「それにしても、なぜ僕の居場所がわかったのでしょうか」

 呉宮さんに淹れてもらったコーヒー(ブラックは苦手なので、砂糖をたっぷり入れた)に口をつけながら、疑問をこぼす。
 ふと、視界の端で、呉宮さんの動きが止まった。デスクの方に目を向ければ、呉宮さんが、不思議そうな表情で僕の顔を見つめていた。

「……何を言っているんだい? 君がろくに就職活動もせず、我が探偵事務所に入り浸っているのは、ミス研内では周知の事実じゃないか」

「入り浸ってるって――まあ、そうですけど」

 大学四年生の初夏。周りの文学部生は早々に就職活動を終え、学生生活最後の夏を満喫する準備を整えている。
 僕といえば、単位こそ取り終えてはいるものの、就職活動は手付かずだ。でも、それには理由というものがある。呉宮さんには、まだ話せていないだけだ。

「ちょっと不用心すぎやしませんか? 得体の知れない新入生に、何でもかんでも話すってのは――」

「綺麗だった」

 意を呈する僕を遮り、呉宮さんは呟くようにそう言った。

「えっ?」

 目を閉じている。瞼の裏には、先ほどの女――日南杏子が映っているのだろう。たしかに、彼女は綺麗だった。異論はない。

「そりゃあ、警戒心も薄れるさ。華奢で小動物のような彼女が、危害を加えてくるはずがない」

「それは安直な考えです。彼女本人が直接手を下さなくとも、手先の人間がいるかもしれないじゃないですか」

「相変わらず、素晴らしい想像力だ。だが咲間くん、君は彼女に恨まれるようなことをしたのかい?」

 していない。と、思う。
 だが、恨みというものは、自覚がないうちに買われるものだ。
 黙り込む僕の前に、呉宮さんが座った。

「この依頼、どうするつもりだね」

 呉宮さんは、手に持っていた資料をテーブルの上に広げた。

「どうするって……」

 僕は、どうするべきなんだ。
 問いかけても、きっと誰も答えてはくれないだろう。僕が決めることなんだから。

「彼女は、君に依頼を持ってきた。君が決めることだとは思うが――」

 えも言えぬといった表情を見せたのち、呉宮さんはそっと口を開いた。

「わたしが依頼を受けた側であれば、断るだろう」

 意外だった。
 自然と、落ちていた視線が上がる。
 この三年間、周囲で起きた事件にことごとく首を突っ込んでいた呉宮さんが、自ら手を引こうとしている。

「珍しいですね。呉宮さんが、そんなこと言うなんて」

「これは関わるべきでない。資料を確認して、そう思ったんだ」

「それは、なぜですか?」

 僕の問いに、呉宮さんは小さく微笑むと、デスクの方へと戻っていった。慌てて後を追いかけ、デスクを挟み、呉宮さんと向かい合う。
 しかし、呉宮さんはパソコンを立ち上げ、何やら作業を開始してしまった。
 しばらくそこに立ち尽くしていると、ようやく呉宮さんが顔を上げた。

「君はまだ、子どもだね」

「はい?」

「関わるべきではない。そう思ったわたしの考えを、君はまだ理解できていないようだ。そして、彼女もまた、君と同じように子どもだ」

 何を言っているんだ、この人は。なんだかばかにされているような気がして、不愉快だ。
 僕は子どもじゃない。
 そう反論しようと思ったところで、呉宮さんから予想外の言葉が発せられた。

「そのままの君では、この事務所で働かせられないな」

 なぜ、そのことを――。
 面食らう僕に、呉宮さんはふたたび口を開いた。

「計画性のある君が、この時期になっても就職活動をせず、わたしの事務所で助手のようなことをしている。大学を卒業したら、ここに就職をするつもりなんだろう?」

「まだ話すつもりはなかったんですけど……まぁ、はい。人手不足とも、おっしゃってましたし」

 呉宮さんは手を組むと、難しそうな顔をした。額には皺が刻まれている。

「こちらとしても、君を喜んで歓迎したいところではあるんだが、いまの話を聞いていて、やはり少し引っかかるね」

「……僕は、どうすればいいんですか」

 答えは返ってこない。
 わかっていても、僕は呉宮さんに問いかけた。呉宮さんの視線は、僕の体を貫いてしまいそうなほど、強い。

「君が決めることだ」

 先ほど、自身に問いかけて出た答えと、同じ回答だった。
 いつだって、大人は答えを教えてくれないものだ。ヒントさえ教えてくれれば、正解を選べたのに、と思うことは、いままで何度もあった。
 そしていまも、正解と不正解の岐路に立たされている。