「へぇ。じゃあ二人は、まだ出来立てほやほやってわけなんだね」

 チョキチョキ――と、僕の髪を切りながら、塩野哲太が微笑んだ。
 備考欄に記入した要望が通り、僕の隣の席で施術を受けていた杏子は、普段からは想像出来ない柔和な笑みを浮かべ、一つ頷いた。
 鏡越しに見る塩野哲太は、かなり親しみを持てる雰囲気だった。席につくなり、僕らの関係性に突っ込んできたのは、杏子を担当する女性美容師だったが、相槌を打ちながら、終始興味深そうに聞いてくれていたのは、この男だった。
 緻密に創り上げられた僕らのラブストーリーを、杏子は、あたかも本当にあった出来事かのように語ってみせた。呉宮探偵事務所で聞いた設定より、数倍情報量の多い内容だったが、僕は特に何も言わず、照れくさそうに話を聞く、という姿勢に徹した。

「どこの大学行ってるの?」

「栄秀です」

「おぉっ。結構いいところ行ってるねぇ」

「いえ、そんなことないですよ」

 杏子と塩野哲太の会話が、飛び交う。そこに時折、杏子の担当美容師も話に入ったりしながら。僕を抜いた三人での会話が繰り広げられ、そこで笑いが起きたりすると、とてつもない疎外感に襲われた。完全に、乗り遅れてしまった。

「年下って、大変でしょ?」

 杏子がシャンプー台へと席を外してすぐ、塩野哲太はいたずらっぽい笑みを僕に向けた。
 たしかに、大変だ。調査依頼を受けてから、ほぼ毎日のように一緒にいるが、彼女のマイペースな性格には、時折頭を抱えたくなる。

「ははっ、そうですね。年下、大変ですね」

 言ってから、これが話を引き出す絶好のチャンスだということに、気づいた。

「塩野さんは、年下と付き合ったこと、あるんですか?」

 鏡越しに、塩野哲太の顔色を伺う。

「あるよ。高校のときに一度だけね」

「……やっぱ、大変でした?」

「うーん、そうだねぇ」

 言い淀む彼を前に、僕は次の言葉を待つ。しかし、いっこうに口を開く気配がない。右手に持っているハサミと、左手に持っているコームだけは止まることなく動き続け、髪の間をすり抜けてゆく。

「なんでもリードしなきゃ、とか、守ってあげなきゃ、とか――年下の子には、そーゆー感情がより湧いちゃうんだよ。それで、キツくなるんだよね」

 キツくなったから、逃げたのか――。
 彼女からも、お腹の中の子からも逃げて、自分だけ解放されようだなんて、そんなの無責任じゃないか。腸が煮えくり返りそうなのを、クロスで隠れている拳を握りしめることで、なんとか抑えた。
 真相は藪の中だ。彼を糾弾するのは、まだ早い。

「その年下の彼女さんとは、どうして別れちゃったんですか?」

「どうして、かぁ」

 そう言って、また口を閉ざす。今度は、先ほどよりも長い沈黙が流れた。

「そんなこと聞いて、どうするの?」

 返ってきた言葉は、意外なものだった。
 鏡越しに、塩野哲太と目が合った。先ほどまで動いていた手は完全に止まり、僕の目を真っすぐ見つめている。

「あ、いや……参考にしたくてっ。今後、ひ、……杏子と長く付き合っていくためにも」

「本当に、それだけ?」

 椅子の背もたれに両手を置き、前のめりになって聞いてくる。
 しばらく鏡越しに見つめ合っていたが、耐え切れずに僕のほうから目を逸らした。脳内まで覗かれている気がして、不気味だった。
 これ以上、身分を明かさずの調査は困難と判断をし、意を決して小さく息を吐いた。

「……西園いろはさんのことで、話を聞きに来ました」
「あぁ、やっぱりね」

 特に驚いた様子もなく、塩野哲太は施術を再開した。

「すみません」

「いや、いいのいいの。なんとなく、そのことだろうなぁ、とは思ってたから。咲間くんの名前で、予約を受けたときから」

 彼は、僕が今日ここに来る前から、僕のことを知っていたということだろうか。
 もしかして、岸が?
 近々、西園のことを探りに、咲間っていう男が美容室を訪れるんで、気を付けてくださいね――そんなことを言われたのだろう。おおよその経緯の仮説を立て、勝手に納得をしているところに、塩野哲太がその仮説を潰してきた。

「いろはから、咲間くんの話は聞いてた」

「えっ?」

「『わたしのことを理解してくれそうな人と、友達になれた』って、嬉しそうだった」

 その友達が男だと聞いたときは、柄にもなく妬いたけど――そう言って、けろりと笑った。

「でも、なんでいまごろ? いろはのことがあってから、もう五年は経ったよね」

 シャンプー台のほうで、横になっている杏子に視線を移す。
 杏子が、彼女の幼馴染であること、中学から大学入学前まで大阪で過ごしていたこと、そのために彼女の事件については知らなかったこと、そしていまはその事件の全貌を明らかにするために調査をしていること――一通り説明をし終わると、塩野哲太は顔を歪めた。

「それは――気の毒だったね」

 まるで、他人事のような姿勢の彼に、僕は耐えられなくなっていた。

「塩野さん、」

「ん?」

「あなたが、西園さんのことを追い詰めたんじゃないですか。あんなことになったのは、あなたのせいなんじゃないですか」

 この質問に、彼が「イエス」と答えたならば、僕はどう思うのだろう。何を言うのだろう。
 彼が手に持っているハサミを奪い取り、その細長い首に突き立てるのだろうか。
 噂が本当だったら、その場で塩野さん刺しちゃうかも――そんなことを口走った杏子の気持ちが、いまになって身にしみて感じた。