「知ってる?二十歳まで紫の鏡って言葉を覚えてたら死んじゃうんだって」
 悠紫がプレゼントしてくれた万華鏡の本当の意味。
「ねえ、水彩妃。紫の鏡って言葉を二十歳まで覚えてると死ねるんだって。一人で死ぬのは怖いんだ。でも、自殺したら二人で地獄に行くことになるから心中はしたくないだろ?俺は水彩妃の誕生日まで生きていられないけど、紫の鏡を覚えてればすぐにまた天国で会えるからね」
 悠紫の最後の言葉は「紫の鏡」だった。二十歳までどころか一生忘れることはできない私への呪い。
 呪殺が法で許されるか許されないかなんて、どうでもいい。それが罪であるか決めるのは神であり人ではない。人は死ぬと思い込めば死ぬ。事実としてこの一か月、呪いは私の体を着実に蝕み続けている。私は自分の意思で死ぬ。だから、悠紫の選んだワンピースを死に装束として身にまとった。これが私の死に装束。私を連れて行こうとした悠紫も、その手を取る道を選んだ私も地獄行きだ。
 明日は悠紫が三途の川を渡る日。私を連れていくために命日を選んで死んだのだとしても、あっさりと納得すると思う。結局私は悠紫に従う道が一番しっくりくる。たとえ、行きつく先が地獄であったとしても。
 悠紫のいないこの世での生き方は分からないけれど、死ぬことは怖い。灼熱地獄、針山地獄、、いずれにせよ恐ろしい。
「最期の瞬間を一緒に過ごしてくれない?」
 十九年間生きてきて、悠紫以外で唯一ほんの少しだけ心を許せた人。一人で過ごすのはあまりに心細い最期のひと時も、彼がいれば恐怖を直視しないで済む気がした。
 

 傘の下で、私は万華鏡をくるくると回しながら覗き続ける。私の左側に座った慧佑が時々私に話しかける。
「死なないで」
「それは無理」
 このやり取りはもう十回目だ。
 晩秋の深夜は寒い。慧佑は私の方に傘を傾けてくれているけれど、それでも強い風が横から雨を叩きつける。確かに寒いのに、私の体は震えない。私の本能は生きることを拒否している。
 中庭の大時計はあと数分で零時になろうとしている。いよいよ体が動かなくなる。もはや完全に左腕の感覚はなくなっていた。薬指の付け根に黒紫の痣が浮かび上がる。そして、じわじわと紫色の斑点が薬指から心臓に向けて現れ始めた。
「色々ありがとね」
地獄へ堕ちる前に、穏やかなひと時をくれた青年に小声でお礼を言った。日付が変わるまであと数秒。

「水色の鏡」
今にも泣きだしそうな声で慧佑が呟いた。彼は乱暴に傘を地面に投げ捨てる。
「水色の鏡、紫の鏡の呪いを解く言葉です。死なないで、水彩妃さん」
 彼はコートを脱いで、私の肩にかけた。動かない左手を両手で包み込むように握りしめながら、呪文を唱え続ける。
「水色の鏡、水色の鏡」
「やめて、やめてよ!」
 彼の声をかき消すために、頭の中からその言葉を追い払うために叫んだ。知っていた。紫の鏡の呪いを解く方法が存在することは。その鍵が何であるかを知ることがないように必死に逃げてきたのに。
「紫の鏡、紫の鏡」
 呪いの言葉を唱え続ければ、私をこの世にとどめる言葉も振り払えるだろうか。
「水色の鏡、水色の鏡、水色の鏡」
 慧佑は雨をものともしないほど大きな声で泣きながら叫び続けた。水色の鏡、紫の鏡、声が枯れるまで唱え続ける呪文。言葉の合わせ鏡はどちらかが割れるまで永遠に終わらない。
 先に枯れたのは私の声だった。跪いて私の手に縋りながら蚊の鳴くような声で慧佑はなおも水色の鏡と唱え続ける。ああ、二十歳になってしまった。時計を見ようと顔をあげると、暗闇の中にぼうっと悠紫の姿が浮かび上がった。

「悠紫……」
 紫色の鏡を背にして生前と同じ姿の悠紫が泣いている。
「水彩妃、一緒に地獄に堕ちて」
 悠紫が私に向けて手を伸ばす。この手を取れば、私は一人ぼっちにはならない。鏡の向こうの地獄でまた愛し合える。
「お願い水彩妃。好きだよ。愛してるから、俺を一人にしないで」
 慧佑の手を振り払い、悠紫の手を掴もうとすると、ひときわ大きな声で慧佑が言う。
「水色の、鏡」
 その呪文で悠紫の背後の鏡の色が水色へと変わった。鏡に映る私は悠紫と出会う前の子供の姿で歌っていた。見る見るうちに大人になった私はラジオを聴きながら大事そうに葉書に文字を書いている。
 それを見た私は腕を引っ込めて、両手で強く万華鏡を握りしめた。私は気づいてしまった。自分の本心に。
「嫌だよ、俺のこと見捨てないで。俺には水彩妃だけなんだ」
 悠紫が子供のように泣きわめく。彼を抱きしめてあげたかった。悠紫と、かつてないほどに自らの生を感じた出来事を天秤にかける。
「悠紫のこと愛してた」
 私は悠紫という鳥籠の中で自由を渇望していた。閉ざされた世界で、万華鏡を介して必死に無限に広がる世界をこの目に映そうとしていた。
「さよなら、悠紫」
 悠紫の影は音を立てて割れ、光の粒となって雨の中に消えた。

 雨ごと全部幻だったかとでも嘲笑うように朝日が昇る。左腕の紫斑も消えていた。それでも、私たちはずぶ濡れで、時計の雫に朝日が反射して万華鏡のように輝くから昨日あったことは夢ではない。
雨に濡れた万華鏡の筒の千代紙が剥がれ落ちた。水色のプラスチックがあらわになる。もう一度中の景色を見ると、また新しく煌めく世界が広がっていた。
「大学辞めて、田舎に帰ろうと思うの」
 私の決断に、慧佑は黙って頷いた。
退学届を出して、アパートを引き払った。荷物は貴重品とラジオだけを詰め込めばことたりた。他のものは処分してしまった。
 夕方、ホームに見送りに来た慧佑が私の目を見つめて言った。
「水彩妃さん、大好きです」
「知ってる」
 知っているけど、今すぐその気持ちに応えろと言われても首を縦には振れない。そして彼も、それを分かっていてなおもまっすぐに気持ちを告げる。
「またね、慧佑」
「えっ、今俺の名前……」
 慧佑は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。本当に彼は表情が豊かだ。同時に電車のドアが閉まり、窓越しに手を振った。
 生まれて初めて一人きりで電車に乗るという体験は案外あっけなかった。イヤホンを耳にさして、今日もラジオを聴く。
「さて、次の曲行きますよ。うわあ、この曲懐かしいな。僕は仙台の出身なんですけど、昔やってたローカルアニメの主題歌ですね。僕以外にまだ覚えてる人がいるなんて嬉しいです。ラジオネーム・ミズイロさんからのリクエストで……」
 私は確かに悠紫を愛していた。誰だって愛した人を地獄に堕としたくはない。だから私は彼を恨まない。たとえ心中を図ったとしても、私は今も生きているし明日からも生きてゆく。私を窮屈なガラスの中に閉じ込めていたのだとしても、私がこれから幸せになるのであれば、悠紫はきっと天国へ行ける気がする。
 この電車が仙台に着いたら、万華鏡は悠紫の墓前に返すつもりだ。そして、その足で親方のもとに弟子入りして万華鏡職人になろう。
 もし私の手で小さな筒の中に最高にキラキラした世界を作れたら、「私」を教えてくれた君に贈りたいと思う。