外のじっとりとした暑さが嘘のように、ひんやりとした空気が頬を撫でた。

「あら、春彦くん。いらっしゃい」

 喫茶店に入ると、奥さんの(えつ)()さんが出迎えてくれた。綺麗な白髪を後ろで括り、お団子にして纏めている。皺だらけの顔は化粧が施されており、まだ若さというものが感じられる。
 悦子さんは、僕と少女のことを交互に見ると、何を勘違いしたのか、ハッとした顔を両手で覆った。

「もしかして――」

「ちがいますよ。依頼主の方ですから」

 早めに弁明すれば、悦子さんは納得したように頷き、失礼しました、とだけ言うと、がら空きの店内を見渡しながら、好きな席に座るように勧めた。
 喫茶店――『ココ』は、(ふる)()夫妻が個人経営している、こじんまりとした喫茶店だ(店名である『ココ』は、昔飼っていたチワワの名前らしい)。呉宮ビルのテナントに入っており、呉宮さんとも度々訪れる。温かみのある照明で、店内は飴色に包まれており、先ほどまでの緊張感が自然と和らいでゆく。
 カウンターから近い、四人掛けのテーブル席に腰を下ろすと、奥の方から旦那さんの(てつ)さんが顔を出した。

「いらっしゃい」

 陽気な悦子さんに対し、哲さんは寡黙だ。お互い、自分が持っていないものに惹かれ合ったそうだ。あまりに性格が違い過ぎるとすれ違いそうなものだが、結婚してから四十五年間――子宝には恵まれなかったものの、一度も喧嘩をしたことがないほど、順風満帆な日々を送っているらしい。
 ありがたいことに、哲さんからは僕たちの関係性について突っ込まれることはなかった。
 ホールを担当している悦子さんに二人分のオムライスを頼み、お冷で喉を潤しながら、早速本題に入る。

「最初に聞いておくべきだったんだけど、君と西園さんは、どんな関係性だったの?」

「……あれ。言ってませんでしたっけ」

 やはり、どこか抜けている。
 昨日の記憶を辿っているのか、少し考えたような仕草を見せたのち、少女は口を開いた。

「幼馴染です。家が隣で、小さいころ、いろはちゃんにはよく遊んでもらってたんです。家族ぐるみの付き合いもありました」

 想像していたよりも近かった関係性に、度肝を抜かれた。
 家が隣で、家族ぐるみの付き合いをしていたとなると、わざわざ僕に依頼をする理由がわからない。西園いろはの家族に事情を聞き出すことも、容易ではないか。
 考えを巡らせる僕の空気を察したのか、少女は言葉を続けた。

「中学に上がる前に父の転勤が決まって、高校三年生までは大阪に住んでいました。大学進学とともに東京に戻ってきて、いろはちゃんのことを聞いたのは、ほんの数か月前のことです。空き家になっているのを不思議に思って、近所の人に訊いてみたら、その一件があってから、家族全員でどこかへ引っ越していったと」

「家族ぐるみの付き合いがあったなら、君のご両親は? 何か知ってるんじゃないの?」

 僕の問いに、少女は力なく首を横に振った。

「両親にもそのことを伝えましたが、何一つとして知らされてなかったようです。電話を掛けてみても、現在は使われていない番号だ、って」

 となると、僕に依頼を持ち込んできても不思議ではない。

「両親からは、あまり深入りしてはいけない、と釘を刺されました。でもやっぱり、何も知らないままなんて嫌なんです。いろはちゃんが、あんな選択をしてしまった理由を、わたしは知りたい」

 少女は膝に置いていた手を力強く握りしめ、そう言った。少しでも触れてしまえば壊れてしまいそうな気がして、何も言葉が出てこない。

「咲間さんに辿りつくまでの数か月間、生きた心地がしませんでした――本当に、ありがとうございます」

 事は始まったばかりだというのに、深々と頭を下げられた。悦子さんと哲さんが、訝しげにこちらを見つめている。感じなくてもいい罪悪感に駆られ、少女に頭を上げるように催促した。

「――とにかく、話を聞いてくれそうな人に声を掛けてみるよ」

 とは言っても、僕には友人と呼べる友人がいない。高校の友人といえば、昨日会った文芸部の仲間くらいだ。その中でも、西園いろはの話をしてくれそうな人間はただ一人だけ――。

「さっき話した、柳原ってやつなら、調査に協力してくれるかもしれない」

「本当ですか」

「うん。もしかしたら、何か知ってるかもしれない」

 しばらくしてから、オムライスが運ばれてきた。
 黄色い肌からは湯気が立っており、それをスプーンで割ってみれば、中から半熟の卵が溢れ出てくる。『ココ』の看板商品なだけあって、少女はそのオムライスに夢中になっていた。少女の食べっぷりに、悦子さんは感嘆し、哲さんも珍しく頬を緩ませていた。
 ハムスターの如く、口いっぱいにオムライスを詰め込んだ少女は、いつかの彼女にそっくりだった。