翌日――。
寝ていた僕を起こしたのは、窓から差し込んだ日差しでもなく、小鳥の囀りでもなく、呉宮さんの声だった。
「こんなところで寝ていたら、風邪を引くよ」
ブランケットを手渡され、僕はまだ半分寝ぼけた状態で、上体を起こした。時計は九時少し前を指している。昨夜、いろいろと考え込んでしまったせいで、眠りについたのは夜中の三時だった。
窓の外では、蝉が轟々と鳴き叫んでいた。徐々に、ぼけた頭が覚めてゆく。
ラックにスーツジャケットを掛け、スーツケースを部屋の端に寄せると、呉宮さんは二人分のコーヒーを淹れてくれた。
ブランケットを肩にかけ、僕はそのコーヒーを啜った。一晩中、冷房に当たっていたせいか、体はかなり冷えていた。温かいものが、いまはとても身に染みる。
「昨夜、東京はひどい雨だったようだね。昨日からここに?」
「すみません。傘を持ってなかった上に、終電まで逃してしまったので……」
「それはいいんだよ。わたしが君に鍵を託したのだから、セキュリティ面さえ気をつけてくれれば、好きなように」
ただ、と呉宮さんが人差し指を立てた。
「鍵を開けっぱなしで寝てしまうのは、不用心だと思うね。ノブを捻った瞬間、ドアが呆気なく開いてしまったから、さすがに驚いたよ」
「……すみません」
肩がすくんだ。
昨夜のことを思い返す。
杏子が事務所を飛び出し、物思いにふけていた僕は、戸締りをすることを忘れ、そのまま眠りに落ちてしまった。
「何か、あったようだね」
悟ったように、呉宮さんが言った。
すべて、話すべきか。昨夜、杏子にもした話を、呉宮さんにもすべきか。いや、これは僕が受けた依頼だ。呉宮さんは、関係ない。
そんな葛藤が心の中で生まれ、うんともすんとも言わずに、僕はコーヒーカップの中に視線を落とした。
「話す気がないようであれば、わたしが話をしてもいいかい? 京都の土産話だ」
あっちでの生活は慌ただしかったようで、手土産は買えなかったらしい。
「話す前に、ひとつ謝らせてほしい」
「謝る? 何をです?」
「君に、嘘をついてしまったことを、だ」
嘘――?
いったい、何のことだ。
「当初、わたしは父の知人からの依頼で京都に行くと説明していたが、それは真っ赤な嘘だ」
「えっ」
思わず、顔が上がった。
たったそれだけの嘘か、と呆気に取られたが、ではなぜ京都に出向いたのか、疑問が残る。
「じゃあ、なんで……」
「本場の京料理の店に、約一か月間、通い詰めていたのさ」
言いながら、呉宮さんはスマートフォンを取り出し、写真フォルダの中身を僕に見せてきた。
古都うつわの上に並べられた、色鮮やかな料理たち。同じような写真が、三十枚以上保存されている。
「どの写真も、同じ店で撮ったものですね」
「さすが咲間くん。鋭いね」
どんなにおいしい料理でも、さすがに毎日食べ続けていたら、飽きが来るはずだ。
「一か月間も、なぜ同じ店に? 祇園付近は京料理の激戦区でもありますし、せっかくならいろんな店を回ればよかったのに」
「わたしだって、出来ればそうしたかったさ。でも、どうしてもその店じゃないとだめだった」
呉宮さんは僕の手からスマートフォンを取り返すと、さらに画面をスクロールした。
そして、店の外観を撮ったと思われる写真を僕に突きつけてきた。
趣きのある古民家のような店だ。
「えっ――」
しかし、僕はその店の名前を見て、開いた口が塞がらなかった。入口の上、古材が使われているような看板に、その店の名は書かれてあった。
『京料理 いろは』――このタイミングで、彼女と同じ名前の店。
「この京料理屋は、四年前にとある夫妻によって創業された店だ。有名なインフルエンサーが取り上げたことをきっかけに、いまや超人気店。売り上げは右肩上がり。一日の来客数が多いゆえに、わたしのことを認知してもらうのにかなり時間が掛かってしまった」
気づけば、呉宮さんはソファから立ち上がり、後ろで手を組みながら、部屋の中をゆっくりと歩き始めた。
胸を貼り、得意げな顔で話を続ける。
呉宮さんの、推理お披露目モードだ。
「ゆっくりと時間をかけて、相手の懐に入り込んでゆく。今回の調査では、それが一番重要なポイントだった。なんせ、かなりシリアスな事情だから、正直なところ、夫妻が話してくれるとは思わなかった。実際に、ほんの数日前まで、夫妻から話を聞くことは出来なかった」
しかし、と人差し指を立てた。
「とあるネットの書き込みをきっかけに、夫妻は僕に五年前の話を打ち明けてくれたのさ」
背後に、呉宮さんが立つ。そして、僕の肩に両手を置いた。
「五年前、たった一人の愛娘が、自らの手でその命を絶ったことをね」