「そうなのかも、しれないね」
塩野哲太は、弱々しく笑った。
「俺が、もっとちゃんと話聞いてやれば、何か変わったのかも」
「罪悪感はあるってことですか。西園さんのことも、……その、赤ちゃんのことも」
「……赤ちゃん?」
訝しげに眉を顰めると、彼は何やら考え込むような表情を見せた。
演技には見えなかった。あの噂は、やはりデマだったのだろうか。
「……すみません。西園さんが、塩野さんとの子を身籠っていたんじゃないかって、それが原因で破局したんじゃないかって、そんな噂が当時流れてたみたいで」
塩野哲太は、呆れたように鼻で笑った。
「くだらない。どいつもこいつも暇なんだろうね」
「ということは、つまり……」
「まったくのデタラメだよ」
「そうだったんですね」
すみません、ともう一度謝る。
近づいたと思った真相が、また遠ざかってゆく。もどかしさと悔しさが僕の心を支配する中で、少しだけ、ほっとしている自分がいた。これで、この人の首にハサミを突き立てなくて済む、と。
体の力がいっきに抜ける。気張っていたせいで、いつの間にか全身に力が入っていたようだ。
しかし、これで終わりではない。
「さっき、話を聞いてやれば、って言ってましたけど、それはなんのことだったんですか?」
話すか迷っているようで、彼は口を真一文字に結び、スツールに腰を下ろした。
僕もそうだった。調査依頼が来たとき、戸惑った。このことについて調査を進めることで、彼女の名誉を傷つけることになるのではないか、不安で仕方なかった。
「わかります。僕も同じです。でも、知りたいんです。知らなければいけない気がするんです」
忘れようとしていたけれど、彼女はきっと、忘れてほしくなかったんだ。だから、あの日を選んだ。
鏡の中で、塩野哲太の唇が動く。
「結論から言うと、あいつ、誹謗中傷受けてたんだよ」
「誹謗中傷?」
「Twitter……あぁ、いまはXっていうんだっけ? DMで、一人の人間から執拗に嫌がらせメッセージみたいなのが届いてて――」
現代社会でも問題になっている、インターネット上での誹謗中傷。相手に顔と名前が見えないのをいいことに、直接言えないような鋭い言葉を、簡単に向けてしまう。
特に、人気者はその対象になりやすい。現実世界では頂点に君臨し、周りには守衛のごとく人が集まっている。そんな中、一本矢を放ってしまえば、返り討ちにされるのは安易に想像できてしまう。だから、SNSを使うのだ。スマートフォンから矢を放てば、百発百中。守衛たちも、本人が叫び声を上げない限り、気づかない。そして、叫び声を上げることが出来なかった人、それが出来ても手を差し伸べる守衛がいなかった人――そんな人たちが、完全に心を殺され、自ら命を手放してしまう。早急に解決せねばならない、深刻な社会問題だ。
「俺は話を聞くことしか出来なかった。教師に相談することを勧めたら、そもそも同じ学校の人間なのかもわからないし、相手の素性がわからないから、って却下された。じゃあ警察にって言ったら、それはもっと嫌だって。五年前は特に、侮辱罪とか名誉毀損罪って、比較的軽い罰則で済んでたから、被害者の保護が不十分だったし――そもそも、公然性がないから、侮辱罪にも名誉毀損罪にもならなかったんだろうけど」
塩野哲太の饒舌ぶりに、目を見開いた。偏見でしかないが、この今風な見た目から、法律の細かいルールまで把握していることが、意外だった。
「詳しいんですね」
「そりゃあ、当時は必死だったからね、俺が守んなきゃって。何か打つ手はないかってめっちゃ調べた。それくらい、いろはのこと、ちゃんと好きだったから」
「それなのに、フッたんですか?」
「フッたって、何を?」
「西園さんのことですよ」
呆れたように、彼は苦笑した。
「それもまた、根拠のない噂でしょ?」
「えっ? あ、いや、これは――」
彼氏にフラれちゃったんだぁ――。
西園さんの横顔が、脳裏にちらついた。
「――西園さん本人から聞きました」
「えっ?」
「五年前の夏、祭りで偶然会った西園さんから、直接」
刹那、沈黙が流れた。
どういうことだよ、と困ったように頭を掻く塩野哲太。
「俺からフッたなんて、絶対にありえない」
本当にどういうことなんだ。
「だって、フッたのは俺じゃなくて――」
ねえ、西園さん。
僕はわからないよ。
「いろはだから」
掴もうとするたびに、君は僕の手をさらりとかわして、ふらりとどこかへ消えてゆく。真相に近づこうとするたびに、遠くなってゆく。
わからない。君のことが、五年経ったいまも、わからないままだ。