冷えた指先で銀色のオートロックに部屋番号を入力し、呼び出しボタンを押す。
 ピンポーンとベルが数回鳴る間、空を見上げると雲の切れ間から月が見えた。
 満月か、と声が漏れると同時に自動ドアが開く。
 エレベーターに乗りボタンを押す。閉ざされた密室で俺は背面に設置された鏡を見ながら冬風にさらされた髪をととのえる。髪形がきまると、また次の不安が襲ってくる。
 服装はこれで問題ないだろうか。
 大人っぽくシックにまとめたつもりだが、逆に渋すぎると思われないだろうか。匂いは大丈夫だろうか。
 香水をつけすぎたかもしれない。
 ひげや眉毛の剃りのこしはないだろうか。
 歯になにか挟まっていないだろうか。
 ほかにも……。
 俺は鼻毛が出ていないか、鏡に向かって猿のように鼻の下を伸ばしたところで天井の隅に設置された防犯カメラの無機質な瞳と目があった。

「なんか顔赤くない? 外寒かった?」
「べつに」

 それが高崎翔太と交わした久しぶりの会話だった。

 翔太とは同じ高校で、ほかにも数名の男子でつるんでいた。
 部活に所属せず、恋人もできず、なにかに一生懸命に打ち込んだわけでもない、そんな平凡な三年間だった。
 俺たちの進路はバラバラだった。
 地元に残ったり、県外に出たり。進学したり、就職したり。
 中でも俺と翔太、そして雄介は地元を離れ、同じ地方へ移り住んだが、俺と翔太は別の大学、雄介は就職とやはりバラバラで、初めのころはよく会っていたが時間が経つにつれ、集まることは減っていった。
 翔太からメッセージが来たのは一か月前のことだった。

『成人式出る? 俺は授業あるから行かないんだけどさ』

 うちの地方では成人式は一月の第二週の土曜日に開催される。
 出席するか迷っていたが、翔太からのメッセージで俺の予定は確定した。

『めんどいから行かない』

 翔太は笑い転げる犬のスタンプを送ったあと、続けてメッセージを送った。

『じゃあさ、夜にうちで飲む? 雄介も来るって』

「雄介は?」
「まだ来てないよ」
「ふーん」

 そういって俺は床に置かれた一組のスリッパに足を入れる。
 パタパタと音を鳴らしてリビングへ入ると、暖房のぬるく心地よい空気が身体を包み込む。

「相変わらず広いな。何畳だっけ?」
「八か九だったかな。十はなかったはず」
「あ、これ」
「ありがとー」

 キッチンへ向かう翔太にコンビニ袋を手渡し、部屋全体を見回す。
 ポテチやつまみなどが置かれた小さなテーブル。ソファ。タンス。そしてベッド。
 大きな家具はそれくらいで、白い壁にはポスターなどは貼られていない。
 いたってシンプルだが、変わった形の間接照明やベランダに見える小さな観葉植物がアクセントになっていて、とてもいい。大人の一人暮らしの部屋って感じ。洗濯物や飲みかけのペットボトルで足の踏み場がない俺の部屋とは大違いだ。
 すると、キッチンから翔太の笑い声が聞こえてきた。

「なに?」

 翔太はニヤニヤと冷蔵庫を開け、缶チューハイを見せてくる。それは俺が買ってきたものと同じ商品名のものだった。

「同じもの買ってくるなよ」

 まじか、と俺も噴き出す。

「なんか新発売って書いてあったから。でも味違うじゃん?」

 翔太が持っているのはブドウ味。俺が買ってきたのはオレンジ味だ。
 しかし翔太は冷蔵庫からオレンジ味も出してくる。

「ブドウとイチジクもあったでしょ。なんで三本ともオレンジなんだよ」
「俺イチジク嫌いだし」
「知ってるけどさ」

 答えになっていない返答に翔太がまた笑い、俺も笑った。

「雄介も同じやつ買ってきたらウケるな」
「たしかに」

 無駄に買いすぎないように俺と翔太と雄介はそれぞれが一本ずつ酒を買い、適当な菓子や総菜を買ってくることになっていた。まさか被ってしまうとは。

 俺と翔太はよく似ていて、少しだけ違っている。

 俺は一つの味を三本買う。
 翔太は三つの味を一本ずつ買う。
 そんな些細で、確かな違いが俺たちにはある。
 翔太はオレンジ味の缶チューハイを二本机に置くと、クローゼットからハンガーを取り出す。

「コート、しわになる」
「あぁ」

 俺はハンガーを受け取り立ち上がると、反対に床に座った翔太が俺を見上げながら呟く。

「そのコート似合ってるね」
「まじ?」
「うん。かわいい」

 何気ない一言が、俺の心を突き刺す。俺は緩む口元を必死に隠しながら、コートをハンガーにかける。

「やっぱ顔赤いよ。暖房下げる?」
「べつに」

 俺は再びソファに腰掛け、缶チューハイの封を開けるとそのまま一気に飲み干した。


 顔の火照りを酒のせいにしたいから。