午前6時。買ったばかりのスマホから大好きなNeo Moon(ネオ・ムーン)の曲が流れる。
どんなに眠くても、大好きな涼夜の声が聴こえればすぐに目が覚める。
スマホに手を伸ばして停止ボタンを押そうとした時、LINEのメッセージが届いているのに気づいた。
同期の帆波からだ。
【誕生日おめでとう! また一緒にライブ観に行こうね】
バースデーケーキのデコレーションカードに書かれているメッセージ。
そういえば、誕生日、今日だったっけ。
最近月末近くで仕事が忙しいせいもあって、自分の誕生日すら忘れていた。
気づけば私も今日で二十九歳。立派なアラサーだ。
でも、だからと言って何が変わるわけでもない。
世の中は今日も当たり前のように動いていて、私は今日もいつものように仕事に行く。
アフター5は彼氏と誕生日デートと言いたいところだけど、そんな予定あるはずもなく。
きっと今日もいつも通り仕事して、満員電車に押されてクタクタになって帰ってくるだけだ。
【ありがとう! でもついにアラサーだ。また一緒にライブ行こうね!】
とりあえず帆波に返信。
帆波とは職場は違うけど、新人研修の時に同じクラスで、お互いNeo Moonの大ファンだと知ってから一緒にライブに行くくらい仲良くなった。
今では仕事の愚痴も言い合いつつ、大好きなNeo Moonについても語り合える大切な友達だ。
帆波も私と同じでおひとり様生活を満喫中。
私と違って結婚願望はあるようだけど、「今は自分の趣味の時間を楽しみたい」と言って、コピーバンドを組んでキーボードを弾いている。
お互い会えば「もうこの仕事辞めたいよね」「一生続ける気なんかないよね」なんて言いながら、それでもなんだかんだ同期として愚痴を言い合って励まし合って、また次に会う時までそれぞれの職場で頑張る。
気の合う同期という存在は、やっぱり社会人にとって大きなものだとつくづく思う。
支度をしてリビングに向かうと、トーストの香ばしい香りが漂ってきた。
「おはよう」
朝食の準備をしてくれている母親に声をかける。
「おはよう。ホットミルクでいい?」
「うん。ありがとう」
席に着いて焼き立てのトーストを食べる。
「続いて、今日の為替相場です」
テレビから聞こえて来た言葉に反応して、自然とテレビに視線を向けた。
いつの間にか、毎朝こうしてニュースで為替市場や株式市場をチェックするのが日課になっていた。
というのも、私は銀行の窓口担当者として働いているから。
現在の職場は自宅から電車で一時間以上かかる支店で通勤は大変。
異動して三年近く通っている今は、だいぶ慣れたけど。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母親に見送られて、駅へ向かう。
満員電車に揺られながら大好きなNeo Moonの曲を聴いて元気をもらい、約一時間十分ほどで職場の最寄り駅に着いた。
改札を出て、歩いて数分のところにあるのが私の職場である美浜台支店だ。
それほど大きい支店ではないけれど、富裕層が多いことで知られている。
「おはようございます。朝礼を始めます」
午前八時三十分、開店前の朝礼が始まる。
前日の業績報告や今日の予定を確認して、「本日もよろしくお願いします」の一言で今日一日の仕事が始まる。
朝礼が終わると、「あ、山崎さん。今日のアポの確認なんだけど」と早速仕事モード。
当たり前だけど、職場の皆は今日が私の誕生日だなんて気づいていないというより知らないだろう。
だから何事もなかったかのように仕事の話が始まる。
別に祝ってほしいわけじゃないし、もう「おめでとう」と言われて素直に喜べる年齢でもないから、いいんだけど。
開店前、私は朝一番で来店するお客様の資料の準備に入った。
瀬戸さんという七十代の品のいい女性で、この支店に異動した直後から担当している顔なじみのお客様だ。
「私の孫もあなたと同い年なのよ」と言って優しく話しかけて下さって、私が書類の不備を出してしまった時も、「そうやって失敗してひとつずつ覚えていくものよ」と温かい言葉を下さった、とても優しいお客様。
私のことを、お孫さんと同じように温かい目で見て下さっているのがわかるから、もっと勉強して少しでも瀬戸さんのお役に立てたらいいなと思っている。
今日は今保有している投資信託の現状報告と、お孫さんのために貯蓄しているという資産の相談を受ける予定だ。
「おはようございます、本日は朝早くから御来店頂きましてありがとうございます」
九時三十分、約束の時間通りに来店された瀬戸さんに挨拶をすると、「こちらこそいつもありがとう。今日もよろしくね」瀬戸さんはふわりと柔らかく微笑んでそう言ってくれた。
コーヒーを用意して、他愛もない話をしたあと、本題の投信の現状報告と資産相談に移った。
「お孫さんはお二人いらっしゃるんですよね?」
「そうそう。ひとりはあなたと同い年でね。もうひとりはこの春大学に入学するのよ」
「そうなんですか? おめでとうございます」
「ありがとう。でも、私立大学だし、なにかと出費がかさむでしょう? 前からコツコツ貯めてきたお金があるから、使おうかしらと思っているの」
「お孫さんのための教育資金にしたいということなら、こちらがお薦めですよ」
「あら、そうなの?」
「はい。今ニーズが増えてる商品で―」
一通り説明を終えると、「ありがとう。ぜひ、娘とも相談してみるわ」ということで、また来週アポを取ることになった。
「瀬戸さん、どうだった?」
自分の席に戻ると、私の隣の席でPCに情報入力をしている清水さんに訊かれた。
「来週アポ取れました」
「そっか、良かったね。瀬戸さん、山崎さんのことかなり気に入って下さっているみたいだしね」
清水さんは、私より二つ上の先輩だ。
明るく気さくで、初対面の人とすぐに打ち解けられる清水さんは、お客様ともすぐに仲良くなって盛り上がっている。
瀬戸さんも、もともとは清水さんが地区担当していたお客様だ。
去年の秋から、私が清水さんの地区担当のお客様を少しずつ引き継いで、アポから商品提案、契約までの流れをひとりでこなせるように勉強している。
「山崎さんも色々な商品を成約できるようになったね」
「まだまだですよ。ホント毎日いっぱいいっぱいで……」
私が清水さんと話していると、
「清水さん、すみません。担当のお客様で潮田さんという方が、NISAの件でお見えになってるんですけど」
窓口担当の浜中さんが声をかけて来た。
「潮田さん、いつもアポなしで来るんだよね。私十一時からアポ入っちゃってるから、悪いんだけど、山崎さん代わりに受けてくれない? 多分書類の確認だけだから」
「はい、わかりました」
清水さんに言われて、念のため関係資料やパンフレットを用意して窓口に向かう。
「潮田様、お待たせいたしました。私、水島と申します。清水が接客中なので、私が代わりに御用件をお伺いします」
名刺を渡して挨拶をすると、
「ああ、そうだったのか。この前、清水さんにNISAの申し込みをお願いしてね。書類が揃ったから、これでいいか確認に来たんだ」
潮田さんが笑顔でそう言いながら持っていた封筒から書類を出した。
渡された書類に目を通して不備がないことを確認。
「では、お預かりします」
「ああ。清水さんによろしく伝えておいて」
「かしこまりました。本日は御来店ありがとうございました」
その後も、アポなしで来店されたお客様の対応や商品提案記録の作成などに追われてあっというまにお昼休みになった。
「山崎さんって今何年目だっけ?」
昼休み、食堂でお昼ご飯を食べていたら、営業担当の砂川さんに訊かれた。
「七年目です」
「七年目ってことは、今いくつ?」
「今日で二十九になりました」
あえて “今日で” という言い方をしたのは、やっぱり心のどこかで誰かに「おめでとう」と言われたかったからかもしれない。
「え、今日誕生日なんだ!? おめでとう」
案の定、砂川さんはその言葉で今日が私の誕生日だと気づいて予想通りの言葉を返してくれた。
「ありがとうございます」
「二十九って、節目だよね。山崎さんは結婚とか考えてる?」
やっぱり来たか、この質問。
「いえ、今のところは全く」
「そっか~。まぁ、うちの会社は結婚しても続ける女性が多いからね」
「そうみたいですね」
大手と言われる会社に就職できただけあって、福利厚生がしっかりしているから、結婚後も出産後も仕事を続けている人が多いらしい。
結婚・出産予定が全くない私にはあまり関係のない話だけど。
むしろ結婚しても出産しても辞められないのなら、転職するしかないんだろうな。
よく「転職するなら三十歳までに」なんて聞くけど、どうなんだろう。
やっぱり本気で転職を考えるなら、そろそろ転職活動を本格的に始めた方がいいのだろうか。
二十九になっても何も変わらないと思っていたけれど、やっぱり二十代最後という年齢は色んな意味で区切りや節目に当たるのかもしれない。
お昼休みを終えたあとも午後も窓口対応や事務処理に追われてあっというまに一日の仕事が終わった。
「お先に失礼します」
帰り支度をして、みんなに挨拶をして帰ろうとした時。
「山崎さん」
相談課長である井波課長に声をかけられた。
井波課長は、四十代後半の温厚で優しい課長だ。
小学五年生と中学一年生のお子さんがいて、“優しいパパ”オーラが滲み出ている。
職場内でも、相談課長にしては珍しくおっとりしていて優しくていい課長だと言われている。
「今日、瀬戸さんいい感じだったみたいだね」
「あ、はい」
「山崎さんは対応や説明が丁寧でわかりやすいっていうお客様の声もあるみたいだから、今後もその調子で頼むね」
満面の笑みで言われた言葉が嬉しい。
窓口に出始めたばかりの頃は迷惑をかけてばかりだったし、ミスして怒られて泣いたりもしたけど、少しは成長できているのかな。
「ありがとうございます。お先に失礼します」
「おう、お疲れ様」
今日もいつも通り仕事を終えて帰路に着く。
特別なことなんて何も起こりはしない。
電車の中で暇つぶしにスマホで大学時代から続けているSNSサイトにログインしたら、高校生時代からの親友である海輝から「おめでとう」メッセージが届いていた。
海輝もおひとり様ライフ満喫中だ。
中学から大学までずっと附属の女子校だったこともあり、男性と接するのが苦手らしい。
そんなわけで、私の周りはみんなおひとり様だからか、私自身もあまり気にしていないのだ。
「ただいま」
「お姉ちゃん、お帰り」
家に帰ると、珍しく妹の知花が出迎えてくれた。
「あれ、知花、今日はこっちに来たの?」
知花は大学時代から一人暮らしをしている。
社会人になってからは平日に実家に戻ってくることはほとんどなかったのに。
「今日お姉ちゃん誕生日でしょ? ケーキ買って来たから、食べて」
「ありがとう」
この年になって妹にケーキを買ってきてもらうって、嬉しいような、悲しいような。
結局、私の二十代最後の誕生日は、母と妹に祝ってもらって終わった。