☕️
大学を中退した。
理由は色々あったが一番は生きるためだ。
いま思うと大学にはどうしても行きたかったわけじゃない。
自分に言い聞かせているとかそういうことではなく、行く理由を見出せなくなった。
偏差値もそこそこの近場の高校に通い、なんとなく野球を続けた。
夢や目標があるわけでもなかったが、とりあえず大学の道を進んだ。
そんな成り行き任せの人生を送ってきたが、母さんも死んで俺の人生は大きく変わった。
それは、兄さんが突如失踪してから約1年後のことだった。
狭く感じていた家は無駄に広く感じ、カトラリーが食器に当たる音が心を抉った。
誕生日に親友たちがサプライズで家に来て祝ってくれたけれど、1人になった途端とんでもない孤独感に押し潰されそうになった。
もうこんな思いしたくない。
マッチングアプリに登録してみたり、バイトを掛け持ちして出会いを求めた。
運良く付き合えた人もいたがすぐ別れた。
きっと本気じゃなかったんだと思う。
自分の孤独感を紛らわすことにあったからだろう。
誰かと繋がっているという実感が欲しかったのかもしれない。
バイト生活で食い繋ぐのも限界があることに気づき、実家からいまの家に引っ越すため転職を決意した。
もしダーマ神殿のような場所が実在したらすぐに転職できるのだが、現実はそう簡単じゃない。
いくつか受けてなんとか採用してもらったのがいまの会社。
数ヶ月の研修を経て正社員になってすぐのこと。
同期の七海 梨沙と出会った。
小柄でリスのような可愛らしい顔をした子だ。
梨沙と俺は同じ部署に配属され、お互い両親がいないことや趣味が合うこともあっていつしか惹かれ合い、付き合うことになった。
最初は一緒に出社、一緒にランチ、たまに泊まりに行き、映画を観たりカフェ巡りしていたが、3ヶ月も経つとバラバラに出社、ランチは別々、連絡も週に1回するかしないか。
俺は同学年に比べて恋愛経験が少ない。
それもあって梨沙には色々と求めてしまっていたし、不満や本音を言えずに鬱積が溜まっていった。
一方の彼女はもともとそこまで欲のない性格からか、俺との関係が重いと思うようになり、彼女の表情から笑顔は消え、次第に心の距離は遠のいていった。
それを知ってか否か梨沙は新しい場所へと異動となり、その数ヶ月後、アプリで知り合ったという別の男と付き合っていた。
それからというもの、俺は仕事に没頭するようになり、大きなプロジェクトのリーダーを任され、その結果出世もできた。
そういった意味では感謝している。
いま思うと、お互いの寂しさを紛らわせたかっただけなのかもしれない。
**
空はまだ少し青く、落葉に変わるまでには時間がかかる。
今日は新人の研修のみだったので日中には終わった。
駅近くのカフェでアイスコーヒをテイクアウトしてそのまま滝沢商店へと向かう。
例年に比べ、今年の夏は湿気が少なく過ごしやすい。
背中には汗が滲むが、それでもネクタイを緩めるほどではない気温だ。
生ぬるい風はなく、少し強くも涼しい風を浴びながら飲むコーヒーが数倍美味しく感じるのは俺だけなのだろうか?
店までは歩いて15分近くかかる。
都電が横切るなか、飛鳥山公園の向かい側の急勾配を上って向かう。
母校を通り、信号を渡ると目的の場所が見えてきた。
氷が半分ほど溶けたカップを手に持ち、ベンチを見る。
しかし、この前の彼女はいなかった。
さすがにそんな奇跡起きないかと思いながら店に入る。
今日買うものは決めていた。
チョコバットとココアシガレット。
チョコとコーヒーの相性が最強なのは言わずもがなだが、無性にココアシガレットが食べたくなりレジまで行く。
駄菓子を持っていつもの定位置に座る。
なぜだがここに座ると落ち着く。
チョコバットを秒で頬張り、コーヒーを横に置き、ココアシガレットを口に挟みながらスマホのアプリを立ち上げる。
ログインボーナスをもらった後、1回無料のガチャを回す。
前回負けたボスにリベンジすべく地道にレベルを上げていった。
ガチャという名の課金地獄に溺れないよう自分に制限をかけながらダンジョンを攻略していく。
人生のように一歩ずつ。
あと少しでボスのいるエリア。
だいぶレベルも上がってきた。
いまのパーティーなら勝てる。
指で画面をタッチしてボス戦へと挑もうとしたそのとき、
「タバコ」
美しい声音の中に冷たさを感じた。
その声の方を見ると、アイスを持った彼女と目が合った。
そう、この前ベンチ座っていた綺麗な人だ。
しかも今日はハーフアップにしている。
頸《うなじ》と婀娜っぽいデコルテラインが俺の体内を高揚させていく。
女性の髪型の変化というものはどうしてこんなに犯罪的可愛さなのだろうか。
そんな気持ちを切り刻むかのように鋭い声が身体を打ちつけてくる。
「ちょっと、こんなところでタバコ吸っちゃダメですよ!何考えてるんですか!」
タバコ?
口に咥えているこれのことを言っているのだろうか?
初対面で冗談を言うようなクレイジーな子には見えない。
彼女の目は真剣そのものだ。
まるで腫れ物に触るようなそんな表情をしている。
「これ、お菓子ですけど」
そう言ってココアシガレットの箱を見せる。
まじまじと見ている彼女の表情がみるみるうちに赤くなっていく。
白い肌だけに余計目立つ。
「あ、あの、すみませんでした」
申し訳なさそうに深くお辞儀をする彼女。
謝罪する彼女には逆に申し訳ないが、これは好機かもしれないと思った。
「よかったらひとつどうですか?」
ココアシガレットを箱から1本取り出して渡そうとする。
「で、でも……」
先ほどのことを引きずっているのか、もじもじとしている。
ちょっと言い方を変えてみることにした。
「じゃあ一緒に吸いませんか?」
恥ずかしさからなのか、目を逸らしながら小さく首肯した彼女が俺の横に座る。
「あ、あの、さっきは本当にごめんなさい。私、これがお菓子って知らなくて」
顔が真っ赤になって下を向いている彼女はすごく可愛かった。
「いえ、別に。ややこしい食べ方したのは俺なので」
これは僥倖だった。
どんな流れであれ、彼女と会話することができたのだから。
「怒って、ないんですか?」
怒ってなんかない。むしろラッキーだ。
気まずいわけじゃないが、できるだけ明るい話題に変えたいと思った。
「この店にはよく来るんですか?」
「いえ、この前はじめて来ました」
「どうしてまたここに?この辺何もないですよ」
「私、ここから見える景色が好きなんです」
「景色?」
「はい。数年前に上京してきたんですけど、まだ東京に慣れなくて。学校は楽しいし、友達とも仲良くできているんですけど、急に不安になることがあるんです。ホームシックってやつですかね。でも、この席から見える景色は地元を思い出させるのですごく落ち着くんです」
なるほど、そういうことだったのか。
「ちなみにどこから来たんですか?」
「福岡から来ました」
「だからか」
「??」
怪訝な顔をされても無理はない。
これだけの美人に博多弁を使われたらみんなイチコロだろう。
出会ったばかりでいきなり美人だなんて言ったら気持ち悪がられるから、言葉には出さずに心の中で留めておいた。
「たしかに東京は疲れますよね。どこ行っても人多いですし」
彼女の言う通り、東京は心が病みやすいと言われている。
いろいろなものに追われて自分のことで精一杯になりがち。
自分のやりたいことや誰かのためにしてあげたいこと。そういった感情は後回しにしてしまう。
ここでは多くの人が他人に干渉することを棄ててしまう。
「すみません、別に東京のことを悪く言うつもりはなくて」
彼女の意見を頭の中で整理していたら険しい表情になっていた。
寄っていた眉間の皺を直してすかさずフォローする。
「俺も人の多いところは苦手なので。それに比べて福岡は安くて美味しい店がたくさんあって羨ましいです。ラーメンも美味しいから飽きないですよね」
「はい!福岡はラーメンが有名ですけど、うどんも美味しいお店がたくさんあるんですよ!魚や果物も美味しいものがたくさんあるし、人の多さもちょうど良くて本当に最高の場所です」
地元への愛を語る彼女の目はとてもキラキラしていた。
「地元が大好きなんですね」
「はい、大好きです」
破顔した彼女はとても可愛らしく、第一印象のクールなイメージをガラリと変えた。
「俺も地元が好きです」
「この店にはよく来るんですか?」
「小さい頃は兄さんとよく来ていました。この店のベンチに座ると不思議と落ち着くんです」
「落ち着く場所があるって素敵ですね」
彼女はこっちを見ながら微笑んでくれた。その度に耳が熱くなるのを感じる。
好機を逃すまいと俺は勇気を出す。
「せっかく出会えたので連絡先交換しません?」
「はい、ぜひ」
連絡先を交換してお互いの名前を把握する。
そういえば自己紹介していなかった。
彼女の名は神法 紫苑さん。
モデルのように綺麗なのに彼氏はいないらしい。
地元の美味しい店、お互い末っ子だということや好きなアニメ、好きな映画の話などおそらく30分以上は話していただろうか。
話に夢中になりすぎて、彼女は大事なことを忘れてしまっていたようだ。
「紫苑さん、アイス!」
彼女の手にあったはずのアイスはほぼ溶けて無くなっていた。
「ぎぇあっ!」
彼女は驚きのあまり、その美しい見た目からは想像できないような声を出していた。
アイスがドロドロに溶け、スカートが濡れている。
こんなときに申し訳ないが、見かけによらずお茶目な一面がある彼女を知ることができて得をした気分だ。
赤い花弁のイラストが描かれたハンカチをスーツのポケットから取り出して彼女に渡す。
スカートを拭く彼女の手がふと止まった。
「この花、サネカズラですよね?」
「サ、サネ?」
初めて聞いた言葉にどう反応して良いか迷った。
このハンカチは小さいころよく物を零す癖があった俺に母さんがくれたもので、なんだかんだでずっと持っていた。
「花に詳しいんですね」
「はい。私、お花が大好きなんです。見ているだけで心が洗われます」
彼女の目がキラキラと輝きはじめる。
「お花にはそれぞれ顔や香りが微妙に違って、咲くだけで周囲の彩を変えるんです。寿命が短いのであっという間に散ってしまうのはすごく儚いですけど、それでも懸命に生きてる感じが健気で頑張れって応援したくなるんです。たとえばこのサネカズラの花は夏に咲くんですけど、花はクリーム色で可愛くて、赤い果実は美味しそうに見えて全然味がしないんですよ。面白いですよね」
まるで動物を愛でるかのようにニコニコしながら話す彼女。
この人、好きなことになると止まらないタイプみたいだ。
「このハンカチ、今度洗って返しますね」
「安いものなんで平気ですよ」
「そういうわけにはいきません。借りたものは返さないと」
意志の強さが混ざった彼女の綺麗な瞳に見つめられ、胸の鼓動が早くなった。
🍦
私にはお姉ちゃんがいる。
2歳上の桜咲はショートカットの似合う猫のような可愛い顔立ちに反してクールでしっかり者。
オシャレで頭が良くて流行りに敏感で、私とは真逆の女子力の高い人。
姉妹なのに顔も性格も全然似ていない。
天は二物どころか、三物も四物も与えちゃった。
同じ家族なのに私にはないものをたくさん持っている憧憬の存在。
だから喧嘩もしなかったしいまでもずっと仲が良い。
お姉ちゃんは彼氏が絶えたことがない。毎年違う彼氏を紹介された記憶がある。
地元でも度々タレント事務所からスカウトが来ていたことがあるらしい。でも芸能界に全く興味がなかったからあっさり断ったみたい。
身内が芸能人だったらなんてちょっとだけ考えたこともあったけれど、お姉ちゃんには小さい頃からの夢があった。
漫画が大好きなお姉ちゃんは地元の私立大学を卒業した後、念願だった大手出版社に就職した。
そんなお姉ちゃんから買い物を頼まれた。
急遽休日出勤することになってしまい、いつもの化粧水を買ってきてほしいとお願いされた。
部屋の掃除に夢中になってしまい、思ったより時間がかかってしまった。
カップスープを飲んだ後、昨日考えていたコーデを着る。
オフショルのシャツにワインレッドのロングプリーツスカート。
夕方以降ちょっと肌寒くなる予定だったので、デニムジャケットも羽織っていくことにした。
髪は掃除のときにしていたハーフアップのまま。
淡い期待と黒いハンドバッグを持って玄関で白いスニーカーを履いて出かける。
頼まれていた化粧水を買う前に昨日の店に寄り道をすることにした。
そこに行く理由は2つある。
1つはこの前買ったアイスの当たりが出たのだ。
そして理由はもう1つ。
十条駅から学校を抜け、お店の近くまで行くと、子供たちがカプセルトイやゲームをしながら遊んでいるのが見える。
大人の人影はない。
昨日のスーツの人に会えるかな?
少しだけ期待を抱いていた。
さすがにそんな偶然は起きるわけないか。
と思いながら店内に入ると、
(あっ!)
思わず心の中の声が飛び出しそうになった。
彼と目が合ったのだ。
ドキドキする気持ちを抑えつつ、店主のお婆さんに当たりの棒を渡して交換してもらう。
「あら、当たったのね。おめでとう」
あれ?昨日はあんなに無愛想だったのに今日はすっごい笑顔だ。
「ありがとうございます」
昨日の席に座ろうとすると彼が先に座っていた。
彼の方を見た途端、喜びの感情が怒りの感情はと姿を変えた。
なんと、タバコを吸っていたのだ。
ありえない。
駄菓子屋でタバコなんてありえない。
上気した私は思わず感情的になった。
「ちょっと、こんなところでタバコ吸っちゃダメですよ!何考えてるんですか!」
周囲にいた子供たちの動きが止まり、みんな驚きの表情を浮かべていた。
……もう、どうしよう。
彼が吸っていたのはタバコではなかった。
タバコに似た白く細長い棒状のお菓子を指で挟みながら舐めていた姿がそれを吸っているように見えたのだ。
耳が熱い。
穴があったら入りたい。
落ち着けって自分に言い聞かせようとする度に鼓動が叫んでくる。
私が欲しい鼓動はこっちじゃない。
変な女だと思われてるに違いない。
せっかく話だったのに、終わった……
「よかったらひとつどうですか?」
彼がココアシガレットを差し出してきた。
あんな失礼な発言をしたのに怒ってないの?
それとも何かのいたずら?
なんて答えたら良いのだろう?
「じゃあ一緒に吸いませんか?」
今度は笑顔でそう言う。
恥ずかしさを和らげるために言い方を変えてくれたのかな?
本心はわからないけれど、ニコッと笑うその顔に引き寄せられるように彼の横に座った。
彼はタバコを吸わないらしい。
こういうことを言うと失礼かもしれないけれど、完全に吸っていそうな顔をしていたから良いギャップだった。
彼の横は居心地が良かった。
パーソナルスペースなんて存在しないかのように。
連絡先を交換して彼の名を知った。
雪落 慶永さん。
彼女とは最近別れていまはいないらしい。
キリッとした目に広い肩幅。
この日は青のカジュアルスーツにオフホワイトのインナーを着て、バッグ、ベルト、革靴をブラウンで統一している。
彼は会話が途切れそうになると、話を敷衍してくれて、1つずつ聞き入ってくれる頭が良くて優しい人なんだと思う。
出会ったばかりだけれどすごく居心地が良い。
こんなに痩躯なのはただの胃下垂だからで、食べたらすぐに消化されるみたい。
私にもすこしはその消化力を分けてほしい。
彼曰く、胃下垂は猫舌と一緒で、症状の一種だから意識しながら食事すれば治るらしいけれど、太りたくないから胃下垂のままでいいみたい。
私もぽっちゃりよりは細い人の方が好きだから良い。
彼は連休になるとよく旅行に行くみたい。
スマホを取り出し、彼が私のすぐそばまで来て写真を見せてきた。
ちょっと、顔、近いよ。
彼の左腕が私の右腕に触れ、緊張と胸の高鳴りで右側の感覚をなくさせる。
男の人の匂いが私の全身を誘惑してくる。
やばい、どうしよう。
出会って間もないのにもう意識している自分がいた。
耳が赤くなっているのを髪の毛で隠し、ドキドキを抑えながら画面を覗くと、数人の男友達と一緒に変顔をしている。
クールな印象があったけれど、こんなお茶目な一面もあるのかと思うとちょっと得した気分。
でも私服姿はちょっと厳ついというかラフ。
ストリート系のファッションは動きやすさを重視しているかららしい。
気がつくと彼の写真と会話に夢中になっていた。
徐々に冷たくなっていく手の温度にも気がつかずに……
「紫苑さん、アイス!」
その声で下を見ると、ロングスカートにドロドロに溶けたアイスが落ちていた。
せっかくの機会に超恥ずかしい。
穴があったら入りたいって短時間で2度も思うなんて。
でも彼は引くことなくサネカズラのハンカチを渡してくれた。
僥倖だ。
これを返す口実でまた会うことができるから。
店内から出てきたお婆さんが閉店に向けてシャッターを下ろす準備をしている。
気がつくと客は私たちだけになっていた。
ハンカチを返す約束を交わして別れた。
家の最寄り駅に着いてあることに気づく。
お姉ちゃんに頼まれていた化粧水買うの忘れた。
また今度でいっか。
大学を中退した。
理由は色々あったが一番は生きるためだ。
いま思うと大学にはどうしても行きたかったわけじゃない。
自分に言い聞かせているとかそういうことではなく、行く理由を見出せなくなった。
偏差値もそこそこの近場の高校に通い、なんとなく野球を続けた。
夢や目標があるわけでもなかったが、とりあえず大学の道を進んだ。
そんな成り行き任せの人生を送ってきたが、母さんも死んで俺の人生は大きく変わった。
それは、兄さんが突如失踪してから約1年後のことだった。
狭く感じていた家は無駄に広く感じ、カトラリーが食器に当たる音が心を抉った。
誕生日に親友たちがサプライズで家に来て祝ってくれたけれど、1人になった途端とんでもない孤独感に押し潰されそうになった。
もうこんな思いしたくない。
マッチングアプリに登録してみたり、バイトを掛け持ちして出会いを求めた。
運良く付き合えた人もいたがすぐ別れた。
きっと本気じゃなかったんだと思う。
自分の孤独感を紛らわすことにあったからだろう。
誰かと繋がっているという実感が欲しかったのかもしれない。
バイト生活で食い繋ぐのも限界があることに気づき、実家からいまの家に引っ越すため転職を決意した。
もしダーマ神殿のような場所が実在したらすぐに転職できるのだが、現実はそう簡単じゃない。
いくつか受けてなんとか採用してもらったのがいまの会社。
数ヶ月の研修を経て正社員になってすぐのこと。
同期の七海 梨沙と出会った。
小柄でリスのような可愛らしい顔をした子だ。
梨沙と俺は同じ部署に配属され、お互い両親がいないことや趣味が合うこともあっていつしか惹かれ合い、付き合うことになった。
最初は一緒に出社、一緒にランチ、たまに泊まりに行き、映画を観たりカフェ巡りしていたが、3ヶ月も経つとバラバラに出社、ランチは別々、連絡も週に1回するかしないか。
俺は同学年に比べて恋愛経験が少ない。
それもあって梨沙には色々と求めてしまっていたし、不満や本音を言えずに鬱積が溜まっていった。
一方の彼女はもともとそこまで欲のない性格からか、俺との関係が重いと思うようになり、彼女の表情から笑顔は消え、次第に心の距離は遠のいていった。
それを知ってか否か梨沙は新しい場所へと異動となり、その数ヶ月後、アプリで知り合ったという別の男と付き合っていた。
それからというもの、俺は仕事に没頭するようになり、大きなプロジェクトのリーダーを任され、その結果出世もできた。
そういった意味では感謝している。
いま思うと、お互いの寂しさを紛らわせたかっただけなのかもしれない。
**
空はまだ少し青く、落葉に変わるまでには時間がかかる。
今日は新人の研修のみだったので日中には終わった。
駅近くのカフェでアイスコーヒをテイクアウトしてそのまま滝沢商店へと向かう。
例年に比べ、今年の夏は湿気が少なく過ごしやすい。
背中には汗が滲むが、それでもネクタイを緩めるほどではない気温だ。
生ぬるい風はなく、少し強くも涼しい風を浴びながら飲むコーヒーが数倍美味しく感じるのは俺だけなのだろうか?
店までは歩いて15分近くかかる。
都電が横切るなか、飛鳥山公園の向かい側の急勾配を上って向かう。
母校を通り、信号を渡ると目的の場所が見えてきた。
氷が半分ほど溶けたカップを手に持ち、ベンチを見る。
しかし、この前の彼女はいなかった。
さすがにそんな奇跡起きないかと思いながら店に入る。
今日買うものは決めていた。
チョコバットとココアシガレット。
チョコとコーヒーの相性が最強なのは言わずもがなだが、無性にココアシガレットが食べたくなりレジまで行く。
駄菓子を持っていつもの定位置に座る。
なぜだがここに座ると落ち着く。
チョコバットを秒で頬張り、コーヒーを横に置き、ココアシガレットを口に挟みながらスマホのアプリを立ち上げる。
ログインボーナスをもらった後、1回無料のガチャを回す。
前回負けたボスにリベンジすべく地道にレベルを上げていった。
ガチャという名の課金地獄に溺れないよう自分に制限をかけながらダンジョンを攻略していく。
人生のように一歩ずつ。
あと少しでボスのいるエリア。
だいぶレベルも上がってきた。
いまのパーティーなら勝てる。
指で画面をタッチしてボス戦へと挑もうとしたそのとき、
「タバコ」
美しい声音の中に冷たさを感じた。
その声の方を見ると、アイスを持った彼女と目が合った。
そう、この前ベンチ座っていた綺麗な人だ。
しかも今日はハーフアップにしている。
頸《うなじ》と婀娜っぽいデコルテラインが俺の体内を高揚させていく。
女性の髪型の変化というものはどうしてこんなに犯罪的可愛さなのだろうか。
そんな気持ちを切り刻むかのように鋭い声が身体を打ちつけてくる。
「ちょっと、こんなところでタバコ吸っちゃダメですよ!何考えてるんですか!」
タバコ?
口に咥えているこれのことを言っているのだろうか?
初対面で冗談を言うようなクレイジーな子には見えない。
彼女の目は真剣そのものだ。
まるで腫れ物に触るようなそんな表情をしている。
「これ、お菓子ですけど」
そう言ってココアシガレットの箱を見せる。
まじまじと見ている彼女の表情がみるみるうちに赤くなっていく。
白い肌だけに余計目立つ。
「あ、あの、すみませんでした」
申し訳なさそうに深くお辞儀をする彼女。
謝罪する彼女には逆に申し訳ないが、これは好機かもしれないと思った。
「よかったらひとつどうですか?」
ココアシガレットを箱から1本取り出して渡そうとする。
「で、でも……」
先ほどのことを引きずっているのか、もじもじとしている。
ちょっと言い方を変えてみることにした。
「じゃあ一緒に吸いませんか?」
恥ずかしさからなのか、目を逸らしながら小さく首肯した彼女が俺の横に座る。
「あ、あの、さっきは本当にごめんなさい。私、これがお菓子って知らなくて」
顔が真っ赤になって下を向いている彼女はすごく可愛かった。
「いえ、別に。ややこしい食べ方したのは俺なので」
これは僥倖だった。
どんな流れであれ、彼女と会話することができたのだから。
「怒って、ないんですか?」
怒ってなんかない。むしろラッキーだ。
気まずいわけじゃないが、できるだけ明るい話題に変えたいと思った。
「この店にはよく来るんですか?」
「いえ、この前はじめて来ました」
「どうしてまたここに?この辺何もないですよ」
「私、ここから見える景色が好きなんです」
「景色?」
「はい。数年前に上京してきたんですけど、まだ東京に慣れなくて。学校は楽しいし、友達とも仲良くできているんですけど、急に不安になることがあるんです。ホームシックってやつですかね。でも、この席から見える景色は地元を思い出させるのですごく落ち着くんです」
なるほど、そういうことだったのか。
「ちなみにどこから来たんですか?」
「福岡から来ました」
「だからか」
「??」
怪訝な顔をされても無理はない。
これだけの美人に博多弁を使われたらみんなイチコロだろう。
出会ったばかりでいきなり美人だなんて言ったら気持ち悪がられるから、言葉には出さずに心の中で留めておいた。
「たしかに東京は疲れますよね。どこ行っても人多いですし」
彼女の言う通り、東京は心が病みやすいと言われている。
いろいろなものに追われて自分のことで精一杯になりがち。
自分のやりたいことや誰かのためにしてあげたいこと。そういった感情は後回しにしてしまう。
ここでは多くの人が他人に干渉することを棄ててしまう。
「すみません、別に東京のことを悪く言うつもりはなくて」
彼女の意見を頭の中で整理していたら険しい表情になっていた。
寄っていた眉間の皺を直してすかさずフォローする。
「俺も人の多いところは苦手なので。それに比べて福岡は安くて美味しい店がたくさんあって羨ましいです。ラーメンも美味しいから飽きないですよね」
「はい!福岡はラーメンが有名ですけど、うどんも美味しいお店がたくさんあるんですよ!魚や果物も美味しいものがたくさんあるし、人の多さもちょうど良くて本当に最高の場所です」
地元への愛を語る彼女の目はとてもキラキラしていた。
「地元が大好きなんですね」
「はい、大好きです」
破顔した彼女はとても可愛らしく、第一印象のクールなイメージをガラリと変えた。
「俺も地元が好きです」
「この店にはよく来るんですか?」
「小さい頃は兄さんとよく来ていました。この店のベンチに座ると不思議と落ち着くんです」
「落ち着く場所があるって素敵ですね」
彼女はこっちを見ながら微笑んでくれた。その度に耳が熱くなるのを感じる。
好機を逃すまいと俺は勇気を出す。
「せっかく出会えたので連絡先交換しません?」
「はい、ぜひ」
連絡先を交換してお互いの名前を把握する。
そういえば自己紹介していなかった。
彼女の名は神法 紫苑さん。
モデルのように綺麗なのに彼氏はいないらしい。
地元の美味しい店、お互い末っ子だということや好きなアニメ、好きな映画の話などおそらく30分以上は話していただろうか。
話に夢中になりすぎて、彼女は大事なことを忘れてしまっていたようだ。
「紫苑さん、アイス!」
彼女の手にあったはずのアイスはほぼ溶けて無くなっていた。
「ぎぇあっ!」
彼女は驚きのあまり、その美しい見た目からは想像できないような声を出していた。
アイスがドロドロに溶け、スカートが濡れている。
こんなときに申し訳ないが、見かけによらずお茶目な一面がある彼女を知ることができて得をした気分だ。
赤い花弁のイラストが描かれたハンカチをスーツのポケットから取り出して彼女に渡す。
スカートを拭く彼女の手がふと止まった。
「この花、サネカズラですよね?」
「サ、サネ?」
初めて聞いた言葉にどう反応して良いか迷った。
このハンカチは小さいころよく物を零す癖があった俺に母さんがくれたもので、なんだかんだでずっと持っていた。
「花に詳しいんですね」
「はい。私、お花が大好きなんです。見ているだけで心が洗われます」
彼女の目がキラキラと輝きはじめる。
「お花にはそれぞれ顔や香りが微妙に違って、咲くだけで周囲の彩を変えるんです。寿命が短いのであっという間に散ってしまうのはすごく儚いですけど、それでも懸命に生きてる感じが健気で頑張れって応援したくなるんです。たとえばこのサネカズラの花は夏に咲くんですけど、花はクリーム色で可愛くて、赤い果実は美味しそうに見えて全然味がしないんですよ。面白いですよね」
まるで動物を愛でるかのようにニコニコしながら話す彼女。
この人、好きなことになると止まらないタイプみたいだ。
「このハンカチ、今度洗って返しますね」
「安いものなんで平気ですよ」
「そういうわけにはいきません。借りたものは返さないと」
意志の強さが混ざった彼女の綺麗な瞳に見つめられ、胸の鼓動が早くなった。
🍦
私にはお姉ちゃんがいる。
2歳上の桜咲はショートカットの似合う猫のような可愛い顔立ちに反してクールでしっかり者。
オシャレで頭が良くて流行りに敏感で、私とは真逆の女子力の高い人。
姉妹なのに顔も性格も全然似ていない。
天は二物どころか、三物も四物も与えちゃった。
同じ家族なのに私にはないものをたくさん持っている憧憬の存在。
だから喧嘩もしなかったしいまでもずっと仲が良い。
お姉ちゃんは彼氏が絶えたことがない。毎年違う彼氏を紹介された記憶がある。
地元でも度々タレント事務所からスカウトが来ていたことがあるらしい。でも芸能界に全く興味がなかったからあっさり断ったみたい。
身内が芸能人だったらなんてちょっとだけ考えたこともあったけれど、お姉ちゃんには小さい頃からの夢があった。
漫画が大好きなお姉ちゃんは地元の私立大学を卒業した後、念願だった大手出版社に就職した。
そんなお姉ちゃんから買い物を頼まれた。
急遽休日出勤することになってしまい、いつもの化粧水を買ってきてほしいとお願いされた。
部屋の掃除に夢中になってしまい、思ったより時間がかかってしまった。
カップスープを飲んだ後、昨日考えていたコーデを着る。
オフショルのシャツにワインレッドのロングプリーツスカート。
夕方以降ちょっと肌寒くなる予定だったので、デニムジャケットも羽織っていくことにした。
髪は掃除のときにしていたハーフアップのまま。
淡い期待と黒いハンドバッグを持って玄関で白いスニーカーを履いて出かける。
頼まれていた化粧水を買う前に昨日の店に寄り道をすることにした。
そこに行く理由は2つある。
1つはこの前買ったアイスの当たりが出たのだ。
そして理由はもう1つ。
十条駅から学校を抜け、お店の近くまで行くと、子供たちがカプセルトイやゲームをしながら遊んでいるのが見える。
大人の人影はない。
昨日のスーツの人に会えるかな?
少しだけ期待を抱いていた。
さすがにそんな偶然は起きるわけないか。
と思いながら店内に入ると、
(あっ!)
思わず心の中の声が飛び出しそうになった。
彼と目が合ったのだ。
ドキドキする気持ちを抑えつつ、店主のお婆さんに当たりの棒を渡して交換してもらう。
「あら、当たったのね。おめでとう」
あれ?昨日はあんなに無愛想だったのに今日はすっごい笑顔だ。
「ありがとうございます」
昨日の席に座ろうとすると彼が先に座っていた。
彼の方を見た途端、喜びの感情が怒りの感情はと姿を変えた。
なんと、タバコを吸っていたのだ。
ありえない。
駄菓子屋でタバコなんてありえない。
上気した私は思わず感情的になった。
「ちょっと、こんなところでタバコ吸っちゃダメですよ!何考えてるんですか!」
周囲にいた子供たちの動きが止まり、みんな驚きの表情を浮かべていた。
……もう、どうしよう。
彼が吸っていたのはタバコではなかった。
タバコに似た白く細長い棒状のお菓子を指で挟みながら舐めていた姿がそれを吸っているように見えたのだ。
耳が熱い。
穴があったら入りたい。
落ち着けって自分に言い聞かせようとする度に鼓動が叫んでくる。
私が欲しい鼓動はこっちじゃない。
変な女だと思われてるに違いない。
せっかく話だったのに、終わった……
「よかったらひとつどうですか?」
彼がココアシガレットを差し出してきた。
あんな失礼な発言をしたのに怒ってないの?
それとも何かのいたずら?
なんて答えたら良いのだろう?
「じゃあ一緒に吸いませんか?」
今度は笑顔でそう言う。
恥ずかしさを和らげるために言い方を変えてくれたのかな?
本心はわからないけれど、ニコッと笑うその顔に引き寄せられるように彼の横に座った。
彼はタバコを吸わないらしい。
こういうことを言うと失礼かもしれないけれど、完全に吸っていそうな顔をしていたから良いギャップだった。
彼の横は居心地が良かった。
パーソナルスペースなんて存在しないかのように。
連絡先を交換して彼の名を知った。
雪落 慶永さん。
彼女とは最近別れていまはいないらしい。
キリッとした目に広い肩幅。
この日は青のカジュアルスーツにオフホワイトのインナーを着て、バッグ、ベルト、革靴をブラウンで統一している。
彼は会話が途切れそうになると、話を敷衍してくれて、1つずつ聞き入ってくれる頭が良くて優しい人なんだと思う。
出会ったばかりだけれどすごく居心地が良い。
こんなに痩躯なのはただの胃下垂だからで、食べたらすぐに消化されるみたい。
私にもすこしはその消化力を分けてほしい。
彼曰く、胃下垂は猫舌と一緒で、症状の一種だから意識しながら食事すれば治るらしいけれど、太りたくないから胃下垂のままでいいみたい。
私もぽっちゃりよりは細い人の方が好きだから良い。
彼は連休になるとよく旅行に行くみたい。
スマホを取り出し、彼が私のすぐそばまで来て写真を見せてきた。
ちょっと、顔、近いよ。
彼の左腕が私の右腕に触れ、緊張と胸の高鳴りで右側の感覚をなくさせる。
男の人の匂いが私の全身を誘惑してくる。
やばい、どうしよう。
出会って間もないのにもう意識している自分がいた。
耳が赤くなっているのを髪の毛で隠し、ドキドキを抑えながら画面を覗くと、数人の男友達と一緒に変顔をしている。
クールな印象があったけれど、こんなお茶目な一面もあるのかと思うとちょっと得した気分。
でも私服姿はちょっと厳ついというかラフ。
ストリート系のファッションは動きやすさを重視しているかららしい。
気がつくと彼の写真と会話に夢中になっていた。
徐々に冷たくなっていく手の温度にも気がつかずに……
「紫苑さん、アイス!」
その声で下を見ると、ロングスカートにドロドロに溶けたアイスが落ちていた。
せっかくの機会に超恥ずかしい。
穴があったら入りたいって短時間で2度も思うなんて。
でも彼は引くことなくサネカズラのハンカチを渡してくれた。
僥倖だ。
これを返す口実でまた会うことができるから。
店内から出てきたお婆さんが閉店に向けてシャッターを下ろす準備をしている。
気がつくと客は私たちだけになっていた。
ハンカチを返す約束を交わして別れた。
家の最寄り駅に着いてあることに気づく。
お姉ちゃんに頼まれていた化粧水買うの忘れた。
また今度でいっか。