「何だよその顔。怖いんだけど」
張り詰められた糸が、一方的に切られる。岸は残りのビールを飲み干すと、空のジョッキを掲げ、生ひとつ、と通りがかりの店員に声を掛けた。弛緩した空気に、自分だけに広がる焦燥感。
「誤魔化さないで、ちゃんと答えてくれないか」
思わず、声が尖った。これには、岸も驚いたようで、箸を持っていた手が止まる。
日南さんも、怪訝な表情でこちらを見ていた。前回、ふてぶてしい態度を取るなと注意した身にも関わらず、何を言っているんだ――そう言いたいのだろう。
しかし、僕自身も驚いていたのだ。彼女のことで、感情的になってしまう自分が、五年もの月日が経ってもなお存在していることに。
「……ごめん」呟くように謝罪をし、ジョッキに手を伸ばす。
落ち着け、落ち着け――。
はやる気持ちを紛らすように、酒を呷る。酒豪ではないが、下戸でもない。しかし、ある程度の量をいっきに体内に注ぎ込んだことにより、軽く目眩に襲われた。視界がぐわんと揺れ、視線をテーブルへと落とす。
目眩が幾分かマシになったところで、ふぅ、と短く息を吐く。ゆっくりと視線を上げて、ふたたび岸に問い掛ける。
「西園さんと、付き合ってたんだろ?」
肯定も否定もせず、岸は困ったように笑うと、頭を掻いた。
「だったら、良かったんだけどなぁ」
そこへ、生ビールが運ばれてきた。岸は、それを早々に喉へと流し込むと、長く深いため息をついた。
「付き合ってねぇよ」
「……本当に?」
「マジ」
「えっ、でも――」
でも、君は西園さんのことが好きだっただろ。なんてことは聞かずとも、岸の顔を見れば一目瞭然だった。
「ははっ。これだけは言いたくねぇって思ってたんだけど、なんか変な勘違いされそうだから先言っとくわ」
フラれたんだよ、俺――。
こともなげに、岸は言ってのけた。
「岸さんは、いろはちゃんのことが好きだった、ってことですか?」
話について来れていなかったのか、日南さんが横から入る。
「まぁ、あんときはな。てか、誰でも一回は通るだろ、いろはのこと。ことごとく、フラれてたけどな」
俺を含めて、と自虐的に岸は笑う。
誰でも一回は通る――その言葉に、首肯しそうになった。僕も、西園いろはの通行証を持っているが、こればかりは隠し通さなければいけない。
お前はどうなんだよ、なんて質問を恐れて、少し話題を逸らす。
「柳原って、覚えてる?」
「あぁ、もちろん」
「あいつから、西園さんのことが告げられた日の放課後、バスケ部が空き教室でミーティングしてたって聞いたんだ。それで、詳しく事情を聞きたくて、連絡を入れたってわけなんだけど」
「あぁ……そういえば、そうだったな」
いま思い出した、と言わんばかりの表情で、岸は何度か小さく頷いた。この時点で、そのミーティングの中で話されたことが、核心に触れるものではなかったのだろうということが、想像出来た。日南さんもそれを察したのか、瞳から希望の光が失われつつある。しかし、前回の反省点を活かして、なんとかピンと張った背筋は保てている。これだけでも、成長だ。
「柳原は、そこでバスケ部が、何らかの事情を説明されたんじゃないかと推測していたんだけど……その反応から察して、なさそうだね」
「なかったよ。あのときの俺は、正直納得いってなかったな」
「と、言いますと?」と、日南さん。
「いろはのこと、ちゃんと説明してくれよって思った。憶測がなんだ、噂がどうだ――んなことばっかり教師は気にしてたけどさ、結局、変な噂が広まる羽目になったし」
そこまで聞いて、僕は思わずテーブルに身を乗り出した。
変な噂っていうのは、一体何のことなのか。
「そんなの、広まってたの?」
「あぁ。ごく一部の間で、瞬間的な噂だったから、あんま広まらなかったみたいだけど――」
「その噂っていうのは?」
岸が言い終える前に、日南さんが食いつく。その気迫に圧倒されたのか、岸は狼狽た。
「あぁ、いや……なんかさ、それ言うのはちげぇってゆーか」
「そこをなんとか、教えていただけませんか」
僕には、岸の気持ちが痛いほどわかった。
今回の調査で最も避けなければいけないのは、彼女の名誉を傷つけることだ。異論反論を言えない立場にある彼女のことについて、しかも真偽不明な噂話を、わざわざこの場で掘り返すことに、抵抗があるのだろう。岸からしても、何のメリットもないことだ。
しかし、僕と日南さんは違う。
「頼むよ、岸――何も、その噂話を誰かに広めてやろうなんて企んでいるわけじゃないんだ。わかってくれてると思うけど、僕たちは本気であの事件を調べてる。たとえ、ただの噂だったとしても、それが真実に近づく鍵になるかもしれないんだ」