――――セフレになったら、本命の彼女に昇格するのは難しい。
どこかで聞いたことがあるその言葉はたぶん本当だと思う。
あの日のわたしは君を繋ぎ止めるのに必死だったからこの道を選んだ。
後悔していないかと聞かれれば、答えはNO。
今までに何百回だって、後悔している。
こんなふうに身体を重ねていなかったらわたしも君の大切な人になれたのかもしれない。
SNSで見かける恋愛ポエムにいいねをつけて、そういう関係を歌ったラブソングを聴いて、自分と重ね合わせてはその度に虚しくなった。
それでも、わたしは君を今日まで手放せなかった。
どんな手を使ってでも、君のそばにいたかった。
「だいすき」
「うん」
彼の口からわたしと同じ返答はかえってこない。
そんなこと、最初からわかっていた上で好きになった。
「おいで」
「ん」
たとえ、都合のいい女でもあなたの近くにいられるならなんでもいい。
一番じゃなくても、特別じゃなくてもいいから。
そう思い続けて気がつけば、一年が経っていた。
いつかこの恋は終わらせなきゃいけない。
それは、この夜が明けたら――――。
◆
「んんっ……」
そっと、瞼を持ち上げると視界に映ったのは白い壁。
なにもない、ただの壁だ。
でも、わたしの体はあたたかいものに包まれている。
ぐるり、と体を180度回転させてそちらに視線を向ける。
もうわたしの視界に広がるのは白い壁ではない。
わたしが動いたからなのか彼が鼻と鼻がぶつかるくらい自分の顔をずいっと寄せてきて、そのせいで柑橘系の香りが鼻をくすぐる。
───……わたしのだいすきな香り。
香りだけじゃない。
わたしを包み込んでいるこの腕も。
いつもは綺麗にセットされているのに今は無造作になっている艶のある自慢のはちみつ色をした髪の毛も。
スッ、と筋の通った鼻も。
切れ長なのに、二重幅の広い大きな瞳も。
長く上に伸びたまつ毛も。
形のいい健康的な色をした唇も。
ぜんぶ、だいすき。
そのどれもがいちいちわたしの心臓を刺激する。
今だって、すやすやと寝息をたてて眠っている彼をただ見つめているだけなのに愛おしいという感情がわたしの中を支配している。
この寝顔が見られるのも今日で最後か。
そう思うと、心臓が握り潰されているみたいに苦しくなる。
あぁ……最後なんて嫌だな。
君の顔を見ていると、自分で決めたはずの別れの決意が簡単に揺らいでしまう。
「……そんなに見つめられたらキスしたくなる」
なんて考えながら見ていると、ゆっくりと瞼が上がり、彼のアーモンドみたいな瞳と視線が絡み合う。
お、起きてたの……!?
一体、いつから起きていたのかな?
「お、起きてたの?」
「視線を感じた」
「ごめん」
「キスさせてくれるならいいよ」
にやり、と意地悪そうに口角を上げた彼――蓮はわたしの好きな人だ。
蓮はわたしが断らないのをわかっててそう言っている。
わたしが君のことを好きすぎるから。
全部わかってるくせに。
返事をしたくなくて彼から目を逸らすと、逃がすものかとまるで獲物を見つけた動物のようにわたしの唇を啄み、甘く深い口づけをしてくる。
「……んんっ」
思わず、何度聞いても自分の声とは到底思えないほど甘すぎる声が漏れる。
───……このまま、ずっと溺れていたい。
今日だけで何度、そんなことを思ったんだろう。
だけど、そう思うたびに“ダメだ”とわたしの中の誰かが言う。
わかってる。こんなのダメだって。
それでも、やめられない。やめたくない。
どんどん深くなるキスとともにわたしは彼の首に腕を回した。
素肌と素肌が触れ合い、彼の体温を直接感じてわたしの胸まで熱くなる。
「今日はもう一回」
そう言って、わたしの首筋にキスを落としていく。
先ほど終えたばかりの甘い時間が再び訪れる。
わたしは彼に身を任せ、最後の愛に溺れた。
ちゅっ、と短いリップ音とともに頬に感じた感触でそっと目を覚ますと、そこには満足そうに微笑む彼が視界いっぱいに広がった。
何がそんなに嬉しいんだが……。
手探りでベッドの上に置いてあるはずのスマホを探して時間を確認する。
4:00と表示されているのを確認してもう一度スマホを元々置いていた場所に戻した。
昨日は22時に蓮に呼び出されて、彼が一人で住む部屋へとやってきた。
今日もまた過ちをひとつ増やしてしまったような気分になる。
別に悪いことをしているわけではない。
彼には彼女もいないし、わたしにも彼氏はいない。
お互いフリーなのだからこんなふうに体を重ねても問題はない。
かといって、付き合っているわけでも愛し合っているわけでもない。
わたしの愛の一方通行といえばわかりやすい。
「あ、起きた」
「おはよ」
「よく寝れた?」
そう言いながら優しくわたしの頭を撫でる。
そんな小さなことにも胸をときめかせているわたし。
我ながら単純で、単細胞だなと思う。
「うん」
「俺が隣にいたからだろ?」
「……別に」
「可愛くねえの」
「知ってるし」
「さっきは可愛かったのになー」
不敵に微笑む彼から思わず視線を逸らした。
恥ずかしい。いつも求められている時のわたしはそれが幸せの時間に思えて普段は言わないようなことを口にしてしまっているらしい。
あの瞬間だけは、何を口にしても許されるような、そんな気持ちになる。
行為中の”可愛い”とか”好き”は信用しちゃダメってSNSに書いていたし。
「うるさい」
「俺のこと好きなくせに」
ほら、ぜんぶ見透かされている。
そこもムカつくのに、憎めない。
「うざい」
「否定しないとこがまたいいよね」
満足そうに口許を緩める蓮。
蓮とこんな曖昧な、いや不純な関係になって1年程が過ぎた。
すべて悪いのは自分だとわかっているからもし仮に他人に何を言われても言い返すことができない。
「……好きじゃないもん」
「ほんとに?」
「うん」
「ふーん」
そういうと、蓮は体を180度回転させてわたしに背を向けた。
───ああ、この背中がわたしだけのものならいいのに。
叶いもしない願いが今日もこぼれ落ちる。
そんなところ見てないでこっち向いて。
わたしをみて。
今だけは、今日だけは、蓮のことをわたしが独占したい。
「……こっち向いて」
そう言いながらわたしは彼のたくましい背中にピタッとくっつき、額を背中につける。
「なんで?」
「……寂しいから」
「俺のこと好きじゃないんでしょ?」
ほら、わかってる。
わたしが蓮のことを好きで好きで仕方がないことを知ってるくせにこんな意地悪をしてくる。
「……好きに決まってるじゃん」
自分で言っておいて、かぁぁあっと顔に熱を帯びていくのがわかる。
『好き』なんて言葉を伝えたところで同じ返答はかえってこない。
ちゃんと、わかっている。
蓮に想い人がいることも。
その恋がもう叶わないことも。
それが原因でこんな関係になったんだから。
「ふっ……知ってる」
満足気にそう言い、再びわたしのほうを向くとそのまま彼の腕の中にすっぽりと収められた。
ああ、わたしって本当にバカだ。
こんなことしても蓮の気持ちを手に入れられるわけないのに。
蓮はきっと手に入れられない人とわたしを無理やり重ねているだけであって、決してわたしのことが気になってるとか興味があるとかそういうのじゃない。
所詮、わたしは彼女の代わり。
その証拠に蓮は一度もわたしに「好き」という言葉を言ったことがない。
一番になれないことなんて最初から知ってるのにどうしてわたしはそれでも蓮がいいんだろう。
どうやったって蓮以外の人は視界に映らない。
それと同じように蓮の視界にはあの人しかいない。
その現実がどうしようもなく悲しくてわたしの胸をぎゅっと締め付ける。
「なぁ」
「なに?」
「ごめんな」
───いまさら、謝罪なんて。
この関係になることを最終的に決意したのはわたし自身で、蓮が悪いわけじゃない。
わたしが欲しいのは謝罪じゃない。
ごめんなんて、いらないからただ「好き」だと言ってほしかった。
「謝らないで」
自分が惨めに思えるから。
この選択をした自分がよりいっそうバカに思えてしまうから。
蓮はその言葉を聞いて、何も言わずにただわたしを抱きしめる。
その温もりがわたしだけのものならいいのに。
「蓮」
「ん?」
「わたし、後悔してない」
嘘だ。何回も後悔しているくせに。
「……」
きっと、みんなはこんなのダメだって言うと思う。
決して、綺麗な関係ではない。
それでも、蓮のことを一瞬でもわたしがひとりじめできるのなら、一瞬でも蓮がわたしを見てくれるなら、それでよかったんだよ。
でもね、それも今日で終わりだから。
「だからね、」
「もーいいよ、喋んな」
そういって、強引に塞がれた唇。
深いキスの後に、
「莉奈」
はっきりとわたしの名を呼んだ蓮。
何も言わずにただ顔を上げれば、綺麗な顔がこちらを見ていた。
「莉奈でよかった」
ああ、ほら。
またそんなズルいことを言うでしょ?
そんなこと言うからまた好きが増えちゃって苦しくなるんだよ。
なんで優しくするかなぁ。
これが最後なのに。今日で終わりなのに。
「バーカ。ほら、早く起きよ」
「んー。まだいいじゃん」
「ダメ」
「莉奈、抱き心地最高だから離したくない」
「なっ、何言ってんの」
そんなこと言われたって惑わされないよ。
抱き心地が最高なのは、あの人と体格が似てるからなのかな。
なんて、頭の中で考えてしまう自分がいる。
本当に、バカだ。こんな関係。
不純以外のなにものでもないのに、わたしはこの不純にすがっている。
「りーな」
「ん?」
そういうと、ちゅっと短いリップ音が部屋に響き、蓮がわたしの唇にキスを落とした。
「や、やめてよ……」
「かわい」
そういってわたしの頭をそっと撫でる。
その言葉はわたしに向けて言っているんじゃない。
蓮の脳内で、わたしはあの人として映っているのだろう。
だって、行為が終わってわたしが目を閉じて浅い眠りについてしまったとき、彼がわたしの頬に手を当ててわたしではない人の名を、聞いたこともないくらい優しい声音で、わたしの大好きな声で、呟いたことをわたしは知っている。
そのあと、シャワーを浴びた時に虚しくて悲しくてどうしようもない気持ちのぶつけどころがなくて泣いたことも君は知らないでしょ。
「ほら、もう帰るから」
「もー帰んの?」
「今日はお昼にコトミさんが来るんでしょ?」
「……」
「なにその顔。別になんとも思ってないから安心して」
よくそんな嘘を言えたもんだ。
なんとも思ってないわけない。
どうしてわたしはコトミさんじゃないんだろう。
そんなこと何万回も考えた。
考えて、考えすぎて頭が痛くなるくらいに。
だけど、どうやってもコトミさんになることはできないから答えは出ないまま、わたしは今日までこんなバカげたやり方でしか蓮をつなぎ止めておくことが出来なかった。
「あいつはこねぇよ」
そう吐き捨てた蓮の顔は不貞腐れたように悲しげに瞳を揺らしていた。
ムカつく。わたしが帰ることは対して引き止めないくせに彼女が来ないことは不満だなんて。
『コトミさん』というのは、蓮の想い人である。
今年24歳になるわたしたちよりも4歳年上の女性だ。
蓮とは幼なじみで、昔からピアノをしていたコトミさんは音楽の道に進み、しっかりしているのに少し抜けたところのあるコトミさんを蓮が面倒をみていたのだと言っていた。
だけど、コトミさんには同じ大学で出会った年上の恋人がいて去年結婚したそう。
つまり、蓮の恋が叶わなくなってから1年。
コトミさんに恋人ができる少し前にわたしたちは出会った。
最初は、単純にコトミさんのことを大切そうに話して一途に想っている蓮がすごいなあと思っていただけだった。
でも、いつの間にかわたしも蓮にそんなふうに想ってほしいと思うようになっていた。
わたしと蓮は高校生の頃から仲が良くて、なんでも話せる仲だった。
そんな関係が変わったのは一年前。
何を思ったのか、蓮に告白をしてしまった日からだ。
◆
1年前の冬の夜。
蓮から『莉奈、会いたい』と電話がかかってきた。
聞いたこともないような今にも消え入りそうな声で言うからわたしは降りしきる雨の中、蓮に会いに行った。
そして、蓮の家の近くの公園で雨の中傘もささずに立ち尽くしている彼を見つけた。
彼はわたしを見つけると『莉奈……』とわたしの名を呼んでそのまま引き寄せると肩を震わせた。彼は、泣いていたのだ。
コトミさんに恋人ができたと知った時もこうやって泣いていた。
そして、今はコトミさんが結婚すると聞かされて泣いている。
そんなにコトミさんじゃなきゃダメなの?
辛いならわたしにしなよ。
わたしなら君を一番愛せるし、幸せにできる自信があるよ。
だから、わたしを選んでよ。
何度もそう思った。
だけど、コトミさんに対する蓮の想いの強さを知っているからそんなことは叶わないことくらい痛いほどわかっていた。
『わたしは蓮のそういう優しいところ、ずっと好きだよ』
そう言って、わたしから口づけをした。
驚いてわたしを見つめる彼に『今だけわたしをコトミさんだと思っていいよ』と彼の弱さにつけこんだ。
今考えても、最低だったなと思うけれどあの時は今にも壊れてしまいそうな蓮が怖くて、どうにかしないと。そう思ってわたしも必死だった。
◆
それからズルズルと1年が過ぎて今に至る。
最初に彼の弱さにつけこんだ自分が悪いのはわかっている。
だから、こうして離れる決断をしているのも自分勝手なんだろう。
でも、大好きだから。大好きだからこそ離れなきゃいけない。
わたしはコトミさんではない。
いつまでも蓮にこんなことさせるわけにはいかない。
幸せでいてほしい。君には誰よりも幸せでいてほしいから。
いつか、コトミさんよりも好きになれる女の子と出会って、これ以上ないくらい幸せでいてほしい。
たとえ、それがわたしじゃないとしても。
「ねえ、蓮」
「ん?」
「わたし、来月から急遽東京に転勤になったの」
会社に転勤願を提出したのは自分からだ。
こうでもしないとわたしはこの関係に終止符を打つことができなかった。
物理的に離れてしまえば、この曖昧な関係に甘えず、お互い前を向いて歩いて行けると思ったのだ。
「え……?ほんとに言ってる?」
「嘘ついてどうするの」
「なんで今……」
3ヵ月前から異動することは決まっていたけれど、なかなか覚悟を決められなかったわたしは言い出せなかった。
「ごめんね。だから、もうこうやって会えなくなる」
自分の声が震えているのがわかる。
次第にじわりと視界も歪んで、涙がこぼれ落ちそうになったけれど唇をぎゅっと強く噛み締めて何とか堪えた。
「……そっか。頑張って。莉奈ならきっと大丈夫だよ」
少しの沈黙のあと、蓮はそう言って力なく微笑んだ。
君は引き止めてはくれない。
そんなことわかっていたのにどこかで期待していたわたしの胸に悲しみが沸いてくる。
「ありがとう」
「でも、寂しくなるなぁ……莉奈がいなくなったら」
「すぐに慣れるよ」
そう言いながらわたしは荷物をまとめて、帰る準備をする。
わたしはきっと君のことを一生忘れられないだろう。
だって、君のすべてがわたしの身体に刻み込まれているのだから。
「じゃあ、元気でね。蓮は優しいからきっといい人が見つかるよ。だからちゃんと幸せになってね」
―――だいすきだったよ。
その言葉は声にならず、心の中に消えていった。
そして、わたしは蓮の顔も見ずに彼のアパートから出た。
その瞬間、ずっと堪えていた涙が席を切ったように溢れだしてわたしと頬を濡らした。
彼は、追いかけてもきてくれなかった。
それがきっと答えなんだろう。
彼にとって、わたしは本当にあの人の代わりでしかなかったのだ。
「うぅ……っ」
それでも、わたしは本当にだいすきだった。
もっと、もっと一緒にいたかった。
だけど、君はわたしのためには泣いてくれないから。
君が涙を流すのはいつも他の人を想って。
だから、一緒にはいられない。
いつか、この別れが正解だったと思える日が来るように。
ふと、視線を上に向けると橙、紫、青が混じったような美しい空が視界にいっぱいに広がっていた。
ついに、夜が明けたのだ。
そして、わたしの長い長い片想いも終わりを告げた。
わたしは身体に染み付いた彼の匂いを消すようにポーチから取り出した香水をシュッと振った。
――――さよなら、世界で一番大好きだったひと。