飛行機が離陸し、目的地へと飛びだすと、杏子はおもむろに口を開いた。

「あれから、ずっと考えてたんだけど」

 気圧の変化のせいか、耳の奥の圧迫感に気づきながら、僕は杏子の声に耳を傾ける。
 あれから、というのは、ゲリラ豪雨の日のことだろう。そう解釈をして、相槌を打つ。

「やっぱり、理解出来なくて……わたしの知ってる、いろはちゃんじゃない気がして」

「うん」

「もっと何か、いい方法があったはずなのに」

「……そうだね」

 傍にいながら、いい方法を見つけられなかった自分が、憎らしく感じた。彼女の感情を優先して、それから起こりうる最悪の現実を予測することが出来なかった。

「死んだら、意味ないじゃん」

 訴えかけるように、杏子は窓の外の大空にぽつりと呟いた。
 胸が、きゅっと締め付けられる。

「馬鹿だ。いろはちゃん、馬鹿なんだ」

 子どものように、そう吐き捨てた杏子の声は、震えていた。

「小さいころからそうだった。大人に怒られるようなことをしたがったのはわたしなのに、いつも、いろはちゃんは庇ってくれた。わたしのせいだから、って」

 この前、岸と飲んだ帰りの電車で、杏子がしてくれた泥遊びの話を思い出した。そのときも、彼女が杏子を庇ったという話だった気がする。

「そうやって、他人のことばかり考えて、自分のことは二の次でっ――」

 そこで声が途切れ、洟を啜る音が聞こえてきた。杏子の顔はいまだに、窓のほうを向いている。
 あまり見られたくないのだろう。僕は、出来るだけ杏子を視界に入れないように、俯いた。

「自分の人生なのに、たった一度きりの人生なのに……なんで、自分を愛せなかったんだろう。なんで、自分という一人の人間ですら、守ることが出来なかったんだろう」

 はっ、とした。
 ――わたしは、たったの一人も守れない、弱い人間だから。
 夏祭りの日、この世のすべてを悟ってしまったような表情で、彼女が放った言葉。
 岸から聞いた噂話が本当であったのならば、その「たったの一人」というのは、塩野哲太との間に出来てしまった子のことを指していると解釈できた。だが、その噂が事実無根とわかったあと、あの夏祭りの日に彼女が言っていた「たったの一人」が誰を指しているのか、まったく見当がつかなかった。
 しかし、気づいてしまった。
 彼女が言っていた「たったの一人」は、西園いろは自身のことだったのだ、と。
 そして、夏祭りのときにはすでに、その命から手を離そうとしていたことを。

「わたしみたいに、いろはちゃんの優しさを当たり前に受け取ってしまう人が多すぎたのかな。人間なんて、みんながみんな自分のことを主人公だと思っていて、自分勝手で、わがままな生き物なのに」

 人間の根底は、杏子の言うように、愚かだ。多くの人は、その愚かさを受け止め、それも自分なのだと割り切り生きてゆく。
 西園いろはも、同じように愚かな人間だったはずだ。しかし、その現実を受け止めきれずに「いい人」に徹することを選んだのだ。本当は、みんなのように、どこまでも飛んでゆく自由な鳥のように、自分勝手に生きることも出来たはずなのに。

「こんなことになるくらいなら、もっとわがままに生きてほしかった――死なないで、生きててほしかったっ……」

 杏子が、小さな両手で顔を覆った。
 指の隙間から漏れる嗚咽を、飛行機の轟音が掻き消す。
 その小さな背中を摩ることも、頭を撫でることも、僕は出来なかった。自分の目から零れた涙を、拭うことで精一杯だったからだ。
 呉宮さんの言うように、何を嘆いても、結果は変わらない。時は戻らない。
 それでも、僕たちは彼女の死と向き合わなければならない。だから、いまこうして、京都へ向かっているのだ。
 そこから、伊丹に着くまでの一時間、僕らは一言も話さなかった。西園夫妻との面会に向けて、心の準備をするためだ。
 伊丹に着くと、到着ロビーで呉宮さんと合流した。呉宮さんは、僕らの表情を交互に見ると、満足そうに口元を緩ませた。

「有意義なフライトになったようだね」

 そして、僕たちの返答を聞かないうちに、呉宮さんは背を向け歩き始めてしまった。
 呉宮さんが手配したラグジュアリーホテルに荷物を預け(高級感漂う内装に肝を冷やしながら)、僕たちは京都へと向かった。呉宮さんの父親のツテで、高級車で送迎をしてもらうことになっていたらしく、猛暑の中、一時間電車を乗り継ぐことは免れた。
 送迎車の中でも、僕と杏子どころか、呉宮さんも口を開かなかった。呉宮さんなりの、計らいだったのだろう。
 しかし、目的地が近づくにつれ、車内は張り詰めた空気を纏っていった。