日南さんが事務所を訪れたのは、お昼ごろだった。昨日とは違い、黒いワンピースを着ており、今日はより一層、肌の白さが際立っていた。
「依頼、受けるよ」
ソファに座らせ、二人分のコーヒーを淹れた僕は、それを出しながら言った。
「……本当に、いいんですか?」
念を押すように訊いてきた。依頼をしてきたのはそっちじゃないか、と思いながらも、昨日、じっくり考えるよう言われていたことを思い出す。
昨日と同じように、テーブルを挟んで日南さんと向き合う。監督してくれていた呉宮さんは、今日はいない。二人きりの空間に、身が引き締まった。
「僕も、本当のことを知りたい」
日南さんが、猜疑の目でこちらを見てくる。
何やら誤解をされているような気がして、昨日あったことを丁寧に説明した。高校時代の友人たちに会ったこと、その場で西園いろはの名前を出したときに場が凍ったこと、その空気感に妙に苛立ちを覚えたこと、柳原だけが西園いろはの話をしてくれたこと――。
「あの場所に、みんなの記憶の中に、確かに西園さんはいたはずなんだ。それなのに、見なくちゃいけないところまで目を逸らして、最初からなかったものにしてしまった」
――僕も、そうだった。
探求心が目覚めてしまったから、だけではない。これは、日南さんが僕の前に現れるまで、記憶の奥底に沈めていた彼女への贖罪でもある。
腑に落ちた様子もないまま、わかりました、とだけ言うと、トートバッグの中から何か取り出す素振りを見せる。
「では、依頼料ですが――」
「あっ、」
日南さんの前に、両手を突き出した。
「いらないよ。依頼料、いらない」
「はっ?」
首を横に振る僕に対し、日南さんは眉を顰めた。先ほどからうまくいかない意思の疎通に焦りを覚え、弁明する。
「ほら、『一緒に調べてください』って言ってたでしょ? それに、日南さんは僕の大学の後輩でもあるし、お金を出させるのは気が引ける。調査対象だって、僕の高校の同級生だ」
「いや、でも――」
「本当に、お金はいらないんだ。呉宮さんのような探偵でもないし、ただのミステリー好きな大学生だから」
これには納得したようで、日南さんは何度か頷きながら、トートバッグから手を離した。室内は、静寂で包まれる。
――さて、どうしよう。
調べるとは言っても、何から調べればいいかわからない。そもそも、何を調べたらいいのか、まったく見当もつかなかった。
「……場所、移動しませんか」
と、室内に籠った静寂を切り裂くように、日南さんが口を開いた。
警戒されているのだろうか。はたまた、この空気感に嫌気が差したのか。困惑する僕を気に留める様子もなく、日南さんは腹部に手を当てると、顔を赤らめた。
「朝から何も食べていなくて」
「あぁ……そういうことね」
凍りついた心が、じんわりと溶かされてゆく。
日南さんと話していると、肝が冷えて仕方ない。まったくといって、掴みどころがなさそうだ。いったい西園いろはとどんな関係性だったのか、想像もつかない。
果たして、二人で協力し、調査を遂行することは出来るのだろうか。一抹の不安が胸にちらつく。
しかし、こんなところで躓いている場合ではない。僕は、向き合うと決めたのだから。
「ここのビルの一階に、老夫婦が経営している喫茶店があるんだけど、そこのオムライスが絶品だよ」
「オムライス……いいですね」
日南さんは意外にも賛同し、微笑を浮かべた。
用意したコーヒーカップは流し台に置き、二人で事務所から出る。
エレベーターの呼び出しボタンを押したところで、呉宮さんに戸締りを頼まれていたことを思い出し、ズボンのポケットに突っ込んでいた鍵を取り出した。しっかり施錠されていることを確認してから、ふたたび日南さんの横に並び、エレベーターが来るのを待つ。
「あの探偵さん、今日はいないんですね」
「あぁ、うん。なんか、野暮用で京都まで行かなくちゃいけないらしくて、今日の朝、慌ただしく出ていったよ」
「なるほど。それでその鍵を」
日南さんの視線が、僕が握っている鍵へ落とされた。
「信頼、ですね」
「えっ?」
「信頼の証ですよ。機密情報が詰まった事務所の鍵を預けるなんて、相当の信頼がなければ出来ないことです」
信頼の証――か。
「いやぁ、どうだろう。あの人の考えていることは、僕みたいな常人には到底理解が及ばないよ」
エレベーターがようやく上がってきて、狭いかごの中に二人で入り込む。
「では、試されているのかもしれないですね」
「たぶん、そうなんだと思う」
エレベーターは、ゆっくりと降り始めた。