野辺に続いて前に出たのは、柳原だった。少し緊張した面持ちで墓前に歩み寄ると、手に持っていたスターチスを見つめた。しばらくの間、言葉を探すように黙っていたが、やがて落ち着いた声で語りかけた。

「西園さん、元気でやってる?」

 柳原は短く息を吐き、少し照れ臭そうに微笑んだ。

「ほかのみんなに比べたら、僕が西園さんと話すことは少なかったと思う。でも、遠くから君のことを見ていた身として、ひとつ言わせてほしい。誰にでも優しく手を差し伸べる姿勢、それはみんなが真似できるようなことじゃない」

 柳原の言葉に、肯定するような表情を浮かべたり、頷いたりして、みんなが反応を示した。

「君は君が思っていたより、素敵な人だったよ。いまでも、僕の中で西園いろはは生き続けてる。だから、安心して、ゆっくり休んでね」

 その言葉を最後に、柳原は墓前にスターチスを供えた。
 そんな柳原を見届けると、今度は岸が軽快な足取りで前に進んだ。いつものように明るい笑顔を浮かべながら、墓前に立つ。

「あんま、こーゆーの慣れてねぇんだよなぁ」

 こちらに振り向くと、冗談めかした口調で、岸は軽く笑った。少し笑いが漏れる中で、岸はふたたび墓石へと視線を戻した。顔は見えないが、その背中から伺える空気の色が、がらりと変わったのがわかった。

「遅くなって、ごめんな」

 いつになく優しい声でそう語りかけると、岸はその場にしゃがんだ。スターチスの花を置き、墓石を見上げる。

「また、追いかけっこしたかったな。俺がお前にちょっかい掛けて、廊下走り回って、先生たちに怒られて――そんな毎日が、どれだけ貴重なものだったのか、いまになってよくわかるよ」

 岸は静かに続けた。

「……会いてぇなぁ」

 そう言った声も、岸の肩も、微かに震えていた。まもなく聞こえてきた洟をすする音に、僕らの涙腺も刺激される。

「お前とも、酒飲んでみたかったよ。たぶん、めちゃくちゃ楽しいんだろうな」

 今度、持ってきてやるよ。
 そう言って花を添えると、岸は目元を拭いながら、こちらへと戻ってきた。
 気がつけば、まだ花を持っているのは、自分だけだった。岸に優しく背中を押され、僕はゆっくりと前へ進んだ。振り返れば、そこには穏やかな表情をした、同じ青春の中で過ごしてきた仲間たちがいた。
 ふと、杏子と目が合う。杏子が力強く頷けば、背中が押されたように、墓石のほうへと足が進んだ。
 みんなと同じように合掌をし、花を添えた。
 何を話そう。みんなのように、彼女との明るい記憶はないし、かと言って何かを報告できるほど、毎日を懸命に生きているわけでもない。
 視線が落ちる。視界には、生い茂った緑と静寂の中で揺れる六輪のスターチス。
 そして――。
 驚いた。墓石の横から、すっと伸びた足が、僕の目に入った。思わず、顔を上げる。

「――西園さん、」

 見えてはいけないものが、見えている。しかし、不思議と恐怖はなかった。
 僕らが通っていた高校の夏服を身に纏い、こちらの様子を伺うように立っていたのは、たしかに西園いろはだった。
 僕の頭は、おかしくなってしまったのかもしれない。こんなにはっきりと、見えてしまうだなんて。
 唖然とその姿を見つめる僕を、彼女はおかしそうに笑った。
 ありがとう――。
 声は聞こえなかったが、そう言ったのだと思う。彼女が安堵のような笑みを浮かべると、その瞬間、強い風が僕らの間を吹き抜けた。あまりの強さに、目を瞑った。
 風がおさまると、僕はゆっくりと目を開けた。
 彼女の姿は、もうそこにはなかった。
 なんとも言えない感情に包まれた。彼女が会いに来てくれた喜びと、やはりこの世にはいないのだという悲しみ。交錯する感情に処理が追いつかず、溢れ出てきたのは涙だった。拭っても拭いきれず、手の甲から腕のほうへと流れてゆく。
 絶対に、泣かないと決めていた。それも、みんなの前で。それなのに、なんで止まらないんだろう。
 途中から、涙を止めることを放棄して、僕は言葉を探した。
 彼女に、伝えたい言葉――。

「西園さん……、」

 ようやく声を絞り出すと、震えたその声に、自分でも驚いた。

「僕は、生きるよ」

 その一言には、僕の心の奥底で抱え続けた思いが詰まっていた。彼女がいなくなってからの辛さ、彼女が遺した思い、そして感じずにはいられなかったこの命の重み。

「この先、どんな辛いことがあっても、僕はこの世界で生き続けると思う。理不尽なことも、見たくないことも、山ほどあるに違いない。それでも、僕は生き続けるんだ」

 彼女のように、僕は鳥にはなれない。いま生きているこの世界が苦痛で、どれほどの不自由さを感じていても、時折見せる世界の優しい側面に、僕は愛おしさを感じ、それに甘えていきてゆく。もしかしたら、彼女はその側面にさえも、この世界の無情さや残酷さを感じてしまっていたのかもしれない。
 それならば、望むことはもうひとつしかない。

「いま君がいる場所が、どうか――優しさで満ちた世界でありますように」