十月最初の週末、私は都内のある場所へと向かっていた。
少しずつ秋の気配が深まり、時折吹く風が金木犀の甘い香りを運んでくる。
見上げた空もいつの間にか秋らしく青く高く澄んでいて、最高のお出かけ日和だ。
地図を頼りに辿り着いたのは、大通りから外れた道にある小さな三階建のビル。
入口には“ライブハウス Sound A”という看板が立っている。
そして地下へと続く階段があり、壁には今日のイベントである【Neo Moon Cover Festival】というポスターが貼られている。
階段を下りてフロアに足を踏み入れると、そこは思っていたよりも広い空間だった。
そして予想以上にたくさんの人が集まっている。
思い切ってステージ前方に場所を取り、鞄からスマホを取り出す。
【今フロアにいるよ。頑張れ~!】
LINEのメッセージを送ると、すぐに返信が来た。
【来てくれてありがとう!頑張ります】
頑張れ、と心の中でもう一度エールを送ってスマホを鞄にしまうと、ちょうど開演時間になったようで、フロア内が暗転した。
拍手が響く中、ステージに現れたバンドのメンバー達。
それぞれが定位置に着いて、演奏のスタンバイを始める。
その中には、少し緊張した表情でキーボードの前に立つ同期の帆波がいる。
そう、今日は同期の帆波が趣味で組んでいるバンドのライブを観に来たんだ。
しかも私が大好きなNeo Moonの楽曲をコピーして演奏するイベントで、他に出演するバンドもみんなNeo Moonの楽曲のみ演奏するライブだ。
演奏が始まった瞬間に感じる体中に響く重低音と会場の熱気。
そしてステージの上では、キーボードを弾き始めた瞬間にキラキラという表現がピッタリの帆波の楽しそうな笑顔と他メンバーの楽しそうな笑顔。
やっぱり人は本当に好きなことをしている瞬間が一番輝いていると思う。
帆波は大学時代からバンドサークルに所属し、キーボードを弾いていた。
社会人になってから、最初は仕事を覚えるのに必死で時間的にも精神的にもバンドをやる余裕はなかった。
でも、仕事に慣れて来た三年目頃から少し余裕ができて、またバンドを組みたいと思ってSNSの掲示板で知り合った人達とバンドを始めたという。
メンバーもそれぞれ社会人で家庭もあってなかなか練習の時間を取るのは難しいけれど、それでもみんなで集まって練習をして飲み会をするのは本当に楽しいと前に帆波が話してくれた。
ライブはたとえ短い時間であっても、今日このステージのために何ヶ月もメンバーと練習をして音を重ね、本番のステージで全てを出し切る。
それはまるで学生時代の部活動青春みたいで、バンドって生涯青春の象徴みたいだな、とふと思った。
趣味を通じて出会った仲間と、大人になってもこうして無邪気に楽しめる場所がある。それはきっと、とても幸せで素敵なことだ。
「里花、来てくれてありがとう!」
ライブ終了後、無事に本番を終えた帆波が客席フロアの方へ顔を出してくれた。
「お疲れ様。すごく良かったよ~」
「ホント!? ありがとう」
「その衣装もよく似合ってるね」
「ありがとう。ちょっと奮発しちゃった」
照れたように帆波が言った。
黒を基調にした少しゴスロリチックなワンピースは、Neo Moonのメンバーの衣装の雰囲気にも合っている。
「今日のライブすごく盛り上がったね。やっぱバンドっていいよねぇ」
しみじみとつぶやいた帆波の表情は、本当に充実していて楽しそうだ。
「私も観ててすごく楽しかった。また誘ってね」
「うん、もちろん! ぜひまた観に来てね」
「このあとメンバーで打ち上げでしょ? 楽しんでね」
「ありがとう。里花はもう帰る?」
「うん。一人で来てるし、家までちょっと遠いからね」
「そうだね。今日はホントありがとう!また月曜から仕事頑張ろうね」
「うん、じゃあまたね」
少し名残惜しい気持ちを抱えながら、私は出口へと向かった。
外に出るともう真っ暗で、吹いてくる夜風は肌寒い。
だけど、心の中は温かい気持ちでいっぱいだった。
* * *
「臨時夕礼を行います」
週明け月曜日の業後、部長がみんなに声をかけた。
手元の作業を止めて、みんな部長の周りに集まる。
「本日付で異動がありますので、発表します」
その言葉を聞いた瞬間、空気が変わった。
緊張感が漂う中、部長が言葉を続けた。
「岸田課長が海南支店へ異動になります。後任は黒岩支店課長代理の滝下さんです」
一斉に岸田課長に視線が向けられる。
本人は、以前から「そろそろ異動だ」と口にしていたから、特に驚いた様子もない。
他のメンバーも、異動という言葉を聞いた時点で“もしかしたら…”と予想していたらしく、“やっぱりね” という気持ちが言葉にしなくても雰囲気で伝わってきた。
「引き継ぎは明日からになります。まず明日からは岸田課長が引き継ぎをするので不在になります。滝下さんは来週月曜から引き継ぎをして、週末に正式着任となります。以上です。お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
後任の滝下さんって、どんな人なんだろう?なんて考えていると、
「……らしいですよ~」
岬ちゃんが何か言っているのが聞こえた。
「へぇ~そうなんだ!?」
隣で浜中さんも驚いたような声をあげている。
「え、なに?」
話についていけず訊き返すと、「後任の滝下さんって、三十代らしいんですよ~」と岬ちゃんが教えてくれた。
三十代ということは、少なくともこの職場では一番若い男性だ。
それで課長として着任ということは、仕事が出来る人ということだろう。
「もし独身のイケメン男性だったらヤバいですよねぇ~。支店内のモテ男子決定じゃないですか? 競争率高いんだろうなぁ~」
岬ちゃんが瞳を輝かせてひとりではしゃいでいる。
課長代理の三十代男性という情報だけで、そこまで妄想できるってすごいよ。
「漫画や小説じゃないんだから、そんなことあるわけないでしょ」
と冷静に突っ込みを入れると、
「山崎さんはそんなクールだからおひとりさまなんですよ」
という一言で倍返しされてしまった。
余計なお世話だよ、岬ちゃん。
* * *
「今日からお世話になります、滝下です。よろしくお願いします」
翌週金曜日の朝、朝礼で岸田課長の後任として正式に着任になった滝下さんが挨拶をした。
男性としてはやや低めの身長に、細身の体。
多くの女性陣が期待していたルックスは、可もなく不可もなく、十人並み。
強いて言えば、穏やかで優しそうな顔立ち。
第一印象は真面目で大人しそうな草食系男子というところだろうか。
残念ながら、岬ちゃんが言っていたようなイケメン男性ではない。
やっぱり現実はそんなに甘くはないのだ。
* * *
「お疲れ様です。それでは、乾杯!」
「乾杯!」
みんなで声をそろえてグラスを合わせた。
現在午後六時。
少し早めに仕事を切り上げて、駅のすぐそばにある居酒屋で滝下課長の歓迎会が始まった。
「えぇ!? マジですか!?」
歓談を始めて一時間近く経った頃。
いつの間にか滝下課長の隣に座っている岬ちゃんが、大きな声をあげてみんなの注目を集めた。
「なになに、どうしたの?」
スタッフの石田さんが興味津々に尋ねると、
「聞いて下さいよ! 滝下課長って独身なんですって!」
岬ちゃんが再び大きな声で言った。
「滝下さんっておいくつなんですか?」
「今年三十九です」
「あらぁ、じゃあそろそろお嫁さんもらわないと。ここには可愛くていい子がたくさんいますから~」
石田さんはお酒のせいかハイテンションでそんなことを言っている。
「そうそう、たとえば山崎さんとか」
「……えっ!?」
突然私の名前を出されて、思わず視線を向けると岬ちゃんが意味ありげに笑っている。
三十九ってことは、ちょうど十歳上か。
年上派の私としては、ちょうどいい年齢差なんだけどなぁ。
って、いやいや何考えてるんだ、私!
「へぇ~。山崎さんは、彼氏いるの?」
滝下課長に訊かれて、一瞬答えに戸惑う。
「……いない、です」
っていうか、私の人生今まで一度も彼氏なんていたことないんだけど。
でもそれはトップシークレットだ。
「しっかりしてて気が利くいい子なのにもったいないよねぇ~。滝下さんもお付き合いされてる方がいないならぜひ!」
なぜか石田さんが思い切り私を推薦してくれている。
「そうですね~。でも僕が良くても山崎さんはアラフォーのオッサンじゃ嫌でしょ」
「……」
少し照れたような笑顔でそう言った滝下課長の言葉に、何て返したらいいかわからなかった。
飲みの席でのただの冗談で、本気で言ってるわけじゃない。
だから、顔が熱くて鼓動が速くなっているのは……きっとお酒のせいだ。
それから数週間が過ぎ、季節がすっかり秋へと変わった十月の終わり。
「エリア勉強会行ってきます。お先に失礼します」
「おう。今日はエリア長に攻撃されないといいな」
井波課長に声をかけると、冗談でそう言ってくれて、思わず笑ってしまう。
「今日は大丈夫ですよ、きっと」
勉強会をしてくれるようになってから、美浜台支店の業績は順調だから。
「今日はエリア長ギャフンと言わせてやります!」
気合いたっぷりにそう言った清水さんと一緒に電車に乗った。
まだ帰宅ラッシュ前の電車内は人が少なく静かだ。
いつもの癖でスマホをチェックすると、どうでもいいメルマガしか来ていなかった。
なんだかなぁ…なんて思っていると、「あのね、さとちゃんに話しておきたいことあるんだけど」と、突然清水さんが話を切り出した。
「え?」
珍しくちょっと改まった清水さんの口調に、顔を上げる。
話しておきたいことってなんだろう?
私、仕事で何かやらかした?
「さとちゃん、今良くないこと考えたでしょ?」
からかうように笑いながら清水さんに言われて思わず「はい」と頷くと、「いい話だから安心して」と今度は優しい笑顔で言ってくれた。
「実はね、私……」
清水さんはいったんそこで言葉を切って。
「……結婚するんだ」
少しの沈黙の後、意を決したように言った。
へぇ、結婚するんだ。マジッすか。マリッジすか。
…………って、
「えぇ!?」
静かな車内に私の驚きの声が響き渡り、周りの人達が一瞬こちらに視線を向けた。
慌てて “すみません” の気持を込めて軽く会釈する。
「さとちゃん、驚きすぎ」
「だって結婚するって、漣さんとですよね?」
「もちろん」
「でも浮気してるかもって前に……」
「あれは私の誤解だったの」
「誤解?」
「そう。漣、来年の春に東京に戻ることが決まったんだって。だから、私との結婚を考えてくれて婚約指輪を買おうと思って、去年結婚した職場の後輩に相談してたらしいの」
そっか。その時にタイミング悪く清水さんが電話してしまったんだ。
この前の様子だと、もしかしたら悪い結果になってしまうんじゃないかなって私もすごく心配だったけど、誤解が解けて本当に良かった。
「おめでとうございます!」
異動してからずっとお世話になってきた先輩が結婚するんだ。
羨ましい、というよりは、純粋に私も本当に嬉しい。
「ありがとう。実は、このこと話したの、職場ではさとちゃんが最初なの。もう少ししたら支店長と課長に言うつもりだから」
「そうなんですか?」
「うん。だから、まだみんなにはナイショね」
そう言って唇に人差し指を当てた清水さんの笑顔は本当に幸せそうで。
そんな幸せな報告を最初に私にしてくれたことが、とても嬉しかった。
ハッピーな気持ちのまま、いつも通り勉強会の会場となる海南支店へ向かう。
会議室で配られた資料には、相変わらず数字大好きなエリア長が作ったと思われる支店別業績表。
でも、ボロボロに言われた前回と明らかに違うのは、我が美浜台支店の業績。
最下位だった順位は、見事三位まで浮上している。
「美浜台支店は最近成約数もかなり上がってますね。ぜひこの調子で頑張って下さい」
案の定、エリア長は上機嫌な笑顔でそう口にした。
この手のひらの返しぶりはなんなんだろう。
「店として営業している意味がない」とまで言っていたくせに。
「“頑張って下さい” じゃなくてギャフンって言えっての」
隣で清水さんが小さくそうつぶやいて、思わずふたりで笑ってしまった。
でも、“美浜台支店は業績が悪い” っていうイメージはこれで払拭できたと思う。