みんなの人気者だった。
明るくて、優しくて、誰にも分け隔てなく接する、いい人だった。お世辞にも模範生徒とはいえなかったものの、人当たりが良く、教師たちからの評価も高かった気がする。とにかく、僕の記憶上、いつも彼女の周りは笑顔で溢れていた。
そんな彼女と初めて話したのは、二年生に進級してすぐのことだった。
いろんな色の感情が交錯し、混沌とした空気が充満する教室に耐え切れず、保健室登校をしていたころ。誰とも話す気にもなれず、ただひたすらに小説の世界に没入していた僕の前に、彼女は現れた。
ガラガラ、と開いた扉の先を見て、僕は慌てて本を閉じた。
丸くて大きな目がこちらに向いた瞬間、思わず目を逸らした。
当時の僕は、いわゆる陽キャという類の人種がからきし苦手で、彼女――西園いろはも、その枠組みの中にいると認識をしていた。
「あれ、先生は?」
「……さっき職員室行くって言って、出ていったばかりだけど」
なるべく不自然さを出さないように答えた僕をよそに、ふうん、と彼女は呑気な返事をした。
そのまま保健室に入ってきた彼女を横目に見て、読書を再開しようと本を開く。この空間に二人きりということは、その場しのぎの無意味な会話が繰り広げられることになってしまう。しかし、この本さえあれば、そんな非生産的なことをせずに済む。読書をしている人に、むやみやたらに話しかけようとする人はいないだろう。
――と、座っているソファが沈む感覚がした。
視線だけを動かす。
隣に、彼女が座っていた。
ソファ以外にも、丸テーブルを挟むように置かれた椅子がある。仲がいいならまだしも、わざわざ隣に座ってくる理由がわからなかった。
現実で起こっていることが気になって、文章を読んでいるはずなのに、全然頭に入ってこない。読んだところを、もう一度読み直す。入ってこない。また読み直す。入ってこない――。
そんなことを繰り返していると、隣から視線を感じる。
「それ、何読んでるの?」
絶対に顔を上げるものかと本に視線を落としたままだったが、視界の端で、彼女の艶やかな黒髪が揺れたのがわかった。
ふわりと香ったサボンに、胸がとくんと高鳴る。隣に座っている同級生であるはずの彼女が、妙に大人っぽく感じた。
ふと顔を上げる。思っていたより距離が近かったことに、また胸が鳴る。本に落ちていた彼女の視線が、僕へと向いた。
綺麗だと思った。
くりくりした目、ナメクジでも飼っているのか疑うほどの涙袋、すっと通った鼻筋、苺色の小さな唇――美少女を形成するために必要な要素が、小さな顔にぎゅっと詰まっている。
普段、人と目を合わせないようにしているせいで、気づかなかった。まさか、こんなに美しい人だったとは――。
思わず見惚れていると、彼女が小首を傾げた。また、目を逸らす。
「……東野圭吾」
へぇ、と聞いてきたわりに関心のなさそうな返事に、煩わしさを感じながらも、続けて「面白い?」と聞いてきた彼女に、頷いて返す。
「わたし、普段本とか読まないからさ、全然わからないや」
でしょうね、見ればわかるよ――なんて言葉を呑み込んで、こちらも「そうなんだ」と素っ気なく返す。
どうやらこの男は会話を続ける気がなさそうだ、とういうことに気づいたのか、彼女は黙り込んだ。
しかし、沈黙が苦手なのか、すぐに閉じていた口を開いた。
「なんか、おすすめとかある?」
「……普段、読まないんじゃないの?」
「いいじゃん。だって、読まないと話してくれないでしょ?」
「えっ?」
少し拗ねたような顔をすると、彼女は足を前方に伸ばしたり、曲げたりしながらそう言った。
「わたし、ずっと咲間くんと話してみたいなぁって思ってたんだよね」
狼狽える。
突然の告白に、なんて返せばいいかわからなかった。そう思ってくれていたことに感謝を伝えるべきなのか、軽く相槌を打って流すべきなのか。そんな僕の心情なんてつゆ知らず、彼女は続ける。
「なんか、他の人たちとは雰囲気が違う。ものすごく大人びて見える」
「何それ」
あまりにも見当違いで、失笑してしまった。
掴みどころがないとか、クールだとか、彼女から見た僕はそんな印象なんだろう。でも、僕はただ、誰にも本当のことを打ち明けられないだけだ。誰にも心を開けず、そんな現実を変えようともせず、燻っているだけ――。
「ちょっと、いま笑ったでしょ」
「いや、あまりにもおかしなことを言うもんだからさ」
「ウソ。わたし変なこと言った?」
あっという間に、彼女のペースに巻き込まれる。
自然と会話ができていることが、僕自身、不思議で仕方なかった。
「これ、貸すよ」
手に持っていた本を閉じて、彼女に差し出す。
なぜ、そんなことをしたのか、そのときの自分の意図が思い出せない。ただ、いま思い返してみれば、彼女に自分のことを知ってもらいたかったのかもしれない。僕がどんな本を読んで、何を思い、どう心が動かされるのかを。
「えっ。でも、いま咲間くんが読んでるんじゃないの?」
「冒頭の文を暗読できるくらい読んだから、もう十分。だから、西園さんに貸す」
「本当に?」
「うん」
「……それじゃあ、お借りします」
卒業証書授与式のように、両手でその本を受け取ると、彼女は微笑む。もともと濃い涙袋が、よりくっきりと浮かび上がった。
「読み切れるかなぁ」
不安そうに、彼女は呟いた。
結局、彼女からその本を返されることはなかった。
返されることがないまま、彼女は僕の前から――僕たちの青春から、消えてしまった。