車は風情ある道に入り、やがて一軒の店の前で停まった。
『京料理 いろは』――呉宮さんに写真で見せられた古民家のような店が、そこにはあった。写真で見るよりも、こじんまりとしていたが、巷では有名な京料理屋のようだ。
呉宮さんが、運転手と迎車の時間について相談し終えると、僕たちは下車した。走り去ってゆく高級車に、道行く人々は物珍しそうな視線を送っていた。
店の入り口には【本日定休日】と、張り紙が貼られていた。呉宮さんは、格子扉の前に立つと、指で三度ほどその扉を叩く。
しばらくして、こちらへと向かってくる足音がし、解錠音がすると扉が開かれた。開かれた扉の先には、ラフな格好をした女性が立っていた。女将のような格好を想像していたせいで、一瞬戸惑ったものの、入口に貼られてあった紙を思い出した。
「あら、呉宮さん。いらっしゃい」
弾けるようなその笑みは、どこか懐かしさを感じた。胸がじんわりと熱くなってゆく。
この人が、彼女の母親か――。
その女性は呉宮さんから杏子へ視線を移すと、目と口をかっ開いた。
「杏ちゃん……?」
「……おばさん、」
互いが互いを認知すると、二人はおよそ七年振りの再会に、熱い抱擁を交わした。
ごめんね、と繰り返す西園さんの母親に、杏子はすでに涙を堪えられなくなっていた。
自分だけが取り残されたかのような空間に、少々居心地の悪さを感じながら棒立ちをしていると、杏子越しに、西園さんの母親と目が合った。
「あなたが、咲間くん?」
「あっ、はい。咲間です」
杏子から体を離すと、今度は僕のほうに歩み寄ってきて、両手を掴まれた。
「ずっと、あなたに会いたかったのよ」
潤んだ瞳で、そう訴えかけられた。
何が何だかわからず、僕はそのまま固まってしまった。
「女将さん、立ち話もなんです。中でお話しませんか?」
訪問側が口にすべきでないセリフだった。しかし、そう言った呉宮さんに同意するように、西園さんの母親は小さく頷くと、僕の手を離した。
「ごめんなさいねぇ。冷たいお茶でも淹れます。どうぞ、好きなところにお掛けになってください」
店内は、古風な趣があり、落ち着いた雰囲気だった。木の香りが漂い、全身を優しく包む。思ったより席数は少なかった。それでいて有名店となると、いったい呉宮さんはどのようにして毎日通い詰めていたのだろう。開店前から、店の前で並んでいる呉宮さんの姿が思い浮かばなかった。
カウンターから近い四人がけの席に腰を下ろすと、西園さんの母親――えりさんがグラスを乗せた盆を持って、奥のほうから出てきた。お茶を配り終えると、えりさんも席についた。
僕と呉宮さん、そしてテーブルを挟んで、えりさんと杏子。誰から何を話せばいいのか、伺うような空気が流れる中で、杏子がきょろきょろと辺りを見渡し始めた。
「今日、おじさんはいないの?」
杏子の問いに、えりさんは眉を八の字にして、困ったように微笑んだ。
「ごめんねぇ。皆さんが来るって前もって言っていたんだけど、今日の朝、突然墓参りに行くって言って、始発で東京に」
そうだったんですね、と呉宮さんが頷いた。
会話の糸口が見つかり、僕はすかさず口を開いた。
「あの、西園さん――いろはさんのお墓は、どこに?」
「青山のほうに。前の家から、三十分も掛からなかったから」
燈色町からも、青山までは三十分ほどだ。
こんなにも近くに、彼女が眠っていたということに驚きを隠せなかった。
「ごめんね。葬儀は、家族葬で済ませちゃったから、お友達に最後のお別れもさせてあげられなくて……杏ちゃんも、ごめんなさい。あなたには、もっと早く伝えるべきだったわ」
杏子は、目を閉じたまま、ゆっくりと首を横に振った。
「それにしても、五年が経ったいまでも、こうしていろはのことを思い出してくれる人たちがいて、夫婦ともども胸がいっぱいです」
本当にありがとうございます、とえりさんは深々と頭を下げた。
「呉宮さんも――こうして間に立ってくれたおかげで、この場が設けられました。感謝します」
「いえ、わたしは何も。ただ、ここの料理が好きなだけです」
「またまた、うまいこと言っちゃって」
刹那、みんなの表情に笑みが溢れる。
えりさんは、明るくて陽気な人だった。顔を合わせるまでは、やつれた女性をイメージしていた。五年前、一人娘が自殺をしたというのに、その母親はいま、こうして自然と笑っている。
「さて、何から話したらいいのか……」
しかし、話が本題に入ろうとすると、えりさんの表情は少し沈んだように見えた。
呉宮さんが、君から何か聞きたまえ、と言わんばかりの視線を、横から送ってくる。杏子も、小さく頷いて、僕の言葉を促しているようだった。
「あ、あの――」
何か話さなければいけない。とりあえず口を開いてみたものの、次に繋がる言葉が見当たらない。
口を開いたり、閉じたり。手探り状態の中で、やっとその答えに辿りついた。
僕はその場に立ち上がると、横へ一歩ずれて、床に膝をついた。
「ちょっと、春彦くんっ――」
焦ったような杏子の声を右から左に聞き流しながら、床に手と額をつけた。
「大変、申し訳ございませんでしたっ!」
僕の、人生初の土下座だった。