飛竜島は思っていたより大きく、上空から見た限りでもシェラプトよりもはるかに広い。
ペテロの背中から見下ろすと数体の飛竜の石像が見える。
「あれは儂が数十年前に石化させた家族だ」
石化の自然解除は個体によってさまざま。
いつ解除されるかは誰にもわからないそうだ。
もしかしたら急に解除される可能性もあるので警戒しながら上空を通る。
「ってかもう一度石化させちゃえばいい話なんじゃないか?」
我ながら素晴らしい閃きだと思って自信満々に言ってみたが、あっさり一蹴された。
「おまえはやはり阿呆だな」
「なんでだよ?」
「ペトラファイは相当なエネルギーを使う。本来は我々が生きながらえるためにあるものだ。使えたとしてもせいぜい一年に一・二度が限界だ」
「不便な能力だな」
「おまえも石化してやろうか」
「勘弁してください」
音を立てないよう静かに上空を飛ぶ。
そこを過ぎるころにはもう陽は落ちていた。
飛竜島を抜けた先には真っ白な雲海が広がっていた。
その雲海の中を突っ切っていくペテロ。
しばらくすると、真っ白な景色から空飛ぶ島が現れた。
「あれがエインデだ」
遠くからでもわかる廃墟と化した地。
まるで闖入者を受け入れないよう大きな樹々が島全体を覆っている。
樹々の隙間から島に入ると、そこには樹海のような景色が広がっていた。
妖精が現れてもおかしくないくらい神秘的な場所。
「今日は久しぶりに動いたから疲れた。シルフィによろしく言っておいてくれ」
変わり果てた故郷を見て色々と思うことがあるのか、将又本当に疲れただけのか、僕を降ろしたペテロはふわぁ〜っと一回欠伸をした後すぐに帰っていってしまった。
「お、おい!」
どうやって帰ればいいんだよ。
ペテロによるとここに人はいない。
誰にも会わないまま時が過ぎれば僕はここで屍となってしまう。
道なき道をひたすら歩き、はじめて見る虫や小動物に驚き、代わり映えのない景色に自分がどこにいるのかさえ一瞬わからなくなる。
このまま彼女を見つけられなかったらどうしよう。
そもそも本当にそんな魔法のような水が存在するのだろうか?
知らない世界で孤独感を味わうと、不安は恐怖へと姿を変えていくもの。
事前に情報を得ておけばよかったと少し後悔するが、目的を忘れるわけにはいかないので、彼女の顔を見るまでは意地でも生きてやると心に誓う。
茂みを進んでいった先に荒野があった。
そこに一つ古びた小屋が建っている。
蔦に囲まれたその小屋は見るからにボロボロで、強い風が吹いたら飛ばされてしまいそうなほど。
少し逡巡したが、このまま無闇に捜し続けていれば体力がいくつあっても足りないのでここで休ませてもらうことにした。
重たい扉を開けると、軋んだ音の向こうに見えたベッドが僕の足を自然と向かわせた。
そういえば朝からずっと動きっぱなしで全然休んでいなかった。
疲労が溜まっていた僕はそのまま倒れ込むように眠った。
ー翌朝、目が覚めると一人の女性が僕の方を見ながら立っていた。
薄暗い部屋にいてもわかる白皙で細い腕。そして美しいミントグリーンの髪と瞳。
見間違えるはずがない。
あまりの嬉しさにぎゅっと抱きしめた。
何週間も逢っていないわけじゃないのにこんなにも嬉しいなんて、やっぱり好きなんだという想いを噛み締める。
「カナタくん、痛いよ」
「ご、ごめん」
顔を赤ながら少しはにかむ彼女は天使以外の何者でもなかった。
「どうして来たの?」
彼女からすれば疑問かもしれないが、僕からすれば愚問。
大好きな人を放っておくなんてできるわけがない。
「イスカから訊いたんだ」
経緯を話すと少し困ったような表情を浮かべた。
空を飛べない僕がここまで来られるなんて思ってもいなかっただろう。
「カナタくんを巻き込むなんてできない」
気を遣ってくれているのは嬉しいけれど一人で抱え込むようなことはしてほしくない。
マルアハの水を飲んで空を飛ぶ。
それは彼女の夢であり僕の夢でもある。
僕がいたからといって何かプラスになるとは思えないが、それでもこれは二人で叶えなきゃいけないことなんだ。
「きみのことなら巻き込まれてもかまわない」
この世界に来てはじめてできた友達であり、恋心を抱く相手でもある。
きっと日本で出会っていても同じことを思っていただろう。
迷惑でもわがままでもいい。
僕がこの世界にいる理由はきみなのだから。
「でも、この前みたいに怪我しちゃうかもだし……」
コルベインとの戦いのときに撃たれた右腕を心配そうに見つめるシルフィ。
「大丈夫!頑丈さだけが僕の取り柄だから」
右手でサムズアップし完治アピールをする。
でも、本音を言うと完治はしていない。
勢いよく動かすとピキッと痛むが、少しでも安心させたかったので痛みを堪えたぎこちない笑顔になってしまった。
「空を飛ぶ夢、一緒に叶えたいんだ」
シルフィは光り輝く太陽のように破顔した。
「それより、どうしてここに?」
「ここね、アネモイさんの家なの」
アネモイ。
シルフィと同じような境遇で空を飛ぶことを研究していた人。
棚に並べられていた一冊の分厚い本を指差す彼女。
それを取り出すと、そこには『アブラメリンの書』と書かれていた日記帳のものだった。
古語なのか、僕には全く読めなかったので解説してもらった。
「この本にはね、マルアハの水のことが書いてあるの」
空を飛ぶことに拘泥するシルフィは王都にあるさまざまな書物を読んで研究していた。
そこでこの本の存在を知り、クリュティエにお願いしてやってきたそうだ。
この本によると、ここから数キロ先にヘラゼウス神殿という場所があり、マルアハの水はそこにあるという。
しかし、何度か足を運んだがそれらしきものは見当たらなかったようだ。
「この本の通りだと、たしかに神殿にあるはずなんだけど」
話を聞くだけじゃピンとこない。
百聞はなんちゃらってやつだ。
本を拝借してヘラゼウス神殿へと向かう。
泥濘んだ道を慎重に歩きながら進むこと約三十分。
雲海に包まれるように建つそれは筆舌に尽くし難い美しさだった。
彼女は一切の逡巡なく中へと進んでいく。
一方の僕はところどころ雲で隠されていて足元が見えない道をおずおずと歩きながら置いていかれないよう後をついていく。
中央の広場に出ると、そこに巨大な天使の像があり、全長五メートルはあるだろう白く塗られた羽と黒く塗られた羽が左右対称に二つずつ生え、四つの羽は人を包み込むほどに大きい。
「これが大天使ヘラゼウス。このヘメリアで最も崇高な守護天使の一人。伴侶であるアストライアとともにこの世界を護ってくれていると云われているの。この本によると、マルアハの水はこのヘラゼウス像のどこかにあるみたいなの」
ヘラゼウス像の立つ土台には四つの凹みがある。
右側に二箇所、左側に二箇所、均等に凹んでいる。
ただの意匠には見えなかった。
これがキーであることはわかったが、何をどうすればいいのだろう。
そもそもマルアハの水ってどんなものなのだろうか?
シルフィ曰く、その水は手のひらサイズの小さな瓶に入っていて、透き通るように透明な水のようだ。
アブラメリンの書を読んでも全くわからなかったので、体力がもつ限り神殿を巡ることにした。
神殿内を歩いていると黒い羽をした蝶々が飛んでいた。
なぜここにいるのか想像もつかなかったが、導かれるようについていくことにした。
その先にある雲海の前で止まると一瞬何かが光ったように思えた。
おそるおそる雲の中に手を伸ばすと白く小さな石が落ちていた。
何の変哲もないただの石。
なぜか気になったのでそれを拾うと黒い蝶々は消えていた。
さらに奥に進んだ先にある扉を開けると、さまざまな色と形をした石が無造作に置いてあり、まるで何かを隠すように散りばめられていた。
すると、先ほどと同じ黒い蝶々が目の前に現れた。
少し気味悪がっているシルフィをよそに導かれるまま石を掻き分ける。
何度か掻き分けていると、さっきと同じ白く小さな石があった。
それを拾ったと同時に黒い蝶々は消えていた。
偶然なのか必然なのか、石を持ったまま部屋を出ると突風が吹き荒れる。
飛ばされないよう耐えていると無数の石礫が襲う。
神の悪戯にしては悪趣味だ。
しばらくすると風は止んだ。
瞑っていた目を開けると、拾った二つの白い石が突如光り、それに共鳴するように背後から眩い光が照らす。
眇めながらその光に近づくと、同じ形をした黒い石が二つ並んでいた。
何の剣呑も躊躇もなくそれを取ったときに閃いた。
「シルフィ、これだ」
「えっ?」
四つの石をポケットに入れ、逸れないよう今度は僕が彼女を先導する。
ヘラゼウスの像に戻り石を嵌め込む。
しばらく待ったが何も起きない。
ただの勘違いだったのだろうか。
ここにきて徒労に終わるなんてしんどすぎる。
腕を組みながら他の方法を考えていると、
「ねぇ、こうじゃない?」
何かを閃いた様子のシルフィがヘラゼウス像の羽と同じ位置に石を嵌め込むと、像が突如動き出しその下に道が現れた。
この四つの石がスイッチだったのだ。
僕らはハイタッチをして階段を降りる。
降りた先の中央には小さな箱が二つ。
一つ開けるとそこには一枚の手紙が置かれていた。
『ねぇ、ラメク。もうすぐ完成するよ、世界に一つだけの魔法の水が。これを飲めばあなたと空を飛べる。空を飛ぶってどんな感じなんだろう。きっと気持ちいいんだろうな。一緒に手をつないでさ、風を感じながらゆっくりと景色を見たいな。でも、それは叶わない。身体が言うことを聞かないの。ベッドから起き上がることもできないくらい歳重ねちゃった。だいぶお待たせしちゃったね。私、もうおばあちゃんだよ。ずっと一緒にいてくれてありがとう。あなたに出会わなければ空を飛ぶどころか外にすら出たいなんて思わなかったよ。一緒に空、飛びたかったな』
アネモイからの手紙だった。
完成間際で空を飛ぶのを目前にして彼女は旅立った。
もう一つの箱も開けてみる。
そこにも手紙が置かれていた。
さっきとは違う字でこう書いてある。
『この手紙を読んでいるということはここに辿り着いているのでしょう。もしアネモイと同じ境遇の人がいるのなら、マルアハの水を飲んで空を飛んでください。アーユスの力を持つものならその血を捧げることで水が反応するはず。大天使は見てくださっています。どうかアネモイの想いを叶えてください』
ラメクが書いたのだろう。
でも、その血をどこに捧げれば良いんだ?
本にも記載はなかった。
それに肝心の水がどこにもない。
しばらくすると再び黒い蝶々が現れ壁の方へと飛んでいく。
いま頼れるものは彼らだけ。
導かれるままについていくと、壁がゆっくりと動き、その奥に大きな銅像があった。
その銅像の手のひらの上に黒い蝶々が止まる。
ヘラゼウスと同じ白と黒の四つの羽が生えた美しい像。
「大天使アストライア」
そう言ったシルフィは自分の唇を噛み、自らの血をその蝶々に落とす。
すると、黒い蝶々は小さな瓶に入った透明な水へと姿を変えた。
それは光に照らされる海のように光り輝いていた。
「これがマルアハの水?」
「たぶん」
あのときなぜ血を蝶々に落としたのかシルフィ本人もわからないと言う。
気がついたらそうしていたようだ。
程なくして神殿が大きく揺れ出した。
このままだと二人とも潰されてしまう。
急いで外に出ると神殿は地上に崩れ落ちていった。
何はともあれ水は手に入れた。
これでシルフィの願いが叶う。
いますぐ飲んでも良かったが、せっかくならシェラプト上空で飛びたいという彼女の想いを汲み、今日は小屋で眠ることにした。
朝になりキュクノスの群れと合流する。
シルフィはクリュティエに乗り、僕は妹のプロクレイアの背中に乗った。
妹と言っても見た目だけでは正直どっちかわからないくらいそっくりだ。
横並びで飛んでいるクリュティエが僕に警告を鳴らす。
「おい、地上人。妹を怪我させたらただじゃおかないからな」
「ちょっとクリュティエ。カナタくんを脅かさないでよ。そんなことするような人じゃないわ」
「だいぶ信頼しているようだが少し甘すぎるぞ。地上人に肩入れなどして何になる?」
「肩入れなんてしてないわ」
「こんな頼りないやつのどこかいい?」
地上人という枠組みだけで判断するクリュティエに対して珍しく口調を荒げるシルフィは一瞬むすっとしながら、
「カナタくんは優しくてかっこいいもん」
淀みのない言葉でそう言い切った。
シルフィさん、いまかっこいいって言ってくれました?
それはイコール好きってことですか?
友達として好き?それとも異性として好きと捉えて良いのでしょうか?
もし後者だったら一緒に買い物に行ったり、夜景を見に行ったり、仕様もないことで笑い合ったりしたい。
そんな美しい妄想だけが頭の中を駆け巡る。
気持ちが昂り思わず口元が緩むと、身体が左右に大きく揺れた。
「地上人、背中の上で揺れるな。くすぐったい」
妹のプロクレイアに怒られるまで気づかなかった。
もしいまのニヤけ顔をシルフィに見られていたらと思うと急に恥ずかしくなってきた。
プロクレイアの白く大きな背中はふかふかだった。
まるで人をダメにするソファに座っている感覚になる。
気を抜いたら眠気にやられて地上に落っこちてしまいそうになので、両手で頬を叩いて気合いを入れる。
雲海を抜けると飛竜島の上空付近にやってきた。
島には飛竜の子供たちが背中を丸めながら気持ち良さそうに眠っている。
大人の飛竜の姿は見当たらない。
おそらく狩りに出ているのだろう。
飛竜の子供は小さいものでも全長五メートルはある。
その分食べる量も相当だ。
音を立てないよう静かに飛竜島を越えようとしたそのとき、背後から気配がした。
全長十メートルはあるだろう大きな身体、赤と青のオッドアイに四枚の羽を動かしながら近づいてくる一体の飛竜。
「あいつは、レブレ」
クールな印象だったクリュティエが珍しく狼狽している。
「レブレ?」
「この飛竜族のボスよ」
妹のプロクレイアが続く。
少し震えた声には畏怖の念が籠っているようにも感じた。
「島と子供たちを守るためなら何でもするヤバイ奴だ。一口で我々を喰らい、たった一息で島を破壊するほどの力を持つ」
クリュティエの言葉に凍りついた。
近づいてくるレブレから逃げるようにスピードを上げる。
他のキュクノスたちも羽を激しく動かし後に続く。
僕もシルフィも振り落とされないように必死にしがみつく。
しかし、レブレは微動だにしない。
オッドアイの鋭い眼光でこちらを見つめながら徐々に近づいてくる。
「お前たち、ここで何をしている?」
戦慄して何も答えられない。
「ここは我々の島だ。下手なことをしたら許さんぞ」
「少し通らせてもらっただけですので」
おそるおそる返答するシルフィをじーっと睨めつける。
何かを考えている様子のレブレだが、その目は相変わらず鋭く怖かった。
「お前、エインデ人か?」
シルフィに向けて問いかけるも彼女は何も答えなかった。
いや、答えられなかったというのが正しいかもしれない。
少し経つと、レブレはそれ以上追ってこなかった。
どういうことか理解できなかったが、この機を逃すまいといまのうちに島を越えようとしたとき、
「やはりな」
プロクレイアが意味深な言葉を発した。
「地上人、決して振り向くなよ」
「どういうことだ?」
「囲まれてる」
「何に?」
「飛竜たちにだ」
嘘だろ?
さっきまではレブレしかいなかったはず。
この一瞬で何が起きたと言うのだ。
「私たちを見つけたレブレの指示で戻ってきたんだろう。奴らにとって私たちキュクノスの肉は贅沢だからな」
この時期は冬眠に入る動物も多く簡単に餌をゲットできない。
子供たちを守るため、飛竜たちもヘメリア中を飛び回って餌を獲ってくる。
そんな時期に大量のキュクノスの群れが現れたのだからこのご褒美を逃すまいと必死なのだろう。
まるで飛竜島から出る選択肢を与えないよう、合流した飛竜たちが全方向で一定の距離を保って飛行している。
「さて、どうするかな」
ボソッとプロクレイアが呟いたと同時に斜め前を飛んでいたクリュティエの真横にピタッとついた。
クリュティエとプロクレイアは何かを話しているようだが、風の音が強くて聞き取れない。
「おい、地上人」
少し緊張を孕んだ声でプロクレイアに呼ばれる。
「なぁ、そろそろ名前で呼んではくれませんかね?」
出会ってから日は浅いが、さすがによそよそしいと感じてしまう。
せめて苗字でも良いから名前で呼んで欲しいものだ。
「地上人であることに変わりはないだろ?」
このキュクノスという巨大白鳥族はみんなこうなのか?
理屈っぽいというか何というか。
もう少しシルフィのように可憐で煌びやかで感情豊かになれないものかね。
「このまま行けばやつらの檻の中だ。覚悟しておけよ」
覚悟するって何を?
ここで死ぬのは困る。
ようやくマルアハの水を手に入れたんだ。
彼女が空を飛ぶところを見られないなんて絶対に嫌だ。
シルフィの顔を見ると、真剣な眼差しで真っ直ぐ前を向いていた。
きっとこの状況をどう打開するか考えているのだろう。
すると突然、キュクノスの群れが阿吽の呼吸でスピードを一気に上げ突っ切っていく。
それに驚いた飛竜たちが全方向から追いかけてくる。
目の前から突風が直撃してまともに息ができないくらい高速で進んでいく。
それでもキュクノスの群れと飛竜たちのリレーは止まらない。
飛竜島の上空を過ぎるか否かのとき、目の前に大きな飛竜が現れた。
オッドアイのその瞳は間違いない。リーダーのレブレだ。
いつの間にか僕らの正面に回り込んでいたのだ。
一気に緊張が走る。
「おい、カナタ」
プロクレイアがはじめて僕の名前を呼んでくれた。
なんだろうこの嬉しい気持ち。
小さいころ、母の日にプレゼントした拙い似顔絵を宝物のように額縁に飾っている姿を思い出した。
そのときの母からのありがとうは、いままでのどのありがとうよりも強く印象に残っている、
なぜ彼女が僕の名前を呼ぼうと思ったのか、それを訊くことはしなかった。
「目を瞑っていろ」
その言葉を疑いはしなかった。
どうしてか素直に目を瞑っていた。
程なくして、激しい音とともに激痛が走る。
熱を帯びた風と同時に地面に叩きつけられた。
ペテロの背中から見下ろすと数体の飛竜の石像が見える。
「あれは儂が数十年前に石化させた家族だ」
石化の自然解除は個体によってさまざま。
いつ解除されるかは誰にもわからないそうだ。
もしかしたら急に解除される可能性もあるので警戒しながら上空を通る。
「ってかもう一度石化させちゃえばいい話なんじゃないか?」
我ながら素晴らしい閃きだと思って自信満々に言ってみたが、あっさり一蹴された。
「おまえはやはり阿呆だな」
「なんでだよ?」
「ペトラファイは相当なエネルギーを使う。本来は我々が生きながらえるためにあるものだ。使えたとしてもせいぜい一年に一・二度が限界だ」
「不便な能力だな」
「おまえも石化してやろうか」
「勘弁してください」
音を立てないよう静かに上空を飛ぶ。
そこを過ぎるころにはもう陽は落ちていた。
飛竜島を抜けた先には真っ白な雲海が広がっていた。
その雲海の中を突っ切っていくペテロ。
しばらくすると、真っ白な景色から空飛ぶ島が現れた。
「あれがエインデだ」
遠くからでもわかる廃墟と化した地。
まるで闖入者を受け入れないよう大きな樹々が島全体を覆っている。
樹々の隙間から島に入ると、そこには樹海のような景色が広がっていた。
妖精が現れてもおかしくないくらい神秘的な場所。
「今日は久しぶりに動いたから疲れた。シルフィによろしく言っておいてくれ」
変わり果てた故郷を見て色々と思うことがあるのか、将又本当に疲れただけのか、僕を降ろしたペテロはふわぁ〜っと一回欠伸をした後すぐに帰っていってしまった。
「お、おい!」
どうやって帰ればいいんだよ。
ペテロによるとここに人はいない。
誰にも会わないまま時が過ぎれば僕はここで屍となってしまう。
道なき道をひたすら歩き、はじめて見る虫や小動物に驚き、代わり映えのない景色に自分がどこにいるのかさえ一瞬わからなくなる。
このまま彼女を見つけられなかったらどうしよう。
そもそも本当にそんな魔法のような水が存在するのだろうか?
知らない世界で孤独感を味わうと、不安は恐怖へと姿を変えていくもの。
事前に情報を得ておけばよかったと少し後悔するが、目的を忘れるわけにはいかないので、彼女の顔を見るまでは意地でも生きてやると心に誓う。
茂みを進んでいった先に荒野があった。
そこに一つ古びた小屋が建っている。
蔦に囲まれたその小屋は見るからにボロボロで、強い風が吹いたら飛ばされてしまいそうなほど。
少し逡巡したが、このまま無闇に捜し続けていれば体力がいくつあっても足りないのでここで休ませてもらうことにした。
重たい扉を開けると、軋んだ音の向こうに見えたベッドが僕の足を自然と向かわせた。
そういえば朝からずっと動きっぱなしで全然休んでいなかった。
疲労が溜まっていた僕はそのまま倒れ込むように眠った。
ー翌朝、目が覚めると一人の女性が僕の方を見ながら立っていた。
薄暗い部屋にいてもわかる白皙で細い腕。そして美しいミントグリーンの髪と瞳。
見間違えるはずがない。
あまりの嬉しさにぎゅっと抱きしめた。
何週間も逢っていないわけじゃないのにこんなにも嬉しいなんて、やっぱり好きなんだという想いを噛み締める。
「カナタくん、痛いよ」
「ご、ごめん」
顔を赤ながら少しはにかむ彼女は天使以外の何者でもなかった。
「どうして来たの?」
彼女からすれば疑問かもしれないが、僕からすれば愚問。
大好きな人を放っておくなんてできるわけがない。
「イスカから訊いたんだ」
経緯を話すと少し困ったような表情を浮かべた。
空を飛べない僕がここまで来られるなんて思ってもいなかっただろう。
「カナタくんを巻き込むなんてできない」
気を遣ってくれているのは嬉しいけれど一人で抱え込むようなことはしてほしくない。
マルアハの水を飲んで空を飛ぶ。
それは彼女の夢であり僕の夢でもある。
僕がいたからといって何かプラスになるとは思えないが、それでもこれは二人で叶えなきゃいけないことなんだ。
「きみのことなら巻き込まれてもかまわない」
この世界に来てはじめてできた友達であり、恋心を抱く相手でもある。
きっと日本で出会っていても同じことを思っていただろう。
迷惑でもわがままでもいい。
僕がこの世界にいる理由はきみなのだから。
「でも、この前みたいに怪我しちゃうかもだし……」
コルベインとの戦いのときに撃たれた右腕を心配そうに見つめるシルフィ。
「大丈夫!頑丈さだけが僕の取り柄だから」
右手でサムズアップし完治アピールをする。
でも、本音を言うと完治はしていない。
勢いよく動かすとピキッと痛むが、少しでも安心させたかったので痛みを堪えたぎこちない笑顔になってしまった。
「空を飛ぶ夢、一緒に叶えたいんだ」
シルフィは光り輝く太陽のように破顔した。
「それより、どうしてここに?」
「ここね、アネモイさんの家なの」
アネモイ。
シルフィと同じような境遇で空を飛ぶことを研究していた人。
棚に並べられていた一冊の分厚い本を指差す彼女。
それを取り出すと、そこには『アブラメリンの書』と書かれていた日記帳のものだった。
古語なのか、僕には全く読めなかったので解説してもらった。
「この本にはね、マルアハの水のことが書いてあるの」
空を飛ぶことに拘泥するシルフィは王都にあるさまざまな書物を読んで研究していた。
そこでこの本の存在を知り、クリュティエにお願いしてやってきたそうだ。
この本によると、ここから数キロ先にヘラゼウス神殿という場所があり、マルアハの水はそこにあるという。
しかし、何度か足を運んだがそれらしきものは見当たらなかったようだ。
「この本の通りだと、たしかに神殿にあるはずなんだけど」
話を聞くだけじゃピンとこない。
百聞はなんちゃらってやつだ。
本を拝借してヘラゼウス神殿へと向かう。
泥濘んだ道を慎重に歩きながら進むこと約三十分。
雲海に包まれるように建つそれは筆舌に尽くし難い美しさだった。
彼女は一切の逡巡なく中へと進んでいく。
一方の僕はところどころ雲で隠されていて足元が見えない道をおずおずと歩きながら置いていかれないよう後をついていく。
中央の広場に出ると、そこに巨大な天使の像があり、全長五メートルはあるだろう白く塗られた羽と黒く塗られた羽が左右対称に二つずつ生え、四つの羽は人を包み込むほどに大きい。
「これが大天使ヘラゼウス。このヘメリアで最も崇高な守護天使の一人。伴侶であるアストライアとともにこの世界を護ってくれていると云われているの。この本によると、マルアハの水はこのヘラゼウス像のどこかにあるみたいなの」
ヘラゼウス像の立つ土台には四つの凹みがある。
右側に二箇所、左側に二箇所、均等に凹んでいる。
ただの意匠には見えなかった。
これがキーであることはわかったが、何をどうすればいいのだろう。
そもそもマルアハの水ってどんなものなのだろうか?
シルフィ曰く、その水は手のひらサイズの小さな瓶に入っていて、透き通るように透明な水のようだ。
アブラメリンの書を読んでも全くわからなかったので、体力がもつ限り神殿を巡ることにした。
神殿内を歩いていると黒い羽をした蝶々が飛んでいた。
なぜここにいるのか想像もつかなかったが、導かれるようについていくことにした。
その先にある雲海の前で止まると一瞬何かが光ったように思えた。
おそるおそる雲の中に手を伸ばすと白く小さな石が落ちていた。
何の変哲もないただの石。
なぜか気になったのでそれを拾うと黒い蝶々は消えていた。
さらに奥に進んだ先にある扉を開けると、さまざまな色と形をした石が無造作に置いてあり、まるで何かを隠すように散りばめられていた。
すると、先ほどと同じ黒い蝶々が目の前に現れた。
少し気味悪がっているシルフィをよそに導かれるまま石を掻き分ける。
何度か掻き分けていると、さっきと同じ白く小さな石があった。
それを拾ったと同時に黒い蝶々は消えていた。
偶然なのか必然なのか、石を持ったまま部屋を出ると突風が吹き荒れる。
飛ばされないよう耐えていると無数の石礫が襲う。
神の悪戯にしては悪趣味だ。
しばらくすると風は止んだ。
瞑っていた目を開けると、拾った二つの白い石が突如光り、それに共鳴するように背後から眩い光が照らす。
眇めながらその光に近づくと、同じ形をした黒い石が二つ並んでいた。
何の剣呑も躊躇もなくそれを取ったときに閃いた。
「シルフィ、これだ」
「えっ?」
四つの石をポケットに入れ、逸れないよう今度は僕が彼女を先導する。
ヘラゼウスの像に戻り石を嵌め込む。
しばらく待ったが何も起きない。
ただの勘違いだったのだろうか。
ここにきて徒労に終わるなんてしんどすぎる。
腕を組みながら他の方法を考えていると、
「ねぇ、こうじゃない?」
何かを閃いた様子のシルフィがヘラゼウス像の羽と同じ位置に石を嵌め込むと、像が突如動き出しその下に道が現れた。
この四つの石がスイッチだったのだ。
僕らはハイタッチをして階段を降りる。
降りた先の中央には小さな箱が二つ。
一つ開けるとそこには一枚の手紙が置かれていた。
『ねぇ、ラメク。もうすぐ完成するよ、世界に一つだけの魔法の水が。これを飲めばあなたと空を飛べる。空を飛ぶってどんな感じなんだろう。きっと気持ちいいんだろうな。一緒に手をつないでさ、風を感じながらゆっくりと景色を見たいな。でも、それは叶わない。身体が言うことを聞かないの。ベッドから起き上がることもできないくらい歳重ねちゃった。だいぶお待たせしちゃったね。私、もうおばあちゃんだよ。ずっと一緒にいてくれてありがとう。あなたに出会わなければ空を飛ぶどころか外にすら出たいなんて思わなかったよ。一緒に空、飛びたかったな』
アネモイからの手紙だった。
完成間際で空を飛ぶのを目前にして彼女は旅立った。
もう一つの箱も開けてみる。
そこにも手紙が置かれていた。
さっきとは違う字でこう書いてある。
『この手紙を読んでいるということはここに辿り着いているのでしょう。もしアネモイと同じ境遇の人がいるのなら、マルアハの水を飲んで空を飛んでください。アーユスの力を持つものならその血を捧げることで水が反応するはず。大天使は見てくださっています。どうかアネモイの想いを叶えてください』
ラメクが書いたのだろう。
でも、その血をどこに捧げれば良いんだ?
本にも記載はなかった。
それに肝心の水がどこにもない。
しばらくすると再び黒い蝶々が現れ壁の方へと飛んでいく。
いま頼れるものは彼らだけ。
導かれるままについていくと、壁がゆっくりと動き、その奥に大きな銅像があった。
その銅像の手のひらの上に黒い蝶々が止まる。
ヘラゼウスと同じ白と黒の四つの羽が生えた美しい像。
「大天使アストライア」
そう言ったシルフィは自分の唇を噛み、自らの血をその蝶々に落とす。
すると、黒い蝶々は小さな瓶に入った透明な水へと姿を変えた。
それは光に照らされる海のように光り輝いていた。
「これがマルアハの水?」
「たぶん」
あのときなぜ血を蝶々に落としたのかシルフィ本人もわからないと言う。
気がついたらそうしていたようだ。
程なくして神殿が大きく揺れ出した。
このままだと二人とも潰されてしまう。
急いで外に出ると神殿は地上に崩れ落ちていった。
何はともあれ水は手に入れた。
これでシルフィの願いが叶う。
いますぐ飲んでも良かったが、せっかくならシェラプト上空で飛びたいという彼女の想いを汲み、今日は小屋で眠ることにした。
朝になりキュクノスの群れと合流する。
シルフィはクリュティエに乗り、僕は妹のプロクレイアの背中に乗った。
妹と言っても見た目だけでは正直どっちかわからないくらいそっくりだ。
横並びで飛んでいるクリュティエが僕に警告を鳴らす。
「おい、地上人。妹を怪我させたらただじゃおかないからな」
「ちょっとクリュティエ。カナタくんを脅かさないでよ。そんなことするような人じゃないわ」
「だいぶ信頼しているようだが少し甘すぎるぞ。地上人に肩入れなどして何になる?」
「肩入れなんてしてないわ」
「こんな頼りないやつのどこかいい?」
地上人という枠組みだけで判断するクリュティエに対して珍しく口調を荒げるシルフィは一瞬むすっとしながら、
「カナタくんは優しくてかっこいいもん」
淀みのない言葉でそう言い切った。
シルフィさん、いまかっこいいって言ってくれました?
それはイコール好きってことですか?
友達として好き?それとも異性として好きと捉えて良いのでしょうか?
もし後者だったら一緒に買い物に行ったり、夜景を見に行ったり、仕様もないことで笑い合ったりしたい。
そんな美しい妄想だけが頭の中を駆け巡る。
気持ちが昂り思わず口元が緩むと、身体が左右に大きく揺れた。
「地上人、背中の上で揺れるな。くすぐったい」
妹のプロクレイアに怒られるまで気づかなかった。
もしいまのニヤけ顔をシルフィに見られていたらと思うと急に恥ずかしくなってきた。
プロクレイアの白く大きな背中はふかふかだった。
まるで人をダメにするソファに座っている感覚になる。
気を抜いたら眠気にやられて地上に落っこちてしまいそうになので、両手で頬を叩いて気合いを入れる。
雲海を抜けると飛竜島の上空付近にやってきた。
島には飛竜の子供たちが背中を丸めながら気持ち良さそうに眠っている。
大人の飛竜の姿は見当たらない。
おそらく狩りに出ているのだろう。
飛竜の子供は小さいものでも全長五メートルはある。
その分食べる量も相当だ。
音を立てないよう静かに飛竜島を越えようとしたそのとき、背後から気配がした。
全長十メートルはあるだろう大きな身体、赤と青のオッドアイに四枚の羽を動かしながら近づいてくる一体の飛竜。
「あいつは、レブレ」
クールな印象だったクリュティエが珍しく狼狽している。
「レブレ?」
「この飛竜族のボスよ」
妹のプロクレイアが続く。
少し震えた声には畏怖の念が籠っているようにも感じた。
「島と子供たちを守るためなら何でもするヤバイ奴だ。一口で我々を喰らい、たった一息で島を破壊するほどの力を持つ」
クリュティエの言葉に凍りついた。
近づいてくるレブレから逃げるようにスピードを上げる。
他のキュクノスたちも羽を激しく動かし後に続く。
僕もシルフィも振り落とされないように必死にしがみつく。
しかし、レブレは微動だにしない。
オッドアイの鋭い眼光でこちらを見つめながら徐々に近づいてくる。
「お前たち、ここで何をしている?」
戦慄して何も答えられない。
「ここは我々の島だ。下手なことをしたら許さんぞ」
「少し通らせてもらっただけですので」
おそるおそる返答するシルフィをじーっと睨めつける。
何かを考えている様子のレブレだが、その目は相変わらず鋭く怖かった。
「お前、エインデ人か?」
シルフィに向けて問いかけるも彼女は何も答えなかった。
いや、答えられなかったというのが正しいかもしれない。
少し経つと、レブレはそれ以上追ってこなかった。
どういうことか理解できなかったが、この機を逃すまいといまのうちに島を越えようとしたとき、
「やはりな」
プロクレイアが意味深な言葉を発した。
「地上人、決して振り向くなよ」
「どういうことだ?」
「囲まれてる」
「何に?」
「飛竜たちにだ」
嘘だろ?
さっきまではレブレしかいなかったはず。
この一瞬で何が起きたと言うのだ。
「私たちを見つけたレブレの指示で戻ってきたんだろう。奴らにとって私たちキュクノスの肉は贅沢だからな」
この時期は冬眠に入る動物も多く簡単に餌をゲットできない。
子供たちを守るため、飛竜たちもヘメリア中を飛び回って餌を獲ってくる。
そんな時期に大量のキュクノスの群れが現れたのだからこのご褒美を逃すまいと必死なのだろう。
まるで飛竜島から出る選択肢を与えないよう、合流した飛竜たちが全方向で一定の距離を保って飛行している。
「さて、どうするかな」
ボソッとプロクレイアが呟いたと同時に斜め前を飛んでいたクリュティエの真横にピタッとついた。
クリュティエとプロクレイアは何かを話しているようだが、風の音が強くて聞き取れない。
「おい、地上人」
少し緊張を孕んだ声でプロクレイアに呼ばれる。
「なぁ、そろそろ名前で呼んではくれませんかね?」
出会ってから日は浅いが、さすがによそよそしいと感じてしまう。
せめて苗字でも良いから名前で呼んで欲しいものだ。
「地上人であることに変わりはないだろ?」
このキュクノスという巨大白鳥族はみんなこうなのか?
理屈っぽいというか何というか。
もう少しシルフィのように可憐で煌びやかで感情豊かになれないものかね。
「このまま行けばやつらの檻の中だ。覚悟しておけよ」
覚悟するって何を?
ここで死ぬのは困る。
ようやくマルアハの水を手に入れたんだ。
彼女が空を飛ぶところを見られないなんて絶対に嫌だ。
シルフィの顔を見ると、真剣な眼差しで真っ直ぐ前を向いていた。
きっとこの状況をどう打開するか考えているのだろう。
すると突然、キュクノスの群れが阿吽の呼吸でスピードを一気に上げ突っ切っていく。
それに驚いた飛竜たちが全方向から追いかけてくる。
目の前から突風が直撃してまともに息ができないくらい高速で進んでいく。
それでもキュクノスの群れと飛竜たちのリレーは止まらない。
飛竜島の上空を過ぎるか否かのとき、目の前に大きな飛竜が現れた。
オッドアイのその瞳は間違いない。リーダーのレブレだ。
いつの間にか僕らの正面に回り込んでいたのだ。
一気に緊張が走る。
「おい、カナタ」
プロクレイアがはじめて僕の名前を呼んでくれた。
なんだろうこの嬉しい気持ち。
小さいころ、母の日にプレゼントした拙い似顔絵を宝物のように額縁に飾っている姿を思い出した。
そのときの母からのありがとうは、いままでのどのありがとうよりも強く印象に残っている、
なぜ彼女が僕の名前を呼ぼうと思ったのか、それを訊くことはしなかった。
「目を瞑っていろ」
その言葉を疑いはしなかった。
どうしてか素直に目を瞑っていた。
程なくして、激しい音とともに激痛が走る。
熱を帯びた風と同時に地面に叩きつけられた。