いつも彼女は、誰かが持ちかけてきた相談事を、温かい表情で聞いていた。
それは辛かったね、大変だったね、頑張ったね――そのとき、その人が欲しい言葉を掛け、励まし、讃え続けた。何の見返りも求めずに。
彼女のような生き方をしている人間は、常に損をしているような気がする。適当に聞き流せばいいような話でも、彼女は真っ直ぐに話と向き合う。そして考え、悩み、妙案が浮かんだときには、当事者は相談したことすら忘れている。
馬鹿馬鹿しくなった――彼女はそう言った。
どれほど真剣に話を聞いたとしても、相手からしたら、ただの愚痴の捌け口。不満を吐いてしまえば、それと同時に嫌な記憶は綺麗さっぱり。
「最初のころは、わたしに話すだけで少しでも楽になるなら、いくらでもみんなの話に耳を傾けようって思ってた」
しかし、そんなことを繰り返していくうちに、彼女は気づいてしまったのだ。
「なんかわたし、ゴミ箱みたいだなぁって」
自身を嘲笑する彼女に、僕は哀れみの目を向ける。パフェのバニラアイスは溶け始めていた。
「……ゴミ箱?」
彼女は頷いた。
「わたしがみんなのゴミ箱で、そのあとに、ぐちゃぐちゃに混ざったゴミを分別するの。これは燃えるゴミ、あれは燃えないゴミ、って」
しかし、うまく分別することも出来なくなり、ぐちゃぐちゃに混ざったままのゴミ――つまり、混沌とした人々の感情を、その辺に投げ捨ててしまいたくなる。
「自分でも、なんでこんなことを咲間くんにお願いしてるのか、わからない」
でも、気が紛れるのではないかと思った。
僕は、これが長年、いい人を演じてきた人の末路なのだと思った。徳を積んだとて、必ずしも見返りがあるとは限らない。きっといつか、自分に返ってくると思っていても、絶対は保証されないのだ。それでも、人は因果応報を信じながら、生きてゆく。
しかし、やはりいい人は損をしてしまう確率が高い。悪いことをしている人のほうが、時と場合によっては「上手に生きている人」と、褒め称えられたりもする。彼女は、そんな社会の仕組みに気づき、絶望し、自暴自棄になっているのではないかと思った。
「咲間くんしか、頼める人がいないの」
お願い。少しだけ、わたしに付き合って。
座ったまま、彼女は深く頭を下げた。僕はそのつむじを、ただじっと眺めることしか出来なかった。
こんなことは、引き受けるべきではない。
そんなことはわかっていたけれど、彼女の気持ちが一ミリもわからないわけではなかった。むしろ、かなり共感している自分がいたのだ。
「……わかった」
少しだけ、付き合ってみるか。
そんな軽い気持ちで、僕は彼女の頼みを引き受けてしまった。
顔を上げ、目を丸くした彼女は「本当にいいの?」なんて、確認してきた。
「西園さんの気持ち、なんとなくわかる。ちょっと懲らしめたいんだよね」
「懲らしめたい……うーん、」
「それもわかるよ。ただ、意味が一番近い言葉は、それだと思うんだ」
のほほんとしている人々に、少し焦ってほしいのだ。自分と同じように、目の前の問題について真剣に考えてほしいのだ。
「とにかく、協力するから。ただし、条件付きで」
「条件?」
「うん。たったひとつ、これだけ――」
誹謗中傷メッセージは、一日一回。
「僕も人間だ。嫌いでもない相手に、汚い言葉を浴びせるのは、さすがにSNS上でも心が滅入る。いや、SNSのほうがより悪質だ。だから、一日に一回だけ」
彼女は、納得したように頷いた。
「わかった。それでいいから、お願いしたい」
そう言って、彼女は僕に、アカウントのユーザー名とパスワードを教えてくれた。
そして、いたずらっぽい笑みで、彼女は僕にこう言った。
「これで咲間くんも、共犯だね」
作戦決行は、新学期が始まってから、ということだった。友達ともあまり顔を合わせない夏休み中に、わざわざ悪口を送りつける必要はないからだ。
そして、その数週間後、新学期が始まると同時に、僕は犯行に及んだ。毎日、心にもない暴言を、西園いろはのアカウントのDMに送り続けたのだ。
いまでも、後悔している。
あの日のファミレスで、彼女の馬鹿げた頼みをきっぱりと断り、僕は君のことですでに頭がいっぱいなんだよ、なんて、粋なことを言ってしまえばよかったんだ。そしたら案外、彼女の心は満たされたかもしれない。
このときに、彼女が抱えていた心の闇に気づいていたら、その手で自らの命に終止符を打つことは避けられたかもしれない。
そんなたらればが、自分の中で繰り返されてゆく。
みんなの頭の中、わたしでいっぱいにしたいの――。
そんな彼女の望みは「憶測でものを語るな」という大人たちの言葉により、砕かれた。
みんなの青春の記憶から、西園いろはは消えてしまったのだ。