「せめて乾杯しようよ」

 苦笑交じりに翔太は立ち上がり、キッチンからふたたびオレンジ味の缶チューハイを持ってくる。
カシュ、と軽い音が続けて鳴り、俺たちは改めて缶を掲げる。

「酒飲めるようになったの?」
「付き合い程度にね。家では飲まないよ」
「えー、俺家でも飲むよ」
「大人だな」
「どこがだよ」

 俺のツッコミに翔太は満足そうに酒を飲む。
 そんな姿を見ていると、人生で初めて酒を口にした日のことを思い出す。
 あれは高二の夏休みだった。
 夏祭りだったか、心霊スポット探索か、はたまた桃鉄オールだったか。目的は忘れてしまったが、俺は友だち数名と翔太の家に泊まった。
 夜も深まった頃、誰かが家から持ってきた酒を取り出した。
別に誰も酒の味に興味があったわけじゃないし、大人の真似事をしたいとか、不良ぶりたいとか、そんな意味も意義もなかった。
 ただなんとなく、非日常感を味わいたいだけだった。
 アルコールの匂いは強烈だし、長い間常温保存された微炭酸の缶チューハイは美味しくなかった。それでも身体の奥は熱くなり、気分が高鳴るのを感じた。
 翌朝。いつまでも寝続ける俺たちを起こしにきた翔太の母親に酒の空き缶が見つかり、翔太は母親からこってりと怒られた。あの時の気まずさと言ったらなかった。……あ。

「なに?」

 思い出し笑いで口元が緩み、俺はぼそっと言葉を漏らす。

「華麗なる高崎一家」
「うわ、なつかしすぎる」

 あの日。激しく怒る翔太の母親は俺たちの存在を忘れていたのか、こんな言葉を口走った。

「高崎家の子どもとして恥ずかしいと思わないの?!」

 それから俺たちの間で「華麗なる高崎一家」というワードが流行りまくった。ワードだけでなく、みんなで翔太の荷物を持ったり、翔太のことを「ぼっちゃん」と呼んだり。
 中でも雄介が家から赤いカーペットを持ってきて翔太の前に敷いた時はみんなで笑い転げた。
 その時のことを思い出しているのか、翔太はケラケラと笑う。

「実家帰ってんの?」
「盆と正月はね。ゴールデンウィークとか春休みも帰って来いって言われるけど」
「ふーん……」

 ふいに訪れる沈黙を、酒を飲んで間をつなぐ。

「なんか適当に作ろうか」
「え、料理できたっけ?」
「居酒屋バイトで鍛えました」

 翔太はムキっと細い腕を曲げるが、力こぶは現れなかった。キッチンへ向かう翔太に俺は問いかける。

「なんで居酒屋?」
「知り合いが働いてたから。シフトの融通聞くし」

 あとさ、と冷蔵庫をのぞきなら翔太は続ける。

「料理できる男はモテるからね」

 心臓がドキリと跳ねる。
 知りたいけど知りたくない。
 聞きたいけど聞きたくない。
 天秤がぐらぐらと揺れるたびに、心臓が痛いくらいに締め付けられる。結局、その痛みに耐えきれなくて俺は酒をごくりと飲み、平静を装い口を開く。

「……いま、付き合ってる人は?」
「いないよ」

 何気ない一言に、胸の痛みがすーっと引いていく。すると、かすかに手のひらに熱を覚えた。指先の血管がどくどくと脈打つ。

「あの時……」
「ん? なに?」
「いや」

 俺はこぼれそうになった言葉を酒と一緒に飲みくだす。

 初めて俺たちが酒を口にした夜のこと。
 酒のせいもあってか友人たちは次々と夢の世界へと旅立っていき、俺と翔太だけが起きていた。俺もまぶたが重くなり、そろそろ寝ようかとあたりを見回したがソファも床もすでに占拠されており、俺は当たり前のように翔太が寝転ぶベッドに割り込んだ。

「狭いんですけど」
「知らないんですけど」

 俺たちは肩を寄せ合い、タオルケットを奪い合い、笑いあい、そして電気を消した。
 窓の外から入り込む涼しげな風が俺の酒気と身体の熱を冷ましていく。
 すると、手の甲に感触を覚えた。
 翔太の指先が俺の手の甲に触れている。当たっただけかと思ったが、指先は手の甲から俺の指へと進み、いつしか手と手が重なり合っていた。
 寝ぼけているのか、はたまた酔っぱらっているのか。
 だから俺は手のひらを裏返し、翔太の手を握った。
 すると、翔太は俺の手を握り返し、一度緩めて、俺の指の間に自身の指を絡めて、また握った。
 俺は静かに顔を向けると、翔太の顔がすぐ目の前にあった。
 手先から感じる相手の体温に引き上げられるように、俺の身体も熱を帯びる。それは翔太も同じだった。
 息が上がる。視線がぶつかり、鼻の先、そして、その下へと意識が向かう。
 そして……。

「ペース早くない?」
「え?」

 キッチンに立つ翔太から声をかけられ、俺は最後の一滴まで飲み干していることに気がついた。
 俺は適当に笑って、缶をぎゅっと握りつぶす。
 あの日のことは、俺たちの中では『なかった』ことになっている。
 それでよかったと、今では思う。
 でなければ、俺たちは友達のままではいられなかっただろう。
 だが、ふとした時に、あの時の熱を思い出してしまう。
 へしゃげた缶を見つめながら、俺は心の中で問いかける。
 なぁ、翔太。

 あの時、なんで俺の手を握ったんだ?