った方が良いよ」
「――芽衣奈は? 芽衣奈も一緒に……」

 まるで小さな子に言い聞かせるように芽衣奈は静かに首を振る。その仕草で航汰は愕然とした。自分はもうどうあっても、彼女の役には立てないと分かってしまったからだ。そんな事実を受け止めたくない航汰は「でも」とか「だって」とどうしても言い訳じみた言葉が出てきてしまう。ああ、こんなかっこ悪いところを見せたい訳ではないのに、と歯痒い思いを抱く。

「事情は後で話すから、ね? 航汰。今は私に守らせて。守りたいの」

 自分とは違う何かとても大切な決意をしたような表情をする彼女の言葉に、航汰が頷きかけた時だった。
 ドスッ、と彼女の腹から人間の足が生えた。否、突き破ってきたのだ。航汰が認識するのを待っていたように遅れて大量に吹き出る血。ずるり、と物か何かのように引き抜かれ様に打ち付けられる芽衣奈の華奢な体。見ると、来間の顔をした異形が足を一本だけ再生しているのが見えた。しかし、そんなことより航汰にとって何より優先すべきは、やはり芽衣奈だった。
 飛ばされた彼女の許へ駆け寄り、その上体を支え起こす。彼女の目はもう殆ど生命(いのち)の光が失われかけていたが、それでも航汰のことは分かったようだ。「こう、た……」と力なく呟かれる名前に、彼自身を引き裂かれるかと思うほどに胸を締め付けられる。

「大丈夫だ。大丈夫だよ、芽衣奈。僕はここにいるから、すぐに救急車を――」

 そっと目に涙を溜める航汰の頬に芽衣奈の手が添えられる。その手の微かな温かさが、もう彼女の命が尽きてしまうのだと如実に表していた。その細い手を掴み、彼女の口の動きを目で追う。もう殆ど声も出ていない状態だったが、確かに航汰は彼女の最期の言葉を受け取った。

「さいご、まで……まもれ、なくて、ごめん、ね……。わたしのちから……こうたに、あげ、る」

 ぎゅっと右手で航汰の右手を掴み、それを支えに少し身を乗り出した芽衣奈は、彼の冷たい頬にキスをする。その唇は彼の頬よりずっとずっと冷たかった。

「だいすき、だよ……こうた」

 それきりもう目を覚まさない彼女の体をそっと抱いて、航汰は涙を流しながら喪失と絶望、大切だったものへの悲哀をただ絶叫した。それからの航汰には一切記憶が無い。ただ、気が付いたら目の前は血の海になっており、自分の口からは訳の分からない絶叫がひたすら吐き出されていた。芽衣奈と同じようになった右腕は二の腕まで外装があった彼女と比べると、航汰は肩まで機械の外装が覆っていた。
 異形だった肉塊へ何度も何度も刃を振り下ろし、骨まで砕かんばかりの勢いを持っている航汰が漸く止まったのは、唐突に誰かに左手を掴まれたからだった。反射的にそちらへ振り向き、刃を振るうとその人物は後退り、大きく跳躍すると航汰から距離を取った。
 彼にはその二人の人物に見覚えが無かった。一人は両足の膝まで外装に覆われたボサボサの銀髪をツインテールのように二つに縛っている目つきの悪い少女、もう一人は柔和な笑みを浮かべた顎まで伸ばした桃色の髪を持つ優男風の青年だ。「おお、こわ」と口に飴を咥えたままの少女が引いた調子で呟く。少女の言葉に男が答えた。

「ミチルちゃん、今は危ないかもお」
「分かってるよ。取り敢えず、鎮静剤ぶち込んでいい?」
「それ、取り敢えずでやることじゃないよお」

 青年の返答を聞こえない振りをして、持ってきていた様子の自動小銃に少女が小さな注射器のような物を挿入する。狙うは我を失っている航汰。航汰の右手にある刃はいつの間にか斧のような形状になっており、その見た目に少女が口端を引きつらせながら自分の方へ来るように挑発した。

「おら、そこの暴走個体! 大人しくしろ。じゃないと、その顔面にこれぶち込むぞ」
「ミチルちゃん。これとかあれとかは通じないっていつも言ってるじゃない。ダメだよ。ちゃんと言わないと」
「うっざ。ゴウは黙っててよ」

 そんな軽口を叩いているうちに航汰は向かってくる。気が付いた時にはもうあまり距離が無いと気付いた少女が慌てて「ほらっ、ゴウが余計なこと言ってるから!」と言いがかりを付ける。それに青年が「ええっ!? オレのせいなのお!?」と驚いたところで、少女の指は無意識に引き金を引いた。全く予想もしていなかったうちに麻酔銃を撃ってしまい、小さな注射器は航汰の肩口に当たり、銃の反動で少女は後ろに少し吹き飛ばされた。そのままゆっくりと意識を失う航汰は最後に「め……いな……」と呟いて眠った。



 航汰は夢を見ていた。いつか、いつか芽衣奈と一緒に悲しみも苦しみも無い、どこか遠くへ二人で逃げる夢。そこでは今までの不運だった分、何もかも上手く行って、芽衣奈と二人で静かに暮らす、ささやかな幸せを――。
 目を覚ました航汰の目には真っ白な天井があった。擦り傷や転んだ時にできた傷は手当てをされていたが、右腕は未だ機械のままだった。少し上体を起こして部屋の中を見回す。どこかの病室のような部屋だったが、やはり見回しても全く見覚えは無い。窓も無く、ただ出入り口のドアが一つあるだけだ。寝かされているベッドは病室でよく見る物だったが、自身の胸に貼り付けられている心電図によく似た装置以外は物らしい物は無い、非常に殺風景なものだった。自分の置かれている状況を整理しようとしたところで、唯一の出入り口であるドアが開かれ、何となく見覚えがあるような無いような二人が入って来た。
 一人は銀髪を二つに結った目つきの悪い少女、もう一人は桃色の髪をした青年だ。ぼうっと見つめてくる航汰の様子に二人は少し瞠目し、次いで何事も無かったかのように口を開いた。

「お、起きてる」
「わあ、気が付いたんだねえ。ここに来る前のこと、覚えてる?」

 ベッド脇まで来て親しげに話しかけてきた青年の態度に戸惑いながらも、航汰は「え? ああ、はい」と訳が分からないなりに返事をした。そんな彼に気を遣ってか、青年はもう少し詳しい事情を話す。

「ここはねえ、オレ達が所属してるとこの医療室なんだあ。だから、安心して良いよお」
「いや、どこが安心できんの。今の説明で分かる奴なんていないから」

 少女の容赦ない指摘に朗らかな雰囲気を纏っていた青年は気落ちする。「相変わらず、ミチルちゃんはぐっさりくるなあ」と零す青年に構わず、航汰は最大の疑問を口にした。

「あの、芽衣奈はどうなったのか、知りませんか?」

 その一言に二人はぴたりと身動きを止めた。