マンションを出ると冷え込んだ空気が首元を過ぎた。
家を出て数分。先に口を開いたのは翔太だった。
「なんでわかったの?」
口先をとがらせる翔太に、俺は得意げに答える。
「イチジク味がなかったから」
「え?」
現在、俺はオレンジ味を2本飲み終わり、翔太はオレンジ味を1本飲みかけの状態だ。
元々は、それぞれが3人分のお酒を用意する予定だったため、冷蔵庫には残り3本あるはずだ。
だが、冷蔵庫の中には缶チューハイが2本しかなかった。
オレンジ味とブドウ味。俺の苦手なイチジク味はない。
人の好き嫌いまで覚えているようなマメな奴が、買い忘れたなんて考えにくい。
つまり。
「翔太ははなから雄介の分の酒は用意してなくて、俺と自分の分しか酒を用意していなかったんだろ?」
「それは……」
「あとスリッパが一足しか用意されてなかった」
「あー」
翔太はそこで観念した様子で頭をかいた。
「なんでこんな回りくどいことしたんだよ」
「二人で話がしたかったから」
「ならそう言えば」
「二人で会おうって言っても来なかっただろ」
俺が立ち止まると、翔太は数歩先で振り返る。
「あの時さ……」
「あの時ね」
これまでなかったことにしていた時間について言及されることに、不思議と焦りはなかった。
酒のせいだろうか。妙に気持ちが落ち着いており、なにを言われても平気だという余裕があった。
ふと電柱の陰に数日前に降った雪がまだ残っているのを見つけた。黒い埃が混ざったシャーベット状の雪には通行人が傘を刺してできた小さな穴が無数に開いている。
俺はなんとなく足で踏んだが、すでに凍っており足跡はつかなかった。
「なんであの時、キスしなかったの?」
「なに? してよかったの?」
「うーん……」
「悩むなよ」
翔太が笑い、俺も笑う。
笑いながら、記憶はあの夏の夜へと巻き戻される。
互いの体温が、息が、意識が交じり合う中、俺たちはほとんど本能で相手の唇を求めていた。翔太の顔がゆっくりと近づく。俺も顔を近づける。
しかし、俺はとっさに身体を翻し、背中を向けた。
「やめよ」
すると、翔太もまた身体を翻す。
長い夜だった。俺はいつまでも、翔太の寝息を聞いて過ごした。
「友だちだからだよ」
それが翔太とキスをしなかった理由であり、言い訳だ。
俺は怖かったんだ。
翔太と友だちじゃなくなることが。
朝になった時、翔太に後悔してほしくなかった。拒絶されたくなかった。否定されたくなかった。
翔太は小さく頷いた。
「真面目だね」
「いや、ただビビっただけだよ」
俺は笑う。だが、翔太は笑わなかった。
冷えた指先を見つめ、俺は口を開く。
「翔太は」
「俺さ、さっき恋人はいないって言ったけど、好きな人はいるんだ」
俺の言葉を遮り、翔太は話を続ける。
「バイト先の先輩でさ、女子っぽくないというか、すごい不思議な人で。いつもはだらしないけど、仕事は誰よりもはやくて。でもお客さんと喧嘩とか平気でするし、かと思ったらいつのまにかお客さんと一緒にお酒飲んでたりもして」
翔太はすごい人だったよ、と言葉をこぼす。その一言には先輩に対する尊敬と、愛しさと、寂しさが混じっていた。
「なんていうか、豪快な人だな」
「うん。俺もそう思ってた」
翔太の息が白く濁り、すぐに消えた。
「でもさ、急に来なくなっちゃんだ。店長も連絡取れなくて、それっきり」
バイト仲間からは先輩は精神を病みがちだったとか、実家に帰ったとか、長い間付き合っていた彼氏と結婚することになったとか、嘘か本当かわからない話を聞いたらしいが、翔太にとってはどれもどうでもよかったという。
ただ、今はもう先輩に会えないことだけが翔太にとっては真実だ。
「告白できないってつらいな」
翔太は半分笑いながら、鼻をすする。
「それがもし、期待した答えじゃなかったとしても俺は答えが欲しかった」
「それって……」
急に何の話をし始めたのかと思っていたが、今の話こそが俺に嘘をついてまで二人で会おうとした理由だとすれば。
「俺に、告白させようとしてたってこと?」
「だって、俺のこと好きでしょ」
あまりにも当たり前にいうから、俺は頷くほかなかった。
「……まぁ」
「だからさ、お前につらい思いさせてたら嫌だなと思って」
「なにその気づかい」
要らぬ心配。余計なお世話。
まったく、なんてことをしてくれたんだ。俺は。
「俺はこれまで通りでよかったよ。高校の頃のまま、友だちのまま……」
すると、遠くから騒ぎ声が聞こえた。
よく見れば着慣れていないスーツ姿の男が数人、団子のように固まってわいわいと笑いあっている。彼らもおそらく俺たちと同じ新成人だろう。
はしゃぎあい、笑いあっている集団に、学生時代の俺たちの影が重なる。
その集団には翔太の姿を愛おしく、そして辛そうにみつめる自分の姿があった。
「でも、そういうわけにもいかないよな」
俺もそろそろ終わらせないといけないのかもしれない。
友だちという関係に押し込め、いびつに歪んだこの片想いを。
俺は歩き出すと、並んで翔太も歩き出す。
凛とした夜の空気に肌がつんと張り詰める。
「楽しかったな」
「うん、楽しかった」
俺たちはそう言いあった。
俺と翔太はよく似ていて、少しだけ違っている。
俺は翔太との日々を思っている。
翔太は学生時代のことを思っている。
そんな些細で、確かな違いが俺たちにはある。
人通りが少ない暗い道を歩いていると、俺の手と翔太の手が当たった。
俺はそのまま翔太の手を握ると、翔太は一度手の力を緩め、俺の指の間に自身の指を絡めて、また握った。
翔太の手は冷たくて、どれだけ強く握っても、翔太の体温はさほど感じられなかった。
ホームにつくと、あと五分で終電がつくとアナウンスが流れた。
ベンチには缶チューハイを持ったおじさんが沈んだように眠っており、俺はホームぎりぎりに立つ。
「またな」
そういって手を挙げる翔太の姿がすでに遠い過去のように思える。
俺は白く冷えた自分の手のひらを見つめる。
結局、あの夏の夜に翔太がどうして俺の手を握ったのかはわかっていない。
それが気の迷いだったのか、はたまた俺に好意を抱いてくれていたのか。
どちらにしても、今ここに一人でいることが答えだ。
「好きだよ」
ずっと言えなかった言葉を口にしてみると、目頭がきゅうっと痛くなった。
お気に入りのコートも、まとった香水も、全部がバカらしくて、情けなくて。
それでも泣きたくなくて、必死に顔を上げると月がひどく滲んで見えた。
すると突然、コートを後ろに強く引っ張られ、バランスを崩して尻もちをついた。
訳が分からず後ろを見るとベンチに座っていたはずのおじさんが半分目を閉じたまま立っていた。
「ばっかやろう……、しぬにはおめえ、はええんだよぉ……」
「いや、死ぬつもりは」
そういうとおじさんはその場で吐いた。滝のようだった。
そのあとすぐに電車がホームに滑り込んできて、俺は逃げるように電車に飛び乗った。
心臓がばくばくと跳ねる。
落ち着いたころによく見ると、コートの端におじさんの吐しゃ物がついていた。
酸っぱい匂いがきついし、手は擦り剝けてじんじんと熱を帯びていた。
「なんなんだよ……」
だんだんと笑えてきて、俺は一人で笑い続けた。
向かいに座る女性が席を移動しても、俺は涙をぬぐいながら笑い続けた。
終わり。