避けたいから。

あまった時間で、唯一の挨拶をする相手のところに寄るのが日課だ。


中学一年の最終日は、今年一番暖かい朝だった。

でもおはようの相手はいなくて、新しい日ははじまらなかった。

ふてぶてしい猫がいた小屋には、主の代わりに段ボールの札が入っている。


―三月二十五日の夜、猫は亡くなりました。いつも構ってくれた人たちありがとう―


化け猫が死んだ。

ほんとの化け猫みたいに偉そうなほど太った野良猫がいなくなった。

私の唯一の友達がいなくった。

ぬるい風が頬を撫でる。

春の、面倒くさいくらいいろんなことを伝える風。

動く習慣のない私の口角は、やっぱり動かない。


小学三年の行事で、初めてこの地域に伝わる化け猫の伝承を知った。

おどろおどろしい響きのクセに運命の人を連れて来るという憎めない奴で、好きな話だった。

だからその直後に出会った小さな野良猫を、私は勝手に『化け猫』と名づけた。


一年間中学校に通っていろんなことを見聞きした。

私はもう、学校に行かなくても大した事にならないと知っている。

お母さんは敵ではないし、それ以上に私に関心がない。

中学一年の最終日、学校に行くことはやめた。

イオンのフードコートしか行くところはないけど。

それにフードコートなら、化け猫を知る人に会えるかもしれない。



フードコートにはいつも見かけるメンバーがいた。


誰にでもおはようと声をかけて、ほとんど無視されるお爺さん。お兄さんかおじさんかわからないなにをしてるのかもわからないノートパソコンに向かう気味の悪い人。毎日学校に行ってなさそうな女子高生のグループ。私と同い年くらいの不登校っぽい眼鏡の男の子。それから、見かけない柄の悪い年齢も職業も不詳のカップルがいた。


ここでは誰とも話したことはない。ただおはよう爺さんとは、外では話したことがある。初めて化け猫に会った時、化け猫を教えてくれたのはおはよう爺さんだ。でも私は、ここでおはよう爺さんに挨拶されても無視をする。

おはよう爺さんは今日も曲がった腰で足をひきずって歩いていた。

柄の悪いカップルがおはよう爺さんをからかっている。


「やっぱこういうとこってさ、スタバにも行けない社会に相手にされない奴ばっかなんだね」


「腹減ったんだからしかたないだろ。それに、たまには底辺見学すんのも面白いじゃん。なあ爺さん、ボケてんの?」


どんな人たちが集まっていても、私にとって大事なフードコートを悪く言われるのは許せなかった。

前からスタバに行ってみたかったけど、一緒に行く友達もいなければ一人で行く勇気もなかった。

いろいろ胸に刺さった。


おはよう爺さんは化け猫の死を知ってるはずだ。せめて悲しい顔をしていたら、今日くらい話しかけてみようと思ってた。

おはよう爺さんはカップルにイジられながらにこにこしてる。


そして決定的に気づいてしまった。

うんざりするほど世の中は人で溢れてるのに、会いたい人は一人も存在しないということを。


どうしようもなく独りぼっちで、どうでも良い人のラインを開いた。

ネットでいろんな人と知り合えば知り合うほど、会いたい人がいないことを知るばかりだった。関係をつづけたいタイムラインなんて一つもない。


相手のことなんて完全に無視した文章を、空に叫ぶみたいに投げた。


『猫と描くっていう漢字って似てるよね? なんでこんなに似てるのか気になってしかたないよ』


なにも期待していないスマホが、驚くほど速く通知を報せる。

どうでも良い人たちは決まって反応が早い。

ただその労力は決定的に無駄だ。返信スピードに割く労力を、少しでも人との対話にさけないものかと不思議になる。

名前すら憶えてない相手に、独り言みたいなラインを送るだけの私が言えたことじゃないけど。


『偶然でしょ? そんなことより良いネカフェみつけたから行かない? もちろんおごる! あともうちょいわかりやすい写真ほしい!』


ネットで知り合う男には、体温がなくて動物とさえ思えない昆虫みたいな人が多い。欲求だけがあってそのセンサーが反応する行動にだけ無感情に労力をさく。


メッセージを読み終えると、自分の目の色がさらに褪せて、表情筋がさらに退化するような気がした。まったく心の通わない昆虫みたいな男をブロックした。


顔をあげると、眼鏡の男の子も似たような目でスマホをながめていた。

あの子はあの子で何かに絶望して、これから昆虫みたいな男になるのかもしれない。


化け猫がいなくなってしまった私は、どうやって新しい日をむかえればいいんだろう。


ねえ化け猫、もうおはようって言わなくていいの?


気味の悪い男はパソコンを見るフリをして向かいの女子高生の下半身を見てて、女子高生はそれに気づいてて脚を広げてて、眼鏡の男の子は死んだ目を永遠スマホに向けてて、カップルはおはよう爺さんをイジってて、おはよう爺さんは化け猫が死んだのに笑ってて……。


なにかが爆発しそうになって私はフードコートから飛び出した。

自動ドアが開いて外に出た途端、生暖かい塊にぶつかったような衝撃につつまれた。

春の突風だった。


思いきり転んでスマホが手から飛んだ。

でも、べつにもうどうでも良いと思った。

拾い上げたスマホは不思議にひびも入っていなくて、代わりに知らないアカウントからラインが届いていた。


『春夜の招待状。今から帰ってベッドに入ってください。君に特別な一夜をプレゼントします。今夜一番したい事をしてください。私がそれを叶えます』


冗談みたいなアカウント名だった。

化け猫。


馬鹿みたいと思いながらも私はすぐに帰った。

眠くないままベッドに入ると、すぐに眠りに落ちた。



目が覚めると自分のベッドの上だった。

なにも変わらない天井。

なにも変わらない部屋。

カーテンを閉めていなくて、すぐにもう夜だとわかった。


すこしがっかりした。

それでも私は、自分がしたいことを考える。

そうすることが化け猫との約束のような気がするから。

今したい事と言えば一つしか思い浮かばない。

私はリュックを持って急いで駅に向かった。


家の前の道を曲がったところで息が止まりそうになる。

目の前にお母さんがいた。でも知らない人みたいに素通りした。

私も無視して通り過ぎる。

なにかがおかしいと感じた。お母さんが小さかった。

駅に着くころには少しづつ理解しはじめていた。


私は背が高くなっていて、知らない服を着ている。


夜のスタバのウィンドウは街の光を鏡みたいに反射している。

スタバの前に立ってはじめてガラスに映る自分を凝視した。

頭の中で描いたことのある、理想の私がいた。

大人? お姉さん?

たぶん二十歳くらい。


もしも大好きな人に囲まれた生活をおくっている人なら、泣き叫ぶのかもしれない。

でも今日も明日もどうでもいい私には、嬉しいという感情が残った。

呪いでも夢でもなんでもいい。

こんなお姉さんでいられるなら、化け猫と繋がっていられるなら。

もうこのまま、明日にならなくてもいいかもしれない。


今の私ならきっとスタバを楽しめる。

そしてもしもスタバを楽しむことができたら、あのカップルへの仕返しになるような気がした。


リュックの中の財布を確認すると、知っている中身で少しほっとする。

五千円あればなにを飲んでも食べてもきっと平気なはずだ。


でも何を買えばいいかも、レジで何て言えばいいのかもわからない。

スマホで「スタバ 買い方」を検索する。



「……あのさ、聞いてる?」


誰かの声があまりに近くから聞こえて、びくっと身体が動いた。

検索画面を見られたのかと思って慌ててスマホを隠す。


ずいぶん年上の男の人がいた。

今の私から見ると、同い年くらいの人が立っている。

背が今の私よりも高い、爽やかな感じの人。


もしかしてナンパ?


「提案があるんだけど」


ナンパなんて一度もされたことがない私でも、「提案」という言葉に違和感を感じた。


「なんでも奢るから一緒に注文してくれないかな。飲み物でもケーキでもなんでもいい」


どうやらナンパじゃなさそうで、勘違いした自分が恥ずかしくなる。


「正直にいうと、ここを利用したことがなくて入りづらい」


話の内容が頭の奥に届いて、思わず笑いがもれた。

驚いたり恥ずかしかったりしんどかった感情がすこしほどけた。

しかも相手のバツ悪そうな苦笑いには、不思議と親近感を感じる。


「お前さ、正直に話す人間を笑うなよ」


「お前って言わないで」


目をしっかり見つめて言うと相手はすぐに頭を下げた。


「ごめん。名前は?」


悪い奴ではなさそうだ。


「立香(りっか)。そっちは?」


「俺は晴風(はるかぜ)」


初めて聞いた名前で、しかも爽やかな見た目になんだかあってて、また笑ってしまった。


「ちょっとキラキラだね。むしろ古風?」


「人の名前を笑うのは良くない。今度はリッカが謝る番」


相手の真似をして頭を下げた。


「ごめん悪い意味じゃない。それに私もスタバ初めてなの」


「そうなのか? ぜんぜんそうは見えないけど」


「そっちこそ見えない。毎週違う女の子と来てそう」


ハル君は不思議そうな顔をした。


「奢らなくていいから一緒に買おう。それなら勇気でるでしょ」


「助かる」


その笑顔は素直過ぎて、違う世界の人と話してるような錯覚に陥る。

変な人。


店内は思っていた以上に混んでいてじわっと緊張した。

黒板の前で、私たちは肩を寄せるように小声で作戦会議を開く。


「難しい名前ばっかりだ」


「だね。でも美味しそう」


「サイズの意味がぜんぜんわからない」


「さっき勉強したからまかせて」


私たちはメニューを決めて、満を持して列に並んだ。

前には五人以上並んでいたけどそのほとんどがカップルで、思ったよりも早くレジが近づいてくる。

もしも一人で並んでたら、この身体でも、べつのプレッシャーで逃げだしていたかもしれない。ハル君がいてくれて助かった。

あっという間にレジにたどり着いた。


「お席は大丈夫ですか?」


スタッフのお姉さんの予想外の言葉にハル君と顔を見あわせる。


「先にお席を確保していただくようにお願いしています」


頭の中が真っ白になりそうになった瞬間、ハル君がすぱっと腕をあげた。


「俺席とってくる!」


お姉さんは笑顔で頷いてくれた。

五千円札を置くと、ハル君は速足で店の奥に消えた。

大丈夫、落ち着け私。


「生チョコフラペチーノと、アイスコーヒーのショートサイズで」


挑むようにお姉さんの顔を見つめる。

お姉さんが優しい笑顔でメニューを繰り返してくれて、私は胸を撫でおろした。すかさずドーナツとケーキを追加する。


受け取ったトレーは完璧で、誇らしい気持ちでハル君のもとに向かった。


ハル君は奥のソファ席に座っていた。

良い感じの席で、やるじゃないと思って近づいて行くと、ぎょっとして顔がひきつった。

隣のソファに、フードコートのカップルがいた。


私はテーブルにトレーを置いて、全力で気配を消してハル君の向かいに座った。なにかを悟ったのかハル君が私の顔を見つめてくる。


「この席イヤだったか?」


その声が大きくて、私は指を口に当てて睨んだ。

私はハル君に顔を近づけるよう手招きした。


「ハル君! ラインやってるよね?」


「最近はじめた」


ほんとに変わってる。


「スマホ貸して!」


返事を待たずにスマホをとりあげると二人のラインを登録した。

急いでハル君にラインを送る。


『隣のカップル、イオンのフードコートにいてすごく感じ悪かったの』


『なにかされたのか?』


既読になったタイムラインからすぐにメッセージが届いた。

変人のハル君にも意図が伝わってほっとする。


『大事なフードコートとそこにいる人たちを馬鹿にされたの。心の敵』


『そういうの気にするんだ。女の子みたい』


「女の子」という部分にドキリとした。


『うるさい!』


『俺が一緒だから大丈夫』


なにが大丈夫なんだか。

でも、脚を組むでもなく長い手足を伸ばしてソファに座るハル君を見ていると、大丈夫かもしれないという気もしてくる。

私は落ち着くためにトイレに駆けこんだ。


大きな鏡には理想の私が映っていた。

服も素敵で、客観的に見てもあのカップルに負ける気はしない。

スタバを楽しむ勇気がわいてくる。


通路を出たところでハル君にばったり会って、何が起きたのかと驚いた。

ハル君は重いドアを押すお婆さんを介助していた。


二人で席に戻る時、隣のカップルと目があって心臓がハネる。

女は私とハル君の両方を見て目を逸らせた。男はハル君を見あげて、宙を見たように誤魔化しながら下を向いた。

その後カップルはほとんどしゃべらずにすぐに席を立った。

仕返しができたような気がして、嬉しくてハル君にラインをおくる。


『あのカップル帰った!』


『おめでと』


フードコートのカップルが帰ると、すぐに落ち着いた感じの夫婦が隣に座った。二人とも白髪交じりで品がいい。

さっきのカップルもだけど、一緒にいる男女は本当に似てくるのかもしれない。

もしくは、人は似てる人を好きになるのだろうか?


あらためてハル君を眺めてみる。

ひょうひょうとした雰囲気で、でもだらしないわけじゃなくて自然体。

顔もスタイルもよく見るとなかなか悪くない。


「なに?」


「なんでもない」


顔が熱くなる。

トイレには行ったばかりでもう逃げこめない。

スマホを覗きこむふりをして下を向いた。



「今年が最後の桜かな」


「去年も言ってましたよ」


思ったよりお年なのかもしれない。

二人のいい雰囲気が伝わってきて優しい気持ちになる。

ハル君は私があげたドーナツに夢中で、なんの躊躇いもなく食べかけをかじっている。

私とハル君をお隣の夫婦に重ねると、じわっと胸が暖かくなった。


『お隣さん良いご夫婦だね。さっきのカップルとは大違い』


ハル君はスマホをチラっと見ると、片側の口のはしを器用にあげた。

私とは違う、自由な口角に憧れる。


「開花予想では今日だったんだけどな」


「桜、見かけませんでしたね」


「どこかで咲いてそうだけどな」


最後にちゃんと桜を見たのはいつだろう。


「君と初めて会った日には初桜が見つかったのにな」


「その話、何百回目ですか」



言葉のわりにお婆さんは嬉しそうで、二人の出会いをドリンクに映してるみたいに、愛おしそうにカップの中を覗いている。


『今の聞いた?』


『なに?』


私は小さなウソを思いついた。


『その年初めての桜を一緒に見つけた男女は幸せになるんだって』


『はじめて聞くな』


隣の夫婦はひとしきりお茶を楽しんで席を立った。

穏やかな空気と、とびきりのアイデアをもたらしてくれた二人に心から感謝した。


『開花予想では今日らしいよ。私、何年もまともに見てない』


『俺も』


『じゃあ桜探しに行かない?』


さりげなく提案したつもりだったけど、いろんな返事が頭の中を駆け巡って窒息しそうになる。


『夜遅くなっても平気なのか?』


『一人暮らしだし』


私は化け猫を信じてウソをついた。



「スタバってこんなに遅くまでやってるって知ってた?」


「俺も驚いた」


とっても居心地が良くて、私たちは閉店までいた。

最後にお土産のクッキーも買った。

お店で飲む初めてのフラペチーノも嬉しかったけど、お馴染みのマークがはいった紙袋を受け取るとまた嬉しくなってお店を出た。


「どこで探す?」


「この辺なら中央公園だな。広いし一本くらいあるかもしれない」



夜道を子供だけで歩くのははじめてだ。

そう考えてから、私もハル君も子供ではないことを思い出す。


でもハル君は子供みたいだった。

人がいないことをいいことに、ガードレールに飛び乗ったり綱渡りのようにその上を歩いたりしてる。

運動神経が良いのはわかるけど、中学一年の私より元気で男の子みたい。

ガードレールの上をピエロみたいに歩いていたハル君が突然振り返った。


「一つお願いがあるんだけど」


何をいわれるのかと思って胸がきゅっとなる。


「コンビニでタバコ買っていい? もし嫌いだったらやめとく」


スポーツマンみたいなハル君の印象からは意外なお願いだった。


「いいよ。いつも吸ってるの?」


「吸ってみたくなった」


少し先に「7」の看板が明るく光っている。


ハル君はタバコを買いなれていないみたいだった。

タバコの名前が通じなかったみたいで、番号で指定するように言われている。

ハル君はタバコとライターを一緒に買った。



歩くことなんてぜんぜん好きじゃないのに、二人で夜道を歩くのは楽しかった。自転車でしかこない距離の中央公園にあっという間についた。


前を通り過ぎることはあったけど、中に入るのは小学校低学年以来かもしれない。まだお母さんとお父さんが仲良かったころだ。


初めて見た夜の公園は思っていた以上に明るかった。

ところどころライトアップされていて、まだ蕾の桜がたくさんある。


「咲いてないね」


「木によって成長具合は違うし日当たりによっても違う。探してみよう」


公園の時計を見るともう零時をまわっていた。


数えきれないほど桜の木はあるのに、どれも花を咲かせてはいなかった。

数えきれないほど人がいても、会いたい人がぜんぜんいないみたいに。

しばらく公園の中を歩きまわったころ、ハル君が椅子に座らせてくれた。


「走って探して来る」


そう言い残して五分もしないうちにラインが届いた。


『発見した!』


『うそ! 早くない?』


『ラーメンの屋台! 腹ごしらえしよう。その間に咲くやつがいるかもしれない』


夜の外は寒いかもいれないと思っていたけど、時間がたつほど気温が上がるみたいだった。たしかに今晩咲く桜があるかもしれない。

ハル君のなんでも体験したいみたいな感じにつられて、私もラーメンを食べたくなった。



「残ったら俺が食べる」


そんなに食べられないだろうなと思っていたラーメンはすごく美味しくて、予想外に箸がすすんだ。ハル君の丼からもすごい勢いでラーメンが減っていく。

一緒にラーメンをすすっているとなぜか家族みたいな気持ちになった。

今まで我慢していた事を話してみたくなった。

私は恐る恐る「猫と描く」の話をした。


「それ、同じこと思って調べた事ある」


「うそ!?」


ハル君は図書館にまで行って調べた内容を丁寧に教えてくれた。

世界で自分だけかもしれないと感じていた疑問を、同じように感じた人に会えたことで、こんなにも心が溶けるみたいになるのかと驚いた。

そして言うつもりもなかったことが口からこぼれた。


「悲しいことがあったの」


麺をすすりながらハル君は目で話をうながした。


「猫が死んじゃったの。唯一の友達だった」


ハル君は無言で頷いてくれた。


「でも、ハル君に会えた」


雨がぽつりぽつりと降り出した。


「まずいな。強くならないといいけど」


「もう桜はいいよ。また次来ようよ!」


思い切って「また次」と言ったのに、ハル君はなにも触れない。


「諦めるにはまだ早い」


綺麗にひきあげられたハル君の口角に見とれる。

ラーメンの料金を二人分店主に渡してハル君は立ちあがった。


「座って待ってて。見つけたらラインする」



今度はなかなかラインが来なかった。

もう二度とハル君に会えないような気がして、早く会えるように祈った。

生まれて初めてスマホの通知を待ち遠しいと思った。

ラインの返信を心から願う女の子たちの気持ちをはじめて知った。

スマホの通知がきて、こんなに嬉しいことなのかと驚いた。


『今度こそ発見! 咲いてる!』



その桜の木は、本当にたった一本だけ、小さな花を咲かせていた。

まわりの何十本もの桜たちとは足並みを合わせない姿が私とハル君みたいで、唯一の桜の木を優しく撫でた。

もう雨はやんでいる。


ベンチは少し濡れていたけどハル君はかまわず仰向けになった。

タバコを口に運んで火をつける動作が洗練されていて、その姿に見とれた。やっぱりタバコを吸っていたのだろうか。


ハル君がタバコを深く吸いこむと先端にぽっと明かりがともった。

その途端ハル君は思いきりむせた。


「かっこ悪!」


ハル君を指さして笑った。

動かし方がわからなかった口角が自然にあがる。

まるでタバコを吸ってみたかった子供が無理をしたみたいだった。


「笑うな」


目に涙をためるハル君に睨まれた。

本当に子供みたいだ……。


私は抱きしめたいほど愛おしい紙袋からクッキーを出して一口かじった。

ギリシャ神話にでてくるらしい人魚は微笑んでいて、私たちを祝福してくれているような気がして嬉しくなる。


ハル君はもうむせてなくて、何年もタバコを吸ってきた人みたいに煙をふかしている。空に向かって吐き出される煙は一瞬にして風に運ばれて、真横に流れていく。その様子はとても綺麗だった。


「ハル君いくよ?」


私が投げたクッキーは狙った軌道からはずれたけど、とっさに手を伸ばしたハル君がしっかりキャッチしてくれた。


「もう朝にならなければいいのに」


「俺もそう思う」


ハル君は空を見あげたままいった。


「ハル君の夢ってなにかある?」


「スタバでコーヒーが飲みたかった」


「一緒だ。でももう叶った。あとは?」


「こんな風にタバコを吸いたかった」


「それも叶ったね。あとは?」


「あとは、速く走りたい」


「子供みたい。もういっぱい走ってたし」


私の口角はやっぱり自然にあがった。

表情筋は退化してたわけじゃなかったらしい。


「お金とか何かが欲しいとかないの?」


「リッカは?」


やっぱりハル君はふつうの人じゃない。


「私はなかった。でも今日できた」


ハル君と目があう。


「今日みたいにいろんなことがしたい。ハル君と」


すぐに目を逸らせたハル君を逃がさないように、私は見つめ続けた。


「わかっちゃったよ。ハル君の正体」


ハル君の表情がかたくなる。


「でも慌てないで。私も同じ」


今度は驚いた目を私にむけた。


「私もハル君と同じ子供なの。たぶん朝になったらもどっちゃう」


これは化け猫の呪いだ。


「こんな変な二人ほかにいないよ。私たちは一緒じゃなきゃダメなんだよ」


ハル君はとびきりながい煙を夜空にはいた。


「でも呪いがとけたら終わりだ」


「大丈夫! 二人とも子供なら少し我慢すれば今みたいになれるってことじゃん!」


ハル君は表情を変えずに煙を吸いこんだ。

私が思いついたことは、とくにハル君の心を動かすことではないのだろうか。


「とりあえずあと五、六年で今のおっぱいになるようにがんばるから!」


ハル君が声をあげて笑った。


「すぐだよ! 子供だっていいじゃん。今日みたいにこれからも会おう?」


ハル君はなにも答えずにタバコを吹かしつづけた。

スマホを見ると、もう陽が昇りそうな時刻になっていた。


「ねえ約束しよう?」


「リッカは大丈夫。とっても魅力的で、これからなんでもやれる」


「最期みたいな言い方しないで」


私は仰向けのハル君にまたがった。

どこにも行けないようにハル君をベンチに押さえつけた。


人生最大の勇気をふりしぼって顔を近づけていく。

唇が届く前に、強い力で抱きしめられた。

私の顔はハル君の胸の上で止まった。

胸が苦しくて上手く言葉が出ない。

頭の上から、ため息みたいなハル君の声がもれた。


「リッカの頭、いい匂い」


「ヘンタイ」


「俺はくさい?」


私は全力で頭をふった。

ハル君の胸元で深く深く息を吸いこんだ。


「いい匂い」


またハル君が息をもらした。


「こんな匂いかいだら若返っちゃうな」


「しかたないよ。もうもどってもいい。必ずハル君を見つける」


なにも答えないハル君の胸を叩いた。


「約束してくれないなら私はここに残る」


「わかった」


頭をなでられて全身の力が抜けた。


「明日イオンのフードコートで待ちあわせしよう。わかりやすいようにオープンの時間でどう?」


「わかった。絶対オープンの時間にいく!」


背中をなでられるとびっくりするくらい穏やかな気持ちになって、心の準備ができた。

東の空が柔らかい色に変わりはじめる。


「じゃあ」


春の風に吹き飛ばされないように、強く強くハル君にしがみついた。


「おはよう」


「おはよう」


私たちは吹き飛ばされた。




気がつくと自分のベッドの上だった。

なにも変わらない天井。

なにも変わらない部屋。

カーテンを閉めていなくて、すぐに朝だとわかった。


身体は、中学一年を終えた私だった。

急いでイオンに向かった。



オープンしたばかりのイオンのフードコートは、まだ人がまばらだった。


『どこにいる? 着いたよ!』


『入口近くの席に座ってる』


すぐにラインが返ってきた。

心臓が飛び出しそうになるのを抑えながら視線をうつした。

入り口近くの席には、お爺さんが座っていた。

足を引きづって歩く、おはよう爺さんだ。

その顔にハル君の面影があって、涙が出そうになるのを力いっぱい堪えた。

ハル君と目があった。


駆け寄ろうとする前にラインが届いた。


『今日から入院で、たぶんもう戻れない。リッカのこと応援してる。ありがとう』


「ハル爺ちゃんどこ行ってたの! 病院遅刻しちゃうじゃん!」


私が駆け寄る前に、小学生くらいの男の子がハル君に駆け寄った。

その子の顎の線がハル君にそっくりで、思わず笑いがこみ上げたと思って力をぬいたら、一気に涙があふれた。


「おはよう!」


ハル君に挨拶をして、私はフードコートを飛びだした。

新しい日がはじまった。