「牧野、送る」
八月の夜の、懐かしい顔ぶれが集まった飲み会。
それが終わった直後に、一年ぶりに会った友人の津田に笑みを向けられた。
彼が一滴も飲んでいないことは知っている。
ただ、心の奥にしまい込んできたものを、今さら刺激されたくない。
少しだけ弱っている今夜は、津田の笑顔が眩しく見えて仕方ないから……。
ふたりきりになるのが、なんだか怖かった。
「いいよ、酔い覚ましに歩くし」
「蚊に食われるぞ」
なんとも色気のない誘い方だ、と思う。
もちろん、そんなものを出されても困るんだけれど。
「田んぼに突っ込む未来も見えるな」
ほらやっぱり、色気なんてあったものじゃない。
そんな風に思いながらも、この憎まれ口が心地よくもあった。
「津田さ、気を使ってもらっておいてこんなこと言うのはあれだけど、もうちょっとマシな誘い方はないの?」
「……俺と来いよ。お前とふたりきりになりたいんだ、とか?」
最後に首をわずかに傾けた彼との間に、沈黙が降りる。
「……ないな」
「……ないね」
数秒後、お互いの声が揃う。
そのまま小さく噴き出し、ふたりで笑った。
ククッと笑うときには肩を竦めるところが変わっていなくて、また懐かしい気持ちになった。
「ほら、もういい加減に乗れよ」
田舎には似合わない、クロスオーバーSUV。
黒い車体が、まるで夜に溶け込むように見えた。
「じゃあ、まあ……」
お邪魔します、と小さく断って、ドアを開けてくれた助手席に乗り込む。
「閉めるぞ」と確認した津田に頷けば、彼はドアを閉めて運転席に回った。
「二丁目の町内会館の先まで」
「タクシーか。てか、言われなくても知ってるから」
「それは失礼しました」
微妙にふざけた態度になってしまうのは、お酒のせいか緊張のせいか。
たぶん後者じゃない。
エンジンをかけた車の振動を感じながら、そうであることを祈っていた。
「幸せそうだったな」
「え?」
「あいつら、いい笑顔だったよな」
「そうだね」
少し前まで会っていた、五人の友人たち。
その中のふたりが、来月に結婚することになったのだ。
埼玉県の片隅にあるこの町は、よく言えば自然が多く……少し悪く言えば田舎だ。
バスは、一時間半に二本。
電車は、ラッシュ時は一時間に二本だけれど、日中は一時間に一本程度。
コンビニは一軒だけ、もちろんショッピングモールなんてない。
おしゃれなコーヒーショップも、可愛いカフェも、ゲームセンタ―もない。
自転車で行ける範囲には、老夫婦が営む食堂とか、気まぐれに開店するさびれた喫茶店、一通りの日用品と食料が揃うスーパーがあるだけ。
だから、若い子たちは中学か高校を卒業すると、だいたい町から出て行く。
高校なら全寮制か下宿を、大学なら寮か一人暮らしをして、そのままここには戻らずに別の場所で就職する――といった感じだ。
津田と私も、同じだった。
彼は県内の全寮制の高校に進学し、東京へ。
私は隣町の高校を卒業したあと、千葉県にある大学に進学した。
そして、就職した今も千葉にいる。
今夜は、お互いに同級生の結婚祝いに駆けつけた。
「まさかあのふたりが結婚するなんて思わなかったな」
「うん、わかる」
「今だから言えるけど、絶対にすぐに別れると思ってた」
「縁起でもないこと言わないでよ」
「だから、ここだけの話な」
前を向いたまま悪戯っぽく微笑む津田は、ちっとも悪びれがなさそうだった。
正直、共感してしまったことは言わなかったけれど、彼はわかっていた気がする。
彼氏側は、いわゆる中学時代からヤンキーっぽい雰囲気だった。
すぐにでも浮気しそうな見た目通り、あまりいい印象はない。
女子の方は、可愛くて優しく真面目。いわゆる、委員長タイプ。
そして、私にとって親友と言えるくらい仲がいい友人でもある。
正反対のふたりがくっついたときには、クラスや学校どころか町中で噂になった。
多くの人が、『すぐに別れるよ』なんて陰口を言っていた。
私は一度も口にはしなかったけれど、否定できない気持ちもずっとあった。
だからこそ、ふたりからグループメッセージで結婚の報告を受けたときは、驚きながらも嬉しかった。
休日出勤をした土曜の昼下がりに電車に飛び乗って、弾丸で帰省するくらいには。
「二十三で結婚か」
「この町じゃ早くもないだろ。同級生も半分近くが結婚したし」
「そうだね」
田舎にはわりと多いのか、祖父母も親世代も二十代前半で結婚する人が多い。
同級生でも、十代や二十歳そこそこで結婚した子もいる。
この町では〝これが普通〟なのだ。
地元に残っていると、二十三歳でも独身の方が珍しいかもしれない。
「でも、それならなおさらここを出てよかったよ」
「牧野、今って彼氏はいる?」
「それ訊く?」
「まあ話の流れ的に?」
「……いません。先月別れましたー」
「マジかよ」
やけくそな言い方をすれば、津田がなんとも微妙な顔で笑う。
「はいはい、マジです。ついでに言うと、また浮気されましたよ」
「おいおい、またかよ?」
呆れた物言いの彼は、私に男運がないことを知っている。
高校生で初めてできた彼氏も、大学生のときに告白してくれた先輩も、社会人になって付き合った同僚も、みんな漏れなく浮気してくれた。
いったい、私がなにをしたというんだろう。
反抗期や、ちょっとした校則違反。
人生を振り返れば反省点はあるものの、こんな目に遭うような悪行はしていない。
学生時代はそれなりに遊びながらも真面目に過ごしていたし、仕事はできるタイプじゃないなりにコツコツ頑張っている。
マルチタスクが苦手だから、忙しくなるとつい恋愛にまでリソースを割けないけれど、それでも私なりに大事にしてきたつもりだ。
にもかかわらず、毎回浮気されるのだから、もう男運が悪いとしか思えない。
というよりも、男運のせいにしておかなければ、わりと本気で立ち直れそうになかった。
「お前さ~、もうちょっと男見る目を養えよ」
「すみませんね、見る目がなくて」
「いや、本当にな。毎回浮気されるって、よっぽど男を見る目がザルだぞ」
「うるさいな。あのふたりの幸せオーラに当てられて結構傷心なんだから、追い打ちをかけないでよ」
今夜は、ちょっと間が悪かった。
先月と言っても、別れたのはまだ十日ほど前のこと。
結婚間近の幸せすぎるふたりを見るには、私の心はまだ弱りすぎていた。
はにかんだ笑顔でいる親友に『最近はどうなの?』と訊かれたけれど、振られたばかりであることは最後まで言えなかった。
けれど、精一杯……本当に全力でお祝いしたつもりだ。
「……悪い。無神経だった」
目を伏せてしまった私に、神妙な声が届く。
らしくない声音に思えるけれど、津田がいい奴であることは知っている。
たぶん、仲間内の誰よりも……。
だって、彼は私の初恋の人だから。
実ることはなかった、淡く儚い恋だった。
中学時代のことなのに、今もあの頃の気持ちを鮮明に思い出せるくらいには本気で好きだった。
けれど、当時、津田には彼女がいた。
明日告白しようと決した日、彼から恋人ができたことを報告された。
あの日の傷は、きっとまだ微かに残っている。
初恋というのは厄介で、新しい恋をしてもいつも心のどこかで引っかかったまま。
実らなかったものほど美しく大切にしまい込んでしまうせいか、誰といてもときおりまるであの頃のように津田のことを思い出していた。
もう大丈夫だと思っていた、今この瞬間でさえも……。
「なーに神妙な顔してるのよ! 急にしおらしくならないでよ」
「いや、言いすぎたなって……」
「いいよ。心配してくれてるんでしょ」
ちゃんとわかっているから、彼には気にしないでいてほしい。
今は〝友人として〟大事にしてくれているのは、痛いほどわかっているから……。
「そういえば、津田はどうなの? 彼女と長いんでしょ?」
明るい話題に戻そうとしたのに、胸の奥が痛んだ。
津田には、大学時代から付き合っている恋人がいる。
風の噂で上手くいっていると聞いていた話は、さきほどの飲み会で確信となった。
『今日は俺のことはいいだろ』
そう言いながらも、彼は少しだけ恋人のことを話していた。
いい子だ、と。
優しくて穏やかな子だ、と。
会ったこともない女性の姿が、瞼の裏に浮かんで。勝手に想像したその笑顔に、胸の奥がぎゅうっ……と締めつけられた。
けれど、初恋を引きずっているせいじゃない。
傷心中だから、心が痛んだだけ。
あのときの私は、自分自身に必死にそう言い聞かせて、三杯目のハイボールで嫌な感情を喉の奥に流し込んだ。
「……俺は」
言い淀んだような言い方に、ふっと眉を下げてしまう。
優しい彼らしい気遣いが、今は少しだけ痛い。
「私に遠慮しなくていいよ。どうせ上手くいってるんでしょ?」
「いや……別れたよ」
「え……?」
「まあ、まだ一週間くらい前のことだけど」
一瞬、頭の中が混乱した。
津田も幸せだと思っていたのに、失恋したばかりだなんて……。
酔った思考が都合よく解釈しただけかもしれないと、自分の耳と頭を疑った。
「えっと……どうして?」
「まあ、色々あって……」
「色々って?」
控えめながらも食い下がってしまったのは、別れた理由が気になって仕方がなかったから。
「色々は色々だよ」
けれど、線を引かれたことに気づいて、静かに口を閉じる。
「でも、悪いのは俺だから……」
「そっか……。いい子だって言ってたのに、よかったの?」
「別れたことは後悔してない。ただ、相手には幸せになってほしいと思ってる」
「それってちょっと残酷だよね。別れたくなかった方からすれば、『幸せになってほしい』って言われてもつらいだけじゃない?」
「だから、本人には言えなかったよ」
前を向いたまま眉を下げた彼は、振った側のはず。
それなのに、その横顔が傷ついていたことを語っている。
切なさが滲む微笑は、まだ想いを残しているようにも見えた。
胸の奥が、小さく軋む。
「なぁ、ちょっと寄り道してもいい?」
「え?」
どこに行くのかと思いつつ、あまり深くは考えずに「うん」と頷く。
帰路にはこの町唯一のコンビニがあるから、きっとそこにでも寄るんだろう。
そう思ったのに、津田が運転する車は私の実家がある道から逸れ、懐かしい道を抜けて中学校の前に停まった。
「え、なに……?」
エンジンも止められ、私は無意識に身構えてしまう。
「散歩しないか?」
「いやいや、ちょっと趣味悪くない? 夜の学校だよ?」
急な提案に、少しばかり引いてしまう。
「スリルがあっていいだろ? 中学のときもみんなで肝試ししたし」
ただ、彼は本気のようで、ニヤッと意味深に笑った。
「参加者全員、先生と親にこっぴどく叱られたやつね」
「反省文二十枚」
「一週間、放課後に通学路のゴミ拾い」
「ついでに早朝学習に強制参加」
よくもまあ、ここまで覚えているものだ。
感心しつつも、津田も全部覚えていることがおかしかった。
「さすがにこの歳で先生と親に怒られたくないし、反省文もゴミ拾いも早朝学習もしたくないからやめておく」
「まあそう言うなって」
きっぱり断ったのに、彼は車から降りてしまう。
その数秒後には助手席のドアが開けられ、シートベルトを外されてしまった。
「えっ、ちょっと……!」
「ほら、来いって。今日くらいハメを外したっていいだろ」
それは、津田のルールで。
見つかったら、間違いなく連帯責任になって。
大人になってしまった今、ゴミ拾いや反省文どころか不法侵入で通報されてもおかしくはない。
なんて頭では思うのに、握られた左手を振り解けない。
夏の暑さのせいか、手のひらに汗がじんわりと滲んだ。
「ちょっと、本当にどこに行くの?」
私は、念のために周囲を警戒しながら声を潜めてしまう。
「あの日の肝試しでふたりで行った場所」
すると、振り向いた彼がふっと瞳を緩めた。
少しだけ悪戯っぽく、まるで少年だったあの頃のように。
反射的に鼓動が跳ねたのは、淡い初恋を思い出してしまったせい。
そして、その言葉だけでプールに向かっているのだとわかった私には、きっともうどうしようもない。
「へぇ、昔のままだな」
プールサイドにたどりつくと、津田が額に手を翳すようにして周囲を見渡す。
少し大げさな身振りに思えたけれど、抱いた感想は同じだった。
「まあ八年くらいじゃ変わらないか」
「それはいいとして、津田ってなんで昔も今もプールの鍵を開けられるのよ?」
「ああ、あれな。実はここの鍵って壊れてて、ちょっとずらして引っ張れば開くようになってるんだよ」
「そうなの?」
「うん。しかも、たぶん先生たちは気づいてない」
目を丸くしながら、母校の防犯面が心配になる。
「牧野、昔はたまたま鍵が開いてただけだと思ってただろ?」
「気づいてたの?」
「まあな。驚く顔が可愛かったから、あえて言わなかったんだ」
「え……」
今、可愛いって聞こえた気がする。
けれど、彼が何事もなかったかのように歩き出したから、手を取られたままの私はついていくしかない。
もちろん、話を掘り下げることもできなかった。
「せっかくだから足くらい浸けようぜ」
「見つかったら本当に怒られるよ」
「そのときは一緒に怒られてくれ」
「普通に嫌なんだけど」
必死に平静を装い、いつも通りに振る舞う。
そうしなければ、ずっと昔に閉じ込めたものが漏れ出てしまいそうで……。今さらそうなるのが、とても怖かったから。
「この辺でいいか」
手を離した津田が、デニムの裾を捲っていく。
ついでにスニーカーも靴下も脱ぎ捨て、プールサイドに腰掛けた。
ちゃぷん、と水音が響く。
「冷たっ。でも、気持ちいいぞ」
こうなったら、やけになるしかない。
私は急に軽くなった手に微かな寂しさを抱いたことには気づかないふりをして、七センチヒールのサンダルを脱ぐ。
ワンピースを少し捲って彼から微妙に距離を取り、左側に腰を下ろした。
爪先からそろりと下ろしていくと、揺れる水面に肌が触れた。
冷たい水は、それでいて冷たすぎなくて気持ちがいい。
とっくに日が暮れていても汗をかいてしまう八月の夜には、ちょうどいい水温だった。
「悪くないだろ?」
「まあ……」
少しだけ悔しくて、わざと視線を逸らしてしまう。
津田が「素直じゃないな~」と、おかしそうに声を上げた。
木々に囲まれた学校ということもあって、虫の音や葉音が聞こえてくる。
プールの水面には上弦の月が映り、わずかにゆらゆらと揺れていた。
すぐ隣にいるのは、初恋の相手。
そして、たぶん……彼も私のことが好きだったときがある。
最初は、中学卒業間近の頃。
半年も経たずに彼女と別れた津田と、よく目が合うようになった。
その瞳に少しだけ熱がこもっていたことにも、本当は気づいていた。
けれど、その頃には私はもう彼への想いを消したつもりでいたから、気づかないふりをした。
そうすることで、私は津田とずっと友人でいる道を選んだのだ。
ところが、高校二年生の夏休み。
帰省した彼と久しぶりに会ったとき、急に伸びた身長や男性らしくなった顔つきにドキドキして……。初恋はちっとも忘れられていなかったんだ、と思い知った。
津田の笑顔が眩しくて、消し切れていなかった彼への想いと傷で胸が疼いた。
ただ、当時の私には彼氏がいた。
同じく、津田にも彼女がいた。
だから、彼の中にあった私への淡い想いは綺麗に消え去ったことを悟り、私も静かに心を閉じた。
そのあとは、大学三年生のとき。
お互いに偶然同じタイミングで帰省し、初めて一緒にお酒を飲んだ。
もちろん、他の友人たちもいたけれど、帰りは今夜のようにふたりきりだった。
父に迎えに来てもらうつもりが、お店を出たあとになんとなく津田と歩き出し、徒歩三十分以上かけて帰宅した。
その間に、彼は一度だけ私の手を取った。
とても驚いて、けれどすぐには振り解けなくて……。
うるさいくらいに高鳴る鼓動が、私の理性を押しのけようとしてきた。
それでも、私は決して津田の手を握り返さないようにして、小さく告げた。
『今、彼氏がいるんだよね』と……。
彼は、『そうか』とだけ言った。
手はすぐに離されてしまって、これでよかったと思う反面、胸の奥が甘く締めつけられていた。
当時の元カレに浮気されたのは、その一週間後のこと。
あの夜、本当は喜んでしまったのが神様にバレて、バチが当たったのかもしれない……と思った。
そのまま誰も好きになれずに津田と再会したのは、大学最後の夏休み。
たぶん、最近まで付き合っていた元カノが、当時すでに彼の恋人だった。
こうして、ずっとすれ違ってきた。
私が告白を決意したときには、津田に恋人ができて。
彼が私を想ってくれていたであろうときには、私がさりげなく逃げて。
高校生と大学生のときも、就職してからも、私たちの糸は決して交わらなかった。
どちらかが相手を想っていても、相手には恋人がいる。
ずっとずっと、そうだった。
高校時代の恩師が、卒業式の朝に『人生で大切なのは出会いとタイミング』という言葉を贈ってくれたけれど……。それを借りるのなら、津田と私はタイミングがことごとく合わなかった。
きっと、私たちの間にあるのは赤い糸じゃなく、他の色の糸。
もしかしたら、恋が実らない代わりに一生友人でいられるのかもしれない。
「牧野」
ぼんやりとしていたとき、優しい声に呼ばれた。
反射的に横を見ると、真っ直ぐな双眸とぶつかる。
真剣で、痛いくらいにひたむきで。
なにか言いたげにも見えて、急に怖くなった。
「っ……。そろそろ行こっか。見つかったらやばいし、いい加減に――」
話しながら立ち上がろうとしたとき、津田の左手が私の右手首をグッと掴んだ。
勢いがあったわけじゃない。
けれど、濡れた足が滑って、突然のことに驚いて踏ん張り損ねて。
「きゃっ……」
前のめりになった私は、彼の胸に飛び込むような形で倒れ込んだ。
視界に映る光景が、やけにスローモーションに見える。
ふっと津田が笑ったのがわかった直後、私たちは勢いよくプールに落ちていた。
大きな水音が響き、水しぶきが上がる。
水中で見える泡がまるで雪のようだ、なんて思った。
咄嗟に水から顔を出し、ぷはっと息を吸う。
目の前には、同じく水中から出てきたばかりの彼がいた。
「まさか落ちるとは思わなかったな」
楽しげに笑った津田が、見慣れた笑顔を向けてくる。
一瞬緊迫していた空気が緩んで、ホッとした。
「どうするのよ、これ……」
「どうにでもなるよ」
このまま何事もなく、いつものように別れたい。
そしたらきっと、また笑顔で会えるはずだから。
「牧野」
けれど、次に私を呼んだ彼は、その声と同じように真剣な顔をしていた。
手は、まだ掴まれたまま。
黒い水面には、月と星が揺れている。
灯かりもないのに津田の顔が見えるのは、今夜の明るい月のせい。
思い出したくなかった感情が、今にも堰を切ったように溢れ出しそうになる。
必死に唇を噛みしめていなければ、こらえられそうになかった。
沈黙の中、風に吹かれる水面が小さな水音を奏でる。
なにも言わないで……と願う私の心を余所に、彼が私の手首を引っ張った。
「っ……」
気づいたときには、津田の胸の中にいて。
彼は、ぎゅうっと私を抱きしめた。
「津田っ……!」
「好きだ」
逃げようと津田の胸元を押した私の声と、愛を唱えた彼の微かに上ずった声が、綺麗に重なった。
高鳴る鼓動と、緊張感と……そして、冷たい水の中で感じる津田の熱。
どうしたって、私の心は震えてしまう。
「好きだ。……たぶん、ずっと好きだった」
切なげな声音が、鼓膜に届く。
ただただ、真っ直ぐに。
迷いはない、とでも言うように。
「なんで今さら……」
ずっとすれ違っていたのに、一度だって交わらなかったのに……。
飲み会で恋人の話をしていた彼を見て、これからも友人でいられるようにしようと思ったばかりなのに……。
さっきからずっと、なにもかもが予想外で思考がついていかない。
それでも、津田の想いは受け取れないと思った。
「ごめ……」
「大事にする」
「津田……」
「泣かせることもあるかもしれないけど、絶対に大事にするから」
切なげに見つめられて、胸が詰まる。
「むり、だよ……。私、津田だけは失いたくない……」
けれど、本音を盾にして、彼を拒絶した。
「なんで? 失う必要なんてないだろ」
「……わからないでしょ。私、男運ないらしいし」
「俺をそこに入れるなよ」
そう言われても、理性が邪魔をする。
弱い私が、この関係を壊してまで欲するものなのか……と冷たく問いかけてくる。
「浮気なんかしないし、別れようなんて言わない。ずっと一緒にいる覚悟も決めてる。だから、今日は牧野に会うために帰ってきたんだ」
真摯な瞳と、真っ直ぐすぎる言葉。
もう、拒めない予感がする。
必死に押しとどめていた理性が、夜のプールに溶けていく。
静かに、ゆっくり、私の中から流れていく。
「両想いだったときもあるけど、一度だって交わらなかった……。でも、そんなのはもうごめんだ」
絡んだ視線が逸らせなくて、心ごと捕まってしまう。
そう気づいたとき、津田の右手が私の頬に触れた。
「酒のせいにしていい」
じっと見つめられて、息もできない。
とっくに水中から出たはずだったのに、まるでまだ水の中にいるみたい。
「夜のせいでもいい」
高鳴る鼓動のうるささも、素直になれない私をとどめる理性の残滓も、ちゃんと感じているのに……。
「だから、今だけは理性を捨てて」
彼の声だけに私の心は囚われ、強く強く揺れていた。
熱を持った瞳とひたむきな想いに、もう抗えない予感がする。
考えてばかりで動けない私を捕まえるように、瞼を閉じた津田の顔がそっと近づいてきた。
月が映る水に溶けていった理性が、素直になれない私の背中を押す。
だからこそ、朝になる前に君と――。
【END】
Special Thanks!!
2024/7/1 執筆&完結公開
八月の夜の、懐かしい顔ぶれが集まった飲み会。
それが終わった直後に、一年ぶりに会った友人の津田に笑みを向けられた。
彼が一滴も飲んでいないことは知っている。
ただ、心の奥にしまい込んできたものを、今さら刺激されたくない。
少しだけ弱っている今夜は、津田の笑顔が眩しく見えて仕方ないから……。
ふたりきりになるのが、なんだか怖かった。
「いいよ、酔い覚ましに歩くし」
「蚊に食われるぞ」
なんとも色気のない誘い方だ、と思う。
もちろん、そんなものを出されても困るんだけれど。
「田んぼに突っ込む未来も見えるな」
ほらやっぱり、色気なんてあったものじゃない。
そんな風に思いながらも、この憎まれ口が心地よくもあった。
「津田さ、気を使ってもらっておいてこんなこと言うのはあれだけど、もうちょっとマシな誘い方はないの?」
「……俺と来いよ。お前とふたりきりになりたいんだ、とか?」
最後に首をわずかに傾けた彼との間に、沈黙が降りる。
「……ないな」
「……ないね」
数秒後、お互いの声が揃う。
そのまま小さく噴き出し、ふたりで笑った。
ククッと笑うときには肩を竦めるところが変わっていなくて、また懐かしい気持ちになった。
「ほら、もういい加減に乗れよ」
田舎には似合わない、クロスオーバーSUV。
黒い車体が、まるで夜に溶け込むように見えた。
「じゃあ、まあ……」
お邪魔します、と小さく断って、ドアを開けてくれた助手席に乗り込む。
「閉めるぞ」と確認した津田に頷けば、彼はドアを閉めて運転席に回った。
「二丁目の町内会館の先まで」
「タクシーか。てか、言われなくても知ってるから」
「それは失礼しました」
微妙にふざけた態度になってしまうのは、お酒のせいか緊張のせいか。
たぶん後者じゃない。
エンジンをかけた車の振動を感じながら、そうであることを祈っていた。
「幸せそうだったな」
「え?」
「あいつら、いい笑顔だったよな」
「そうだね」
少し前まで会っていた、五人の友人たち。
その中のふたりが、来月に結婚することになったのだ。
埼玉県の片隅にあるこの町は、よく言えば自然が多く……少し悪く言えば田舎だ。
バスは、一時間半に二本。
電車は、ラッシュ時は一時間に二本だけれど、日中は一時間に一本程度。
コンビニは一軒だけ、もちろんショッピングモールなんてない。
おしゃれなコーヒーショップも、可愛いカフェも、ゲームセンタ―もない。
自転車で行ける範囲には、老夫婦が営む食堂とか、気まぐれに開店するさびれた喫茶店、一通りの日用品と食料が揃うスーパーがあるだけ。
だから、若い子たちは中学か高校を卒業すると、だいたい町から出て行く。
高校なら全寮制か下宿を、大学なら寮か一人暮らしをして、そのままここには戻らずに別の場所で就職する――といった感じだ。
津田と私も、同じだった。
彼は県内の全寮制の高校に進学し、東京へ。
私は隣町の高校を卒業したあと、千葉県にある大学に進学した。
そして、就職した今も千葉にいる。
今夜は、お互いに同級生の結婚祝いに駆けつけた。
「まさかあのふたりが結婚するなんて思わなかったな」
「うん、わかる」
「今だから言えるけど、絶対にすぐに別れると思ってた」
「縁起でもないこと言わないでよ」
「だから、ここだけの話な」
前を向いたまま悪戯っぽく微笑む津田は、ちっとも悪びれがなさそうだった。
正直、共感してしまったことは言わなかったけれど、彼はわかっていた気がする。
彼氏側は、いわゆる中学時代からヤンキーっぽい雰囲気だった。
すぐにでも浮気しそうな見た目通り、あまりいい印象はない。
女子の方は、可愛くて優しく真面目。いわゆる、委員長タイプ。
そして、私にとって親友と言えるくらい仲がいい友人でもある。
正反対のふたりがくっついたときには、クラスや学校どころか町中で噂になった。
多くの人が、『すぐに別れるよ』なんて陰口を言っていた。
私は一度も口にはしなかったけれど、否定できない気持ちもずっとあった。
だからこそ、ふたりからグループメッセージで結婚の報告を受けたときは、驚きながらも嬉しかった。
休日出勤をした土曜の昼下がりに電車に飛び乗って、弾丸で帰省するくらいには。
「二十三で結婚か」
「この町じゃ早くもないだろ。同級生も半分近くが結婚したし」
「そうだね」
田舎にはわりと多いのか、祖父母も親世代も二十代前半で結婚する人が多い。
同級生でも、十代や二十歳そこそこで結婚した子もいる。
この町では〝これが普通〟なのだ。
地元に残っていると、二十三歳でも独身の方が珍しいかもしれない。
「でも、それならなおさらここを出てよかったよ」
「牧野、今って彼氏はいる?」
「それ訊く?」
「まあ話の流れ的に?」
「……いません。先月別れましたー」
「マジかよ」
やけくそな言い方をすれば、津田がなんとも微妙な顔で笑う。
「はいはい、マジです。ついでに言うと、また浮気されましたよ」
「おいおい、またかよ?」
呆れた物言いの彼は、私に男運がないことを知っている。
高校生で初めてできた彼氏も、大学生のときに告白してくれた先輩も、社会人になって付き合った同僚も、みんな漏れなく浮気してくれた。
いったい、私がなにをしたというんだろう。
反抗期や、ちょっとした校則違反。
人生を振り返れば反省点はあるものの、こんな目に遭うような悪行はしていない。
学生時代はそれなりに遊びながらも真面目に過ごしていたし、仕事はできるタイプじゃないなりにコツコツ頑張っている。
マルチタスクが苦手だから、忙しくなるとつい恋愛にまでリソースを割けないけれど、それでも私なりに大事にしてきたつもりだ。
にもかかわらず、毎回浮気されるのだから、もう男運が悪いとしか思えない。
というよりも、男運のせいにしておかなければ、わりと本気で立ち直れそうになかった。
「お前さ~、もうちょっと男見る目を養えよ」
「すみませんね、見る目がなくて」
「いや、本当にな。毎回浮気されるって、よっぽど男を見る目がザルだぞ」
「うるさいな。あのふたりの幸せオーラに当てられて結構傷心なんだから、追い打ちをかけないでよ」
今夜は、ちょっと間が悪かった。
先月と言っても、別れたのはまだ十日ほど前のこと。
結婚間近の幸せすぎるふたりを見るには、私の心はまだ弱りすぎていた。
はにかんだ笑顔でいる親友に『最近はどうなの?』と訊かれたけれど、振られたばかりであることは最後まで言えなかった。
けれど、精一杯……本当に全力でお祝いしたつもりだ。
「……悪い。無神経だった」
目を伏せてしまった私に、神妙な声が届く。
らしくない声音に思えるけれど、津田がいい奴であることは知っている。
たぶん、仲間内の誰よりも……。
だって、彼は私の初恋の人だから。
実ることはなかった、淡く儚い恋だった。
中学時代のことなのに、今もあの頃の気持ちを鮮明に思い出せるくらいには本気で好きだった。
けれど、当時、津田には彼女がいた。
明日告白しようと決した日、彼から恋人ができたことを報告された。
あの日の傷は、きっとまだ微かに残っている。
初恋というのは厄介で、新しい恋をしてもいつも心のどこかで引っかかったまま。
実らなかったものほど美しく大切にしまい込んでしまうせいか、誰といてもときおりまるであの頃のように津田のことを思い出していた。
もう大丈夫だと思っていた、今この瞬間でさえも……。
「なーに神妙な顔してるのよ! 急にしおらしくならないでよ」
「いや、言いすぎたなって……」
「いいよ。心配してくれてるんでしょ」
ちゃんとわかっているから、彼には気にしないでいてほしい。
今は〝友人として〟大事にしてくれているのは、痛いほどわかっているから……。
「そういえば、津田はどうなの? 彼女と長いんでしょ?」
明るい話題に戻そうとしたのに、胸の奥が痛んだ。
津田には、大学時代から付き合っている恋人がいる。
風の噂で上手くいっていると聞いていた話は、さきほどの飲み会で確信となった。
『今日は俺のことはいいだろ』
そう言いながらも、彼は少しだけ恋人のことを話していた。
いい子だ、と。
優しくて穏やかな子だ、と。
会ったこともない女性の姿が、瞼の裏に浮かんで。勝手に想像したその笑顔に、胸の奥がぎゅうっ……と締めつけられた。
けれど、初恋を引きずっているせいじゃない。
傷心中だから、心が痛んだだけ。
あのときの私は、自分自身に必死にそう言い聞かせて、三杯目のハイボールで嫌な感情を喉の奥に流し込んだ。
「……俺は」
言い淀んだような言い方に、ふっと眉を下げてしまう。
優しい彼らしい気遣いが、今は少しだけ痛い。
「私に遠慮しなくていいよ。どうせ上手くいってるんでしょ?」
「いや……別れたよ」
「え……?」
「まあ、まだ一週間くらい前のことだけど」
一瞬、頭の中が混乱した。
津田も幸せだと思っていたのに、失恋したばかりだなんて……。
酔った思考が都合よく解釈しただけかもしれないと、自分の耳と頭を疑った。
「えっと……どうして?」
「まあ、色々あって……」
「色々って?」
控えめながらも食い下がってしまったのは、別れた理由が気になって仕方がなかったから。
「色々は色々だよ」
けれど、線を引かれたことに気づいて、静かに口を閉じる。
「でも、悪いのは俺だから……」
「そっか……。いい子だって言ってたのに、よかったの?」
「別れたことは後悔してない。ただ、相手には幸せになってほしいと思ってる」
「それってちょっと残酷だよね。別れたくなかった方からすれば、『幸せになってほしい』って言われてもつらいだけじゃない?」
「だから、本人には言えなかったよ」
前を向いたまま眉を下げた彼は、振った側のはず。
それなのに、その横顔が傷ついていたことを語っている。
切なさが滲む微笑は、まだ想いを残しているようにも見えた。
胸の奥が、小さく軋む。
「なぁ、ちょっと寄り道してもいい?」
「え?」
どこに行くのかと思いつつ、あまり深くは考えずに「うん」と頷く。
帰路にはこの町唯一のコンビニがあるから、きっとそこにでも寄るんだろう。
そう思ったのに、津田が運転する車は私の実家がある道から逸れ、懐かしい道を抜けて中学校の前に停まった。
「え、なに……?」
エンジンも止められ、私は無意識に身構えてしまう。
「散歩しないか?」
「いやいや、ちょっと趣味悪くない? 夜の学校だよ?」
急な提案に、少しばかり引いてしまう。
「スリルがあっていいだろ? 中学のときもみんなで肝試ししたし」
ただ、彼は本気のようで、ニヤッと意味深に笑った。
「参加者全員、先生と親にこっぴどく叱られたやつね」
「反省文二十枚」
「一週間、放課後に通学路のゴミ拾い」
「ついでに早朝学習に強制参加」
よくもまあ、ここまで覚えているものだ。
感心しつつも、津田も全部覚えていることがおかしかった。
「さすがにこの歳で先生と親に怒られたくないし、反省文もゴミ拾いも早朝学習もしたくないからやめておく」
「まあそう言うなって」
きっぱり断ったのに、彼は車から降りてしまう。
その数秒後には助手席のドアが開けられ、シートベルトを外されてしまった。
「えっ、ちょっと……!」
「ほら、来いって。今日くらいハメを外したっていいだろ」
それは、津田のルールで。
見つかったら、間違いなく連帯責任になって。
大人になってしまった今、ゴミ拾いや反省文どころか不法侵入で通報されてもおかしくはない。
なんて頭では思うのに、握られた左手を振り解けない。
夏の暑さのせいか、手のひらに汗がじんわりと滲んだ。
「ちょっと、本当にどこに行くの?」
私は、念のために周囲を警戒しながら声を潜めてしまう。
「あの日の肝試しでふたりで行った場所」
すると、振り向いた彼がふっと瞳を緩めた。
少しだけ悪戯っぽく、まるで少年だったあの頃のように。
反射的に鼓動が跳ねたのは、淡い初恋を思い出してしまったせい。
そして、その言葉だけでプールに向かっているのだとわかった私には、きっともうどうしようもない。
「へぇ、昔のままだな」
プールサイドにたどりつくと、津田が額に手を翳すようにして周囲を見渡す。
少し大げさな身振りに思えたけれど、抱いた感想は同じだった。
「まあ八年くらいじゃ変わらないか」
「それはいいとして、津田ってなんで昔も今もプールの鍵を開けられるのよ?」
「ああ、あれな。実はここの鍵って壊れてて、ちょっとずらして引っ張れば開くようになってるんだよ」
「そうなの?」
「うん。しかも、たぶん先生たちは気づいてない」
目を丸くしながら、母校の防犯面が心配になる。
「牧野、昔はたまたま鍵が開いてただけだと思ってただろ?」
「気づいてたの?」
「まあな。驚く顔が可愛かったから、あえて言わなかったんだ」
「え……」
今、可愛いって聞こえた気がする。
けれど、彼が何事もなかったかのように歩き出したから、手を取られたままの私はついていくしかない。
もちろん、話を掘り下げることもできなかった。
「せっかくだから足くらい浸けようぜ」
「見つかったら本当に怒られるよ」
「そのときは一緒に怒られてくれ」
「普通に嫌なんだけど」
必死に平静を装い、いつも通りに振る舞う。
そうしなければ、ずっと昔に閉じ込めたものが漏れ出てしまいそうで……。今さらそうなるのが、とても怖かったから。
「この辺でいいか」
手を離した津田が、デニムの裾を捲っていく。
ついでにスニーカーも靴下も脱ぎ捨て、プールサイドに腰掛けた。
ちゃぷん、と水音が響く。
「冷たっ。でも、気持ちいいぞ」
こうなったら、やけになるしかない。
私は急に軽くなった手に微かな寂しさを抱いたことには気づかないふりをして、七センチヒールのサンダルを脱ぐ。
ワンピースを少し捲って彼から微妙に距離を取り、左側に腰を下ろした。
爪先からそろりと下ろしていくと、揺れる水面に肌が触れた。
冷たい水は、それでいて冷たすぎなくて気持ちがいい。
とっくに日が暮れていても汗をかいてしまう八月の夜には、ちょうどいい水温だった。
「悪くないだろ?」
「まあ……」
少しだけ悔しくて、わざと視線を逸らしてしまう。
津田が「素直じゃないな~」と、おかしそうに声を上げた。
木々に囲まれた学校ということもあって、虫の音や葉音が聞こえてくる。
プールの水面には上弦の月が映り、わずかにゆらゆらと揺れていた。
すぐ隣にいるのは、初恋の相手。
そして、たぶん……彼も私のことが好きだったときがある。
最初は、中学卒業間近の頃。
半年も経たずに彼女と別れた津田と、よく目が合うようになった。
その瞳に少しだけ熱がこもっていたことにも、本当は気づいていた。
けれど、その頃には私はもう彼への想いを消したつもりでいたから、気づかないふりをした。
そうすることで、私は津田とずっと友人でいる道を選んだのだ。
ところが、高校二年生の夏休み。
帰省した彼と久しぶりに会ったとき、急に伸びた身長や男性らしくなった顔つきにドキドキして……。初恋はちっとも忘れられていなかったんだ、と思い知った。
津田の笑顔が眩しくて、消し切れていなかった彼への想いと傷で胸が疼いた。
ただ、当時の私には彼氏がいた。
同じく、津田にも彼女がいた。
だから、彼の中にあった私への淡い想いは綺麗に消え去ったことを悟り、私も静かに心を閉じた。
そのあとは、大学三年生のとき。
お互いに偶然同じタイミングで帰省し、初めて一緒にお酒を飲んだ。
もちろん、他の友人たちもいたけれど、帰りは今夜のようにふたりきりだった。
父に迎えに来てもらうつもりが、お店を出たあとになんとなく津田と歩き出し、徒歩三十分以上かけて帰宅した。
その間に、彼は一度だけ私の手を取った。
とても驚いて、けれどすぐには振り解けなくて……。
うるさいくらいに高鳴る鼓動が、私の理性を押しのけようとしてきた。
それでも、私は決して津田の手を握り返さないようにして、小さく告げた。
『今、彼氏がいるんだよね』と……。
彼は、『そうか』とだけ言った。
手はすぐに離されてしまって、これでよかったと思う反面、胸の奥が甘く締めつけられていた。
当時の元カレに浮気されたのは、その一週間後のこと。
あの夜、本当は喜んでしまったのが神様にバレて、バチが当たったのかもしれない……と思った。
そのまま誰も好きになれずに津田と再会したのは、大学最後の夏休み。
たぶん、最近まで付き合っていた元カノが、当時すでに彼の恋人だった。
こうして、ずっとすれ違ってきた。
私が告白を決意したときには、津田に恋人ができて。
彼が私を想ってくれていたであろうときには、私がさりげなく逃げて。
高校生と大学生のときも、就職してからも、私たちの糸は決して交わらなかった。
どちらかが相手を想っていても、相手には恋人がいる。
ずっとずっと、そうだった。
高校時代の恩師が、卒業式の朝に『人生で大切なのは出会いとタイミング』という言葉を贈ってくれたけれど……。それを借りるのなら、津田と私はタイミングがことごとく合わなかった。
きっと、私たちの間にあるのは赤い糸じゃなく、他の色の糸。
もしかしたら、恋が実らない代わりに一生友人でいられるのかもしれない。
「牧野」
ぼんやりとしていたとき、優しい声に呼ばれた。
反射的に横を見ると、真っ直ぐな双眸とぶつかる。
真剣で、痛いくらいにひたむきで。
なにか言いたげにも見えて、急に怖くなった。
「っ……。そろそろ行こっか。見つかったらやばいし、いい加減に――」
話しながら立ち上がろうとしたとき、津田の左手が私の右手首をグッと掴んだ。
勢いがあったわけじゃない。
けれど、濡れた足が滑って、突然のことに驚いて踏ん張り損ねて。
「きゃっ……」
前のめりになった私は、彼の胸に飛び込むような形で倒れ込んだ。
視界に映る光景が、やけにスローモーションに見える。
ふっと津田が笑ったのがわかった直後、私たちは勢いよくプールに落ちていた。
大きな水音が響き、水しぶきが上がる。
水中で見える泡がまるで雪のようだ、なんて思った。
咄嗟に水から顔を出し、ぷはっと息を吸う。
目の前には、同じく水中から出てきたばかりの彼がいた。
「まさか落ちるとは思わなかったな」
楽しげに笑った津田が、見慣れた笑顔を向けてくる。
一瞬緊迫していた空気が緩んで、ホッとした。
「どうするのよ、これ……」
「どうにでもなるよ」
このまま何事もなく、いつものように別れたい。
そしたらきっと、また笑顔で会えるはずだから。
「牧野」
けれど、次に私を呼んだ彼は、その声と同じように真剣な顔をしていた。
手は、まだ掴まれたまま。
黒い水面には、月と星が揺れている。
灯かりもないのに津田の顔が見えるのは、今夜の明るい月のせい。
思い出したくなかった感情が、今にも堰を切ったように溢れ出しそうになる。
必死に唇を噛みしめていなければ、こらえられそうになかった。
沈黙の中、風に吹かれる水面が小さな水音を奏でる。
なにも言わないで……と願う私の心を余所に、彼が私の手首を引っ張った。
「っ……」
気づいたときには、津田の胸の中にいて。
彼は、ぎゅうっと私を抱きしめた。
「津田っ……!」
「好きだ」
逃げようと津田の胸元を押した私の声と、愛を唱えた彼の微かに上ずった声が、綺麗に重なった。
高鳴る鼓動と、緊張感と……そして、冷たい水の中で感じる津田の熱。
どうしたって、私の心は震えてしまう。
「好きだ。……たぶん、ずっと好きだった」
切なげな声音が、鼓膜に届く。
ただただ、真っ直ぐに。
迷いはない、とでも言うように。
「なんで今さら……」
ずっとすれ違っていたのに、一度だって交わらなかったのに……。
飲み会で恋人の話をしていた彼を見て、これからも友人でいられるようにしようと思ったばかりなのに……。
さっきからずっと、なにもかもが予想外で思考がついていかない。
それでも、津田の想いは受け取れないと思った。
「ごめ……」
「大事にする」
「津田……」
「泣かせることもあるかもしれないけど、絶対に大事にするから」
切なげに見つめられて、胸が詰まる。
「むり、だよ……。私、津田だけは失いたくない……」
けれど、本音を盾にして、彼を拒絶した。
「なんで? 失う必要なんてないだろ」
「……わからないでしょ。私、男運ないらしいし」
「俺をそこに入れるなよ」
そう言われても、理性が邪魔をする。
弱い私が、この関係を壊してまで欲するものなのか……と冷たく問いかけてくる。
「浮気なんかしないし、別れようなんて言わない。ずっと一緒にいる覚悟も決めてる。だから、今日は牧野に会うために帰ってきたんだ」
真摯な瞳と、真っ直ぐすぎる言葉。
もう、拒めない予感がする。
必死に押しとどめていた理性が、夜のプールに溶けていく。
静かに、ゆっくり、私の中から流れていく。
「両想いだったときもあるけど、一度だって交わらなかった……。でも、そんなのはもうごめんだ」
絡んだ視線が逸らせなくて、心ごと捕まってしまう。
そう気づいたとき、津田の右手が私の頬に触れた。
「酒のせいにしていい」
じっと見つめられて、息もできない。
とっくに水中から出たはずだったのに、まるでまだ水の中にいるみたい。
「夜のせいでもいい」
高鳴る鼓動のうるささも、素直になれない私をとどめる理性の残滓も、ちゃんと感じているのに……。
「だから、今だけは理性を捨てて」
彼の声だけに私の心は囚われ、強く強く揺れていた。
熱を持った瞳とひたむきな想いに、もう抗えない予感がする。
考えてばかりで動けない私を捕まえるように、瞼を閉じた津田の顔がそっと近づいてきた。
月が映る水に溶けていった理性が、素直になれない私の背中を押す。
だからこそ、朝になる前に君と――。
【END】
Special Thanks!!
2024/7/1 執筆&完結公開