スノードロップと紫苑の花

☕️

インターホンを鳴らす。

「はい、神法です」

「ども、雪落です」

紫苑の家、正確には姉の桜咲の家に来ていた。

福岡旅行のとき、彼女にスマホの充電器を貸したままだった。

次のデートのときでも良かったのだが、いつもあるものがなくなると急に不安になるものだ。

「いつも妹がお世話になっております。すみません、妹が気利かなくて。わざわざお越しいただかなくても直接持って行かせたんですが」

「いやいや、そこまでしてもらわなくても大丈夫ですよ」

この日彼女は夜遅くまでバイト。終わったら友達と飲みに行く予定があった。

一方姉の桜咲は仕事が早く終わったので俺が来るのを待ってくれていた。

「せっかくなので上がってください」

「いや、充電器を取りに来ただけなので」

「紫苑の秘密、知りたくないですか?」

突拍子のない言葉にどう反応して良いか戸惑った。

この人は本当に実の姉か?

顔立ちはたしかに似ているが、話し方や雰囲気からブレない軸のようなものを感じた。

それにしてもこの誘い方、何という言葉で形容すれば良いのだろう?

桜咲が右手をリビングの方へと伸ばして俺の手足を前へと(いざな)う。

上手く乗せられた感じがしたが嫌な感じは全くしなかった。

「どうぞ」

革靴を脱いで上がらせてもらう。

「お邪魔します」

1DKの部屋には小さめのソファーベッドがそれぞれ1つずつあり、奥の広めの部屋と手前のリビングの部屋がある。

思っていたよりも部屋はシンプルで、白を基調としていてシックな感じになっている。

イメージしていた女子の部屋という感じではなかったが、この前のクマのぬいぐるみを大事そうに置いてくれていた。

リビングのソファーに座らせてもらう。

「お茶が良いですか?コーヒーが良いですか?」

桜咲がキッチンから右手に茶葉、左手にコーヒー豆のパックを持ちながら聞いてきた。

「じょあコーヒーで」

豆を挽きながら桜咲が質問してくる。

「紫苑って見た目によらず意外と抜けてませんか?」

思い当たる節がいくつかある。

1年間しか一緒にいない俺よりも、小さいころから一緒にいる桜咲にはもっと多くの引き出しがあるのだろう。

彼女にそっくりなその麗しい瞳で色々と話したそうな表情をしている。

「アイスに目がないのに、話に夢中で食べてること忘れちゃってるところとか」

「それ小さいときからずっとです。よくこぼして服をビチョビチョにしてたから、一時期コーン禁止令が出てカップアイスしか食べちゃダメだてルールがあったくらいですから」

それでもアイスを食べることを許されている時点で優しい家族だと思う。

「紫苑って小さいときからほんっとにアイスが大好きで、新しい味を見つけるとそれを食べられるまで駄々を()ね続けてたんです」

アイスに対する欲求えげつないな。

「そういえば、昔おもちゃ屋さんでソフトクリームの置物を見つけたとき、欲しくて欲しくてたまらなかったのか1日中泣きじゃくってたことがあって、クリスマスプレゼントでそれをあげたら大喜びしてたことがありました」

どんだけ欲しかったんだ。

彼女の前世は乳製品なのか?

「本人の希望で数時間家に置いてたら、ある日アイスクリーム屋さんと勘違いしてやってきた人がいたので、後日撤去したら玄界灘が揺れるくらい大泣きしちゃって。私も幼いながらに大変だったのを覚えてます」

(にわか)に信じがたいような話だったが、もしそれが本当なら一瞬だけでもアイスに生まれ変わりたいと思った。

「いまその置物はどこに?」

「実家の倉庫に放置されてます。いまとなっては無用の長物(ちょうぶつ)です」

当時からそうだった気もするが。

我が家にも親が生前大切そうに持っていたMDコンポがあったが、嵩張(かさば)るだけで正直邪魔だった。

「そんなに小さいころからアイス好きだったら、幼いころの夢はアイスクリーム屋さんとか?」

「いえ、紫苑の小さいころの夢は、天使です」

「て、天使?」

全く想像していなかった角度に刺激に瞳孔と口が大きく開いた。

アイス屋以外の選択肢としてお姫様やアイドルを予想していたから、頭の中を整理するのに少し時間がかかった。

「これにはちゃんとした理由があって、紫苑が小さいときに海で溺れそうになったことがあったんです。そのときはお父さんが助けてくれてたんですけど、幼いながらに悔しかったんでしょうね。翌日から泳げるようになりたいって言って水泳をはじめたんです」

ん?全然話がつながらないのだが。

整いかけた頭の中がまたぐちゃぐちゃになった。

空を飛ぶのと海を泳ぐのはインターステラーくらいかけ離れたものだと思う。

泳げるようになればそのまま空を飛べるようになるとでも思ったのだろうか。

本人に直接聞くわけにもいかないから真実にそっと蓋をしておこう。

「でも高校に入ると同時に水泳を辞めてテニス部に入ったんです」

そう言えば出会ってすぐのころ、テニス部に所属していたって言っていたけれど水泳経験もあったことははじめて知った。

「なんで急にテニス部に?」

「好きな人がいたらしいです」

好きな人というワードに強く鼓動が鳴る。

過去のことに嫉妬してもどうにもならないのはわかっていながらも心がそわそわしている自分がいた。

訂正するようにすぐさま桜咲が続ける。

「好きな人っていうのは憧れてる人って意味です。宝塚の人みたいなカッコイイ先輩がいて、その人とダブルスを組みたいって思ってたらしいです」

違う『好き』に心が凪いだ。

気にならないわけではない。
だが彼女の過去の恋愛事情について本人の許可なしに聞くのは違うと思った。

「あっ、これ絶対本人に言わないでくださいね。雪落さんに話したなんて言ったらガチでキレられちゃうんで」

過去の恥ずかしい思い出を恋人に知られるのは嫌だろうから墓場まで持って行くことを約束した。

「俺が紫苑のことを嫌いになることはないので」

「雪落さんが良い人で良かったです。妹のことを大切に想ってくれて嬉しいです」

「飾らないところはすごく魅力的だなって思うし、怒ったり笑ったり泣いたり、デートする度に新しい彼女に出会えるのが楽しいんだ。何より、多くの人に愛されてる人ってそういうところを自然と出せるからだと思う。俺にないものを彼女は持ってる。だから大切にしたいって思う」

いや、大切にする。

この想いに(かげ)りは微塵(みじん)もない。

口に出しながらも改めて心に誓う。

「紫苑が羨ましいな」

「えっ?」

「私、彼氏ができても長続きしないんですよね。面食いだから顔が良かったらある程度クズでも許しちゃうんです。でも、結局クズはクズだから浮気とか借金とか当たり前にするようなやつばっかで、雪落さんみたいに内面をちゃんと視た上で想い続けてくれてる人に出会えて、妹は、紫苑は本当に良い出会いをしたなって思って」

桜咲の言葉は半分合っていて半分合っていない。

正直最初は外見から入ったし、中身は二の次だった。

ただ彼女を知っていくうちにギャップにどんどんやられていった。

表情豊かで意外と嫉妬深くてちょっと天然で、話す度に新しい彼女に出会える。

それが新鮮で楽しい。

だから彼女との出会いは俺の人生にとって大きな転機であり、邂逅(かいこう)僥倖(ぎょうこう)といっても過言ではない。

あまり長居しても失礼なのでそろそろお(いとま)しようと腰を上げると、

「雪落さん、紫苑と結婚する気ありますか?」

唐突すぎる質問に目が点になった。

好きで付き合っているから一緒にいたいと思うのは普通だし、人一倍家庭に対する思いは強い。

でもこれはどういう意図があるのだろう?

下手に考えるよりもいまの素直な気持ちを言うことにした。

「結婚は付き合ったときからしたいと思ってるよ。でも紫苑まだ学生だし、落ち着くまではプロポーズしないかな」

「ですよね。あの子好きになったら周り見えなくなるし、人の意見聞かなくなるし、王子様を求めるような乙女気質なので、同棲とかは慎重にお願いしますね」

いまはまだ時期尚早と言いたいのだろう。

そこに関しては同感だ。

俺も仕事はまだまだだし、もっと余裕を持った状態でないと彼女を支えてあげることはできない。

「今日は色々とありがとう」

「こちらこそ長話に付き合ってもらってありがとうございました。次来るときは席外しておきますので遠慮なく楽しんでくださいね」

この子は本当に血のつながった姉妹か?

お節介な近所のおばちゃんみたいな発言に苦笑いしながら彼女の家を後にした。

🍦

東狐姐さんのお店でカラーリングしてもらった後、駅前に戻ると彼が待っていた。

代官山の駅前にあるジェラート専門店。

地元糸島のあまおうやオレンジ、桃を使ったジェラートを2人でベンチに座って食べる。

今日は久しぶりのデート。

旅行に行った以来、なかなか予定が合わなかった。

電車に乗って向かったのは中目黒。

お花見の名所、目黒川には多くの人が桜を見に訪れている。

駅前にあるドーナツ屋さんには何時間待ちだろうというくらいの行列ができていて、それを横目に目黒川沿いのカフェでまったりする。

写真を撮る彼の表情も最初のころにくらべてナチュラルになってきた。

一緒に変顔したりたまに目を瞑っていたりと、それは恋人というよりも仲の良い友達にも思えた。

ディナーは二択で迷った。

「焼肉と焼鳥どっちが良い?」

彼の質問にめちゃくちゃ迷った。

どっちも大好きだしすっごくお腹が空いている。

ネットで食事の写真や店内の雰囲気を見たらさらに迷った。

なかなか決められずにいると、

「じゃあゲームで決めよう」

まるで子供のような表情で爽やかにそう言う。

「ゲーム?」

「そう、110ゲーム」

「ヒャクジュウゲーム?」

彼が財布から100円と10円を1枚ずつ取り出し、

「紫苑が勝ったら焼肉で、俺が勝ったら焼鳥な。じゃあ目(つぶ)って手ひらいて」

「何すると?」

「いいからいいから」

人の不安をよそに楽しそうな彼は何の説明もなく謎のゲームをはじめる。

言われるがまま目を瞑って両手を開き、彼の前に出す。

両手に冷たい感触がした。

そのひんやりしたものが何かわからず一瞬ピクッとなった。

彼が私の両手を包むようにパーからグーにした後、目開けていいよと言ったので、言われるがまま素直に目を開けた。

「問題です。右手と左手どちらに100円が入っているでしょう?」

えっ?何その問題?

「わからんし」

「直感でいいから」

「じゃあ右?」

「手開いてみて」

右手には10円が入っていた。

100円は左手だった。

「じゃあ俺の勝ちね、焼鳥食べよう」

「こんなんわからんし」

「100円と10円は直径0.9ミリしか違わないし、厚みも0.2ミリしか変わらない。重さに関しては0.3グラムしか変わらないからね。ちなみにお札は横の長さが違うだけで縦の長さはどれも同じなんだよ」

そんなことわかるわけがないし、何よりこのゲームめちゃくちゃつまらなかった。

「本当は焼肉が食べたかった?」

「そんなことないけど」

「じゃあ焼鳥な、行こう」

この人たまに強引で子供っぽい。

お店は満席だった。

店員さんによるとたまたまキャンセルが入ったタイミングだったらしいけれど、もし入らなかったらどうするつもりだったんだろう?

焼鳥屋さんはいっぱいあるし、ぶっちゃけお腹いっぱい美味しいものを食べられれば何でも良いのも事実。

珍しくお店の予約をしていなかったみたいだったからちょっと驚いた。

デートのときは必ずと言っていいほど予約をしておいてくれる。

こんなことはじめてかも。

カウンターに座り、焼鳥とワインを(たしな)んだ。

帰るにはちょっとだけ時間があったので目の前の本屋で時間を潰すことにした。

彼は見かけによらず小説が好きで、休みの日は色々なジャンルを読むみたい。

以前彼の家に泊まったときにちょっとだけ読ませてもらったことがあるけれど、文字ばかりですぐ眠くなっちゃうし、難しい言葉が多すぎて全然言葉が入ってこなかった。

やっぱり私はマンガや動画の方が好き。

会計を済ませた彼がやってきた。

「何買ったと?」

宇山 佳佑(うやま けいすけ)さんの新作」

本の表紙を見せながら自慢気に言ってきた。

「その人知っとる。ネトフリで観たことあるけど面白かった」

「『桜のような僕の恋人』っしょ?あれマジで良かったよね!」

「そう、それ!切なくてばり泣いた」

「個人的に1番好きなのは『恋雨(こいあめ)』だけどな」

「恋雨?」

「そう恋雨。『この恋は世界でいちばん美しい雨』って作品めちゃくちゃ面白かった。やっぱ雨は命に匹敵するくらい儚いよな」

その独特な感性は理解できなかった。

久しぶりのデートは楽しかった。

同じ時間を共有し、手をつなぎ、キスをする。

彼との時間はアイスのように甘くとろけるような瞬間。

それだけで幸せだった。

でも、幸せすぎて怖くなった。
☕️


「距離を、置いてほしいです」

当然の言葉に(とき)が止まった。

この前のデートから数日後のことだった。

電話越しでも伝わる重たい空気。

何度も何度も理由を訊いたが応えてはくれなかった。

それからの俺はというと、川に流されていく流木のように活力を失い、(とばり)の落ちた世界のように色を失った。

くたくたになったシャツを見ても惰性のように仕事をし、まともに咀嚼(そしゃく)もせずに飲み込むだけの食事。

小説を読んでも映画を観ても空虚なまま。

毎晩のように飲む自棄酒(やけざけ)
溜まっていく洗濯。
荒れていく私生活。

人はこんなにも変わるのかというくらいに魂が抜けていった。

同時に彼女のことをこんなにも好きだったということを痛感した。

付き合ってからというもの、誰かに何かで刺される謎の夢は見なくなったのに、距離を置いた途端見計らったかのように毎晩同じ夢を見ては冷や汗をかき、質の悪い睡眠に苛立ちが増す。

ここ数日間、下を向いて歩いてばかりいる気がする。

いや、前すらも向いていない。

大袈裟に言っても空蝉(うつせみ)とは思えないくらい世の中そのものを恨みそうになりながら缶ビール片手に遊歩道を歩いていると白と紫に輝く花を見つけた。

いつも通らない道での帰り道で偶然見つけたこの花はいまの俺に何かを訴えかけているかのように天を見上げている。

「これは、春紫苑の花」

よく似たヒメジョオンの花かと思ったが、時期的に春紫苑の花だろう。

……紫苑、いまごろ何をしているだろう?

毎日のようにやり取りしていた連絡がピタッと止み、当たり前のように会っていた週末の予定は泡沫(うたかた)のように消えていった。

**

親友の心治と駅前の居酒屋で酒を交わしながら話す。

「恋愛って難しいな」

「どうした?」

「急に距離置こうって言われて意味わかんなくて」

物事には必ず原因がある。

だが思い当たる節がない。

これでも愛情表現はしてきた方だと思っているし、大切にしてきたつもりだった。

「俺も嫁さんの気持ちはいまだにわかんねぇし、これからもわかんねぇと思う。ただ、わかんねぇからこそ日々に感謝することが大事なんだよ。子育ても食事も当たり前に感じがちだけど、ちゃんと言葉にしなきゃ気持ちは伝わんねぇよ」

彼女に対する感謝の気持ちが足りなかったってことだろうか?

せめて理由が知りたかったのが本音だが、いつまでも既読のつかないいまとなってはそれを訊くことは叶わない。

「で、慶永はどうしたいんだよ?」

「どうしたいって?」

「相談してきてる時点でこのままでいいとは思ってないってことだろ?」

そう、自分の中できっかけのようなものがほしかった。

普段恋愛話をしないが、こういうときの親友の意見はものすごく背中を押してくれる。

相手にこうなってほしいって思いがあって、こうならないでほしいって思いがあるから感情的になる。

冷静になればわかることだが、いざその場に立つとなぜかそれが強く出てしまうきらいがある。

「俺の家なんて子供のことでしょっちゅう喧嘩するけど、まず相手の意見を聞くことから始めれば話し合いで解決するもんだぞ」

話すって言ったって電話もつながらないし既読もつかない。

仮に直接会えたとして、そのときは何を話せば良い?

喧嘩ならまだしも、一方的に距離を置こうと言われたときはどうするべきかなんててんでわからなかった。

「彼女のこと好きなんだろ?」

「あぁ」

「だったら素直に言えば良い。変化球なんて投げなくて良いんだよ」

「一球もか?」

「あぁ」

「慶永そんな器用な人間じゃないだろ?」

親友の言う通りだった。

「考えすぎなんだよ。思い通りに行く恋愛なんてないんだからありのままでいいんだって」

前回会ったときよりもさらに大人に、そしてポジティブになっている気がした。

それにくらべて俺は同じ場所から踏み出すことすらできていないでいた。

「慶永は何のために恋愛してる?」

電子タバコを吸いながら真剣な表情でそう話す親友の言葉にすぐ返せなかった。

「欲を満たすためか?」

「いや、違う」

極端な言い方だが欲を満たしたいだけならぶっちゃけ誰でもいい。
でもそうじゃない。

俺は彼女じゃなきゃ心を開けないところまできていた。

良いところもそうじゃないところも受け入れてくれて、幸せを一緒に感じ合えると思った唯一の相手だ。

だから否定をした。

欲という言葉だけでは表しきれないほどの感情があったからだ。

「嘘だな」

被せるように食い気味で否定された。

「そうじゃないって自分に言い聞かせてるだけで、本心では自分の欲を満たしたいんだよ」

「心治は違うのかよ」

「いや、一緒だ。自分が幸せになるために生きてて、子供の成長が、家族の笑顔が見たいっていうその自分の欲を満たしたくて生きてる。
だけど、もし違う人と結婚していたらきっとこじ幸せを感じることはできていない。人生なんて選択の連続だろ?常に正しい選択をしてるやつなんてそういないし、間違いを間違いって認められる人間が幸せをつかめると思うんだ」

同じ年月を過ごしてきたが、親友との決定的な差は向き合う姿勢と経験値だと感じた。

厳しい親のもとで育ってきたせいか、意志が強く柔軟性がある。

的を射ていたアドバイスに少し安堵し、何杯かおかわりをして店を後にした。

**

「はぁ?別れた!?」

部屋中に響き渡る声。

家のソファに座りながらスピーカーモードにして美咲に電話していた。

ファブリック素材のモスグリーンのソファベッドの左側ぽっかりと空いている。

彼女が泊まりに来るたび身を寄せ合いながら思い出が刻まれたいった。

「別れたって言うか距離を置いてほしいって言われた」

「連絡はしたの?」

「電話しても出ないし既読もつかない」

「それって別れたも同然じゃん」

「俺、何したんだよ」

「雪落って遊んでそうだけど浮気できるほど勇気ないし、ギャンブルしかしてなさそうな顔してるのに全然してないしね」

「フォローになってなくね?」

「それぐらいギャップあるってことよ」

「そりゃあどうも」

「ただ、それが距離置かれた原因かもね」

「どういうことだよ?」

「刺激なくなったんじゃない?」

「飽きられたってことか?」

「片方の愛情表現が強すぎるとそれに満足しちゃう人もいるから結果的に冷めちゃう人もいると思うけど。まぁ優しすぎも罪ってことよ」

「みんな優しい人が好きって言ってるのにか?」

「女の子ってそういうものよ」

女性の心理は理屈ではないということを言いたいのだろうが、まったくもって意味がわからなかった。

「好きならちゃんと話した方が良いよ」

「どう話せって言うんだよ?」

「ったく、雪落って本当変なとこで遠慮するよね。まだ別れたわけじゃないんだから自分の気持ち素直に伝えなって」

美咲の言う通り、本当に嫌なら別れるという選択を取るのが普通だが、彼女は距離を置くという選択を取った。

なぜ理由を言ってくれないのか。

部屋に残された歯ブラシやメイク落としを見るたびに心の奥がキリキリと痛む。

「ってかあんたら高校生かよ。将来のこと考えてるんならやること1つしかなくない?」

「1つ」

大きく溜め息をついた後に、
「ハッキリしなさいよね。まったく何であんたがモテるのか私にはさっぱりなんだけど」

電話越しの美咲は俺の煮え切らない態度に明らかにイライラついていて口調が荒くなっている。

「そんなのガキのころの話だ」

そう言いながら飲もうとしたコーヒーはすでに冷めていた。

「ってかこういうの気持ち悪いからやめてくんない?中途半端にいるくらいならきっぱり別れた方がラクだよ」

辛辣(しんらつ)にも思えたがいまの俺にはダイレクトに刺さった。

オブラートに包まず忖度(そんたく)もしない。

こんなこと言ってくれるのは親友の心治かこの美咲くらいだ。

「ったく、この前病室で久しぶりに会ったと思った途端、頻繁(ひんぱん)に連絡してくるんだから」

俺が事故に遭ったとき、彼女と美咲が仲良くなったことで何かと相談に乗ってもらっていた。

「本当、美咲がナースで良かったよ」

「じゃあ今度マンション買って」

「キャバ嬢かよ」

「冗談。焼肉で許してあげる」

「へいへい」

美咲に相談したことで全身に乗っていた重石(おもし)が少し取れた気がする。

「相談乗ってくれてありがとな」

「どういたしまして。でも夜勤明けは眠いから今日限りにしてね」

通話ボタンを切ってからずっと考えていた。

どうすることがベストなのか。

考えれば考えるほどメイズに入っていくので一旦考えることを止めた。

心治と美咲のお陰で目が覚めた。

俺は素直な気持ちをぶつけようと行動に出ることにした。
🍦

彼と距離を置いてからもう2週間。

あれから連絡は取っていない。

「紫苑、本当にいいの?」

「何が?」

「わかってるでしょ」

わかっている。

このままでいいわけがない。

でも私といることで彼が不幸になるのが怖かった。
だからこのまま自然に消滅していくのがいいと思った。

「本当はまだ好きなんでしょ?」

好きだよ。

好きで好きでたまらないよ。

だからこそ私じゃない。

彼の優しさに甘えて、その甘さにつけ込んじゃうことが怖い。

「彼は私とおったらダメになる」

彼は優しすぎる。

私のルーズなところを受け入れてくれることが最初は嬉しかったけれど、それに胡座(あぐら)をかいている自分がいた。

約束の時間を勘違いしてめっちゃ遅れちゃったときも怒らなかったし、結構無理なわがままを言っても快く受け入れてくれる。

きっとこのままだと私が彼を不幸にしてしまうのではないかと思った。

「でもさ、それ勝手じゃない?」

「えっ?」

「それは紫苑の気持ちでしょ?彼のこと本気で考えてるならちゃんと話すべきだよ。気持ちなんて言わなきゃ伝わんないし、別れずに中途半端な関係性ずっと続けていくわけ?」

優梨の言う通り。

「それにもし逆に同じことをされてたらどう思う?」

頭ではわかっていた。

このままだとぐだぐだになって彼が本当に離れていってしまう。

それでも私は踏み込めなかった。

2週間ずっと引きずってきて今更何て言ったらいいの?

彼からの連絡も何で返せばいいの?

時間が経てば経つほど私の心の中が(にご)っていく。(よど)んでいく。(くす)んでいく。

そうして悩み続けてから数日後、バイト先のメンバーで『たこパ』をすることになった。

メンツはKAWAHARAの4人と男の先輩2人。

スーパーでお買い物をし、みんなでキッチンに立ってお野菜を切ったりお皿を用意したりと普通に楽しんでいた。

お姉ちゃんと住むこの家は思っていたより広くて住みやすい。

私がもともと1人で住む予定だった場所はオートロックじゃないし、階段も(きし)むし、火事が起きたら一瞬で燃えちゃいそうな(つた)の生えた古い六畳一間のぼろアパート。

郵便ポストもダイヤル式ではないような昭和の雰囲気漂うお(うち)

個人的にははじめての一人暮らしだからノスタルジックな雰囲気で良かったんだけれど、色々と心配してくれたお姉ちゃんが一緒に住みなさいって言ってくれていまに至る。

パーティーは私のお家で行われることになった。

お姉ちゃんは有給を使って新しい彼氏と旅行に行っているから数日間帰ってこない。

バイト先から1番近いのが私のお家という安易な理由。

彼と距離を置いてからというもの、ハッキリしない態度に優梨ともちょっとだけギクシャクしていた。

それもあって私はお酒は飲みすぎてしまった。

何杯くらい飲んだんだろう。

カクテル、ウィスキー、ワインに日本酒。

みんな心配してくれていたけれど、私のお家ってこともあって気が緩んでいたのかもしれない。

「そろそろ解散しよっか」

先輩のうちの1人の清田(きよた)先輩は彼女以外の女性にも優しい紳士。

みんなで片づけをして解散した。

それからどれくらいしたのだろう。

5分くらいしてからかな。

扉をノックする音がした。

お酒が抜けなくて頭がクラクラするなか扉を開けるとそこにはさっきまで一緒にいた砂金(いさご)先輩が立っていた。

「先輩、どうしたんですか?」

「ちょっと忘れ物をしたから中入れてくれる?」

そう言って中に入り、先輩は部屋の中を探し出した。

私はベッドに腰掛け、
「何を忘れたんですか?」

そう聞いたけれど、

「えっ?あ、うん、ちょっとね」

何か様子がおかしい。

本当に忘れ物をしたのだろうか?

「一緒に探しますよ」

「いいよいいよ、大したものじゃないから」

なんだろうこの違和感。

ニコニコしているのに目の奥が笑っていない感じ。

けれどいまはものすごく挙動不審。

「もう夜も遅いし、見つかったら連絡しますよ」

そう言ってベッドから立とうとした瞬間。

ガバッ!

私の両肩をグッと押し込むように両手で強く押し倒された。
その力はあまりに強く抵抗の余地はなかった。

状況がつかめず気が動転していると、馬乗り状態の先輩の左手は私の両腕を強く押さえつけ、右手で洟と口を塞がれた。

先輩の目は血走っていて、獲物を狩る獣と同じ眼をしていた。

耳元で「神法のことずっと前から好きだったんだ。だから1回だけ」

恐怖心が全身を駆け巡る。

声が出ない。息ができない。

(やめて)

心の中でそう叫ぶ。

先輩の荒い呼吸が私の耳元に当たるたびに気持ちが悪くて吐きそうになる。

(やめて)

さらに強さを増す心の声。

呼吸ができないままなんとか抵抗を試みるも、先輩の強い力には敵わない。

徐々に意識が朦朧(もうろう)としていき、全身の力が入らなくなるとそのまま気を失った。

……気がつくと、手足をテープで縛られ下着姿になっていた。

先輩の顔が私の身体を味わうかのように上から下へとゆっくりと舐め回す。

「やめてっ!」

怒りと哀しみと苦しみが混在した声で精一杯叫んだが、虚しく壁に反射し消えていく。

足の指先まで舐め回した後に顔が私の口元に近づいてくる。

(こいつの思い通りにはさせない)

ふと冷静になっていた自分がいた。

キスをさせるフリをして、ギリギリのところで先輩の喉元を思いっきり噛んでやった。

「痛って!」

喉仏のあたりを押さえている手からは私の歯形が見えた。

もっと強く噛んで引きちぎってやれば良かったと思ったけれど、一瞬(ひる)んだ隙に飛び跳ねるように全身で払い除け、先輩はベッドから落ちた。

(一刻も早く逃げなきゃ!)

縛られていたテープを剥がそうと抵抗するも急に焦りが出てきてうまく剥がれないでいると、上気した先輩は首元を押さえながらまた馬乗りになってさっきよりも強い力で締めてきた。

その眼はより獣と化していて恐怖から身体が一気に硬直した。

(けいくん……たすけて……)

心の中で叫んだがその声が届くことはない。

あまりの強さに苦しくなってきて意識が飛んだ。

ーそれはほんの数分のできごとだった。

意識が戻ると私の身体は汚れていた。

髪もメイクも乱れ、先輩の汗と唾液が全身に染みついている。
(みじ)めで(あわ)れな姿。

こんな姿誰にも見せられない。

鏡を見ながら何事もなかったかのように服を着て髪を整えている先輩に殺意が芽生えた。

すると、扉が開く音がした。

終電はとっくにない。

こんな時間に来る人は限られる。

もし彼だったとしてもこんな姿見ないでほしい。

この最悪な状況知らないでほしかった。

私は好きでも男に身も心も汚された。

一生の汚点。

色々な感情が私を襲う。

それは嬉しいというより切なさと虚しさが合わさった言葉にし難い感情だった。

扉の方を見ると、そこには彼の姿があった。

「け、い、く……ん……」

彼の目を見た瞬間、大粒の泪が溢れてきた。

地球上の水分すべてが私なのではないかというくらい何度洟を啜っても止まらない。

私の哀れで醜い姿を見た彼は着ていたトレーナーを私にかけてそっと優しく抱きしめてくれた。

温かい。

久しぶりに感じる彼の温もりにまた泪が滝のように溢れ出た。

痛くならないよう優しく手足のテープを剥がすと、ヤツの方を睨めつける。

その顔は怒りと憎しみに満ちていて、いままでに見たことのないくらい恐ろしく怖い表情だった。

彼は何も言わず先輩のもとへと行き、勢いよく壁に押しつけながら胸ぐらをつかんで睥睨(へいげい)する。

「な、なにすんだよ!」

その言葉を無視し、宙に浮いた状態の先輩をさらにぐっと壁に押しつけた。

「お、お前が神法の彼氏か。な、なんでお前みたいなチャラそうなのが彼氏なんだよ。俺の方がよっぽど釣り合うじゃねぇか」

彼はヤツの言葉を歯牙(しが)にも掛けず、つかんでいた手を離し、その場からいなくなった。

乱れた服を両手で直しながら、
「ふん、わかればいいんだよ。ったく、こんな暴力的な男と付き合うなんて本当に神法は見る目がないな」

数秒後、部屋に戻ってきた彼が右手に何かを持っている。

お姉ちゃんの彼氏が防犯用に置いていった金属バットだ。

それをヤツの顔に向かって頭上から大きく振りかぶる。

「けいくん、やめて!それだけはダメ!」

彼にしがみつき、必死に止める。

「大丈夫。殺しはしねぇよ」

「もういいよ」

さっき拭い切ったはずなのにまた泪が出てくる。

もうメイクがぐちゃぐちゃで前がよく見えない。

その様子を見ていたヤツは呆れたように、

「もう帰っていいかな。今日は十分楽しませてもらったし、神法思ったほどでもなかったし」

その発言と態度に私の中で何かがプツっと切れた。

しがみついていた彼の身体から離れ、台所へ向かった。

引き出しを開けて包丁を取り出す。

踵を返し、アイツのいる場所を確認する。

彼からバットを取り上げて頭を思いっきり殴ることも考えたけれど、間違って彼に当たって怪我でもしたら大変だから確実に()れる方法を選んだ。

血の流れが早い。

上気に満ちた体温は沸騰寸前状態。

包丁を持つ手は少し震えていた。

ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ怖かった。

物理的に誰かを傷つけることなんてないから。

でもこの男だけは(ゆる)すことはできない。

だから覚悟を決めた。

深呼吸をし、勢いをつけて一直線に走り出す。

グサッ!

鈍い音が壁に反射した。

皮膚を貫通する感覚がした。

倒れたのはヤツではなく、彼だった。

「な、なんで……」

たしかにヤツに向かって刺したはず。

それなのになんで彼が倒れているの?

腹部から赤い液体がポトポトと床に落ちていく。

勢いを増していく鮮血は彼の青ざめていく顔を逃避しかけた現実へと押し戻していく。

私が刺す直前、一瞬目を閉じてしまったときにヤツを(かば)ったのだ。

それに気づいたとき冷静になった。

手に持っていた包丁を落とし、彼に抱きつく。

「けい、くん」

「し、おん……」

「なんで?」

「し、おん、好き……だよ……」

答えになってないよ。

私、好きでもない男に犯されたんだよ?

それなのに何で(かば)うの?

「ご、めん……な……」

なんで謝るの?
謝るのはこっちの方だよ。

悪いのはアイツ。全部アイツのせいでこうなったんだよ。

泪が止まらない。どんなに洟を啜っても溢れ出てくる。

「けい、くん……ごめん、なさい……」

そう言いながら救急車を呼ぼうとする。

でも指が震えて上手くタッチできない。

もう、こんなときになんで。

私の手を握る彼の手は徐々に力を失っていく。

「し、おん」

「ん?なに?」

「幸せ、に、なって、な……」

イヤだよ。こんなのイヤ。

私はあなたといたいの。

あなたじゃなきゃダメなの。

話したいことたくさんあるんだよ?

一緒にやりたいことあるんだよ?

イヴだって一緒に過ごせていないし、海外旅行にもまだ行けていない。

約束したよね?一緒にいようって。

約束したよね?もうどこにも行かないって。

ダメ!
死んじゃダメ!

「あ……り……が……」

握っていた彼の手がゆっくり落ちていく。

それが彼との最期の会話だった。
🍦

福岡の田舎町で生まれ育った私は、寡黙(かもく)寛樹(ひろき)お父さん、ちょっと天然だけれどいつも笑顔の菖蒲(あやめ)お母さん、クールな姉の桜咲(さき)と犬のノアの5人家族。

ホークスファンのお父さんは試合中いつも缶ビール片手にソファに座って中継を観る。

普段は寡黙なお父さんもそのときだけは、「いまのはストライクやろ」とか、「いまの球なんで打たんとや」とか、ちょっと怖いくらいに熱が入る。

とくにWBC(ワールドベースボールクラシック)っていう世界大会のときなんか画面に釘づけでテレビから一歩も動こうとせずお酒の摂取量もいつもの倍多かった。

お母さんは台所で食器を片付けながらお姉ちゃんと好きな俳優とデートするならどこに行く?という妄想話や、最新の美容グッズの話で盛り上がっている。

私はファッション雑誌を読んだり、ネットサーフィンをして暇つぶしをするのが我が家の日常。

高校2年生のある日、リビングでお母さんに進路について聞かれたときのこと。

この日もお父さんは缶ビール片手に野球を観ていたが、白熱した展開だったみたいでビールを飲むペースが早く顔が真っ赤だった。

私の夢はファッションデザイナー。

東京の学校でファッションを学びたいとお母さんに話していたとき、聞き耳を立てていたお父さんがソファ越しに口を挟んできた。
その内容は東京行きを反対するものだった。
東京に行けばファッションの最先端に触れられることを話してもお父さんは(かたく)なに否定した。

なんでダメなのか問いただしてもちゃんとした理由を教えてくれない。
この態度に腹が立ち、感情的になった。

「そんなんじゃいつまで経っても東京行けんやん!」

リビングに不穏な空気が流れる。

「本人が行きたいって言うなら行かせてみたら?」

お母さんが空気を戻そうと味方してくれる。

「そんな真っ赤な顔で言っても説得力ないけん、素面(しらふ)のときに話しなよ」

冷静なお姉ちゃんが芯をつく。

神法家で男はお父さんだけ。
こういうときの男性は不利って聞いたことあるけれど、このときの我が家の状況もまさにそれ。

ばつが悪くなったお父さんはそこから私とは一言も喋らず再び野球を観だした。

私は気持ちを落ち着かせるため、冷蔵庫から新作のはちみつ味のアイスを取り出し、2階の自分の部屋へと戻ってYou Tubeを観た。
アイスを食べたら落ち着いてきた。

お父さんと喧嘩したのなんて何年ぶりだろう。

お酒が入っていたとはいえ、なんであんな頑なに東京行きを反対する理由がわからなかった。
ファッションだけじゃなく、どの世界で生きていくのも大変なのはわかっている。
でもやりたいと思ったことはやりたい。
だって一度きりの人生だから。

後日お父さんに東京行きを反対する理由を聞いてみようと思っていると、ドアをコンコンとノックする音がした。

ドアを開けた先にいたのはお母さんだった。

きっと心配して来てくれていたんだろう。

横並びでソファに腰掛けると、いつになく真剣な表情で話してくれた。

「紫苑が生まれてすぐくらいのころかな。お父さん東京で会社の経営をしていたことがあってね、友達と食品関係の会社を立ち上げて最初の2、3年は調子良くて徐々に軌道に乗り始めていったんやけど、4年目のときに新しく雇った経理担当の人にお金を横領されてしまったんよ」

お父さんが東京で経営していたことをはじめて知った。でもそれ以上に横領されていたことに驚いた。

「横領ってどのくらいされとったん?

「3年間」

「3年間も!?そんなに長いこと横領されとって何で誰も気づけんかったと?」

お母さんによると、大口の支払い以外のもの、すなわち小口系の支払いの管理はすべてその経理担当に任せっきりだったみたい。

経営のこととかよくわからないけれど、管理体制が杜撰(ずさん)なことだけはわかった。

「お母さんが経理をやればよかったんやないと?」

「ママに経理ができると本当に思っとる?」

たしかに。
いまだに九九(くく)がちゃんと言えないお母さんに経理をやらせたら杜撰なんて言葉じゃ片づかない。

「まったく、なんでそんなに大事なこと1人に任せちゃうのよ」

「小さい会社やったし、それにその人すっごい美人さんやったみたい」

「なにその理由。ばり引くっちゃけど」

「ほとんど男の人ばかりやったし、みんな躍らされていたんやろうね」

「それで、会社はどうなったと?」

察しはついていたけれど、一応聞いてみた。

「多額の借金を抱えて倒産したわ」

やっぱり。

「じゃあ借金あると?」

お母さんがニコッと笑いながら、
「もう完済したけん、安心して」

でもそれって横領したその女が悪いんでしょ?
なんでお父さんが借金背負わなきゃいけないの?

なんだかイライラしてきた。

お母さんが言うには、密かに横領の証拠を集めていたお父さんたち役員の人たちがその女を問い詰めた結果、女は自供し後日逮捕された。
しかし、横領のほとんどは旅費やブランド品で消え、返済額は雀の涙ほどだった。
獅子身中(しししんちゅう)の虫にハメられてしまった。

「まさか借金返済したのって」

心当たりが1人だけいた。

「そう、天彦(たかひこ)お爺ちゃん。ママとパパで事情を説明して肩代わりしてもらったんよ」

天彦お爺ちゃんは九州で有名なスイーツ店を経営する中空(なかぞら)グループの会長。

仕事中はすっごく怖いらしいけれど、私たち孫の前ではいつもニコニコしている仏のような存在の人。

幼いころ、お姉ちゃんと走り回って遊んでいたときメガネを踏んで割ってしまったことがある。
そのときもまったく怒らなかった。

お母さんはその中空 天彦の三女で、高校が一緒だったお父さんに猛アタックして付き合った。

いつも明るいお母さんは他校の生徒からも告白されるくらい美人だけれど見向きもしなかったらしい。

一方のお父さんは休み時間に教室の端っこで本を読んでいるような人で、決して目立つような存在ではなかったみたい。

お母さん曰く、勉強ができて器用なお父さんは普段大人しいのにみんなでボーリングやビリヤードをする度に新記録を更新し、校内のスポーツ大会でも活躍する姿が格好良かったらしい。

何より顔がタイプだから好きになったって言っていたけれど、いまのメタボ体型といつもだるそうにしている表情からは想像もつかない。

女性と付き合うのはお母さんがはじめてっていうお父さんはいまと変わらず優しい。
タバコもギャンブルもしないし、夜遊びもしない。
天彦お爺ちゃんはほの誠実さを認めて大学卒業と同時に2人の結婚を快諾(かいだく)した。

「お爺ちゃんもよう肩代わりしてくれたとね」

「事情が事情やったし、それに交換条件があったっちゃん」

「交換条件?」

①借金を肩代わりする代わりに地元に戻って中空グループに貢献すること。

②孫(私とお姉ちゃん)に何に一度必ず会わせること。

だから年末年始はいつも実家にお爺ちゃんがいたんだ。

「なんかすごく優しい条件」

やっぱりお爺ちゃんは仏のような人だった。

「でもお父さんが昔社長やったなんて想像もつかんのやけど」

「あのころのパパは生き生きとしててばり格好良かったんよ。どんなに大変でもママとの時間を大切にしてくれるけん」

昔を思い出して顔を赤らめるお母さんの姿を見て私もなんだか恥ずかしくなってくる。

「やっぱりパパとおりたかったし、支えてあげたいって思った。ほら、パパって家事苦手でしょ?」

いや、お母さんも苦手だと思いますが。
お洗濯もお料理も私とお姉ちゃんがやっていますが。

「パパからするとあまり東京に良い思い出がないし、紫苑ちゃんには同じ思いさせたくないって思っとるのかもね」

「でもそんなこと言っとったらいつまで経っても東京行けんやん」

「そやね。ママからも説得しておくけん、パパが素面のときにまた話そうや」

それにしても私とお父さんの誕生日を間違えたり、つい最近まで肘と膝を言い間違えていたり、塩と砂糖を入れ間違えたりするようなお母さんがこういうことを覚えているのはなんだか面白いというか可愛いと思えた。

後日、お父さんが素面のときに家族会議が行われた。
実はお姉ちゃんの内定先が東京の出版社だったことがわかり、それならとお父さんが泣く泣く折れた感じだ。
こういう大事なことをギリギリまで言わないお姉ちゃんの心理が理解できなかったけれど、結果的には良かった。

お父さんはなぜかお姉ちゃんには弱い。

気が強いからなのか口喧嘩が強いからなのかはわからないけれど、いつもお姉ちゃんの言うことには口出ししない。

ー東京行きの日、家族みんなで空港まで送ってくれることになった。

先に上京していたお姉ちゃんも有給を使って前日から実家に戻ってきていた。
車のトランクにキャリーケースを入れ、後部座席に座ろうとするとノアが小走りで寄ってきて尻尾を振りながら私を見つめている。

「ノアともしばらくこお別れやね」と涙声で言うと、私にシンクロしたかのようにクゥーンと寂しそうな声を出しながら私のそばを離れようとしない。
何度も離れようとしてもまた寄ってくる。
その度に私の涙腺が弱くなる。

運転中、お父さんはずっと無言だった。
その表情はどこか寂しげに見えた。

お姉ちゃんを送るときと同じ目をしていた。

お母さんとお姉ちゃんは相変わらずガールズトークで盛り上がっている。

博多空港に着くと、ずっと黙っていたお父さんが一言、何に一度は帰ってきなさいと言った。

その言葉には寂寥(せきりょう)を孕んでいたようにも聞こえた。

お母さんはいってらっしゃいと笑顔で見送ってくれたけれど、その目は少し充血しているようにも見えた。

お姉ちゃんと一緒に検査場を通りしばしの別れを告げた。

そんな愛に溢れた家族が大好きだった。
ーあのとき目を開けていたら彼を刺してしまうことなんてなかったのかもしれない。

あのときアイツを家に上げなければあんなことにならなかったのかもしれない。

ううん。
そもそも距離を置いたりしなければ彼が死ぬことなんてなかったのかもしれない。

そう思えば思うほど後悔の念と殺意が襲ってくる。

事件の日を境に私は福岡の実家に帰っていた。

バイトも辞めて学校も辞めた。

ご飯はまともに喉を通らず、不眠症にもなってしまい、毎日のように睡眠薬を飲まないと眠れない身体になってしまった。

家族に相談して不同意性交罪として訴えたけれど、私を強姦したあの男は政治家の息子で多額の示談金で揉み消そうとしてきた。

不起訴処分にして前科をつけたくないのだと思うと身勝手すぎる思考に腹が立った。

でもお金の問題じゃない。

いくら積まれても心の傷が癒えることはないし、彼が(かえ)ってくることはないのだから。

ただ、裁判が長く続けば続くほどあの日のことが夢に出てくる。

彼が脇腹を押さえながら崩れていく瞬間の夢を。

もうあの悪夢は見たくない。

ニュースでは事故死ということになっていて詳細は明らかにされていないし大きな報道にはなっていない。

きっとこれも政治家であるアイツの親が関わっているんだろうと思った。

しかし、ネットの世界はそうはいかなかった。

なぜか私とアイツが付き合っていて、彼が浮気相手の設定になっている。

浮気を知った彼が乗り込んできてアイツを殴ろうとしたところを私が庇って刺したことになっている。

『浮気相手が殺人鬼だったなんてヤバすぎ』

『逆上して殴ろうとするなんてサイコパス。死んで当然』

『この彼女、綺麗な顔して二股とかただのビッチじゃん』

彼も私も散々な言われよう。
なんでこんな風になったのかはわからないけれど、これじゃあまるでアイツだけ被害者みたいな展開。

百歩譲って私のことをどうこう言うのは我慢できる。でも、彼のことを(あげつら)い、(そし)られたことが(ゆる)せなかった。
だからといって何かができるわけじゃない。

気が狂いそうだった。

もうあの家にはいられないし、お姉ちゃんにも火種が飛ぶことを恐れて仕事を辞めて一緒に福岡に帰ることになった。

あの事件がなければお姉ちゃんはいままで通り普通に東京で仕事ができたのに私を責めることは一切せず、むしろ擁護(ようご)してくれた。

アイツは私からなにもかもを奪った。

大好きな彼はもうこの世にいない。

それなのにあの悪魔だけのうのうと生きている。
それがものすごく赦せなかった。

そう思ったとき、
「ちょっと紫苑、これ観て!」

実家でニュースを観ていたお姉ちゃんが声を張る。

台所でお皿を洗っていた私は手を止めてお姉ちゃんのスマホを覗く。

その内容に驚愕した。

『衆議院議員の砂金 和至(いさご かずし)議員に収賄(しゅうわい)疑惑。さらに議員の息子が過去に強制猥褻(わいせつ)していた疑惑も浮上』

一生分の傷をアイツに与えてやりたいという胸の奥底に隠していた気持ちが蘇った。

久しぶりにスマホを取り出す。

ここには見たいもの、見たくないもの、知りたいこと、知りたくないことがたくさん埋められている。

ネットを開くと嫌な思いをたくさんするからずっと避けていた。

消せないままでいる彼との写真。

SNSに多くのコメントが寄せられている中、1つのコメントを契機に拡散されている。

『先の件で真実が発覚。先日の東池袋の事件で亡くなった男性。実は被害者の交際相手で、強姦したのは砂金議員の息子だった!亡くなった男性は被害者を庇って亡くなった』

この書き込みをした人物の名は“カワハラ”。

これは偶然?

『あれ事故じゃなかったの?』

『浮気相手が本当の彼氏だったってこと?』

『これが本当だったらやばくね?』

『議員の息子ってことは金で解決されたのか?』

『サイテーなんだけど』

(くだん)の書き込みでネット上がざわついている。


数日後、みんなから連絡がきた。

西新宿にあるオシャレなレストランで女子会をすることになった。
東京に行くのなんていつぶりだろう。

あの事件以来気まずくなってしまい、連絡するタイミングを逃していた。

スマホを開くと彼のことを思い出してしまうから……

新幹線で東京に向かう。

飛行機という選択肢もあったが、たまたまキャンペーン中で安くチケットが買えたので新幹線で向かうことにした。

彼と一緒に乗った車両を思い出す。

そんな遠くないはずなのに遥か遠くの記憶に感じてしまう。

何でもない景色がペンキに塗られていくように心臓と海馬(かいば)を黒く染めていく。

斜め前に座る会社員がノートパソコンを開いて仕事をしている。

キーボードをカタカタ打つ音が大きくて五月蝿(うるさ)い。
もう少し静かにして。

反対側に座っている若いカップルがスマホで動画を観てケタケタ笑いながらイチャついている。
人前でイチャつくなんて目障り。

彼がいなくなってから些細なことにイライラしてしまう自分がいた。

自業自得なのに自己嫌悪に陥る。

このままじゃダメ。

そう思ってある決意をする。

東京駅に着いてからある場所へと向かった。

「本当にいいの?」

「はい。お願いします」

久しぶりに東狐(とうこ)姐さんの店にいた。

何も言わずに福岡に帰ってしまって少し気まずさもあったけれど、いろいろとお世話になったからちゃんと挨拶しようと思った。

あの日から気持ちが落ち着かず、すべてに対して投げやりになっていった。

でもいつまでも落ち込んでなんていられない。

東狐姐さんはてっきりトリートメントかカラーリングだと思っていたらしく、ショートカットにすることを伝えたらものすごく驚いていたけれど、それでも理由は訊かず、10年ぶりに長い髪をバッサリ切ってくれた。

もう一ヶ所、どうしても行っておきたい場所があった。

西東京にある霊園。

彼が亡くなったことを知った遠い親戚がこの霊園にお墓を立ててくれて、そのことを美咲さんが教えてくれた。

私がお墓参りする資格なんてないって思っていたけれど、
「ちゃんと雪落に逢ってあげて」

彼のために言ったのか、それとも私のために言ってくれたのかはわからないけれど、昔から彼のことを知っている美咲さんだからこそその言葉に重みがあった。

ちゃんと謝らないと。

背中を押されるように電車に乗る。

東京駅から新宿と調布を特急で経由しても片道50分以上かかるから人混みの少ない時間を狙って行ったけれど、相変わらず人が流れてくる。

京王線の改札まで押し合うように歩く。

前を歩く60代くらいのおじさんが人を刺すかのように傘の先端をこっちに向けながら手を振って歩いている。

こういう人って周りの人のこと考えないのかな?

右手で引いて歩いていたキャリーケースがすれ違う人の足にぶつかって舌打ちと同時に睨まれた。

小さい声ですみませんと言って謝ったけれどちょっと腹が立った。

まだまだ気持ちが落ち着かない。

自己憐憫(れんびん)なんて言葉を使ったらバチが当たりそうだけれど、胸の奥で焦燥感と抑制心が独楽(こま)のようにぐるぐると回っている。

彼の墓が近づくにつれて身体が震えていく。

やっぱり彼に会うべきじゃないと思ってきた。

怖くて引き返したくなったけれど、美咲さんの言葉を思い出し、深呼吸をして前に進む。

名前の刻まれたお墓を見たら切なくなった。
誰かが挿したお花は少し枯れかけていた。

彼との思い出が走馬灯のように蘇る。
それと入れ替わるように彼の最期の姿が、断末魔(だんまつま)の叫びが目の前に映し出されてくる。

花を替え、線香を焚き、手を合わせる。

墓石の前でごめんねと言いながら水をかけると、ずっと我慢してきたものが溢れてきた。

ここでは泣かないって決めていたのに泪が止まらない。
私の想いを無視するようにどんどんと流れていく。
何度(はな)をすすっても慟哭(どうこく)してしまう。

ーこれ以上ないくらい墓石の前で(むせ)び泣いた後、紅く染まった瞳を拭って新宿近くのホテルでチェックインを済ませる。

待ち合わせは夜6時に西新宿の“LOVE”のオブジェの前。

ロバート・インディアナというアメリカ人が手がけた赤い彫刻のポップアートで、待ち合わせ場所としてもSNS映えとしても有名な場所。

目的地に向かっている途中、スマホに通知が来た。

「ごめん、間違えて逆方向乗っちゃった。これから新宿方面に戻るからちょっと遅れる」

これは私たちの中で毎回恒例となっている『恋ちゃんあるある』だ。

道を覚えるのが極端に苦手な恋ちゃん。

そういう私も道を覚えるのは苦手なのだけれど。

上京したてのころ、新宿駅でひたすら迷った記憶がある。

改札が多すぎてどこを行ったら乗り継げるのか全然わからなかった。

道行く人たちはみんな急いでいる様子で道を開けるような雰囲気じゃないし、駅員さんに聞いても冷たい反応をされる。

東京出身の優梨は、都心部はそんなもんだから気にしたら負けだよ。と言って割り切ることを教えてくれた。

ーあの一件以来動いていなかったグループLINE。

止めてしまった原因は私だから申し訳ない気持ちでいっぱいだったけれど、マイペースな恋ちゃんを除いては即レスしてくれる優梨と里帆っちに口元が緩む。

今日会ったらみんなに謝らなきゃ。

時間より少し早く着くとそこには里帆っちと優梨がいた。

久しぶりの再会すぎてどんな顔をして良いのかちょっと戸惑った。

すると、私に気がついた里帆っちがニコッと笑いながら「のりしお~」と言いながら抱きついてきた。

昔なら恥ずかしくて照れ隠ししていたけれど、久しぶりに呼ばれたあだ名と里帆っちの柔和な笑顔に懐かしさと嬉しさで泣きそうになった。

「のりしお、ショートカットにしたんだね!かわいい!」

「ありがとう。里帆っちはちょっとふっくらしたんやない?」

「久しぶりの再会の第一声がそれ?ひどくない?」

久しぶりでもこんな冗談の言い合える関係に幸せを感じる。

横にいた優梨が「もう大丈夫なの?」と聞いてきた。

彼のことを忘れたことは一度もない。

現実を受け入れようと頭ではわかっているつもりでも、何かがきっかけで崩れ落ちるかもしれない。

普段なら反射的に大丈夫と言ってしまうのに、優梨には本音が言える。

「だいじょばない、かな」

強がってもバレてしまうし、(つくろ)うことを嫌うから何でも話せる。

「優しそうな人だったもんね」

うん、これ以上ないくらいに優しい人だった。

「紫苑のために必死になってくれる人だったもんね」

うん、私が駄目になるくらい愛してくれた。

本当に優しかった。

本当に本当に優しかった。

「少しだけだけど、雰囲気がわかったよ」

私がスマホを落として修理をしに行こうとした日、彼と優梨は不思議な夢を見て偶然出会い話したときにそう思ってくれたらしい。

私は優梨と梨紗っちに「心配かけてごめん」と深くお辞儀をして謝った。

お店は夜6時半に予約している。

まだ着く予定のない恋ちゃんをギリギリまで待つことにした。

結局恋ちゃんが待ち合わせに来たのは15分後。

お店には事前に電話していたのでキャンセル扱いにはならなかったけれど、恋ちゃんが支払いを多めにすることでチャラにした。

場所は西新宿近くにある高級ホテル内のレストラン。

エレベーターを上り、店の入り口に近づくと黒いスーツ姿の店員さんがドアを開けて「ご予約の荒川様ですね?お待ちしておりました」
と出迎えてくれた。

整髪料で整えられた短く黒い髪、奥二重の綺麗な瞳と柔らかな笑顔、180cmくらいの身長がその爽やかな印象を引き立たせる。

名札には酒匂(さこう)と書いてある。

里帆っちが好きそうな顔をしている。

案の定、横を見ると里帆っちは口元を緩ませながらニヤけていた。

白を基調とした店内には等間隔でシャンデリアが吊るしてあり、床はすべて大理石なんじゃないかと思わせるくらい煌びやかに輝いている。

こんなオシャレなところはじめて来た。
ざっと見た限りでも300席くらいはある。

窓際のテーブル席に案内され、高層ビル群が一望できる。

隣のテーブルにはスーツを着た経営者風のダンディな男性と女子アナ風の美人女性。
その奥にはきっとお金持ちの旦那さんをつかまえたんだろうなって思わせるくらいブランドものを着飾ったマダムたち。
そして何の仕事をしているか見当もつかないちょっとチャラめの男性たちがだらしなく座っていて、カウンターには常連らしき老人がボルドーグラスに入った赤ワインを片手に顔を火照らせながら店員さんと楽しそうに話している。

コース料理を運んでくる酒匂さんは凛々しく、紳士という言葉はこの人のためにあると言っても過言ではない。

それくらいスマートな立ち居振る舞い。

私たちは出てくる料理に感動しながら写真を撮っていた。

自分で言うのも何だが、4人が揃うと本当に五月蝿(うるさ)い。

1つの話題が10にも100にもなる。

すると、そのすらっとした長い足でゆっくりと私たちの前まで来た酒匂さん。

「お客様、失礼ですが……」

ラグジュアリーな雰囲気とジャズが流れるムーディーな店内を壊すかのような(かまびす)しさに注意されると思っていると、

「そちらはコトノちゃんでしょうか?」

里帆っちのポーチに付いているマスコットキーホルダーを見ながらそう言う。

きっとこの鳥のマスコットを言っているんだろう。

「コトノちゃん知ってるんですか?」

「えぇ。わたくし京都サンガサポーターなので」

「私もです」

里帆っちは大のサッカー好きで、小さいころから地元のサッカーチームを応援している。
昔サッカー部のマネージャーをしていたこともあるくらい。

サッカーのことはよくわからないけれど、2人の距離がぐーんと縮まった。

酒匂さんと話す里帆っちは乙女のような笑顔で飲んでいたキティのように赤く頬を染めている。

お酒なのか酒匂さんなのかはわからないけれど、すごく楽しそうなのは事実。

「もしかして、京都の方ですか?」

「はい。向日市(むこうし)出身です」

「すごく近いですね。わたくしは鶏冠井(かいで)の方です」

「鶏冠井なんですか!?私もそっちの方です!」

ただでさえ目が大きいのに、さらに目を大きくさせて飛び跳ねるように喜んでいる里帆っち。

話についていけない私たちは静かに2人の会話を聞いていたけれど、当の本人は2人だけの世界に浸っているように無垢な表情で終始ニコニコしていた。

それからは私の話もちょっとしたけれど、せっかくの再会で重たい空気にしたくなかったからずっと気になっていたことを名付け親に聞いてみた。

私たちのグループLINEのKAWAHARAという名前についてだ。

「小学生のころね、クラスメイトに好きな人がいたの。その人の名前が香和原 翔平(かわはら しょうへい)くんって言うの。でね、彼はサッカー部のエースだったんだけど、中学に上がるとき、プロになるために京都府内の名門校に進学したの」

「結局彼とは何もなかったの?」

食い気味の恋ちゃんの質問に対し、

「チューはした」

それを聞いた私たちは声を出してテンションが上がる。

「それってさ、彼も好きやったんやないと?」

「どうだろ、わかんない」

「その人里帆ちゃんのこと好きだったと思うな」

「彼は推しみたいな存在だからいいの」

私と恋ちゃんの問いに対し、里帆っちの回答はどこか本心とは違う歪曲(わいきょく)された切ない言葉に感じた。

それから他愛もない話をして店を出た。

最後まで酒匂さんに彼女がいるか聞けなかったけれど、里帆っちはなぜか満足気だった。

店を出ると街はネオンで輝いていた。

生ぬるい夜風はほろ酔い気分を覚ますにはちょうど良い。

里帆っちのマシンガントークは絶えず続いたので、新宿駅までみんなで歩くことにした。

歩きながらみんなに質問をする。

「このコメントあげたのってみんなだよね?」

スマホの画面を見せると、

「あの後、先輩(アイツ)の本性暴いてやろうと思ってみんなで色々と調べてたんだけど、そしたらまぁ出てくる出てくる」

「先輩の過去すごくてさ、親の権力を武器に小学生のころからいじめを主導してて、中学時代はそれがエスカレートしてクラスメイトを使って万引きさせたり動物を虐待してたみたい」

「高校生のときなんか学校中の女子を食い漁ってたらしいよ」

優梨の言葉を皮切りに恋ちゃんと里帆っちが続く。

「しかもその寝た相手の写真や動画を勝手にネットにアップして(たの)しんでたんだって。マジでイカれてるよね」

話を聞くだけで吐き気がしてきた。

バイト中の優しい振る舞いや笑顔は、画面の奥の獣の姿を隠すためだったのかと思うと、何とも形容し難い感情が芽生えてきた。

「ある程度炎上させておいたからきっといまごろは削除されてると思うよ」

優梨たちの暴露に当時の被害者たちが乗っかってくれたことで一気に拡散されたらしい。

馬脚(ばきゃく)(あら)わすのも時間の問題だと思う。

「先輩のこと調べてるときの優梨ちゃん、まるで探偵みたいだったよね」

「よっ!名探偵ゆりりん!」

恋ちゃんの煽りに里帆っちも便乗する。

みんなのおかげで心の奥の(うみ)が少し取れた気がする。

天網恢々疎にして漏らさず(てんもうかいかいそにしてもらさず)だね」

「えっ?なんて?」

「れんれん、急にどした?」

恋ちゃんが聞いたことのない言葉を発し、私と里帆っちは一瞬硬直した。

「天網恢々、疎にして漏らさず。だよ」

当然知ってますよねのスタンスで言い直されてもさっぱりわからないんですが。

反芻(はんすう)しようにも文字がまったく浮かんでこない。

「悪さをしたものには天罰が下るって意味でしょ?」

優梨が意味を説明してくれたがそれでも理解できなかった。

初めて耳にする言葉に脳が追いついていない。

「いや、はじめて聞いたんですけど」

「そんな言葉どこで知ったと?」

「なんかね、私と優梨ちゃんの好きなゲームに出てくる推しキャラの言葉なの」

「敵をやっつけた後に剣を振りながら言うんだけど、クールで超かっこいいよね」

私も里帆っちもゲームをしないからわけがわからずポカーンとしている。

「里帆ちゃんも紫苑ちゃんもやってみて。無料でダウンロードできるから」

「う、うん。考えとく」

「私も」

いつの間にか話が脱線したけれど、どんなときも変わらず接してくれるみんなが大好き。

やっぱり持つべきものは友。

楽しい時間はあっという間に過ぎていった。

みんなとお別れした後、ホテルに帰る途中、私は最も会いたくなかった人に会ってしまった。
そう、私を犯した男。

人の人生をぶち壊した悪魔は偶然を装い、SNSで私の居場所を突き止めていた。

もう会わない約束したはずなのに、この男にはそんな約束意味をなさなかった。

「久しぶり。ショートカットも似合ってんじゃん」

顔を見るだけで、声を聞くだけで虫唾(むしず)が走る。
シカトしてエントランスへ向かおうとしたけれど、腕をぐっと強く掴まれた。

その瞬間あの日の出来事が走馬灯のように蘇ってきて、恐怖の再来と同時に何かのスイッチが入った。

「会いたかったです」

目は合わさず感情を無にして言った。

「あのときは無理矢理襲って悪かったよ。こうして最初から向き合っていれば良かった」

この男はどこまで身勝手で阿呆なのだろう。

ナルシストすぎて反吐(へど)が出そうだった。

人生の1ページを鹵掠(ろりゃく)したこの男はに復讐しないと気が済まない。
彼が報われない。
そう思った。

きっと黙っていても(いず)れ捕まるだろうけれど私自身の手でやりたかった。

「今日ここに泊まってるんです」

「神法、やっぱりあの日のことが相当刺激的だったんだね」

何も応えずそのまま部屋に入った。

「先にシャワー浴びてきてください」

「そうさせてもらうよ」

髪をかきあげながらシャワーを浴びにいっている隙に部屋に常備されていたスティック状のコーヒーをカップに入れ、温めたお湯で溶かす。

バスローブ姿で出てきた先輩をソファを座らせ、コーヒーを差し出す。

「気が利くね」

ニコニコしながらそう言う先輩の言葉を無視して向かい側に座る。

「2人きりなんだから隣においでよ」

脚を組み、左手でソファをトントンと軽く叩きながら座って欲しそうにしている。

「ちょっと緊張してて」

斜め下を向きながら口角だけ上げた。

「そうだよね。まぁ時間はあるんだし、楽しもう」

そう言って一口、ゆっくりとコーヒーを飲む。

喉を通ったことを確認すると私は確信を持ちながら立ち上がった。

程なくして先輩はその場に倒れ込んだ。

そう、あの日以来バッグに常備していた睡眠薬をコーヒーの中に大量に投与していた。

復讐は成功した。

**

古くてボロい部屋。

小さな机の上には小さなテレビが置かれている。

畳の匂いがする雑居房。

私はここで何年過ごすのだろう。

コーヒーの中に大量の睡眠薬を投与した後、あの男が苦しむ姿を想像しながら自首をした。

後悔はしていない。

むしろ清々しい気持ちだった。

刑務所での生活は思っていたものとは少し違った。

「やばっ!めっちゃ美人!」

雑居房に入っていきなり声をかけられた。

同じ部屋にいたちょっと気の強そうなギャル風の人。

「あ、ありがとうございます」

動揺してぎこちない応え方をしてしまった。

こういう世界では友情や愛といった概念はなく、心を開くこともなく、一定の距離を保ったままの関係だと思っていたから驚いた。

ピアスの痕や首元のタトゥーなど、昔ヤンチャしていたのかなと思わせるその人は私と相部屋。

見た感じ同世代くらいかな?

「そのメモ帳って“Narrative Land(ナラティヴ・ランド)”だよね?しかも限定ものの」

ナラランはたまに期間限定でノベルティーを出していた。

このメモ帳はそのときのもの。

同じノベルティーで化粧ポーチやリップクリームとかもあったけれど、ここに持ってくることは許されず、ポケットサイズの小さなメモ帳だけ許可された。

このメモ帳には彼との思い出が詰まっている。

彼と行ったお店や彼と行く予定だった場所。

デートのときに撮ったプリクラをいくつも貼っていたので、肌身離さず持っていた。

「えっ?ナララン知っとーと?」

「もちろん知ってるよ。美羽さんのカリスマ性や毒舌も好き。ってか博多弁?」

若い世代で名の知れたブランドだけれど、やはり自分の好きなものや憧れている人を褒めてもらえるのは嬉しい。

「こんな美人で博多弁話すとかウチが男だったらすぐ告っちゃうかも笑」

初対面とは思えないほどグイグイくる。

いままで出会った人の中にはいなかったタイプだ。

「ねぇねぇ、福岡出身ってことは『おっとっと』の早口言葉のやつ言える?」

おっとっとの早口言葉とは、
『おっとっと取っておいてって言ったのになんで取っておいてくれなかったの?』
というのを博多弁で言った場合、
「『おっとっと取っとってって言っとったのになんで取っとってくれんかったと?』」

私たちからするとなんてことのない会話なのだけれも、こっちの人からすると早口言葉に聞こえるらしい。

私は力むことなくすらすらと言ってみせた。

「本物だ~、かわいい!あっ、初対面なのにごめんね。私、綺麗な人や可愛い人見るとテンション上がって話しかけちゃうんだよね。イヤだった?」

「あ、いえ、そんなことないです。全然悪い癖やないと思うし」

「良かった。あなた名前は?」

「神法 紫苑って言います」

「何その神々しい苗字」

そう言いながら彼女は部屋にあった鉛筆と紙切れを取り、自分の名前を書いて見せてきた。

「うち、鬼灯 朱花(ほおずき しゅか)って言うの」

いやいや、人のこと言えないと思いますが。
ってか明るい。テンション高い。本当に受刑者?

「赤い花って書いて朱花って読むんですね、良い名前」

「そうかな?母親が赤い花が好きだからって理由でつけたらしいよ。安易すぎない?」

「ちなみに誕生日っていつですか?」

唐突すぎる質問に目をパチパチをさせながら、

「8月2日だけど」

「ってことは多分ノコギリソウと関係してるかもしれないですね」

「ノコギリソウって、そのなに怖い名前」

ノコギリソウ、お花を知らない人からしたらたしかに恐ろしい名前。

「名前はインパクトありますけど、花弁は赤く綺麗ですごく可愛いんですよ。もしかしたらお母さんの好きな赤い花と何かシンパシーみたいなものを感じたのかもしれないですよ」

「紫苑ってロマンチストなんだね」

「そ、そうですか?」

「あと敬語使わなくていいよ。この部屋では年齢とかそういうの関係ないから」

「うん、わかった」

朱花はこの刑務所でできたはじめての友達。友達という表現は正しいかどうかわからないけれど、まいっか。

「ちなみに紫苑は何したの?」

「殺人未遂」

「そんな可愛い顔してすっごいことしたのね」

ちょっと引いている?

「朱花は何したの?」

「私はドラッグ」

お互いなかなかの罪だ。

「こんなこと聞いて良いのかわかんないけど、紫苑はなんで殺人を?」

私はあの日、バイト先の先輩に強姦されたこと。庇ってくれたあの人を刺してしまったことを話した。

「それって悪いのその先輩じゃん。冤罪(えんざい)だよ」

「でもその後に未遂を犯したのは事実だから」

そこからの私の人生は転落していった。

まだ人生の半分も過ごしてないのに、大切な人を失って人生がめちゃくちゃになった。

身も蓋もないことをネットで言われ、たくさん傷ついた。

他人の方が圧倒的に多いから無理もないかもしれないけれど、それでも言葉や文字というものは人の心を簡単に傷つけてしまう。

「そっか……紫苑、この部屋で良かったね」

「えっ?」

「他の部屋だと新人へのいじめとかもすごいらしいよ。布団や食事を取り上げられたり、強制的にマッサージさせられたり。すぐ隣の部屋にはお(つぼね)みたいな人がいてさ、彼女に逆らうと服役期間が延びるって噂もあるの」

朱花の話し声に反応したのか、奥で寝ていた人が起きてきた。

「楓、起きたね。おっはー」

楓と呼ばれるその人は長い睫毛(まつげ)に細い目、口元に黒子(ほくろ)があり楚々(そそ)としている。

「おはよう。この子新入り?」

少し眠たそうな顔のまま静かに話す。

「神法 紫苑です。よろしくお願いします」

挨拶をすると、人見知りなのか目も合わさず軽く会釈をするのみだった。

「この子は楪 楓(ゆずりは かえで)。詐欺で捕まったの」

こんな清楚な人が詐欺?

「朱花、昔キックボクシングやってたから気をつけた方がいいよ」

「ちょっと楓、脅かすようなこと言わないでよ。ダイエットしようと思って手遊(てすさ)び程度にやってただけだから」

クスッと笑うと楓はまたすぐ眠ってしまった。
ほんの少しの時間だったけれど、2人の仲の良さを(うかが)える。

哀しくも刑務所での生活も慣れてきてしまった。

でもあの日の記憶は鮮明に覚えている。

私がアイツを殺めようとしたせいで彼と離れ離れになってしまった。

いっそのこと彼のもとへと行こうかなとも思ったけれど、そんなことしたら怒られそう。

『命は時間と同じくらい大切だから雑に扱っちゃいけない。自分と自分の大切な人との時間はとくに大事にしないと』
っていつも言っていたよね。

たまに小説家のようなことをさらっと言うんだから。


ここ最近、なんだか左胸の辺りがキリキリと痛む。

針とか串なんかじゃ比にならない。
薙刀くらい鋭利なもので心臓の奥まで突き刺してくるようなそんな痛み。

それが立て続けにやってくる。

「ちょっと紫苑、大丈夫?」

胸を押さえながら急に項垂(うなだ)れた私を見た朱花が心配してくれる。

切羽詰まったようなその声に起きた楓が私のもとにやってきて、

「ちょっと見せて」

私も朱花も驚いたが、その真剣な眼差しが何かを訴えかけているかのように感じ、言われるがまま服を脱いで胸を見せると左の胸に(しこり)ができていた。

こんなのあったっけ?

楓がその痼を軽く押す。

「痛っ!」

「これいつから?」

真剣な表情で聞いてくる楓。

「覚えてないけど、ここに来るまでにはなかったと思う」

「もしかしたら乳癌の初期症状かもね」

嘘でしょ?

いままでずっと健康的だったのに。

「乳癌は日本人女性の中でもトップの罹患率(りかんりつ)。だいたい10人に1人の割合くらいで、乳癌になった人の約30%が亡くなってしまうって言われてるの。その数字は年々増加しているわ」

「ちょっと楓、物騒なこと言わないでよ」

朱花の口調が少し荒い気がした。

「まだ確証はないし私も専門家じゃないからわからないけど、もしこのまま痛むなら医療刑務所に行って診てもらった方がいいわ」

「ってか楓、何でそんなに詳しいの?」

「私ね、捕まるまで医療を学んでたの。医師になりたくてね。家庭の事情で学費は自分で稼がないといけなかったんだけど、どうしても払えなくて……」

経済面や家庭の事情で夢を諦めなきゃいけない人は大勢いる。

楓も本当は勉強だけに集中したかったのだと思う。

でも自分で稼がなきゃやっていられないくらい厳しい環境だったのだと思うと、私はすごく恵まれていたことに気づかされた。

私も夢に向かって早く刑務所(ここ)を出なきゃ。

その気持ちとは裏腹に痛みが激しさを増した。

待って、どうしよう。

まさか私、癌で死ぬの?
しかもここで?

「紫苑を早く病院に……」

朱花の言葉を(さえぎ)るように楓が言う。

「この刑務所、医療の管理が杜撰で有名なの。ちゃんとした医療を受けられる可能性は極めて低いからあまり期待しない方がいいわ」

「でも、病気かもしれないんだよ?」

朱花がまたも感情的になっている。すごい剣幕だ。

気持ちは嬉しいけれど、楓に言っても仕方ないよ。

後日、看守に言って医療刑務所で診てもらうことができた。

「ステージ4ね」

冷静に無感情に言う女性医師。

医師によると、ステージ4は末期の状態で生存率は低いそうだ。

「とりあえずこれを飲んでおいて。また何かあったら看守経由で教えてちょうだい」

作業のように淡々と話す。

痛み止めってそれだけ?日に日に痛みが増しているんですが。

発熱とか倦怠感とかもあるのにそんな簡易的な。

「あの、入院とかはできないんですか?治療は?」

こちらの態度に反するように、面倒くさそうな顔で冷たい視線を浴びせながら、

「残念だけど、いま病室がいっぱいなの」

何よそれ。

私まだ21歳だよ?
もし神様がいるのならひどすぎない?

そう思いながらも痛みはさらに増していく。

(痛い、痛い……)

それから数日間、痛み止めのおかげで少しは和らいだがそれでもただの気休め程度。

痛みが消えることはなかった。

ーある日、看守に呼び出された。

病室に空きが出たという理由で医療刑務所に移ることが決まった。

「お別れだね」

「短い間だったけど一緒に過ごせて良かった」

朱花と楓に見送られながら刑務所を後にする。

2人とは不思議なくらい仲良くなれた気がする。

上手く表現できないけれど、まるで昔から知っていたかのように心を開けた。

「ありがとう。またね」

そう言って別れた。

医療刑務所に移ってしばらくは痛みもなく完治できるかと期待していた矢先、私の身体は言うことを聞いてくれずにそのまま意識を失った。
🔥

「ソルトー様」

「なんじゃ?」

「この魂なんですが、身元がわかりません」

「身元がわからない?」

「はい。どうやら家族も親族もいないようで、誰の魂か判明できない状況です」

「時間がかかりそうじゃな」

「そうですね」

「ただ身元がわからないとどこに送るべきかわからないからのぅ」

「お調べいたします」

「いつもすまんな」

「お任せください」

「わかるまでは保冷室に保管しておくから、分かり次第身体を顕現(けんげん)させよう」

「承知致しました」

☕️

あの日俺は誰かに刺された……はずだが、記憶が曖昧でちゃんと思い出せない。

思い出そうとすると激しい頭痛がする。

ここはどこだろう?

洞窟の中だろうか?

それにしては天井が見えないくらい高いし、天気が澄んでいる。

となるとここは黄泉(よみ)の国?

いや、そんなものはないはず。

宇宙のように広く暗いこの空間にポツンとある踊り場に立ちながら状況を理解しようとするが全然しっくりこない。

何かを叩く音や何かが燃える音が(かす)かに聞こえてくる。

右上の方を見ると、そこには長い階段がある。何かに形容するなら万里の長城といったところだろうか。

永遠に続くのではないかというくらい先の見えない階段の果てには一体何があるのだろうか?

左側を見下ろすと段差の激しい階段があり、遥か下から深紅に燃える光のようなものが見えるが、少し顔を覗かせただけで熱さが肌を燃やしにかかってくる。

踏み外して落っこちたら一瞬にして燃え尽きてしまいそうな温度だ。

正面には離れ小島のようなものがいくつか見える。

しかしそこに行くことができるのは空を飛べるものか魔法使いだけだろう。

走り幅跳びの世界記録保持者でも全く届かないくらい遠くにある。

仮に渡れたとして、その先には一体何があるのだろうか?

光の当たらない、道の見えないその先はブラックホールに似た暗闇の世界なのか、それとも行き止まりなのか見当もつかなかった。

そして背後にはこの空間にそぐわない威圧感と圧迫感の大きな壁が(そび)え立っていた。

巨大なダイナマイトでも破壊することができないような高い壁。

行き先は2つ。

果てなく続く階段を登っていくのか、それとも燃えるような熱さに耐えながら(くだ)っていくのか。

壁に寄りかかり、腕を組みながら考えていると、どこからともなく(しゃが)れた声が聞こえてきた。

「ここは、プルガトリウムじゃ」

声の方を向くと、白衣を着た老人が両腕を後ろに組みながら立っていた。
その老人は髪も髭も白く、その長さで目が隠れていてよく見えない。

ってかいつ現れた。
さっきまで人なんていなかったぞ。

「プルガトリウムってことは煉獄?」

「そうじゃ」

「煉獄ってことは爺さん元鬼殺隊?」

「鬼殺隊?何の話じゃ?」

「いえ、何でもないです」

変な空気に耐え切れず敬語になってしまった。

そういえばこの前煉獄について書かれている本を読んだことがある。

『人は何かしらの罪を背負って生きていく。例外を抜きにして。死後はその罪を償わなければならない。この煉獄の地で肉体を焼き、魂を浄化することで(まこと)の天国へと行ける』

胡散(うさん)臭い内容だったから逆に覚えていたが、まさかな。

「死者の魂を浄化するために送られてくる場所だろ?」

「簡単に言うとそういうことじゃ」

待てよ。本当にここが煉獄なら、俺はすでに死んでいる?

「おい、爺さん」

「爺さんではない。(わし)はソルトーじゃ」

「ソルト?塩?」

「塩ではない。儂は煉獄選別人のソルトーじゃ」

「なるほどね、だから全身白いのか」

「これは地毛でこの白衣は制服じゃ」

「制服ってことは雇われてるってことだよな?ちなみに給料良いの?ってか何歳?」

「そんなことはどうでも良いじゃろう」

「だな。話が進まねぇから話を戻そうぜ」

「お主が脱線させたんじゃろうが」

「まぁまぁ」

「なぜお主が(おだ)てる?」

「まぁまぁ」

「馬鹿にしとるじゃろ?」

「それより、煉獄選別人って何?」

「まったく、最近の若いもんは……もうよい。儂はこの煉獄から縁国と地獄へ振り分けるために送られた使者じゃよ。地上に戻ろうとするものを止めたり、魂の浄化のためにマグマの火口に飛び込むのを後押ししたりするのが仕事じゃ」

地獄はわかるが縁国ってなんだ?
どんな世界なのか想像もつかなかった。

「なるほど。じゃあ塩爺、俺は死んだからこの煉獄にいるんだよな?」

「勝手にあだ名をつけるでない」

「まぁいいじゃん。俺と塩爺の仲だし」

「お主、絡みづらいのう」

「で、俺はいつ死んだんだ?」

「覚えておらんのか?」

「思い出そうとすると頭痛がする」

「死んだショックによるものじゃろう。ここに送られてきた以上、お主の選択肢は2つ。炎に焼かれて地獄に落ちるか、炎に焼かれて縁国へ行くか」

どっちにしろ焼かれるのかよ。

「ってか縁国ってなんだ?」

そもそもこの空間自体どうも信じ難い。

本当に死んだのなら意識なんてないはずだが。

「縁国とはな……」

塩爺が縁国について語ろうとした瞬間、

「ぐわぁ~!?」

下の方から大きな爆発音のようなものと同時に断末魔の叫びが聞こえてきた。

「またか……」

塩爺の溜め息と同時に火口に向かうと、そこにはミイラの如く黒く焼け焦げた男の死体が浮き出てきた。

グロい……

「この死体はのう、一度縁国へ行ったんじゃがそこで罪を犯してこの煉獄に送られてきたんじゃ。縁国と煉獄では意思や欲望を持った状態でいられるからこういうパターンも少なくない。ただこうなったらもう地獄行き確定じゃが」

「罪って何をしたんだ?」

「縁国でのことは詳しくわからんが、おそらく己の欲望を満たそうと欲に(まみ)れたんじゃろう」

言っている意味がよくわからず怪訝(けげん)な表情を浮かべていたが塩爺はそのまま続けた。

「ほれ、あそこを見てみ」

塩爺が見上げ指差す先には、先の見えない長い階段がある。

「あの先には一体何が?」

すると、塩爺は前髪を分けて目からビームを発した。

俺は驚きのあまり口を開けたまま硬直した。

塩爺の放ったビームにより、階段の奥が見えるようになった。

そこには大きな扉があった。

「これでよく見えるじゃろう」

その前に聞きたいことががあるんだが。

目からビームって何?どういうこと?

「あんた何者だよ」

「驚くのも無理はない。儂は人間ではないからな。ガハハハ」

いや、どこで笑ってんだよ。

その扉の隙間からは微かに白い光が差し込んでいる。

でもおかげで光の詳細がわかった。

光を放っていたのは鉄の扉だった。

その扉は大人数人がかりでも開けられるくらい大きく固い。

まるで死者をあの世からこの世へと還せるのではないかと思わせるような残酷で冷徹な光。

死者からしたらあまりに罪深い扉だ。

その扉をこじ開けようとしている死者がいる。

それを止めにかかる数人の煉獄選別人たち。

「ああやって生き返りをしようとするものが多くてな。儂ら選別人も手を焼いているんじゃよ」

「そのビームでなんとかなんねぇの?」

「儂らはあくまで死者をこのマグマに飛び込ませるために送られた存在。自らの意思で飛び込まないと魂の浄化をすることはできんのじゃ」

なんか面倒くさい設定だな。

「あの扉は地上とこの煉獄をつなぐ唯一の扉。死者の魂のみが居られる場所。もちろんこちらから扉を開けることはできん」

「待ってくれ。こっちから開けることができないならあんたら選別人たちがわざわざ止めに入る必要なくないか?」

「これを見るんじゃ」

そう言うと塩爺は目から光を放ち、目の前に大きなスクリーンを映し出した。

この爺さん、マジで何者だよ。

スクリーンには俺が映っている。

誰かの部屋で誰かに刺されている。

背後には若い男がいて、俺の前で慟哭(どうこく)している女性がいる。

俺以外は薄くモザイクがかかっていてよく見えない。

その映像は俺の脳内を強く刺激した。

「これはお主の死ぬ直前の映像じゃ」

俺の今際の際(いまわのきわ)

「……てくれ」

「何じゃ?」

「消してくれ」

頭が痛い。

気分も優れない。

この映像は俺にとってどう受け止めて良いかわからないものだと直感で感じた。

「煉獄に来たものにはこうして自身の死の瞬間を見せて死んだことを実感してもらっておるんじゃが、それでも(あらが)うものが多くてのう。仕方なしに止めていると言うわけじゃ」

「でも何であんたらが死ぬ瞬間なんて映せるんだ?」

「我々はそういう存在だからじゃよ」

いや、説明になってないんだが。

爺さんのめちゃくちゃな説明に違う意味で頭痛がしてきた。

「それにしてもお主、大変じゃったの」

「何がだ?」

「お主、ずっと孤独と闘ってきたんじゃな。複雑な家庭環境の中でも強く優しく育ったんじゃからのう」

あんたが何を知ってんだよ。って言おうとしたが否定できなかった。

梨紗のように震災で家族を亡くした人、事故や事件に巻き込まれて大切な人を失ってしまった人はたくさんいる。

その人たちと比べるのは少し違うのかもしれないが、それに近いものを背負ってきた。

でも自分の人生を(なげ)いても呪っても過去は変わらない。

だから後悔するよりも前進することを選んだ。

「この世界では地球上すべての瞬間(とき)が刻まれておる。だから誰がどこでいつ死んだのかがわかるのじゃ」

周囲に大スクリーンのようなものは見当たらない。

どのようにして記録されているのかは不明だったが、さっきの映像を見た限り納得せざるを得ない気もした。

「そんな凄いのが地上にもあったらもっと世界は平和になるのにな」

誰かがこのシステムを作ったのだとしたら、死後の世界ではなく現世に置いてほしいと切に願った。

少しの沈黙の後、ありえないとは思っていたが一応訊いてみた。

「死者が蘇るってことはあるのか?」

「そんなのゲームの世界だけじゃ。それでも実際ここに来ると、もしかしたら蘇れるかもと信じ込むものがおる」

気持ちはわからなくはない。

死んだ感覚がないままいきなりこの異様な空間に放り込まれても頭の整理がつかないし、下手したら夢の中や異世界にいるのではないかと錯覚すら起こしてしまう。

ましてやいきなり現れた爺さんが目からビームを放ったら尚更のこと。

「『ここは死後の世界で生き還るなんてことは決してない。魂を浄化させて天国へと向かうんじゃ』と何度も言ったんじゃがのう。生前と同じ姿で意識もあるから生きていると勘違いするものも少なくないんじゃ。人は団結すると怖いもんじゃな。束になって押し寄せてくる。とくにこういう状況のときは」

急にあなたは死にましたって言われても身も心もある時点で事実を受け止めない人は多いだろう。

扉の前ではいまだに多くの死者が生き還ろうと必死に抵抗している。

「なんか窮鼠(きゅうそ)猫を噛むというか、窮すれば通ずというか、(しゅ)に染まれば赤くなるというか」

「いや、どれも違うぞ」

もがき、足掻(あが)き、抗う。

自分の想いを表現する上では大切な行動のひとつ。

これが生きている証拠でもあり、自身の存在表明でもある。

脳が完全に死んでいない限り、自分の死を受け入れるのは容易ではない。

「素朴な疑問だけど、最初から仮死状態にしてここに送ればこんなややこしい問題起きなくないか?」

「大切なのは自らの意志で自らの運命を受け入れることにある。無意識では何の意味も成さない」

たしかに、誰かに強要されたものは本心とは異なることが多い。

結果納得などしていない。

「それに、誰もこんなところに居たくはないじゃろう?」

その通りだ。
誰もこんな暗闇の洞窟の中のようか異空間にいたいとは思わない。

「ここに居続けても何も残らない。残るのは満たされないまま残る魂の抜け殻だけ」

背に腹は変えられないって言うけれど、この煉獄に留まる理由はない。
少なからず俺には。

(さい)は投げられたって感じか」

「これを言うなら、(さじ)は投げられたじゃろう」

「そうとも言うな」

「いや、そうとしか言わん」

塩爺は(きびす)を返し、下の方に向かってビームを放った。

すると、微かに見えていた赤い光は火力を増したのか灼熱の炎となって俺の足元にまで燃え上がった。

「おい、爺さん。何してんだよ」

その熱で眼鏡が一瞬で曇り、身体の熱が急上昇していくのがわかる。

熱い。めちゃくちゃ熱い。

これ以上近づくと焼け焦げてしまうレベル。

「あそこに飛び込んだ先に縁国と地獄の分かれ道がある。しかし、自分の意思では選べん。地獄はその名の通り、生前の罪の意識を持った状態で永遠に償い続ける漆黒の世界じゃ」

説明とかいいからまずこの炎をなんとかしてくれ。

このままだと熱くて思考が停止しそうだ。

「縁国というのはこの煉獄と天国の間の世界だと思ってもらえるとわかりやすいじゃろう。純粋無垢な魂のみが行ける無の地、天国。そこに行くまでに意識を数日間持った状態で魂を綺麗にしてもらう。いわば天国へ向かう前の魂の浄化の場所だと思ってもらえれば良い」

「なぜ煉獄を経由する必要がある?最初からその縁国ってところへ送れば早いんじゃ?」

「人は罪深い。嘘、(ひが)み、妬み(ねた)み、(そね)み、偽善に欺瞞(ぎまん)。無意識のうちに軽犯罪を犯していることもある。誰しもそういった感情を持ち、一度はそういった行動をしているんじゃ」

思い当たる節はある。

コンビニやスーパーに家庭のゴミを捨てる。

買い物をせずにトイレだけ使う。

信号無視。

他人の携帯電話の画面を覗き見する。

これらはすべて犯罪になる可能性があるというのを耳にしたことがある。

「もしそれがゼロの可能性があるとするのならば、生まれて間もなく亡くなってしまった赤子のみだろう」

例外を除き、死んだものは一度この煉獄に集められ、そこから縁国に行くか地獄に落ちるか振り分けられているんだろう。

「煉獄の炎を浴びただけでは完全には消えん場合がある。とくに生前への思いが強いものはな」

「ここにいまから飛び込めと?」

「そうじゃ」

「拒否したらどうなる?」

(しかばね)の魂となってこの世界に漂い続けることになる」

こんなわけのわからない世界にいたいわけがない。

飛び込む決意が出ないまま正面に見える離れ小島を指差す。

「あの先には一体何が?」

「知らなくて良い」

何か知られたくないものでもあるのか、爺さんが急に冷たくなった。

「何で?」

「資格がないからじゃ」

「資格?運転免許なら持ってるぞ?」

「そうではない。あそこは条件を満たした限られたものしか行けんのじゃ」

「なるほど。目からビーム出せるようにならないとダメってことか」

「そうではない。お主は行く必要のない場所じゃ」

「どういう意味だ?」

「そんなことより、お主には会わねばならん人がおるんじゃろう?」

そう、俺には会わなきゃいけない人がいた。

その人に直接会って確かめたいことがあった。

でもなぜか顔も声も名前も思い出せない。

強く思い出そうとすると激しい頭痛がする。

熱さも重なり、頭を抑えながらその場に(うずくま)る。

「おい、若僧。大丈夫か?」

「……あ、あぁ」

駄目だ。その子を思い出すことがどうしてもできない。

「爺さん、頭痛薬持ってないか?」

「そんなものはない。死人には必要ないじゃろう」

そもそも死んでいるのに頭痛がするって何なんだよ。

「じゃあ水は?」

「ビームを出して楽しませることならできるぞ」

こんなときに軽口を叩く爺さんに一瞬殺意が芽生え()めつけた。

「冗談じゃ、ほれ」

どこからともなく出てきた水を背中越しに渡された。

一口飲んだら少し楽になった。

しばらくして頭痛も治まってきたところで質問をする。

「塩爺はこの仕事長いのか?」

「儂らはここを管理するために作られた存在だから他の世界のことはよく知らん。もう何百年、何千年と同じ景色の中におる。最近は腰が痛くなることも増えてきてな。さすがにガタが来ているのを感じざるを得んよ。そろそろ潮時かもな、塩だけに」

再び一瞬だけ殺意が芽生えた。

塩爺が横目で反応を求めてきたが、つまらなすぎて無視した。

「まぁ儂がダメになってもすぐに新しいものが送られてくるじゃろうて」

淡々と話すその口調からは何の感情も感じなかった。

長い髪に覆われた瞳を確認することはできなかったが、きっと無表情なんだと思う。

使命感や達成感もなく、ただ業務としてこなすことだけを命じられた存在。それが彼ら煉獄選別人。

結局、縁国という世界もこの煉獄のこともよくわからないままだったが、ここに居続けても何も変わらないことだけはわかった。

熱気で曇っていた眼鏡を拭き、深呼吸をする。

程なくしてマグマに飛び込んだ。

🍦

ここはどこだろう?

広くて暗くて少し不気味な踊り場に立っていた。

右上には長い階段があり、左下には段差の急な階段がある。

そして背後にはこの空間にそぐわない威圧感と圧迫感の大きな壁が(そび)え立っていた。

どっちに行くか迷っていたとき、ソルトーさんに出会った。

自己紹介もせず出会って早々私に見せてきた不思議な映像。

ーこれ、私?

お通夜に並ぶ多くの人。

真ん中には破顔した私の遺影があり、その周りには喪服姿の家族や親族がいた。

あれは、東狐姐さん。

その前には2人のお子さんたちの姿が見える。

姐さんはハンカチで口元を抑えながら泣くのを堪えていたけれど、子供たちは空気など関係ないかのように(じゃ)れ合っている。

すぐ近くにはクラスメイトやKAWAHARAのメンバーも集まっている。

そこに1人見たことのある男性がいた。

あの人ってたしか……新宿のレストランにいた酒匂さん。

里帆っちの腕の中には小さな嬰児(えいじ)が静かに眠っていて、泣きじゃくる彼女の背中を優しく(さす)っている。

そっか、この子は2人の子なんだ。

里帆っち、赤ちゃん産んでいたんだね。

でも一番驚いたのはお姉ちゃん。

長年一緒にいたけれど、こんなに泣く姿は見たことがない。

過呼吸になるほどボロボロと泣いている。

みんな洪水のように滂沱(ぼうだ)しながら私の好きだった曲を挽歌として歌ってくれている。

私が一番好きだった曲、知ってくれていたんだ。

その気持ちが嬉しくて貰い泣きしそうになる。

私、死んじゃったんだ。

もう会うことはできない。

会いたいと思う人がいてもその想いが通じることはない。

「お主はこの先のバウンダリー・フォグを抜けなさい」

煉獄で立ちすくむ私にソルトーさんはそう言った。

はじめて会った人の意味不明な言葉をなぜ素直に信じたのかは自分でもわからない。

でも、きっと良いことが待っている。
少なくともマイナスにはならない。

根拠はないけれどそんな気がした。

「そこのマグマで心身を浄化するんじゃ」

その言葉に淀みを感じることはなく、何かに導かれるように素直に飛び込んだ。

熱いとか痛いとかの感覚よりも何かが浄化されていく感覚だった。

ー気がつくと濃霧の前に立っていた。

これがバウンダリー・フォグ?

霧の境界ということはこの先に何かがあるということ?

後ろを振り向くと、さっきまでいた踊り場が見える。

どうやって渡ってきたかなんて見当もつかないけれど、戻る道はなかった。

霧の境界を抜けた先には工場のようなものがあった。

その中はやけに広い。

空港のターミナルほどの広さを誇るそこには無数の棺桶が綺麗に並べられていて、無表情に動き回るスタッフらしき人たちが淡々と作業をしている。

いまとなってわかったことだけれど、彼らは涅槃師(ねはんし)候補(生前に罪を犯したものが改悛(かいしゅん)し、そのまま亡くなったものにのみ与えられる贖罪(しょくざい)の権利を得た存在)を涅槃師にすべく開発されたオートマトンたち。

適したものは正式な涅槃師となり、縁国に送られ、適さないものは棺桶から出ることなくそのまま地獄へ堕とされる。

マグマに焼かれた際に生前の罪を燃やし尽くし、改悛できるかどうかで決まるらしい。

そういえばこの前、先輩の涅槃師にこんなこと言われたっけ。

「きみも煉獄の炎に焼かれてきたんだろ?あれめっちゃあっちいよな。実際はほんの数秒らしいけど、体感は何十分にも感じるくらい熱かった。あのときに雑念や邪念があったり、改悛への強い意識がないとそのまま地獄へ堕ちることもあるらしいぞ」

そうだったんだ。

身体が焼かれているときは熱くて何も考えられなかったけれど、彼に対する贖罪の意識は煉獄でも抱き続けていたのは間違いない。

ーこうして涅槃師になってから多くの人を担当して浄化させてきた。

私たちは対象者の魂を浄化させるために存在する元人間。

生前の名前を名乗ることは禁じられ、公私混同することも禁じられた。

しかし、これが彼ともう一度会うための唯一の道。

大好きだった人を殺してしまった罪は二度と消えることはない。

それでも会いたいと願ってしまう。

もう一度だけ彼の声を聞きたい。
笑顔を見たい。
ううん、横顔を見られるだけでいい。

だって彼は私のことを恨んでいるから。

未来を奪った私に会う資格なんてないのに……
☕️

燃えるように熱い。

激しい痛みと同時に皮膚が焼けていく。

煉獄のマグマに飛び込んだから数秒して、徐々に意識が遠のいていくのがわかった。

もう駄目だと思ったとき、耳元で声が聞こえた。

「縁国で待ってる」

はじめて聞く声ではない。どこかで聞いたことのある声。懐かしさも感じるが意識が朦朧としていて誰かはわからない。

これは臨死体験か何かだろうか?

縁国で待っているってどういう意味だ?

くそっ、頭が回らない。

数秒後、意識を失った。

**

ここはどこだ?

俺はたしかにマグマに飛び込んだ。

変な白髪の爺さんと話して自らの意志で飛び込んだ。

あんなに熱くて皮膚が焼けていったはずなのに何ともない。

足元を見ると雲海の上に立っていた。

驚いて片足を上げたが下の景色は見えず白一色だった。

しかし体は軽い。
重力とは無関係の世界なのだろうか?

トマムの雲海か、それとも長野のソラテラス?

もしくは長い夢でも見ているのだろうか?

ただ、ここから見える景色はとても綺麗だということはわかった。

身体を包み込むかのように絶え間なく広がる空と雲。
無数に浮かぶ青い光。
遠くに見える巨大な樹。

まさかメタバース?

もしくは新しいアミューズメントパークか何かかも。

最近地元の近くでも再開発が進んでいて、新しいエンターテインメントがどんどん増えているし、何らかの拍子にやってきたのだろう。

まぁそのうちわかるっしょ。

恐怖心を消すために言い聞かせたわけではないし、一切の剣呑(けんのん)もない。

ひとまずあの大きな樹を目指すことにした。

徐々に近づいていくとそれはヒノキだということがわかった。

その幹は想像よりもはるかに大きく、両手を広げても幹の半分にも届かないほど太かった。

「これはハイペリオンっていうの」

声のする方を向くと、白いワンピースを着た赤く長い髪の女性が立っていた。

小麦色に焼けた肌や手首に刻まれている謎の刻印が主張してくる。

首元に見えるタトゥーとちょっとギャル風の見た目に驚きつつも、他人のことを言えない自分の見た目に1人心の中でツッコミを入れる。

「ハイペリオン?」

「えぇ。この世界のはじまりの樹とも言われているの」

まるで雲の上から生えてきたかのようなこの樹はゴールの見えない道のようにどこまでも高く(そび)え立っている。

それにしてもこの子大丈夫か?

はじまりの樹ってゲームの世界じゃあるまいし。

アニヲタか?
中二病か?

「きみ、病院行く?」

「失礼ね、本当のことを言っているの」

やはりヤバイ子だ。

これは関わらないでおこう。

「私は涅槃師(ねはんし)棠棣(はねず) アキレア。堅苦しいのは苦手だからアキレアでいいよ。雪落 慶永さん、今日からあなたを担当することになったのでよろしく」

頭の上にクエスチョンマークがたくさん浮かぶ。

目の前に現れたギャル風の子が涅槃師だの担当だの訳のわからないことを言っている。

俺の名前を知っていることも怖かったが、それよりもここがどこなのかが気になった。

「えっと、アキレアさんでしたっけ?ここはどういうイベントがあるの?」

「あなた何を言ってるの?アタオカなの?」

誰がアタマがオカシイんだよ。

「言っとくけど、これは夢でもなければ異世界でもなく、死後の世界だからね」

死後の世界?

なるほど、そういう設定なのか。

面白い。乗っかってやる。

「死後の世界ってことは俺は死んでしまったわけか?」

「えぇ、残念だけど」

でもちゃんと意識があるし、身体も異常はない。

やっぱり嘘だ。

もしこれが現実だったとしてもこの状況を理解するには時間がかかりそうな気がした。

人は頭の中で想像したものをベースに行動している。
だから未知なるものに対してひどく警戒し恐怖するもの。
パンデミックや幽霊などのように。

しかし、形而上(けいじじょう)のものはなかなか信憑性(しんぴょうせい)がなく証明されにくい。

だから俺は自分の見たものや感じたものを信じるようにしている。

「最初はみんなそういう顔をするよね。1つずつ説明するから」

「お、おう」

心の中を読まれたような気がしてキレの悪い返事をしてしまった。

「ここは、死ぬ直前に何かしらの未練を残して亡くなってしまった死者の魂を浄化させて天国へと送るためのニルヴァーナという世界で、別名『縁国』って言われているわ。死者の魂を浄化させることを『涅槃』と言って、私たち涅槃師が死者の魂の浄化を手伝ってるの」

なんだ、このアニメの第1話みたいな展開は。

ふと頭の中であるものが浮かぶ。

これって以前読んだ本の世界じゃ?

「あなたも煉獄の炎を浴びてきたのよね?」

「あぁ、死ぬほど熱かった」

「あの炎で未練や邪念は消えた?」

完全に消えたかどうかは正直わからない。

そもそも熱すぎてそれどころじゃなかったし。

未練や邪念は心の奥底に潜んでいる可能性もあるし、それに完全に消えるものではないと思っている。

「誰だって生前の未練や邪念はあるだろ?」

「えぇ、完全に消えることはないわ。だけど、天国に行くにはその思いは消さないと行けない。かと言って煉獄の炎だけじゃ消えない。だからそういった魂をこの縁国で浄化するってわけ」

「だったら何のためにあの炎がある?」

「あの炎はね、生前の穢れを消すためにあるんだけど、あくまで形式めいたものでしかなくて、魂が浄化されるわけではないの」

あんなに熱い思いをしたのに。

死んだら天国か地獄しかないと思われているのが一般的だが、この子の話が本当ならここは天国への階段ってことか?

でもまだ信じがたい。

それもそのはず。

死んだ後のことなんて誰にもわからないからだ。

「じゃあここは新しいアミューズメントパークじゃないの?」

「ここには死者しかいないわ」

でも身体は動く。
これは一体どういうことだ?

ちゃんと意識もあるし会話もできている。

「じゃあこの肉体は?」

「本当の身体は火葬されていてもう存在しない。その身体は天国へ送り出すまでの間に宿る仮初の姿。肉体がないと魂の浄化に支障をきたす可能性があるから、こっち側で忠実に再現させてもらったの」

「俺、本当に死んだのか?」

「信じられないのも無理はないわ。最初はみんなそうだし、死後の世界があるなんてみんな空想の話だと思ってるしね」

死んだということを理解している時点で死んでいるとは認識しがたいが、ここが悪趣味なエンターテインメントの世界ではないことを願う。

それに俺の身体。眼鏡も顎髭もあるし、深爪までも生前のままだ。
せっかくなら二重の爽やかイケメンにしてほしかったとも思うが。

ただ、このスマートウォッチだけがわからない。

こんなの持っていたっけ?

思い出そうとすると頭痛がする。

左手に刻まれた謎の数字も気になる。

こらは何を意味するのだろうか。

わからないことが多すぎる。

「素朴な疑問なんだけど、死んだら感覚もなくなるし、考えることすらできなくなるよな?だったら浄化も何もないんじゃないか?」

「人はね、死んだら終わりじゃないの。肉体が失くなっても魂は残り続ける。その魂が消えるときにどんな状態かが重要なの。白か黒か赤か青か」

空想というか幻想というか、魂に色があると言われてもいまいちピンとこなかった。

「天国へ行くときは白、地獄は黒、煉獄は赤、そして縁国(ここ)は青。もちろん状態によって変化するけどね。でも、人の姿をしているときは魂の色は見えないの」

魂にも意志のようなものがあるということだろうか?

だとしたら心霊現象などはどういう原理なのだろうか?

死んでいるからいまさら気にしても仕方ないのだが。

「ちなみに雪落くんのいまの色は透けそうなくらい薄い青よ」

あれ?いま見えないって言ってませんでしたっけ?

しかも透けそうなくらい薄い青って何?

「テキトーに言っただろ?」

「私ね、出会って間ない状態の魂の色が一瞬だけ見えるの」

なんだその特殊能力は?

こんな摩訶不思議な世界じゃ何でもありな気もするが、死後の世界というより異世界に来た感覚だった。

「煉獄からやってくるときってだいたい紫っぽい色をしていてそこから徐々に変わっていくんだけど、あなたはとくに『生きる』ってことに対しての執着心が強くて欲深かったみたいだから透明に近い青だったみたい。そんな人は怨念として地上に残ってしまうことがあるから、そういう魂を少しでも浄化して天国へ送るために私たちがいるの」

じゃあもしこの世界に送られていなかったら、怨念(おんねん)として地上で彷徨い続けていたってことか?

想像したらちょっとゾッとした。

限りなく透明な青ということは、現世の生き霊たちはきっと透明な魂なのだろう。

「きみたちも塩爺と同じように誰かに作られた存在なのか?」

「いえ、私たち涅槃師は全員元人間よ。訳あって涅槃師になっているの」

訳あって?
他人の事情をいちいち気にしていたら神経が持たないし、この疑問符ベルトコンベアをすべて処理しようとしたらキリがない。

怪訝な表情を浮かべていると、

「詳しくはこの世界を案内しながら説明するわ」

アキレアは俺を(いざな)うように歩き出した。

「そうそう。確認だけど、雪落くんの浄化の条件だけど」

条件?

「私がもらっていたデータでは『ご両親に再会すること』ってなってるけど合ってる?」

嘘ではないが合ってもいない。

俺には恋人がいた。

結婚を考えていた人がいた。

それなのに顔も名前も声も思い出せない。

思い出そうとするとなぜか激しい頭痛がする。

感覚的なことだが、その人は会わない方が良い気がする。

会ったら後悔しそうな気がするから。

「そうだよ、死んだ両親に再会することだよ」

俺の両親は若いころに亡くなっている。

それからはずっと孤独と闘ってきた。

押し潰されて生きることに疲れてしまいそうな日もたくさんあったけれど、友達や職場の人に支えられてなんとかやってこられた。

「で、どうすれば両親に会える?」

「まず質問させて」

アキレアは左手に刻まれていたを曼荼羅(まんだら)の刻印に右手を翳し、何かを唱えた。
すると、その刻印からプロジェクションマッピングのようなものが現れ、それを見ながら質問してくる。

「お父様の名前は幸寧(ゆきやす)さん。お母様は由乃(よしの)さんだったよね?」

少し疑問を抱きながらも軽く頷く。

「俺のことどこまで知ってんの?」

「ほとんど知ってる」

口角を上げながらそう言うアキレアに少しの恐怖心を覚えた。

「雪落 慶永さん。東京都出身。2月生まれのA型。身長175cm、体重65kgの胃下垂会社員。お兄様がいるけど行方不明で音信不通。元野球部でちょっと中二病。趣味は読書と音楽鑑賞。カナヅチの中二病。コーヒーが好きで牡蠣が苦手。可愛い子より美人が好き」

胃下垂会社員って何だよ。それに中二病だけ2回出てきた気がするんだが。

この世界に個人情報保護法はないのか?

「浄化には例外があるの」

「例外?」

「自分自身が亡くなったことを理解しきれずに魂だけがここにやってくるパターンがあるの」

「でも本当に死んだのなら五感のほとんどが機能してないはずだよな?」

「そこは人によって差があるわ。生前と変わらずに敏感な人もいればそうでない人もいる。とくに小さな子供やシニアの人たちは自分が亡くなったってことを受け入れられてない人が多いから、五感に意識が向けられていないことがよくあるの」

日本の1日の平均死者数は約3000人と言われている。
そのうちの約8割がこの世界に送られてくるらしい。

「もちろんこの世界には死人しかいないから世には存在すら知られていないわ」

「でもほとんどの人が未練を残して亡くなっていくんじゃ?」

「案外そうでもないの。死んだことを受け入れた瞬間に消えて無くなる人もいるし」

死という感覚は生きている間はわからない。

しかし、いずれ死にゆく命。
終わりが見えた時点で割り切れる人もいるのだろう。

「ちなみに魂がこの世界に滞在していられるのは7日間だけだから」

7日間だけ?
それは長いのか短いのかわからなかった。

「7日間を過ぎても浄化されなかった場合はどうなるんだ?」

「こうなるわ」

アキレアが見ている場所と同じ方を見遣(みや)ると、吊るされたマリオネットのように青い球体がいくつも上下にぷかぷかと浮かんでいる。

「この霊魂たちは感覚や意思、概念すらなくなり、天国にも行けずに永遠にこの世界を漂い続けるの」

「全員が般涅槃(はつねはん)になれるわけではないってことか」

「そうね、理想は全員そうしてあげたいんだけど、死者ごとに魂の浄化の条件が違うからね」

規則的に動く無数の青い霊魂たちたちは何か鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)としているようにも感じられた。

「左手を見てみて」

唐突に言われたが反射的に自分の左手を見た。

手の甲には数字の“7”が刻まれていた。

煉獄にいたときはたしかになかった。

「これは?」

「あなたがここで肉体を宿せられる日数よ。この数字が“0”になったらもう浄化できる可能性はなくなるからね」

そうなれば俺もこの霊魂たちのようにただただ漂い続けるだけになる。
地獄に行くよりはマシだが、どうせなら天国へ行きたいと思うのが普通だろう。

「ちなみにきみはいつからここに?」

「いつからだろうね、よく覚えてない」

涅槃師になれば寿命とかそう言った概念はなくなるのだろうか?

一度死んでいるとはいえ、もう一度死ぬのは正直怖い。

もし涅槃師になれれば意志を持ったまま、肉体を持ったままでいられるはず。

「涅槃師になるにはどうすれば良い?」

「あなたは無理」

「なんで?」

「いい人すぎるもの」

褒められている?
それとも(けな)されている?
いい人すぎるとはどういう意味だろう。

「浄化させるにはときに非情さも必要よ。中途半端な対応じゃみんな報われずに終わってしまう。それに、私たちには生きているときに一度『死んで』いる。あなたのように人のために生きられる人は向いていないわ」

生きている間に死ぬということの意味が理解できないまま立ちすくんでしまった。

「あなたはここでちゃんと報われるべき人だから」

報われるべき?俺が?

「ご家族以外に会わなきゃいけない人がいるんでしょ?大丈夫。私が全力で手伝うから」

家族以外に会わなきゃいけない人。
お世話になった会社の先輩や親友には別れの挨拶ができなかった。

腕にしていたスマートウォッチに目をやると激しい頭痛がした。

まただ。

大脳皮質も海馬もフル回転しているが何も思い出せないままその場に蹲る。

「ちょっと、大丈夫?」

「あ、あぁ」

死んでいるはずなのに頭痛がするって一体どうなってんだ。

しばらくすると痛みは和らぎ、ゆっくりと立ち上がる。

もう大丈夫と言って歩き出す。

程なくしてアキレアが唐突な質問をしてきた。

「雪落くんさ、何歳まで生きるつもりだった?」

そんなことわかるわけない。みんな誰だって死ぬのが怖いから長生きしたいと思って生きている。センテナリアンなんてほんの(わず)かしかいないし、さすがにそこまで長生きできるともみんな思っていないだろう。
死んでから気づく人生の儚さと呆気なさ。そしてメメント・モリだったということを。

両親の居場所を探しにアキレアと一緒にこの広大な空間を歩くことにした。

雲道を歩き続け、しばらくすると、
「ちょっと見せたいものがあるからこっち来て」

言われるがままアキレアについていくと、遠くの方から明るい声が聞こえてくる。

「あそこ」

アキレアが指を差した先には、何故か雲の中からいつくも水が噴き出てきている広場のような場所があり、そこで小さな子供たちが水浴びやボールなどで楽しそうに遊んでいる。

周囲に大人の姿はない。

少し離れたところで1人の女の子が隅っこでしゃがみながら泣いている。

「どうしたの?」

気になって話しかけてみると、

「ママがいないの」

(はな)(すす)りながらそう言う。
この世界で逸れてしまったのだろうか。

「お母さんとはどこで逸れたの?」

「わかんない」

「お母さんの名前わかる?」

「ママ」

いや、そうなんだが。

この子にとってお母さんはママで、ママはお母さん。

「きみ、お名前は?」

「わたしの名前はみずたに なずなです。4歳です」

「なづなちゃんだね。俺は雪落 慶永」

読みにくいし言いづらい俺の名前は大人でも何度か聞き返される。

小さなこの子にはアラビア語並みに難しいのかもしれない。

「ゆきおち、よしひさ」

とりあえずゆっくり名乗ってみた。

すると、なづなちゃんは泪を拭い、

「ゆっくん」

元気な声でそう言った。

ゆ、ゆっくんって。まぁいいか。

生まれてはじめて、いや、死んではじめて呼ばれたあだ名に一瞬驚いたが、なんだか妹ができたような感覚だった。

「よし、お兄ちゃんと一緒にママを捜そう」

手を差し伸べながら言うと、

「ダメよ!」

後ろにいたアキレアが強く否定した。

「なんで?」

「ダメなの」

今度は少し細い声で言ってきた。

「だからなんで?」

アキレアはなづなちゃんに聞こえないように俺の耳元で囁いた。

「ここにいる子たちは自分が亡くなったことをまだ理解できずにいるの。この子たちの親はみんなまだ生きてるから会わせることはできない」

「はぁ?」

思わず感情的になってしまった。
言いたいことはわかるけれど納得はできなかった。

それを見たなづなちゃんが(おび)えた様子でいる。

俺はなづなちゃんの目線まで身体を(かが)ませた。

「驚かせてごめんね。ちょっとだけこのお姉ちゃんとお話しするから待っててくれる?」

「うん」

「ありがとう」

頭を撫でながら礼を言って再びアキレアに問いただす。

「死者の肉体を具現化できるなら地上に降りて会わせることくらい簡単だろ?」

「この世界はあくまで魂を天国へと浄化させるための場所。死者を蘇らせることはできないの」

「なんだよ、それ」

地面を蹴り飛ばす勢いで下唇を噛む。

「ここに集まっている子たちはみんな不慮の事故で亡くなってしまったんだけど、本人たちにはまだその自覚がなく、死ぬ直前の記憶から(とき)が止まったまま。親御さんたちの報われてほしいって強い想いが本人たちの魂に乗ってこの世界にやってきてるの」

ここにいる子供たちのほとんどが未就学児なのはそのせいか。

「だったらより会わせてやるべきじゃないのか?」

「それができたら苦労しないわよ」

怒りともどかしさを孕んだアキレアに返す言葉が浮かばなかった。

「まさか、この子の浄化の条件って」

「そう。なづなちゃんが夭折(ようせつ)したって事実を本人が受け入れること」

そんな、残酷すぎる。

お母さんの名前もまだ言えないのに、どうやって伝えれば良いんだろう?

「何日も話したけど理解してもらえなかった」

まだ4歳の子にもう死んじゃったなんてストレートに言っても理解してくれないだろうし、何よりなづなちゃん本人がお母さんに会いたがっている。

なづなちゃんの手には数字の“2”が刻まれていた。

この子はあと2日間で消えてしまう。

なんとかもう一度だけお母さんと会わせることはできないだろうか?

「この子をどうしてもお母さんに会わせてあげたい。何か方法はないか?」

アキレアはしばらく黙った後、

「おすすめはしないけど、1つだけあるわ」

その代償は大きかった。

「あなたの1日分を差し出すこと」

涅槃師に刻まれた曼荼羅の刻印の力を使うことで浄化に強制力をかけることができるらしいが、それには死者1人の1日分の力を分け与えないといけない。

だから涅槃師から促すことは基本しないらしい。

「じゃあ頼んだ」

「ずいぶんとあっさりしているのね」

「だって死んでるし」

「あなたがこの世界で肉体を宿っていられるのは7日間だけなのよ?日にちを延ばすことはできないし、下手したらあなたの浄化にも影響が……」

「後悔したくないんだ」

後悔とは行動しないことから生まれる感情。行動すればそれは何かしらの経験となり次につながる。
何より俺と同じ思いをしてほしくない。
当たり前にいたはずの家族という存在が急に目の前からいなくなることがどれだけ辛く苦しいことなのか。

「そう、わかったわ。目を閉じて心を無にして」

左手を俺に向けてきたので、言われた通り目を閉じて心頭滅却(しんとうめっきゃく)する。

その直後、(つんざ)くような眩い光が瞳の奥を襲ってきたと同時に何かを吸い取られたような気がした。

「……終わったわ。目を開けていいわよ」

一瞬のことで何が起きたのかさっぱりわからないが、目の前にあった大きな石が水晶へと変化していた。

「もう終わり?」

「えぇ。いまのでなづなちゃんとお母さんをつなぐことができるわ」

水晶を持ってなづなちゃんを静かな場所へと連れていく。

アキレアが左手で水晶を翳すと、ある人が映し出された。

この人はおそらくなづなちゃんの母親だろう。
目元がそっくりだ。

リモートのように画面に越しに対面した2人からはそれぞれ違う表情が伺える。

「あっ、ママだー!」

母親に気づいて水晶に顔を近づける。

「ママ、どこにいるの?」

顔が見えるのに触れることができないことに疑問を抱いている様子のなづなちゃん。

母親は涙目になりながら、
「なっちゃんなの?本当になっちゃんなの?」

まだ状況をつかめていないのか、驚きを隠しきれずにいる。

それもそのはず。

死んだはずの娘がいきなり現れたのだから。

「そんなはずないわ。だってあの日なづなは……」
ー保育園からの帰り道、母親と一緒に青信号の横断歩道を渡っていたなづなちゃんは、信号が点滅したため駆け足で渡ろうとしていた。そこを曲がってきたトラックに()かれてそのまま亡くなったそうだ。

「ねぇママ、はやくおうちにかえってアニメみようよ」

なづなちゃんはいますぐにでも飛びつきそうな勢いで身を乗り出しながら母親に話しかけている。

一方の母親はまだ状況を理解しきれていないようで、何度も目を擦りながらなづなちゃんの顔を確認している。

「ママ、なんでしゃべらないの?ぐあいでもわるいの?」

「あのとき、ママがなづなの手を繋いでいたら……なづなを先に行かせなければ……」

母親は(ほぞ)を噛むように慟哭(どうこく)している。

「ママどうしたの?なんでないてるの?」

幼いなづなちゃんにはこの状況を理解するのは難しい。

落ちゆく泪を堪えながら母親が質問する。

「なっちゃん、そこはどこ?」

「ん~とね、よくわかんない。あおいおそらとしろいくもがあってきれいだよ」

それを聞いた母親はさらに泣いている。

目元は赤く腫れ上がっていた。

「ごめんね、ママもうなっちゃんには会えないの」

母親は両手で顔を隠しながら激しく泣いている。

「どうして?やだ、やだ。ママにあいたい」

首をブルブルと横に振りながら駄々をこねるその姿に俺は居ても立ってもいられなくなった。

水晶から少し離れた場所で見守っているアキレアのもとへと向かう。

「アキレア、どうしてなづなちゃんに説明しないんだ?夭折したことはいま言うのがベストだろ」

「お母さんはまだ生きてるの。この世界のことはどんな理由があっても外へ漏らしちゃいけない。だからお母さんが映っている限り私たちが介入することは許されない」

たしかに生前はこんな世界があるなんて知らなかったさは、最初は夢か何かだと思っていた。いまここで俺たちが出ていって説明したところで逆に話がややこしくなるだけ。
しかし、こんな非情なことがあっていいのか。

母親が溢れ出る泪を何度も何度も拭いながら決心した様子で、

「なっちゃん、元気でね」

その言葉と同時に、光輝いていた水晶はただの石になっていた。

急に姿が見えなくなった母親に動揺したなづなちゃんが目に大粒の泪を溜めながら、石をドンドンと叩き続ける。

「ママ、ママ、どこにいるの?ねぇ、ママー‼︎」

本当に最期の別れだとは知らずに金切声の如く泣き続ける。

泣き止むのを待ち、アキレアがなづなちゃんに優しく話しかける。

「なづなちゃん、ここは雲の上の世界なの?」

「くものうえ?」

(いぶか)しげな表情のなづなちゃん。

「ここはね、特別な人だけが来られる夢の国なの」

言葉の意味を理解できない様子でいる。

「もうママにはあえないの?」

「良い子にしていればきっと会えるよ」

少しの沈黙の後、言葉を選ぶように笑顔で答えた。

「ほんと?」

「えぇ、本当よ」

「うん、わかった。なづな、いいこにしてる」

アキレアが頭を撫でてあげると、なづなちゃんは笑顔のまま静かに消えていった。

もう一度会いたいという親子の強い思いが、なづなちゃんの浄化に結びつけてくれたのかもしれない。

「なんか、ごめんね」

アキレアに急に謝られたがピンとこなかった。

「何が?」

「本当はこの世界のことを見せるだけのつもりだったの。まさか貴重な1日を差し出してくれるなんて思わなくて」

1日を差し出すという感覚が正直わからなかった。
きっと寿命のようなものなのだろうけれど、とくに身体に影響は感じていないし、あの状況で見過ごすなんて真似はできなかった。

おかげでなづなちゃんもお母さんも報われた。

俺の左手の数字は“6”になっていた。


アキレアと家族を捜しているとき、何もないところを一点に見つめている人を見つけた。

「アキレア、あの人」

俺が指を差した先にいたのは若い女性。見たところ20代前半くらいだろうか。

後ろ姿だけだがとんでもなく暗い空気が伝わってくる。

「あの子ね、担当の子も手を焼いているの」

周囲に涅槃師はいるが、その子の周りには誰もいない。

まるで避けるかのように一定の距離を保っている。

「担当はいないのか?」

「涅槃師は1人で何人もの人を見るからね、状況に応じて動き方が変わるわ。きっと先に違う人を浄化させに行ってるんでしょうね」

「かといってあのまま放置するのはどうなんだ?」

「気持ちはわかるわ。私も何回かお願いされて手伝ってみたけど、目も合わさないし会話すらしてくれないの」

一体何があった?

あのどんよりとした空気が気になった。
背中から真っ黒いオーラのようなものが見える。

その子は右斜め上をじーっと見上げながら静かに立っている。

「あの子ね、誕生日に彼氏にフラれたの」

「誕生日に?」

「そう、そのショックで住んでいたマンションから飛び降りて自殺未遂しちゃってね。その後病院に運ばれて一命は取り留めたんだけど、どうしてもフラれた理由が知りたくて、夜中に病院を抜け出して彼の家まで向かっていた途中バイクと車の衝突事故に巻き込まれて亡くなってしまったの」

そこまでするなんて、その彼のこと相当好きだったんだな。

「煉獄にいたときも地上への扉を開けようと必死だったらしいわ。ソルトーさんも相当苦労したみたいだけど、うまく説得できたみたい」

さすが塩爺。

「あの子はここに来てからどれくらい経つんだ?」

「もう4日よ。あの状態から一歩も動かずにね」

「とりあえず話を聞いてくる」

「無駄よ。4日間ずっとあのままでまともに会話もできないし」

それで放置されてるってわけか。

「だけど、あのまま放置しても浄化されないじゃないか」

「いいの?無関係な人を手助けするとまた1日を失うわよ?」

「大丈夫。話を訊くだけだから」

アキレアの言う通り、下手に関わると貴重な1日を失ってしまう。

だから話だけ訊いて終わるつもりでいた。

話しかけようと近づいていくと、

「あそこがのぶくんの部屋」

まるで俺が来ることを待っていたかのように口を開いた。

銷魂(しょうこん)に似たその瞳と口調には覇気が感じられなかった。

のぶくんって言うのが彼氏の名前だろう。

彼女が指を差す先には部屋なんてなかった。
見えるのは果てしない空だけ。

この子にだけ見えている何かがあるのだろうか?

彼女の左手の数字は“3”になっていた。

残り3日間ずっとこのままでいるつもりなのだろうか。

もしそうなったらこの子は浄化されずにただの霊魂となってしまう。

「のぶくんはね、私のためを想って別れたの。あの402号室、あそこで私とのぶくんはたくさん愛し合ったの」

この子に聞こえないよう後ろにいたアキレアに話しかける。

(おい、アキレア。どういうことだ?この子、クスリでもやってたのか?)

(彼氏への想いが強すぎて幻覚が見えてるのよ)

(じゃあどうやって浄化させるんだ?)

(彼に会わせる以外方法ないでしょ)

(会わせるって言ったって、彼氏はまだ生きてるんじゃないのか?)

「のぶくんとはね、結婚も考えてたの。大学卒業したら一緒に住んで、1年くらいしたら籍を入れて。でも20歳の誕生日にフラれた。付き合って2年間一度も喧嘩せずにいたのに急によ?」

彼女は俺たちの会話が聞こえているのかいないのか、独り言を続けている。

「でもね、これは何かのサプライズなの。のぶくんは優しい人だから私を裏切るようなことはしない。きっと別れたって(テイ)にしてるだけなの」

口元は笑っていたが、その瞳の奥は枯れていた。

「アキレア、この子の浄化の条件って彼氏と(より)を戻すことか?」

「私にもわからないわ。対象者の情報を漏らすことは禁じられているから」

「この子の担当涅槃師はいつ帰ってくる?」

「どうだろ?」

それなら強行するしかない。

お節介かもしれないが、こんな状態のまま消えていくなんてやりきれない。

「ちょっと、雪落くん」

アキレアの言葉を無視して彼女の元へ向かう。

「きみ、彼氏に会いたい?」

「会わせてくれるの?」

真っ黒いオーラが白く輝くオーラに変わったような気がした。

「あぁ、約束する。ちょっと待っててくれ」

アキレアのもとに戻ると、話を訊いていたのかその表情は強張っていた。

「彼氏を顕現(けんげん)することはできるか?」

アキレアの双眸(そうぼう)が大きく開いている。

「できるけど、正気なの?」

相手に幻覚を見せることで一時的に再会させることは可能らしい。

「このままだと彼女は浄化されずに永遠にここで彷徨い続けるってことだろ?そんなの可哀想だ」

「気持ちはわかるけど、他人のために時間を無駄に使う必要はないわ」

「アキレアって結構ドライなんだな」

「あなたのためを思って言ってるの。お人好しも過ぎると自分を見失うわよ」

そうかもしれない。

それでも納得できない状態でまた死ぬなんて俺には耐えられない。

「やってくれ」

「生者を顕現させられるのなんてせいぜい10分程度よ?そのために1日分失ってもいいの?」

「あぁ」

「仮に再会できたとしても、彼女の思い描く展開にならないと思うけど」

その可能性は大いにある。

もしそうだったとしても彼女は彼と会うことを望んでいると思う。

「頼む」

「本当に良いのね?」

「あぁ」

「わかったわ」

左手を俺の方に向けるアキレア。

すると、腕に刻まれた曼荼羅(まんだら)が閃光を放つ。

「目を閉じて心を無にして」

言われた通り目を閉じて心頭滅却する。

何か吸い取られたような感覚になった。

「……終わったわ。目を開けて」

目を開けると、目の前にはさっきまでなかったはずのアパートがあった。

そしてそこの402号室から彼が出てきた。

気がついた彼女は大きな声で彼の名を叫ぶ。

「のぶくん!」

しかし、その声が聞こえていないのか彼女に気がついていない様子だ。

耳にはワイヤレスイヤホンをしている。

彼女は階段を降りる彼を追いかけるようにアパートに向かって走っていった。

エントランスで待つ彼女に気がついた彼。

その表情はひどく驚いていた。
何度も目を擦っては目の前に立つ元カノの存在を確認している。

「か、栞菜(かんな)?どうしてここに?生きてたの?》

「私ね、のぶくんこことずっと待ってたの。ずっと、ずっと……ねぇ、これは何かのサプライズだよね?それともドッキリ?」

そうであってほしいかのような口調で彼に確認する。

「……いや、違う」

強く太く冷たい声で否定する彼の言葉には強い意志を感じた。

「じゃあどうして?」

「疲れたんだ」

「疲れたって何に?」

「栞菜といても幸せになれないし、幸せにしてあげたいって思えなくなった」

「……何よそれ」

「栞菜、付き合う前のこと覚えてる?」

「うん」

「付き合う前の栞菜は正直全然脈ないと思ってた。連絡もまばらだし、話しかけても素っ気ないし。だから同じサークルに入って栞菜のこと知りたいって思った」

「それは付き合う前だからだよ。そんな簡単な女じゃないし」

「ようやく付き合えたと思ったら別人のようになった。毎日追いLINEしてきて何をやるにしても(つぶさ)に説明しなきゃいけなくて、すごく(ほだ)されてる感覚になった」

「それは好きで好きで不安になったからだよ。でも誕生日にフる必要ないじゃん」

「僕だって迷ったさ、だけど栞菜は僕の誕生日に何かしてくれた?」

そう言われた彼女は言葉を失っている。

「付き合ってから2回目の誕生日、栞菜は何もしてくれなかった。普通のカップルだったら後日にずらしてでも祝わない?でも栞菜は僕から言わないと祝ってくれなかったよね」

「のぶくんのお誕生日を忘れてたことは謝るよ。でも後日ちゃんと祝ったじゃん」

「当日じゃなきゃ意味ないし」

「女々しい。そんな人だと思わなかった」

「そういうところだよ。自分の都合の悪いことは全部曖昧にしてさ、そのくせ僕には説明させる」

「いまどきの彼女はそういうものだよ。のぶくんは他の女の子知らないからわからないだけ」

「だから浮気したの?」

「えっ?」

「他に男がいたから誕生日祝わなかったんでしょ?」

その炯眼(けいがん)は優しそうな彼の顔からは想像もできないような強く鋭いものだった。

「何言ってるの?」

「おかしいと思ってたんだ。この1年、記念日や僕の誕生日が近づくにつれて予定が合わなくなったって言われて、クリスマスのときだってだいぶ前から約束してたはずなのに急にバイトが入ったって言ってるキャンセルされた」

「本当に忙しかったの」

「サークルの1個上の先輩とホテルから出てくるの見た」

核心をつかれたのか、栞菜は何も言い返せないでいる。

「これがお互いのためだったと思う」

「そんなの身勝手だよ」

「身勝手はどっちだよ。浮気しておいてよく会いに来れるよね」

「だって……」

「もういいかな?これからバイトなんだけど」

そう言うと彼は去っていった。
振り向こうとする様子すら見せずに。

「待って、のぶくん!のぶくん!」

彼女の声も(むな)しく、彼とその周りにあった建物や景色はただの空へと戻った。

どうやらタイムリミット。

はじめての喧嘩が別れの言葉になるなんて切ないというか哀しいというか。

「なぁアキレア。これってちゃんと浄化されるのか?」

「どうかしらね。彼に会うことが目的なら問題ないけど、縁を戻すってなると浄化はされないかもね」

徒労(とろう)に終わった感じでなんだかモヤモヤする。

それでも1日分を代償にした俺の左手は“5”になっていた。