そんな、なんの音沙汰もなかった彼が、今朝、突然、私たちが同棲している家に帰ってきた。

 同棲している家といっても、彼はほとんどの日を研究所に泊まり込んでいるので、一緒に生活しているという実感はあまりない。たまに、帰って来る時には、律儀に「今日は、帰ります」と連絡をして来る。当然ながら、まだ夜も開けきらないこんな明け方に、しかも、連絡もなしに帰ってきたことなど一度もなかった。

 しかし、自宅のインターフォンのカメラに映る人影は、紛れもなく私が二日間心配し続けた相手だ。服はボロボロで、体中埃まみれだが、私が彼を見間違えるなんてことはない。慌てて玄関へ走ると、勢い良くドアを開けた。

 勢い余って裸足のまま外へ飛び出した私を、ドアの前にいた彼は埃まみれの体で受け止め、そのままギュッと抱きしめて離さなかった。そんなことを今までにされたことがなかったので、私は驚いてされるがままになっていた。

 しばらくして、驚きが安堵へと変わり、それが体中に染み渡ると、私を抱きしめて離さない彼を引き離し、彼の全身を隈なく観察する。全体的に汚れてはいるけれど、特に怪我をしている様子はなかった。ホッとして泣きそうになる顔を、無理に笑顔へと変える。

「お帰りなさい」

 そう言いながら、彼を部屋へ招き入れるために手を取ると、彼の手はとても冷たかった。

 あれだけの事故だったのだ。心も体も疲れ切っているはずだ。手がこんなに冷え切っているのはそのせいだろう。まずは、ゆっくりと休ませるべきだ。そう判断した私は、彼にゆっくりと休むようにと促す。

「徹が無事で本当に良かったよ」
「柚季……」
「大変な事故だったもの。疲れたでしょ? まずは、ゆっくり休んで」
「うん……あの……柚季は、今日どうするの?」
「徹が無事に戻ってきたから、とりあえず、仕事に行って来るよ。今日、早番なの」
「仕事……そうか、そうだね」

 いつもあまり多くものを言う方ではないけれど、今日の彼はなんとなく歯切れが悪かった。そんな彼に、私は矢継ぎ早に質問を投げかける。

「なぁに? どうしたの? どこか痛い? やっぱり怪我していたりする?」
「いや、そうじゃない」
「本当に?」
「大丈夫」
「早番だから、夕方には帰って来られるから。徹は、それまでゆっくり休んでいて。話は、夜にじっくり聞くから」

 それから、私は慌ただしく出勤準備を始めた。朝食は、彼が要らないと言ったので、一人で済ませ、メイクやヘアセットなどの身支度を整える。その間、彼はソファに体を預け、私を物珍しそうに見ていた。

「ねぇ? なぁにさっきから?」
「何が?」
「私のこと、ずっと見ているよね?」
「うん。ダメ?」
「ダメっていうか、見られていると、気になるんですけど」
「あぁ。そっか。そうだね」

 そう言いながらも、彼の私観察は、私が出かけるまで終わらなかった。

「じゃあ、行って来るね。なるべく早く帰って来るから、それまで徹はゆっくり休んでいるんだよ」
「うん。行ってらっしゃい」

 玄関先で彼に見送られながら出勤するのは、同棲を始めてから、初めてのことだ。なんとなく気恥ずかしくて、心がホワホワとする。昨日までの心配事は嘘の様に消え去っていた。

 夕方、帰宅すると、彼は料理を作ってくれていた。

「休んでいなくていいの?」
「平気だよ。それより、夕飯を作ったんだ。座って」

 彼の手料理を食べるのは初めてだった。料理なんてしたことはないのではないかと思っていたが、意外にも美味しかった。彼は、おかずを取り分けたり、ご飯のおかわりを気にしてくれたりと、食事の間中、私の世話を焼いてくれた。

 食事を取りながら、私は、なぜ事故の時に連絡をしてこなかったのかと彼を問い詰めた。すると、「研究所から出るのに必死で、思い至らなかった」と、お茶を煎れながら呑気な声で返された。そんな答えにも、まぁ、確かに慌てていたら、そうなるかもしれないかと、単純な私は納得してしまう。

 食事を終えると、彼と並んでソファに座りテレビを観た。しかし、この2日、心配のあまりほとんど眠れなかったので、程なくして、強力な睡魔と私は戦うことになった。その間、彼はずっと私の手を握っていてくれた。

 彼の手は、こんなに大きく、ゴツゴツと節くれだっていただろうか? そしてやはり、彼の手は冷たいままだ。

 そんなことを思いながら、私は、睡魔との戦いに敗れ、夢の世界へと落ちていった。