勉強会をするようになって数日。待ち合わせした中庭に現れるなり、彼はいきなり大声で謝りだした。
「すみませんでした!」
 周りの人が次々に振り返り、視線が集まる。
「本当に知らなかったんです!水彩妃さんのこと好きだけど、つけこむつもりはなかったんです!」
いたたまれなくなり頭を上げさせた。彼は自分の振る舞いが注目を集めていたことに気づき、声のトーンを落として続ける。
「彼氏さんが一か月ちょっと前に亡くなったって、サークルの先輩に聞きました」

 前期の授業が半分ほど終わった頃、悠紫に病気が見つかった。手の施しようがないほどに進行していた。その日から最期まで悠紫に付き添った。悠紫が亡くなってからは二人で過ごした部屋で万華鏡の中の世界を眺めていた。ちょっとした手続きでメールアドレスが必要になり、パソコンを使うために数か月ぶりに登校したのが慧佑と出会ったあの日。

「怒ってないよ」
 慧佑が嘘をついているようには見えない。そもそも彼はそんな器用なことができるほど賢い人間ではない。
「でも、なんで君はあのタイミングで私に声をかけたの?」
 責めるつもりは毛頭なかったが、不思議だった。

「水彩妃さんが死んじゃいそうだったから」
 私はあの日どんな顔をしていたか覚えていない。そもそも昨日の感情すら思い出せないほどに、自分自身に興味がない。
「よく見てるね」
「だって、俺水彩妃さんのことがずっと好きだったから」
「君は何で私のことがそんなに好きなの?」
 ついこの間まで赤の他人だったのに。慧佑が私を好きになる要素は思い当たらなかった。
「一目惚れしたって言ったら軽い男だと思いますか?」
「思わないよ」
 私が悠紫を好きになった理由も、悠紫が私を好きになった理由も一目惚れだった。幼いあの日から私たちはそれを運命と呼び続けた。

「それで、君は私にどうしてほしいの?」
 男性から徹底的に遠ざけられてきた私は告白を受けた時の作法もセオリーも分からない。
「俺、水彩妃さんに笑ってほしい。本当の水彩妃さんが見たい」
 慧佑の返事は意外なものだったが、これが常識的な回答なのかイレギュラーなものかの判断がつかなかった。
「彼氏さんのこと忘れろなんて言いません。俺の恋人になってなんて言いません。でも、俺一回くらい水彩妃さんが笑ってるところ見たいんすよ。絶対可愛いと思うんで」
「無理。だって、悠紫はもういない」
「でも、前期からずっと水彩妃さんのこと見てたけど、彼氏さんといるときも楽しそうには見えなかったから」
 私は笑えていたはずだ。だって、悠紫は「笑ってる水彩妃可愛い」と毎日のように言ってくれたから。でも、それを証明してくれる悠紫はこの世にいない。
「俺、しつこいんです。だから、水彩妃さんが心から笑えるようになるまでつきまといます」
心から、本当の、ありのまま、その類の言葉に拒否感を示すようになったのはいつ頃からだっただろう。心の温度が徐々に下がっていく。
「本当の私なんて悠紫しか知らないよ。悠紫がいなくなってから、どう過ごしていいのか分からない」
「水彩妃さん、したいことないんですか?何でもいいんです。もんじゃ焼き食べたいでも、ぬいぐるみが欲しいでも」
 慧佑はなおも食い下がった。彼は根本的に空気が読めない。
 私は流れに任せて目を閉じて考える。目を閉じれば浮かび上がるのは万華鏡の中の世界。そこには、私の好きな音が流れている。
「好きなラジオ番組があるの。そのDJさんにお便りを出したい」
いつも二人で聴いていたラジオ。ある日、葉書を読まれているリスナーが羨ましくなった。
「俺以外の男に手紙出したいの?俺は二人でラジオ聴いてるだけで幸せなのに、水彩妃はそうじゃないの?」
 悠紫はそう言ってカッターをカチカチ鳴らした。
「でも、悠紫がダメだって」
 つい願望を口走ったものの、明確に禁じられた行為に手をのばすことはあまりにもハードルが高すぎた。
「だったら、俺が共犯者になります」
 二十歳の誕生日まであと数日。一度きりなら羽目を外しても許されると思いたかった。

 葉書を買うために、近くの文房具店に行った。季節の花や淡い色の鳥の図柄のうち、どれを選ぶか迷った。
「ゆっくり選んでください。時間はいくらでもあるんですから」
 自分で何かを選ぶなんてことは物心ついてからなかった気がする。
 たくさんの葉書を一枚一枚吟味した。文房具店はまるでテーマパークのようだった。フルーツや星座が描かれたものにも心惹かれたが、私はやっぱり幾何学模様が好きだ。万華鏡のような模様の葉書三枚を見比べる。紫、緑、水色。迷って、ちらりと慧佑の方を見た。悠紫以外の人に意見を求めるつもりはないけれど、待たせすぎて退屈ではないかと気になった。しかし、慧佑はにこにこと私を見守っている。
「これにした」
 散々悩んだ末、水色の絵葉書を選んだ。
「センスいいっすね! じゃあ、これレジに持っていきます」
 慧佑は財布を片手に笑う。
「そんな、悪いよ」
「いいんです。俺が勝手に買ったってことで。天国の彼氏さんには俺が代わりに殴られます」
 善意は素直に受け取ることにした。禁忌を犯す言い訳をもらえるのはとてもありがたかった。
 大学の空き教室で、ルーズリーフに何度もお便りの内容を下書きする。一字一句こだわりたくて、完成した文章を声に出して読んではまた書き直した。メッセージを考えるのは本当に楽しくて、スリープモードの慧佑のスマホに映る小さな私ですらも、口角が上がっているのが一目で分かるほどだった。
 手が震えないように深呼吸してから、下書きを一文字ずつ丁寧に葉書に清書する。ようやく宛名を書き終えた時、私は生まれて初めて達成感というものを得た気がした。
 切手を舐めると、どこか甘美な味がした。その仕草をずっと慧佑に見つめられているのは気恥ずかしい。
「あんまり見ないでよ」
「嫌です」
 ポストまでの道は、ただの通学路のはずなのに色がくっきりとしていた。道中の飲食店の匂いも心地よかった。
 塗装の剥げたポストが、とても愛おしい存在に思えた。思わず口元がゆるむ。命を噛みしめるような気持ちで、葉書をポストに投函した。葉書がポストに吸い込まれると、どこか遠くで、ガラスが割れる音が聞こえた気がした。
「採用されますように」
 神社にお参りをするように、二回手を叩いて合掌した。目を開けると、隣で慧佑も同じように手を合わせてくれていた。目が合った慧佑に笑いかける。すると慧佑はみるみるうちに赤面していく。
「放送日いつっすか?」
 慧佑が挙動不審に目をそらしながら質問する。
「今日送ったら、三日後か四日後かな」
「了解っす。予定空けとくんで、一緒に聴きましょう」
 四日後は私の誕生日で、悠紫の四十九日でもある。どうか、三日後に読まれてほしいと心の中でもう一度神様にお願いをした。その晩、普段使わない筋肉を使ったせいか頬と目元が筋肉痛になった。

 三日後、夜の校舎で私たちは二人で携帯ラジオを聴いた。自分のお便りが読まれるかどうかドキドキワクワクしながら聴く体験は初めてだった。残念ながら読まれることはなかったが、煌めくほどに充実した時間だった。
「今日の水彩妃さん、いきいきしてて最高っす」
 放送が終わった後、慧佑は親指を立てて笑う。
「あんなにころころ表情変わる水彩妃さん初めて見ましたもん。彼氏さんがDJに嫉妬する気持ちちょっと分かる気がしたかも」
「君ほどじゃないよ」
 慧佑は歯を見せたり、舌を出したりと目まぐるしく表情が変わる。指摘すると、彼はまた大げさに反応した。

 外は雨が降っていた。先ほどまで気にならなかったのが不思議なくらいの雨音だ。私は傘を持っていなかったが、天気予報を見ていた慧佑は傘を持っている。慧佑は強引に私を傘に入れた。
「少し、ベンチで話さない?」
 私から誘うのは初めてだった。
「俺は嬉しいですけど、風邪ひかないでくださいよ」
 雨に濡れたベンチの冷たさは一分も座っていれば慣れた。今日のラジオの感想をつらつらと語ると、慧佑も面白かったポイントを興奮しながら話していた。
「あー、でもせっかくだから私のお便り読んでほしかったなー」
「まだ、明日の放送で読まれるかもしれないっしょ?諦めるのは早いっすよ。明日水彩妃さん誕生日だし、絶対いいことありますって!」
 慧佑が無邪気に身振り手振りを交えて言う。
「ほら、明日もあるから風邪ひく前に帰りましょうよ。あ、そうだ。暖かい居酒屋でメシ食いません?できれば誕生日の瞬間、一緒に迎えられたら嬉しいんですけど」
 私が何も答えないでいると、慧佑は気まずそうに続けた。
「すいません。調子乗りました。でも、明日も一緒にラジオ聴いてくれますよね?」
「無理、ごめんね」
 慧佑の顔が途端に引きつった。はいと言いたかった。明日、お便りが読まれるか知りたかった。でも、それは叶わない。
「だって私、今日で死ぬもの」