翌日――。
 朝一番で呉宮探偵事務所へ行くと、呉宮さんが何やら慌ただしい様子で支度をしていた。
 デスクの真横には大きめのスーツケースが置かれており、忙しなく動く呉宮さんは、いつもより格段と高そうなスーツを身に纏っている。
 扉を開けて入ってきたというのに、呉宮さんは僕の存在に気づいていないようだった。

「呉宮さん、おはようございます」

 昨日のこともあってか少々気まずさはあったものの、僕も子どもではない。声を掛ければ、呉宮さんはこちらを一瞥し、おはよう、とだけ返すと、ふたたび支度をし始めた。

「どこか行くんですか?」

 定位置であるソファに腰をかけ、あちこち歩き回る呉宮さんを見上げながら問う。呉宮さんは手を止めることなく、こちらを見向きすることもせず、経緯を説明し始めた。

「昨晩、父から電話があった」

 呉宮さんが言うには、こうだ。
 父の知り合いで、ぜひとも呉宮真之進に依頼をしたい、という者がいたそうで、すぐに京都に向かうように言われた。どうやら、相手は父の仕事のお得意様らしく、無碍には出来ない。依頼内容も聞かされないまま、父が手配した飛行機で、これから羽田まで向かわねばならない。

「――ということで、咲間くん。わたしはいつ帰ってくるかわからない。時期がわかればすぐに連絡はするが、とりあえずはこの事務所の留守番を頼みたい」

 と、呉宮さんが事務所の鍵を投げ渡してきた。唐突だったものの、何とかそれをキャッチする。

「えぇっ。僕、依頼なんて受けられないですよ」
「安心したまえ。わたしが不在の間は、探偵事務所は休業だ。君にお願いしたいのは、あくまでもセキュリティ面。じゃあ、よろしく頼んだよ」

 そう言い、余所行きのソフトハットを頭に乗せると、スーツケースを引いた。
 しかし、何かを思い出したかのように扉の前で止まると、くるりとこちらを振り向く。

「昨日の少女から預かった資料は、デスクの左上の引き出しに入れておいた」
「あぁ、わかりました」

 そうだ。今日、あの少女はまたここへやってくる。そして、僕は依頼を引き受ける。
 わたしが依頼を受けた側であれば、断るだろう――昨日の呉宮さんの言葉が、頭をよぎった。
 ドアノブに手を掛けた呉宮さんに、声を掛ける。

「あぁっ、あのっ」
「ん? どうしたんだい?」

 言うことは決まっているはずなのに、言葉が出てこない。
 そのままの君では、この事務所で働かせられないな――呉宮さんのその言葉が、頭にこびりついている。
 ここで、やっぱ気になるんで依頼受けます、なんて言ったら、不採用を突きつけられるのだろうか。それだけは困る。いまから就職活動を始めるつもりも、気力もない。

「何もないならもう出るよ。時間がギリギリなんだ」

 そう言って、左手首につけたロレックスの腕時計に視線を落とす。
 催促されたように感じ、いままで躊躇していた言葉を、ようやく口に出した。

「僕、調べようと思います。日南さんといっしょに、彼女のこと」

 何を言われるのだろう。
 固唾を飲んだ僕に、呉宮さんは薄らと笑みを浮かべた。

「そうか」
「……何も、おっしゃらないんですね」

「はなから、わたしが口を挟むようなことではないからね。昨日の発言は、わたしの主観でしかない。詫びを言うよ――申し訳ない」

 靄がかかったままの心が、少しずつ晴れてゆく。
 これで思う存分、心置きなく調査が出来る。
 思わずソファから立ち上がり、僕も頭を下げた。

「呉宮さん、ありがとうございます」
「礼を言われる義理はないさ。すべて、君が決めたことだ」

 後悔することになっても、それは君の自己責任だ――そんな風に言われているような気がして、背筋が伸びる。

「これが、君が受ける初依頼になるだろう。最後まで、きちんと依頼者と向き合わなければいけないよ」
「はい。わかってます」
「うん。いい返事だ。では、わたしはそろそろ行かせてもらうよ。飛行機に乗り遅れたんじゃ、シャレにならないからね。父の会社の存続も危ぶまれる」
「それは大変だ。引き止めてしまって、すみません」

 では行ってくるよ、と今度こそドアノブを捻った呉宮さんの背中に、いってらっしゃい、と声を掛ける。

「いってきます。咲間くん、健闘を祈るよ」

 最後に、呉宮さんから激励の言葉を貰う。頭に乗せたソフトハットを深く被り直すと、探偵はドアの向こうへと姿を消した。
 手の中にある鍵を握りしめる。
 これは、僕が呉宮探偵事務所で働くための、一種の就職試験なのかもしれない。何がなんでも、依頼者が納得のいくかたちで終わらせよう。そして何より、僕自身が、彼女の真実を掴み取りたい――その気持ちが、一番強かった。