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左手に刻まれた曼荼羅の刻印。

これは私たちが涅槃師であるという証拠であり、これによって多くの死者の魂を浄化させることができる。

涅槃師同士で情報交換をすることもできる便利なもの。

その代わり、ルールを破ると肉体も魂も地獄に堕ちてしまう。

だからルールを破るものはいない。

涅槃師になれるのは一部の罪人だけ。

ニルヴァーナ・アーカーシャ日本霊域の中央に聳え立つ聖塔。

ストゥーパと呼ばれるそこで身体に染みついた罪悪を煉獄の炎で燃やし、試練を乗り越えた先の契約を終えることで涅槃師となれる。

煉獄の離れ小島の濃霧を越えた先にそれはあった。

ストゥーパに着くと、待ち構えていたかのように人型のオートマトンが私を誘導する。

2階に上がり部屋に入ると、そこには「見思惑(けんじわく)」とだけ書いてあった。

「思想上ノ偏ッタ見解ヤ本能的、感情的ナ妄想ヲ取リ除クコト。ソレガ見思惑デス」

カタコトのテンプレのような説明に全くピンと来なかった。

何度質問しても同じ答えしか返ってこない。

一辺倒で学習能力のないオートマトンに少し苛立っていると、そのオートマトンは部屋から出て行き扉が閉まった。

もしやと思って開けようとしたけれど、扉は固く閉ざされていた。

すると壁からプロジェクションマッピングのようなものが現れ、映像が流れ出した。

大量の資金を投入して核兵器を作っている映像。

銃で撃ち合いながら大量の血を流している集団の映像。

電車内で毒が撒かれて倒れていく市民の映像。

夜景の綺麗な高台の上で抱き合う映像など。

これらは一体何を意味するのか理解するまでに結構な時間を要した。

何度かループして流れた後に映像は消え、扉が開いた。

部屋の前で待っていたオートマトンは何も言わず、上の階へと誘導する。

次の部屋には「三毒」と書いてあった。

毒ってまさか何か盛られるの?

もう一度死なないといけないの?

これは幻惑で、この塔自体本当は存在せず、試練を終えた先には地獄が待っているのかとさえ思った。

「ココデハ、貪・瞋・痴(とん・しん・ち)ノ三毒ヲ取リ除イテ頂キマス」

食欲・瞋恚(しんに)・愚痴という穢れ=毒ということで、この毒を払うことが涅槃師になる上で必要不可欠だってことね。

流れてきた映像は宇宙空間。

太陽の周りを回る惑星や彗星、それに天の川銀河。

果てしなく広がる世界に名もなき無数の星の映像が淡々と流れている。

これが三毒を取り除くのと何か関係があるの?

青く輝く地球に感動したのは最初の一瞬だけ。

この映像は半日近く流れ続けた。

椅子もベッドもない伽藍堂(がらんどう)とした部屋で地べたに座り続けた私の足は痺れていた。

くたくたになった身体を上げて出た部屋の前には無感情のオートマトンが立っていて、流れ作業のように前へと進み、さらに上の階へ誘導される。

案内されたのは何とも不気味な部屋だった。

扉の前には『モクシャ』と書かれている。

「モクシャ?」

解脱(げたつ)トイウ意味デス」

解脱。
要はここで煩悩(ぼんのう)を消すことが涅槃師になるために必要な条件らしい。

「ここで何をすれば?」

「コノ中デ108ツノ煩悩ヲ解キ放ッテクダサイ」

解き放つって言われても部屋には何もないけれど。

真っ白で無機質な部屋。

さっきから全部同じような景色でちょっと気持ちが悪い。

引っ越ししたての部屋のような新鮮で清々しい気持ちではなく、見えない何かが棲みついているような収容所というニュアンスの方がしっくりきた。

身体を燃やし、見思惑も三毒も取り除いたが人として存在する以上完全には消えない。

雑念も邪念よ残っているのを感じたが逃れることはできない?

この試練は最も過酷だった。

暫くすると部屋中に文字が浮かび出す。

108つ煩悩の1つ1つが。

そこにはさっき取り除いたはずの煩悩まである。

何よこれ。

ここにきて振り出しに戻ったの?

いままでのことが徒労に終わってしまう。
そんな気がしたけれど、すぐに冷静になれた自分がいた。

これはそういう試練なんだと思ったら(くだん)の煩悩は消え去った。

しかし、それでもまだ100個以上ある。

これを消さないと部屋から出ることはできないということは理解できたがその方法が見つからない。

心頭滅却することが最善なのだろうけれど、そんなにすぐできるような人はそういない。

余計なことを考えるのはやめよう。

冷たい床に仰向けになって目を閉じた。

ーどれくらい経っただろう。

目を開けると部屋の中の煩悩はほぼ消えていた。

あと1つを除いて。

『殺生』

これがどうしても消えない。

除夜の鐘でも鳴らせってこと?

こんな古典的というか物理的なことではない気がする。

ってかこれは消して良いものなの?

色々な煩悩が消えていったはずなのにすぐに蘇ってくる気がしてくる。

誰にも頼れない(もど)かしさに(さいな)まれ、答えの出ないまま再び目を閉じた。

ーもう1度目を開けたとき、私は部屋の外にいた。

すべての煩悩が消えないまま案内されたのはストゥーパを超えた先にある天空庭園。

その一番奥にある四阿(あずまや)のような場所に銀色の髪に鮮やかなライムミントの瞳をした人形のような2人の少女が座っていた。

「あなたが神法 紫苑ちゃんね?」

「そ、そうですけど」

この子たち、何で私のこと知ってるの?

ってか何者?
ここは一体どこ?

「まずは試練お疲れさま」

「結構大変だったでしょ~」

「私はこのニルヴァーナ・アーカーシャ日本霊域最高涅槃長の春楡 末那(はるにれ まな)

「妹の琉那(るな)だよ~。末那の補佐やってま~す。よろしくね~」

最高涅槃長の末那に補佐の琉那?

双子かな。2人とも整った花の(かんばせ)をしている。

妹の琉那の語尾が伸びる喋り方が少し気になるけれど、それでも描かれたようなその見た目の美しさに相殺(そうさい)される。

「早速だけど、涅槃師になる上で1つだけ契約を結んでもらうわ」

姉の後に妹が続く。

「今後、涅槃師以外の死者に触れることを禁止しま~す」

えっ!?

「涅槃師は担当ごとに分かれて死者の魂を浄化させ、天国へ送るのが役目。仮に私たちが触れて魂を穢してしまったら浄化させられなくなるかもしれないから、絶対に触れてはダメよ」

琉那の思いつきで発したかのような軽い口調とは逆に、末那の目は全く笑っていなかった。

「間接的に触れてしまった場合でも~、その時点で相手は地獄に堕ちていっちゃうからね~」

とろーんとした話し口調と内容が一致しないくらいめちゃくちゃな契約。

もはや契約というより呪いに近い気がするけれど、それでもいまの私に断るという選択権はなかった。

「それと~」

それと?

「勝手に担当を交換したり、不必要にデータを漏洩(ろうえい)するのもダメだからね~」

「そんなことしたらこの世界にはいられないから」

姉の口調は優しいのに言葉が重い。
威圧感というか圧迫感がすごくある。

「それから~」

まだあるの?

「あなたはいまから五十夜(いそや) アステルと名乗りなさい」

いそや あすてる?
何その変な名前。

「いまこの瞬間から本名は捨てて」

急にそんなこと言われても、20年以上この名前でやってきたんですが。

「必要なのは贖罪(しょくざい)の気持ちを持ち続けることだけ。本名も出自(しゅつじ)も意味をなさないわ」

「わかってると思うけど~、涅槃師になったとしても生前に犯した罪を忘れることはできないからね~」

すべての煩悩が消えないままここに連れてこられたのはそのためだったのね。

すべてを納得したわけじゃないけれど、先に進むためには納得することが必要だった。

「わかりました」

「じゃあいくよ~」

そう言うと、末那と琉那の2人る私を挟むように立ち、手を翳しながら何かを唱え始めた。

すると、2人の手に刻まれていた刻印が光を放ち、足元に円陣のようなものができたと思ったら全身を眩い光が包み込む。

それは時間にしてほんの数秒だった。

気がつくと左手には曼荼羅の刻印が刻まれていた。

この瞬間から私は神法 紫苑ではなく涅槃師の五十夜 アステルとして生きることになった。

☕️

この世界で時間を明確に計るものはない。

確かめられるのはこの左手の数字と空の色だけ。

これが“1”となり、点滅した後に肉体は消滅し、魂のみ天国へ行ける。

アキレアから教わったことが本当なら俺の家族はどっちにいるんだろう?

手がかりもないまま雲道を歩いていると、車椅子に乗った1人の女性がいた。

ニット帽を目深に被っているその人がなぜか気になり近づいていくと、そこには衝撃の人物がいた。

「梨紗!?」

俺に気づいた彼女と目が合った。

「慶永?なんでここにいるの?」

それはこっちのセリフだ。

梨紗もこの世界にいるということは死んでいるってことだよな。

でもどうして?

「俺も死んだんだ」

「なんで?」

「誰かに刺された」

「殺されたってこと?」

「そうとも言うし、そうじゃないとも言えるし」

「相変わらず煮えない返事ね」

「ちゃんと思い出せないんだ。それより梨紗はなんで?」

「私、白血病だったの」

白血病?
あの元気な梨紗が?

「看護師になろうと思った矢先にだよ?ウケるよね」

いや、全然笑えないのだが。

「絶対に生きてやるって思ってたけど、入院してから簡単に死んじゃった。まだやりたいことたくさんあったのに」

家族のために自分の夢を追いかけようと思ったら病気になって亡くなるなんて残酷すぎるだろ。

「やりたかったことって?」

「ん~、あげたらキリがないんだけどね。強いて言うなら……」

梨紗は真剣な表情で考えている。
それは紡ぎ出すというより消去法に近かったのかもしれない。

「普通の1日を過ごしたい」

梨紗のことだからてっきり大胆なことを言ってくるのかと思った。

「特別なことなんてしなくていいんだ。当たり前のことがいまはやりたいの。と言うより、当たり前のことが1番幸せだったんだと思う」

たしかにそうだ。
特別なことは当たり前のことがあってこそ成立する。

旅行、ボーナス、誕生日、記念日、結婚。

日常の中の非日常があってこそ人は生きていることを実感するもの。

喉が渇いたら水を飲み、お腹が空いたらご飯を食べ、眠たくなったら寝て、時間が経てば目が覚める。

そんな日常が生命をつなぎ、日々を組み立てていく。

「だからさ、私のわがまま聞いてくれる?」

こうして俺は梨紗と当たり前の1日をを過ごすことにした。

この世界にはネット以外なんでもある。

魂の浄化のために必要なものは何でも。

カフェやホテル、アミューズメントもテーマパークも。

死んだ認識がないと、普通に生活している感覚になり胡蝶(こちょう)の夢にも感じるくらいの楽園。

カフェで梨紗がカルボナーラをフォークでくるくると巻くところを見て昔のことを思い出した。

「そういえば梨紗っていっつもカルボナーラ頼んでたよな」

「慶永はミートソースの一点張りだったけどね」

お互い同じものばかり注文していたからよく覚えていた。

「なんか、付き合ってたころを思い出すね」

「懐かしいな」

「色んなカフェ巡ったよね」

「だな」

「慶永って見かけによらずオシャレなレストランとか夜景の綺麗なとこ知っててびっくりした」

あれは調べていただけなんだが。

「でもラーメンになると毎回揉めてたよな」

「だって慶永とんこつしか食べないんだもん。私はみそが食べたいのに」

お互い変なところが頑固でよく喧嘩になりかけていたからラーメン屋だけは一緒に行くのをやめた。
それもあってパスタやうどんが多かった。

「俺たちひたすら食べてひたすら飲んでたよな」

「そだね。付き合ってからちょっと太ったもん」

「俺のせい?」

「半分はね」

「ひどっ」

「冗談だよ」

悲しいかな、死んでからの方が気兼ねなく話せる自分がいる。

カフェを出て少し進むと広場を見つけた。

シートを敷いてピクニックをしている家族やベンチで本を読む人、一眼レフで景色を撮る人や犬の散歩をする人。

小鳥たちが(さえず)り、鳩が餌を求めて歩き回る。

1つの休日を切り取ったかのようなリアルな光景に一瞬死んだことを忘れた。

すると、
「そういえば、あの子とはどうなったの?」

「あの子って?」

「例の綺麗な子よ。花火大会のときに一緒だった子。なんて名前だっけ?」

ダメだ、思い出せない。

思い出そうとする度、激しい頭痛に襲われる。

あまりの痛さに車椅子のハンドルから手を離してしまった。

瞬時に梨紗が手でブレーキをかけたが、俺はその場に蹲った。

「ちょっと、大丈夫?」

この頭痛なんとかなんねぇのかよ。

「お水飲む?」

梨紗の持っていた水をもらい飲み干した。

「サンキュ。少し楽になった」

「まさか、何も覚えてないの?」

「あぁ、思い出そうとすると頭痛がする」

こればっかりはアキレアにも原因がわからないらしい。

もしかして思い出してはいけないことなのだろうか?

声も名前もちゃんと思い出せない。

顔にもずっと(もや)がかかっている。

「ねぇ、最後にひとつだけわがまま聞いてもらってもいい?」

「何?」

「抱きしめて」

「えっ?」

「お願い。一瞬でいいの。一瞬だけ」

予想していなかった角度からのお願いに戸惑ったが、その表情には大きな切なさを孕んでいて、何か覚悟めいたものを感じた。

「私ね、慶永と別れてから色々な人と出会って恋をしてきた。だけどね、どの人も本気にはなれなかった。慶永の優しさを超える人に出会えなかったの。身勝手なのはわかってる。でもこれが本当に最後なの」

その言葉の意味を左手の数字が証明していた。

“0“が点滅している。

そうか、今日がここでの最後の日なんだ。

すでに身体は色を失い透明に近くなっている。

「わかった」

そう言うと、梨紗は静かに目を閉じた。

俺は膝を落として梨紗の目の前で屈み、そっと抱きしめた。

それに応えるように俺の腰に手を回す。

死人同士でも伝わる肌の温もり。

人ってこんなにも温かいんだな。

どれくらい抱きしめていただろう。

一瞬という時間がものすごく長く感じた。

徐々に梨紗が消えていく。

足元から上半身へと少しずつ。

「ねぇ、慶永」

「ん?」

「ありがとう。最後に会えてよかった」

「うん」

その後の言葉を探している間に梨紗は笑顔で消えていった。

複雑な気持ちのまま俺の左手は“4”になっていた。