「酷い。わたしが居ない間に、勝手に調査を始めるなんて」
「しょうがないでしょ。あっちが俺の存在を認知してたんだから」
だって、フッたのは俺じゃなくて――、いろはだから。
衝撃の事実を知ったあと、シャンプーを終えた杏子がこちらに戻ってくるのを見て、僕は慌てて塩野哲太に言った。
杏子は、僕と西園いろはに関わりがあったことを知らない。どうか、いまの会話は二人だけの間でお願いしたい、と。
美容室を出てすぐ、塩野哲太から西園いろはに関する情報を手に入れた旨を伝えると、杏子は案の定、臍を曲げてしまった。機嫌を取るために訪れた駅前のファミレスでも、杏子は席に着くなり口を尖らせた。
「わたしだって、あの男に言ってやりたいことが山ほどあったのに……」
さらに、肩を落とした。
「良いのか悪いのか、塩野哲太に言うことなんて何一つなかった」
「それって――」
「杏子が、彼を刺してしまうようなことは、一つもなかったんだよ」
すでにカップル設定は終了していたはずなのに、思わず名前で呼んでしまった。
あっ、と僕が言ったのと同時に、杏子も口を開く。
「つまり、妊娠していたって話は、嘘だったってこと?」
僕が下の名前で呼んだことについては意を介さずといった様子で、杏子は噂がデマだったということに食いついた。
考えてみれば、杏子も杏子で、美容室を出てからもタメ口から抜け出せていない。あまり気に留めることではない、ということに気づいてから、僕の脳内から名前呼びタメ口問題は除去された。
「そう。それに、西園さんは彼にフラれたんじゃなくて、フッた側だったんだよ」
「そうだったの? フラれた挙句、根も葉もない噂をでっち上げられたってことね……さすがに同情する」
でも、と杏子は続ける。
「いろはちゃんは、なんで塩野哲太のことをフッたんだろう。他に、好きな人でも出来たのかな」
「……さあ、なんでだろうね」
言いながら、注文用のタブレットに手を伸ばす。
僕はドリア、杏子はたらこスパゲッティを頼んだ。ここは僕の支払いということもあってか、杏子はしっかりドリンクバーまでつけていた。
ちょっと飲み物取ってくる、と腰を上げ、一人でドリンクバーのあるほうへと歩んでゆく。
杏子の先ほどの疑問を、頭の中で反芻した。
そこまでは、聞けていなかった。しかし、あの日の――夏祭りの日の、彼女の言葉が僕の脳内を駆け巡っていた。
やっぱり、好きだな――。
なんだかそれ、すごく安心する。好き――。
どくん、どくん。
鼓動が強くなり、手が震えた。
彼女があの日僕に言った「好き」の方向は、どちらを向いていたのだろう。ろくに確認もせず、わざと気にしないようにと、その言葉から目を背けた。
恥を掻いてでも、僕は聞くべきだった。その好きはどこから湧いてきたもので、どこへと向かおうとしていたのかを。そうすれば、あんなことにはならなかったんじゃないか。僕に何が出来たんだと聞かれれば、わからない。しかし、彼女の隣に居続けることは出来た。
――僕のせいなのか?
震える手で氷を入れて、ドリンクバーのボタンを押す。
ウーロン茶と、オレンジジュース。ドリアと、たらこスパゲッティ。そして、このファミレス。
僕が忘れたかったあの日の記憶が、鮮明に蘇ってきた――と、後ろから大きな咳払いが聞こえた。
「あっ、すみません」
僕の背後には、ドリンクバー待ちの小規模な列が出来ていた。
グラスを両手に持つ。去り際、咳払いをしたスーツ姿の小太り中年男性が、冷たい視線を送ってきた。もう一度、小さく頭を下げて、その場を後にする。
席に戻れば、杏子は何かを考え込むように、頬杖をついていた。
「どうしたの?」
「あぁ、いやっ」
ありがとう、と僕の手にあったオレンジジュースを奪うように取ると、ものすごい勢いで喉に注いでいった。グラスは、空になってしまった。コンっ、とそれをテーブルの上に置くと、杏子は難しい顔をした。
「本当、なのかな」
「えっ?」
「あの男が言っていたこと、信じていいのか、わからない。保身のために、嘘をついた可能性だってあるわけだし」
「そんなこと言ったら、いままで話を聞いてきた人たち、全員にも同じことが言えちゃうよ」
ずっと、足踏みのままだ。進んだかと思えば、戻って、また進んだかと思えば、さらに戻る。そんなことを繰り返していることに、薄々気づいていた。
杏子から依頼を受けて、一か月。七月も終わりを迎えようとしているのに、進展は一切ない。
呉宮さんだったら――。
「このまま、不毛な調査を続けるわけにはいかない」
杏子の視線が、こちらに向く。何かを覚悟したようなその目に、僕は肝を冷やした。
「春彦くん、お願いがあるの」
「……何?」
おそるおそる、訊き返す。
「いろはちゃんと仲が良かった人に、会いたい。会って、話がしたい。何を言われても、全部を受け止める覚悟が、いまのわたしにはあるから」
お願いします、と頭を下げた杏子のつむじを見つめる。
僕も、そろそろ、覚悟を決めなくちゃいけないのかもしれない。