「今日から事務研修でお世話になります、河野です。一週間よろしくお願いします!」
九月半ばのある朝。
私の職場で毎朝行われる朝礼で元気いっぱいに挨拶したのは、今年の春から新入社員として法人部署で働いているという男性。
今週一週間、事務研修という新人向けの研修で私の職場に来ることになったらしい。
営業職として働いているという河野くんは、法人取引先との渉外が主な仕事。
事務に関してはアシスタントの女性職員に任せきりで、まだ知識不足ということで、この二日間で大まかな事務を知ってもらおうというのが趣旨とのこと。
「指導員は岬さんだから、よろしく」
指導員に指名されたのは後輩の岬ちゃんだった。
法人部署では、小切手や手形、振込など為替事務を扱うことが多いからという理由で、為替の基本事務を集中的に教えることにしたらしい。
「よろしくお願いします」
爽やかな笑顔で挨拶する河野くんを見る女性陣の目が、いつもと違う。
圧倒的な女性職場であるうえに、定年間近の男性しかいないこの職場では、河野くんは新人男性社員と言うだけでアイドルなのだ。
「やっぱり若い子がいると、空気が変わるわよねぇ」
パート勤務の石田さんが弾んだ声で言う。
「なんかフレッシュな風を感じますよねぇ」
岬ちゃんがしみじみと呟いたその言葉に、「今年三年目のあなたもまだ充分フレッシュでしょうが!」と内心突っ込みを入れてみる。
こうして、いつもと少し違う空気の中、今日もいつも通りの仕事が始まった。
九月は決算期ということもあり、全体的に忙しい。
次から次へとお客様の対応や書類確認に追われているうちに、あっという間に一日が終わった。
「お疲れ様です~」
更衣室で着替えていると、岬ちゃんが入ってきた。
残業で疲れているはずなのに、テンションが高い。
やっぱり年齢的なものかなと思っていたら、
「今日から研修に来てる河野くん、なかなかイケメンですよね~」
嬉しそうな笑顔で岬ちゃんが言った。
ああ、テンションが高い理由はこれかと妙に納得してしまった。
河野くんは確かに爽やかな顔立ちだけど、個人的に好みの顔ではない。
「河野くんに頼んで法人部の合コンセッティングしてもらおうかな~。山崎さんも一緒に参加しません?」
「ごめん、私そういうの苦手だから」
あっさり断った私に、岬ちゃんが「……ですよね~」と苦笑した。
「山崎さん、年下の男性は苦手って前に飲み会で言ってましたもんね」
「そんなこと覚えてたんだ」
言った当の本人である私ですら覚えてないのに。
でも、確かに私は年下の男性が苦手だ。
苦手というより、どう接したらいいかわからないという方が正しいかもしれない。
妹と二人姉妹のうえに母子家庭で育ってきたから、年下の男子と関わる機会が学校以外ほとんどなかったし。
それに、自分が長女だからか父親がいないからかわからないけど、いつからか私は年上の男性に憧れることが多かった。
だから、私はつきあう(結婚する)なら絶対年上だと決めているのだ。
まぁ、ここだけの話、“彼氏いない歴=年齢”の私は、年上と年下どちらがいいかなんて語れる立場ではないのだけど。
「河野くん、しっかりした年上の女性が好きだって言ってたから、山崎さんがピッタリだと思うって言っておきましたよ~」
「へぇ~……って、え!?」
おいおい、岬ちゃん何勝手にそんなこと言ってるの!?
っていうか、いつのまに河野くんから好きな女性のタイプ聞いたの!?
「私、指導員だから、お昼河野くんと一緒に上がったんですよ。その時にさりげなく聞いてみました」
まるで私の心を読んだかのように岬ちゃんが言った。
さすが岬ちゃん、そういうところちゃっかりしてるよね。
そのぬかりなさを仕事でも活かしてほしいよね。
という一言は黙っておこう、うん。
「お先に失礼します」
着替え終えた私は、岬ちゃんにそう声をかけて更衣室を出た。
そのまま駅へ向かいながら、さっきの岬ちゃんの言葉を思い出す。
“しっかりした年上の女性”か。
岬ちゃんの中では、私はそんな風に映っているのだろうか。
もしそうだとしたら、それはそれで悪い気はしない。
ホームに滑り込んできた電車に乗って、一息ついたところでスマホを鞄から出すと、LINEのメッセージが届いていた。
【お疲れ~!法人部の新人くんはどうだった?】
送り主は同期の帆波だ。
この前、うちの職場に研修で法人部の新人が来ることをSNSに書いたからそれを読んでメッセージをくれたんだろう。
【お疲れ~!新人くんはなかなかのイケメンだからスタッフさんも後輩もテンション上がってたよ(笑)】
【そっか。新人男性でイケメンなら職場のアイドルでしょ(笑)】
【うん、ホントそんな感じ。でも7つ下って若いよねぇ。年の差感じる】
【まぁね。でも法人部なら仲良くなっておけば誰か紹介してもらえるかもよ】
【いやいや、さすがにそれはないよ~。1週間しかいないんだし】
【でもさ、そういうところからきっかけつかまないと、出会いなくない?】
確かに帆波の言う通りだとは思う。
でもだからと言って、たった一週間しかいない、しかも七つも下の男性と親しくなろうという気には正直言ってなれない。
【私はまだおひとりさま満喫したいからいいや(笑)】
それが私の本音だ。
恋愛も結婚も、私は面倒くさいとしか思えない。
まめに連絡を取り合って、オシャレにも気を遣って、時には駆け引きしたりして。
それが恋愛の楽しさだと言われればそうなのかもしれないけれど、私にとっての楽しみは恋愛とは別のベクトルを向いている。
恋をしたくないわけじゃないけど、自分から動いて恋がしたいわけでもない。
それはただ逃げているだけだとわかっていても、行動に移す勇気がない。
* * *
「おはようございます」
夏の暑さも和らいできた九月の終り。
いつものように制服に着替えて営業場へ行き、挨拶をした時。
「おはよう」
挨拶を返してくれた清水さんの顔が、なんとなくいつもと違うような気がした。
かすかだけど、目が腫れているような気がする。
まるで、泣いたあとみたいな。
「清水さん、どうしたんですか?」
思わずそう訊いてみたけれど、
「え、どうもしないよ?」
清水さんはそう言っていつも通り明るい笑顔を浮かべた。
私の気のせいかな。
そう思ったけれど、その日の清水さんはやっぱりどこか様子がおかしかった。
お客様に記入してもらう書類で不備を出してしまったり、アポの時間を間違えていたり、普段ならしないようなミスが続いていた。
上期末の繁忙日とはいえ、いつもしっかりしている清水さんがこんなにミスをするなんて珍しい。
「清水さん、今日体調悪いのか?」
課長も、心配そうな表情でそう言うほど。
「なんか、ちょっと疲れが溜まってるみたい。私ももう年かなぁ」
あはは、と笑うその表情がやっぱり無理しているように見えた。
きっと、いや絶対、清水さんには何かあったんだ。
でも、それを必死に隠してる。無理してる。
「清水さん、今日予定ありますか?」
業後、私は思い切って清水さんにそう声をかけた。
「ないよ」
「じゃあ、たまにはお茶して帰りません?」
「珍しいね、さとちゃんがそんなこと言うなんて」
「そうですね。なんか無性に清水さんとガールズトークしたくなっちゃって」
「あはは。そうなの? じゃあ、可愛い後輩のお誘いだし、行こうかな」
そして、私と清水さんは仕事を終えると駅前にあるカフェに入った。
私がミスして落ち込んだ時には決まって清水さんにこのカフェに連れてきてもらって愚痴をきいてもらっている。
だから、今度は私の番だ。
「さとちゃん、ありがとね」
「え?」
「朝からずっと、私のこと心配してくれてたでしょ? なんか情けないよねぇ。仕事に私情は挟まないって社会人の鉄則なのに」
声は明るいトーンのままだけれど、清水さんの視線は注文したカフェラテに向けられていて、うつむいたままで。
「ホント、ダメだなぁ……。漣のことが絡むとこんなにボロボロになるなんて……」
そう続けた声は震えていて、涙を堪えているのがわかった。
「漣さんと、何かあったんですか?」
私の質問に清水さんは言うのを躊躇していたけれど、少しの沈黙の後、意を決したように顔を上げて言った。
「漣、浮気してるかもしれないの」
「――え?でも、つい先月まであんなにラブラブだったのに」
この一ヶ月の間にいったい何があったんだろう。
「この前仕事が休みの日に電話した時にね、知らない女の人の声が聞こえて、誰?って聞いたら職場の後輩って言われたんだけど。なんかそれだけじゃない気がして。もしかしたらって。ただ、それだけなんだけど、不安になっちゃって」
確かに、それだけと言われてみれば、それだけだ。
電話した時にたまたま職場の女性と一緒にいた。
それはとてもありふれた出来事で、それだけではもちろん浮気とは言えないと思う。
だけどきっと、すぐに自分の目で確かめられる距離にいないからこそ、それだけのことでも不安になってしまうのかもしれない。
「“愛があれば距離なんて関係ない” なんて、ただの綺麗事だよね。ホントはすぐ会えない分、ちょっとしたことでもすぐ不安になるし、嫉妬しちゃう。遠距離になる時に覚悟してたはずなのに、心狭いよね、私」
そう言って自嘲気味に笑う清水さん。
彼女がこんなに落ち込んでいるところを初めて見た。
いつも気さくで明るくてみんなの人気者で、仕事も恋愛も順調な憧れの先輩。
だけど、清水さんだって本当は笑顔の裏でたくさん悩んで苦しんでいるんだ。
そんな当たり前のことに、今さら気がついた。
「何かあったら、いつでも遠慮しないで話して下さいね」
ありきたりな励ましの言葉しか出てこなくて、申し訳ないけれど。
でも、私は本気で清水さんの力になりたいと思っているんだ。
異動したばかりの時から丁寧に仕事を教えてくれて、ミスしても明るく笑い飛ばしてフォローしてくれる。
そんな清水さんのことが、私は仕事の先輩としてもひとりの人としても、大好きだから。
「さとちゃん、なんていい子なの! お嫁さんにしたい!」
「え? 漣さんはどうするんですか!?」
「あんなヤツ、もう知らん!」
「えぇっ!?」
「な~んてね」
可愛らしくそう言った清水さんは、いつもの明るい笑顔に戻っていた。
* * *
「おはようございます!」
翌朝、営業場に清水さんの元気な声が響いた。
「清水は朝から元気だな」
「可愛い後輩のお陰です」
課長の言葉に、清水さんがそう言って私に目配せした。
“可愛い後輩のお陰です”
その一言がじんわり心に広がっていく。
「今日も一日頑張ろうね!」
「はい!」
清水さんの言葉に、私は笑顔で頷いて準備を始めた。