【第1話】


#プロローグ


 幼い頃、「将来の夢はなんですか?」と訊かれたら、私は必ず「お姫様」と答えていた。

 そう答えると、大人はみんな『花嫁さん』のことだと思ったようだけど。

 私がなりたかったのは、花嫁さんではなく『お姫様』だ。

 お屋敷と呼ばれるような広くて大きな洋館に住んで、レースがたくさんあしらわれた可愛いドレスを着て、専属のメイドと執事がいて、「お嬢様」と呼ばれて過ごす。

 仕事なんてすることもなく一生を優雅に自由に遊んで暮らす、そんなお姫様生活にとても憧れていた。

 いつか、そんな暮らしができると信じていた。

 だけど、それは子供の無邪気な幻想でしかなかった。

「いい? 今は女性も働いて当たり前の時代だからね。女性は結婚して家庭に入ればいいって考えじゃ甘い。しっかり勉強して就職して、自立した女性にならなくちゃダメよ」

 まだ世間のことなんてなにひとつわからない子供の頃に、何度も言われてきた言葉。

 物心ついた時には、父親は家にいなかった。

 私には父親の記憶がほとんどないけれど、両親は私が生まれてから価値観の違いで言い合いになることが多く、離婚したらしい。

 その頃から漫画家として売れ始めていた母親は毎日原稿の締め切りに追われて部屋に引きこもっていた。

 母が忙しい時は、近所にある祖父母の家に預けられて過ごすことが多かった。

「ねぇ。おかあさんのとこ帰っていい?」

「お仕事の邪魔になっちゃうから、もう少し我慢してね」

「……うん。わかった」

 寂しさを隠して、妹とふたりで遊んでいた思い出も多い。

 母が私を育てるためにどれだけ必死に働いていたか。

 当時の母と同じ年になった今なら、その苦労が少しわかる気がする。

 離婚して女手ひとつで子供を育てるのには、相当の覚悟が必要だ。

 そんな母親の背中を見て育ってきたからか、私は子供の頃から結婚に対して憧れがなかった。

 友達同士の会話で、「何歳までに結婚したい?」と訊かれても答えられなかった。

 自分が結婚している姿なんて想像できなかったし、ましてや母親になるなんて想像もつかない。

 つまり私には結婚願望というものがない。

 それがいいことなのか、悪いことなのか、私にはわからない。



【#アラサーですけど、なにか?】


 午前6時。買ったばかりのスマホから大好きなNeo Moon(ネオ・ムーン)の歌が流れる。

 どんなに眠くても、大好きな涼夜(すずや)の声が聴こえればすぐに目が覚める。

 スマホに手を伸ばして停止ボタンを押そうとした時、LINEのメッセージが届いているのに気づいた。

 同期の帆波(ほなみ)からだ。

【誕生日おめでとう! また一緒にライブ観に行こうね】

 バースデーケーキのデコレーションカードに書かれているメッセージ。

 そういえば、誕生日、今日だったっけ。

 最近月末近くで仕事が忙しいせいもあって、自分の誕生日すら忘れていた。

 気づけば私も今日で二十九歳。立派なアラサーだ。

 でも、だからと言って何が変わるわけでもない。

 世の中は今日も当たり前のように動いていて、私は今日もいつものように仕事に行く。

 アフター5は彼氏と誕生日デートと言いたいところだけど、そんな予定あるはずもなく。

 きっと今日もいつも通り仕事して、満員電車に押されてクタクタになって帰ってくるだけだ。

【ありがとう! でもついにアラサーだ。また一緒にライブ行こうね!】

 とりあえず帆波に返信。

 帆波とは職場は違うけど、新人研修の時に同じクラスで、お互いNeo Moonの大ファンだと知ってから一緒にライブに行くくらい仲良くなった。

 今では仕事の愚痴も言い合いつつ、大好きなNeo Moonについても語り合える大切な友達だ。

 帆波も私と同じでおひとり様生活を満喫中。

 私と違って結婚願望はあるようだけど、「今は自分の趣味の時間を楽しみたい」と言って、コピーバンドを組んでキーボードを弾いている。

 お互い会えば「もうこの仕事辞めたいよね」「一生続ける気なんかないよね」なんて言いながら、それでもなんだかんだ同期として愚痴を言い合って励まし合って、また次に会う時までそれぞれの職場で頑張る。

 気の合う同期という存在は、やっぱり社会人にとって大きなものだとつくづく思う。

 支度をしてリビングに向かうと、トーストの香ばしい香りが漂ってきた。

「おはよう」

 朝食の準備をしてくれている母親に声をかける。

「おはよう。ホットミルクでいい?」

「うん。ありがとう」

 席に着いて焼き立てのトーストを食べる。

「続いて、今日の為替相場です」

 テレビから聞こえて来た言葉に反応して、自然とテレビに視線を向けた。

 いつの間にか、毎朝こうしてニュースで為替市場や株式市場をチェックするのが日課になっていた。

 というのも、私は銀行の窓口担当者として働いているから。

 現在の職場は自宅から電車で一時間以上かかる支店で通勤は大変。

 異動して三年近く通っている今は、だいぶ慣れたけど。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 母親に見送られて、駅へ向かう。

 満員電車に揺られながら大好きなNeo Moonの曲を聴いて元気をもらい、約一時間十分ほどで職場の最寄り駅に着いた。

 改札を出て、歩いて数分のところにあるのが私の職場である美浜台(みはまだい)支店だ。

 それほど大きい支店ではないけれど、富裕層が多いことで知られている。

「おはようございます。朝礼を始めます」

 午前八時三十分、開店前の朝礼が始まる。

 前日の業績報告や今日の予定を確認して、「本日もよろしくお願いします」の一言で今日一日の仕事が始まる。

 朝礼が終わると、「あ、山崎さん。今日のアポの確認なんだけど」と早速仕事モード。

 当たり前だけど、職場の皆は今日が私の誕生日だなんて気づいていないというより知らないだろう。

 だから何事もなかったかのように仕事の話が始まる。

 別に祝ってほしいわけじゃないし、もう「おめでとう」と言われて素直に喜べる年齢でもないから、いいんだけど。

 開店前、私は朝一番で来店するお客様の資料の準備に入った。

 瀬戸さんという七十代の品のいい女性で、この支店に異動した直後から担当している顔なじみのお客様だ。

「私の孫もあなたと同い年なのよ」と言って優しく話しかけて下さって、私が書類の不備を出してしまった時も、「そうやって失敗してひとつずつ覚えていくものよ」と温かい言葉を下さった、とても優しいお客様。

 私のことを、お孫さんと同じように温かい目で見て下さっているのがわかるから、もっと勉強して少しでも瀬戸さんのお役に立てたらいいなと思っている。

 今日は今保有している投資信託の現状報告と、お孫さんのために貯蓄しているという資産の相談を受ける予定だ。

「おはようございます、本日は朝早くから御来店頂きましてありがとうございます」

 九時三十分、約束の時間通りに来店された瀬戸さんに挨拶をすると、「こちらこそいつもありがとう。今日もよろしくね」瀬戸さんはふわりと柔らかく微笑んでそう言ってくれた。

 コーヒーを用意して、他愛もない話をしたあと、本題の投信の現状報告と資産相談に移った。

「お孫さんはお二人いらっしゃるんですよね?」

「そうそう。ひとりはあなたと同い年でね。もうひとりはこの春大学に入学するのよ」

「そうなんですか? おめでとうございます」

「ありがとう。でも、私立大学だし、なにかと出費がかさむでしょう? 前からコツコツ貯めてきたお金があるから、使おうかしらと思っているの」

「お孫さんのための教育資金にしたいということなら、こちらがお薦めですよ」

「あら、そうなの?」

「はい。今ニーズが増えてる商品で―」

 一通り説明を終えると、「ありがとう。ぜひ、娘とも相談してみるわ」ということで、また来週アポを取ることになった。

 「瀬戸さん、どうだった?」

 自分の席に戻ると、私の隣の席でPCに情報入力をしている清水さんに訊かれた。

「来週アポ取れました」

「そっか、良かったね。瀬戸さん、山崎さんのことかなり気に入って下さっているみたいだしね」

 清水さんは、私より二つ上の先輩だ。

 明るく気さくで、初対面の人とすぐに打ち解けられる清水さんは、お客様ともすぐに仲良くなって盛り上がっている。

 瀬戸さんも、もともとは清水さんが地区担当していたお客様だ。

 去年の秋から、私が清水さんの地区担当のお客様を少しずつ引き継いで、アポから商品提案、契約までの流れをひとりでこなせるように勉強している。

「山崎さんも色々な商品を成約できるようになったね」

「まだまだですよ。ホント毎日いっぱいいっぱいで……」

 私が清水さんと話していると、

「清水さん、すみません。担当のお客様で潮田(しおた)さんという方が、NISAの件でお見えになってるんですけど」

 窓口担当の浜中さんが声をかけて来た。

「潮田さん、いつもアポなしで来るんだよね。私十一時からアポ入っちゃってるから、悪いんだけど、山崎さん代わりに受けてくれない? 多分書類の確認だけだから」

「はい、わかりました」

 清水さんに言われて、念のため関係資料やパンフレットを用意して窓口に向かう。

「潮田様、お待たせいたしました。私、水島と申します。清水が接客中なので、私が代わりに御用件をお伺いします」

 名刺を渡して挨拶をすると、

「ああ、そうだったのか。この前、清水さんにNISAの申し込みをお願いしてね。書類が揃ったから、これでいいか確認に来たんだ」

 潮田さんが笑顔でそう言いながら持っていた封筒から書類を出した。

 渡された書類に目を通して不備がないことを確認。

「では、お預かりします」

「ああ。清水さんによろしく伝えておいて」

「かしこまりました。本日は御来店ありがとうございました」

 その後も、アポなしで来店されたお客様の対応や商品提案記録の作成などに追われてあっというまにお昼休みになった。

「山崎さんって今何年目だっけ?」

 昼休み、食堂でお昼ご飯を食べていたら、営業担当の砂川さんに訊かれた。

「七年目です」

「七年目ってことは、今いくつ?」

「今日で二十九になりました」

 あえて “今日で” という言い方をしたのは、やっぱり心のどこかで誰かに「おめでとう」と言われたかったからかもしれない。

「え、今日誕生日なんだ!? おめでとう」

 案の定、砂川さんはその言葉で今日が私の誕生日だと気づいて予想通りの言葉を返してくれた。

「ありがとうございます」

「二十九って、節目だよね。山崎さんは結婚とか考えてる?」

 やっぱり来たか、この質問。

「いえ、今のところは全く」

「そっか~。まぁ、うちの会社は結婚しても続ける女性が多いからね」

「そうみたいですね」

大手と言われる会社に就職できただけあって、福利厚生がしっかりしているから、結婚後も出産後も仕事を続けている人が多いらしい。

 結婚・出産予定が全くない私にはあまり関係のない話だけど。

 むしろ結婚しても出産しても辞められないのなら、転職するしかないんだろうな。

 よく「転職するなら三十歳までに」なんて聞くけど、どうなんだろう。

 やっぱり本気で転職を考えるなら、そろそろ転職活動を本格的に始めた方がいいのだろうか。

 二十九になっても何も変わらないと思っていたけれど、やっぱり二十代最後という年齢は色んな意味で区切りや節目に当たるのかもしれない。

 お昼休みを終えたあとも午後も窓口対応や事務処理に追われてあっというまに一日の仕事が終わった。

「お先に失礼します」

 帰り支度をして、みんなに挨拶をして帰ろうとした時。

「山崎さん」

 相談課長である井波(いなみ)課長に声をかけられた。

 井波課長は、四十代後半の温厚で優しい課長だ。

 小学五年生と中学一年生のお子さんがいて、“優しいパパ”オーラが滲み出ている。

 職場内でも、相談課長にしては珍しくおっとりしていて優しくていい課長だと言われている。

「今日、瀬戸さんいい感じだったみたいだね」

「あ、はい」

「山崎さんは対応や説明が丁寧でわかりやすいっていうお客様の声もあるみたいだから、今後もその調子で頼むね」

 満面の笑みで言われた言葉が嬉しい。

 窓口に出始めたばかりの頃は迷惑をかけてばかりだったし、ミスして怒られて泣いたりもしたけど、少しは成長できているのかな。

「ありがとうございます。お先に失礼します」

「おう、お疲れ様」

 今日もいつも通り仕事を終えて帰路に着く。

 特別なことなんて何も起こりはしない。

 電車の中で暇つぶしにスマホで大学時代から続けているSNSサイトにログインしたら、高校生時代からの親友である海輝(みき)から「おめでとう」メッセージが届いていた。

 海輝もおひとり様ライフ満喫中だ。

 中学から大学までずっと附属の女子校だったこともあり、男性と接するのが苦手らしい。

 そんなわけで、私の周りはみんなおひとり様だからか、私自身もあまり気にしていないのだ。

「ただいま」

「お姉ちゃん、お帰り」

 家に帰ると、珍しく妹の知花(ともか)が出迎えてくれた。

「あれ、知花、今日はこっちに来たの?」

 知花は大学時代から一人暮らしをしている。

 社会人になってからは平日に実家に戻ってくることはほとんどなかったのに。

「今日お姉ちゃん誕生日でしょ? ケーキ買って来たから、食べて」

「ありがとう」

 この年になって妹にケーキを買ってきてもらうって、嬉しいような、悲しいような。

 結局、私の二十代最後の誕生日は、母と妹に祝ってもらって終わった。


#推し活中ですけど、なにか?


「勉強会行ってきます。お先に失礼します」

 梅雨の時期を迎えた六月のある日、運用アドバイザー向けエリア勉強会のため、私は業後の仕事を早めに切り上げて清水さんと一緒に海南(かいなん)支店へ向かった。

 海南エリアというエリア名にもなっているほど規模の大きなお店で、毎回勉強会の会場になっていて、私も去年から何度か行っている。

 海南支店に着くとすぐに3階の会議室へ向かい、“美浜台支店”と書かれた席に着いた。

 まず目に入ったのは、机の上に置かれている勉強会の資料。

 各支店ごとの収益達成率や、運用アドバイザー個人の目標達成率が表になっている。

「うわ、最悪。また支店ごとに成果比べられるのか~。っていうかうちの店最下位だし」

 隣に座っている清水さんが資料を見ながらため息まじりにつぶやいた。

 確かに、今のエリア長は数字で比較して語るのが大好きな人だから、きっと何か言われるだろうな。

 というその予想は見事に的中した。

「美浜台支店は、残念ながら現在最下位ですね。特に保険の数字が悪い。担当者に苦手意識があるんじゃないですか?」

「そんなことありません」

「積極的にセールスする気があるなら、この数字はありえない。このまま低迷するようなら、根本的なやり方変えるしかないでしょう。お客様に言われた手続きだけをするなら誰にでも出来ます。今時ネットでも手続きが出来るのにわざわざお店に足を運んでくれているお客様にプラスアルファのサービスや情報を提供し、お客様に喜んで頂くのが我々の仕事です。ハッキリ言って、この数字なら店として営業してる意味がない」

 次々と飛び出すエリア長の厳しい言葉に、会議室内の空気がどんどん重苦しくなっていく。

「今の美浜台支店は必死さが感じられない。これからどうするべきか支店全体で話し合って改善策を考えて下さい」


 * * *


「あのエリア長マジムカつく!あれじゃ勉強会じゃなくて説教会じゃん!しかもうちの支店だけ吊るし上げて集中攻撃とかそっちの方がありえないんですけど!!」

 勉強会終了後、駅までの道を歩きながら堰を切ったように反論の言葉を捲し立てる清水さん。

「確かにあれは言いすぎですよね」

 隣で一緒に歩きながら同調する私。

 業績が悪いのは認めるけど、いくらなんでも酷過ぎる発言だったと思う。

「あ~もう悔しすぎる!こうなったら絶対エリア長をギャフンと言わせてやる!」

 いまどきギャフンとか言う人がいるのかは疑問だけど、エリア長を見返したい気持ちは私も同じだ。

「また明日から頑張ろうね」

「はい!」

 お互いの自宅が逆方向な私と清水さんは、駅のホームでそれぞれ別の電車に乗って別れた。

 負けず嫌いな清水さんは、ああやってエリア長から支店のことを悪く言われる度に熱くなる。

 その一生懸命さやまっすぐさは私も見習いたいところだ。

 私も頑張らなくちゃ。

 電車の窓から見える景色をぼんやり眺めながら、決意を新たにした。


 * * *


「おはようございます。昨日は勉強会ありがとうございました」

 翌朝、営業フロアに入って挨拶しながらそう言うと、

「お疲れ様。勉強会どうだった?」

 井波課長に訊かれた。

「最悪です。支店全体で改善策を話し合えって言われました」

 昨日のエリア長の言葉を思い出して思わずそう口にしてしまった。

「そうか。今のエリア長はとにかく数字にこだわる人だからなぁ」

 課長はエリア長と会議や面談で何度か話しているから、昨日の話の内容もなんとなく察したみたいで、「支店長とも話し合ってこっちでもなにか改善策考えるよ」と言ってくれた。

「昨日、エリア長の説教タイム受けたんだって?」

 自分の席に着くなり、課長との話を聞いていたらしい営業担当の船堂《せんどう》さんに冷やかし口調で言われた。

「受けましたよ。あの人ホントに数字でしか物事見ないですよね」

「まぁ、数字さえ良ければ褒められるし気に入られるから、わかりやすい人ではあるけどな」

「でも私はああいう人嫌いです。お客様と接しなくちゃわからないことだっていっぱいあるのに、そういうの全く知りもしないで数字、数字って言うのは納得できません」

 毎日たくさんのお客様と会って、話して、そのお客様に喜んでもらえる商品を提案していく。

 だけど、それが必ずしも成約につながるとは限らないし、件数が欲しいからって無理やり提案するわけにもいかない。

 お客様の大切な資産と人生に関わることだから、押し引きがとても難しい。

 どの商品ならよりお客様のニーズに合うか、私たち運用アドバイザーは真剣に考えて提案している。

 たとえ一件しか成約にならなかったとしても、お客様が心から喜んでくれたものなら私だって本当に嬉しいし。

 目には見えないけど、そういうお客様の満足につながる提案を大切にするべきなんじゃないのかな。

 だから、上辺だけの数字にこだわるのはなんだか違う気がするんだ。


 * * *

「――では、早速来週火曜日から店内勉強会を開催します」

 そしてその日の夕礼で、エリア長に言われたことを踏まえて今後の改善策が話し合われた。

 まずは商品知識向上のため、月に1回勉強会を開催することになった。

「で、なんで私達まで勉強会に参加するんですか?」

 窓口担当者の浜中さんが、居心地悪そうに会議室の席に座って周りを見回している。

「最下位を脱出するためには、窓口からの声かけもとても大事だから」

 清水さんがそう言った時、

「それじゃ、そろそろ勉強会始めようか」

 という課長の言葉で、勉強会が始まった。

「今日の勉強会で講師をしてくれるのは、ひかり生命保険の営業担当である川瀬(かわせ)さんだ」

「川瀬です。よろしくお願いします」

 課長の紹介で挨拶してくれた川瀬さんは、私と同じ二十代後半くらいの爽やかな雰囲気が漂う男性だった。

「よろしくお願いします」

 みんなでそう返すと、早速配られた資料をもとに勉強会が始まった。

「美浜台支店はこれから保険商品に注力していく、ということですが。アドバイザーの皆さん、保険商品をセールスすることに抵抗感ってありますか?」

「抵抗感があるというよりは、勧誘されるってかまえちゃうお客さんが多いんだよね。もう加入してる人がほとんどだし、話してもなかなか盛り上がらない。だからなんとなく引き気味で話しちゃう」

 川瀬さんの問いかけに清水さんが答えて、私もその言葉に同意の気持ちを込めて頷く。

「じゃあ、ここでちょっと問題です。人生は英語で言うと?」

「 “LIFE” ですよね?」

なんでそんなことを今さら、というような表情で再び清水さんが答えた。

「そう、LIFEです。それじゃあ、この “LIFE” の最初と最後の間の文字を読んでみて下さい」

間の文字ってことは、IとFだよね。

「えっと……山崎さん。答えわかりました?」

名札を見ながら名指しで尋ねられて「IとFです」と一瞬戸惑いながらも答えた。

「そうですよね。それじゃ、これを “IF” という単語にしたらどんな意味になりますか?」

「……“もし”?」

「正解です。つまり、保険は人生(LIFE)の間に起こる“もしも”(IF)に備えるものですよね。皆さんの人生において必ず必要なものですから、自信を持ってお客様にお話して下さい」

目から鱗が落ちる、ってこういうことなんだ。

ただひたすら数字数字って言うエリア長の勉強会とはまるで違う。

「ちょっと、今の話二十へぇ~超えるくらいの勢いで感動したんだけど!」

清水さんも、興奮気味にそう言って目を輝かせている。

 たとえがちょっと古い気がしないでもないけど、確かにそれくらいの感動だった。

 その後も川瀬さんは楽しくわかりやすくセールスのポイントなどを説明してくれて、いつもなら業後で疲れて眠くて長く感じる約四十五分の勉強会はあっというまに終了した。


 * * *


「部長、来月連続有休取っていいですか?」

 勉強会終了後、私は部長に尋ねた。

「いいけど。なに? 何か予定あるの?」

「ええ、まぁ……」

 曖昧に言葉を濁して頷くと、

「もしかしてまたNeo Moonのライブか?」

 部長が見事に当ててしまった。

「やっぱりバレてました?」

「山崎さんが休み取る時はほとんどライブのためじゃないか」

 あら、完全に読まれてるよ。

「今度はどこに行くの?」

「福岡です」

「本当どこでも行くんだなぁ」

 感心したような、呆れたような言い方。

 でも、誰になんと言われようと、これだけは譲れない。

 Neo Moonのライブに行くことは、私の生きがいと言っても過言ではない。

 Neo Moonは、私が中学生の時から大好きな四人組のバンドだ。

 楽曲の独特の世界観とヴォーカル涼夜のセクシーヴォイスが最大の魅力で、楽曲の世界観をファンタジックに表現しているライブは、音楽ファンや関係者からの評価も高い。

 ファンの間では、「Neo Moonのライブは一度行ったら中毒になる」と言われるくらい、ライブのリピーターも多い。

 もちろん、私もそのひとりなわけで。

 学生時代は時間があってもお金がなくて、自宅から近い会場だけしか行けなかったけど、社会人になった今は違う。

 地方公演を観に行くいわゆる遠征が出来る。

 その土地ならではのご当地MCが聴けるし、演奏曲が会場によって替わることもある。

 ファンにとってはレアな曲が聴けるチャンスでもあるのだ。

 一度遠征の楽しさを知ったら、何度でも行きたくなるのがファンというもの。

 だけど悲しいことに、社会人になると、学生とは反対にお金はあっても時間がない。

 だから、ツアーが決まったら行きたい公演に合わせて有休を取る。

 推し活中心のライフスタイルになってるけど、それが今の私の楽しみだ。

 ライブ資金を稼ぐために働く。ライブが決まれば仕事も頑張れる。

 周りから見ればもしかしたらイタイ女子かもしれないけど。

 でも、夢中になれる趣味があるということは、悪いことではないと思う。

「でも、涼夜さんって結婚してますよね?」

 突然後ろからそんな言葉が聞こえて来た。

 振り返ると、後輩の岬ちゃんが立っていた。

 帰り際に私と部長の話を聞いていたらしい。

「あ~そういえばなんかニュースで見たかもなぁ」

 部長が思い出したように言う。

「確か子供も産まれたんですよね?」

「うん」

 事実だから頷いたけど、あのね、岬ちゃん、それはファンには禁句の話題だよ?

 デビュー時からプライベートはほとんど非公表のバンドだったから、あのニュースはファンにとってはかなり衝撃的で、公式サイトもかなり荒れていた。

 メンバーの中で涼夜推しの私は、すごくショックだったんだから。

「相手の人って一般人なんですよね~」

「へぇ。じゃあもしかしたら山崎さんにもチャンスがあったかもなぁ」

 って、私のファン心理を無視してその話題続けないで!

 私にもチャンスとかマジでありえないから!

 そんなの宝くじで一等当てるくらいの夢物語だから!

「福岡のお土産期待してますよ、山崎さん」

 ひとり心の中で部長と岬ちゃんの会話に突っ込んでいたら、岬ちゃんが私に向かってニッコリ笑顔でそう言った。

「はいはい。それじゃ、お先に失礼します」

 可愛い後輩のお願いを聞き流し、私は営業場をあとにした。


 * * *


「服装よし、髪型よし、メイクよし!」

 鏡の前で何度もチェックして、気合いを入れる。

 この前買ったばかりのお気に入りのワンピースを着たら、それだけでテンションが上がる。

 七月の下旬。

 今日は待ちに待った大好きな彼氏とのデート……ではなく。

「チケットよし! これがなくちゃ始まらない!」

 大好きなNeo Moonの福岡公演だ。

「うわ、やばい遅刻する!」

 余裕を持って早めに支度を始めたはずなのに、結局出発時間ギリギリになっていた。

「行ってきます!」

 玄関で靴を履きながら、リビングにいるはずの母に聞こえるように大きな声で言って家を出た。

 なんとか予定通りの電車に飛び乗ってホッと一息。

 向かう先は羽田空港だ。

 今回は飛行機で福岡へ向かうことになっていて、羽田空港で帆波と待ち合わせすることにしている。

 電車の窓から綺麗な青空が見える。

 スマホでNeo Moonの最新アルバムを聴きながら、今日は何の曲を演奏するんだろうと夜のライブに想いを馳せる。

 ライブへの期待感と高揚感で高鳴る胸。

 きっと、彼氏とのデートの待ち合わせ場所へ向かう時もこんな感覚になるのだろう。

 私にとっては、ライブがある意味デートだ。

「おはよ~!」

「あ、里花! おはよ~」

 無事に帆波と合流して時間を確認すると、飛行機の出発時間までまだあと一時間近くあった。

「まだ時間あるから、お昼食べようか?」

「うん、そうしよう! 私、朝ご飯食べそびれてお腹空いてるんだよね」

 私の提案に帆波がそう言ってくれて、ふたりで近くのレストランに入った。

 メニューを見て悩みながら、結局ふたりともカレーライスを頼んだ。

「今日、一曲目何やると思う?」

「なんだろうね~」

 なんて話しながら食事していたら、あっという間に時間が過ぎていく。

 気がつけば飛行機の搭乗時間になっていた。

 久しぶりに乗る飛行機にちょっと緊張しながらも、無事に一時間半の旅は終了。

 まずはホテルへ向かい、チェックインして荷物を置いてからライブ会場へ向かう。

 会場となるのは海のすぐそばにあるアリーナだ。

「ついに来ちゃったね、福岡」

 なんて言いながら、開演を待つ。

 そしてついに場内が暗くなり、待ちに待ったライブが幕を開けた。

 客席総立ちで大歓声に包まれる中、オープニングから会場の盛り上がりは最高潮だった。

 楽しい時間ほど過ぎるのは一瞬で、興奮と熱気に包まれたまま、約三時間に及ぶライブは終了した。

 ホテルに戻って、帆波とライブの感想を深夜まで語り合う。

 これも、遠征ライブの楽しみのひとつだ。

「また明日も楽しもうね!」

 そう言って、眠りに就く。

 ライブは、今日と明日、二日間行われる。

 遠征に来て二日間とも参加するのは、私達ファンにとっては当たり前のことだ。

「同じ内容なのに何度も行くなんて信じられない!」なんてよく言われるけど、同じツアー、同じ会場だって微妙に曲や演出が替わるし、MCだって違う。

 もちろんメンバーのテンションだって違うし、客席も初日より二日目の方が盛り上がることが多い。

 だから、全く同じということは絶対にないんだ。

 そして迎えた二日目は、期待通り昨日とは少し曲順も演出も替わっていて、昨日はなかったメンバー全員のMCも聴くことができた。

 会場も昨日を上回る盛り上がりで、「これだから複数参加は辞められないんだよね」って、帆波と熱く語り合った。

 でも、夢のような時間は瞬く間に過ぎて、明日からはもう仕事だ。

 翌朝、後輩の岬ちゃんに期待されていたお土産を持ち、満員電車に揺られて職場へ向かう。

「おはようございます。お休みありがとうございました」

 営業場へ行き、職場のみんなに休み明けのご挨拶。

「おはよう。ライブは楽しめた?」

「はい、お陰さまで」

 部長の言葉に、笑顔で頷く。

 こうして、私の推し活ライフは今日も続いていく。


#先越されますけど、なにか?


「山崎さん、今日何か予定ある?」

 午後六時。そろそろ上がろうと帰り支度を始めた時、別地区担当の先輩である岩田さんに訊かれた。

「いえ、特にないですけど」

「あ、ホント? じゃあ支店長が飲み会やろうって言ってるんだけど、大丈夫?」

「……大丈夫、です」

 本当は、明日も仕事だから早く帰りたい。

 だけど、飲みにケーション大好きな支店長が誘っている飲み会を断るわけにもいかない。

 ということで、私は急遽飲み会に参加することになった。


 * * *


「お疲れ様でした~」

 ビールで乾杯をして、飲み会がスタートした。

 いつも歓送迎会をする時に使う行きつけの居酒屋。

 それぞれ好きなものを頼んで、雑談が始まった。

「さとちゃん、この前の『マジですかテレビ』観た?」

 サラダをお皿に取り分けていると、向かい側の席に座っている清水さんが言った。

 私は清水さんから仕事の時以外は「さとちゃん」と呼ばれている。

 ちなみに『マジですかテレビ』は、毎週火曜日の夜に放送されているバラエティ番組。

 大物タレントが司会を務め、様々な専門分野の研究者や評論家が思わず「マジですか」と言いたくなるような情報を教えてくれるという内容。

 私も時々観ているけれど、前回の放送は観ていない。

 だから、「観てないです」と答えると、清水さんは「じゃあ知らないか」とつぶやいた。

「あのね、恋愛心理の研究で、“男は最初、女は最後になりたがる”っていうのがあるんだって。さとちゃん的に当たってると思う?」

「え……」

 いきなりそんな話を振られても「私おひとりさまだからわからないです」とはさすがに恥ずかしくて言えないし。

 どう答えようかと悩んでいると、

「あ、それ私も観た!」

 タイミング良く岩田さんが話に加わってくれた。

「やっぱりそうなんだ~と思った」

「あ、岩田さんもそう思います?」

「思う思う! だってさ、あたしの元カレも……」

 一気に盛り上がる清水さんと岩田さん。

 話についていけない私、かなり疎外感。

 はっきり言って、人の恋バナには興味がない。

「で、さとちゃんはどうよ?」

「はい!?」

 ぼんやりしながらふたりの話を聞いていたから、突然名前を呼ばれてビックリした。

 まさか再び振られると思わなかった。

「私はそういうのってよくわからないです」

 知ったかぶってもしょうがないし、もう正直に答えよう。

「あれ? さとちゃん彼氏いなかったっけ」

「いないです」

「そっか。じゃあ、好きな人は?」

「……え……」

 “好きな人”と言われてすぐ頭に浮かんだのはNeo Moonの涼夜。

 だけど、「好きな人は芸能人です」なんて、この年で言えるわけがない。

 そんなこと言ったら、ドン引きされるに決まっている。

「……いない、です」

 ウソではないのでとりあえずそう答えると、

「あ、今答えるのに間があった! あやしい!」

 隙を逃さず清水さんが言った。

「ホントにいないです!」

「そういう人ほどいるんだって。誰?誰? うちの支店の人?」

 清水さん、早くもお酒が入っているせいかちょっとテンション上がってきてる。

 ホントにこれ以上突っ込むのは勘弁してほしいよ。

 と思ったその時、テーブルに置いてある清水さんのスマホが震えた。

「あ、清水さんのスマホに着信きてるみたいですよ!」

 すかさずそう言うと、
 
(れん)からかな!?」

 清水さんは途端に目を輝かせてスマホを手に取った。

「あ、やっぱり漣からLINEだ! お盆休み取れたって!」

「そうなんだ。良かったですね」

 本当に嬉しそうな笑顔で言う清水さんに、私までもが嬉しい気持ちになる。

  漣さんは、清水さんの彼氏だ。

 彼氏さんは大阪で働いていて、ふたりは遠距離恋愛中。

 お互い営業職で忙しく、特に彼氏さんは土日でも仕事が多くて、ふたりの休みが合うことはなかなかないらしい。

 会えるのは数ヶ月に一度くらいで、ほとんど清水さんが大阪でひとり暮らしをしている彼氏のもとへ足を運んでいるという。

「早速旅行の準備しなくちゃ」

 ルンルン気分で鼻歌でも歌い出しそうな勢いの清水さんは、完全に恋する女性の顔だ。

 確か前に会ったのはゴールデンウィークの時だと言っていたから、実に約三カ月ぶりの再会になるわけで、浮かれるのも無理はない。

 遠距離恋愛をしたことがない私にはよくわからないけど、きっと好きな人と時々しか会えないのは寂しいことだと思う。

 だけど、私は清水さんが落ち込んでいたり弱音を吐いているところを見たことがない。

 いつも明るく笑顔を絶やさない清水さんを、私は先輩としてとても尊敬している。

「それでは、宴もたけなわではございますが…」

 飲み会が始まって二時間を過ぎた頃。

 美浜台支店のゆるキャラ担当、海老沢支店長からお決まりの締めの言葉が始まった。

 お堅くプライドの高い嫌われ支店長ではなく、時には冗談を言って気さくにみんなとコミュニケーションを取ってくれるということで、前任店でも評判が良かったらしい。

「前期も残すところあと少し、みんなで目標達成に向けて頑張りましょう!」

 そんな力強い言葉と、美浜台支店伝統の美浜台一本締め (ただの一本締め) で今日の飲み会はお開きになった。


 * * *


 八月も半ばを過ぎたある日のこと。

 世間ではお盆休みと言われているけど、お盆休みなんてなかった私は、週末に自室でのんびりと大好きなNeo Moonのライブ映像を観ていた。

 (やっぱ涼夜の歌、最高だよ)

 なんて浸っていたら、手元に置いてあったスマホが震えた。

 画面を確認すると、知花からのLINEメッセージだった。

【お姉ちゃんに相談したいことがあるんだけど、今から来てもらっていい?】

 相談したいこと?

 わざわざ改まってそんなメッセージを送るなんて、どうしたんだろう?

【わかった。今から支度して行くよ】

 戸惑いつつもそう返信をして、私は知花が一人暮らしをしているマンションへ向かった。

 三十分ほどで着いてインターフォンを鳴らすと、

「お姉ちゃん、早かったね」

 ドアを開けて出迎えてくれた知花が、驚いたようにそう言いながら部屋へ入れてくれた。
 
「相談したいことってなんなの?」

 出してもらった冷たいお茶を飲んで尋ねると、

「……あのね……」

 知花は言いづらそうにうつむいた。

「先月から、来なくて……」

「来ない? 誰が?」

「……えっと、だから、人じゃなくて、あれの方……」

“あれ”? 人じゃないあれって、もしかして……。

そう言われて、頭に浮かんだひとつのこと。

「……生理が来てないってこと?」

「………」

私の質問に、知花は無言のまま頷いた。

よくドラマや本で見るお決まりの言葉。

ということは、知花はもしかして……。

またしても浮かんできた言葉に衝撃が走る。

「さっき検査薬買ってきて確認したの。そしたら……陽性だった」

「……陽性……」

それはつまり、妊娠しているかもしれない、ということ。

速水(はやみ)くんは? もう知ってるの?」

動揺しながらもまず気になったことを訊いてみた。

速水くんというのは、知花が高校を卒業してからつきあっている彼氏。

万が一妊娠しているとしたら、父親はもちろん速水くんのはずだ。

「まだ言ってないの。先にお姉ちゃんに相談しようと思って……」

「病院にもまだ行ってないの?」

「うん」

「じゃあ、今から一緒に行こう」

「いいの?」

「うん、いいよ」

 きっと、知花はそれを頼みたくて私に連絡してきたんだと思うから。

 それから私達は一番近くにある産婦人科の病院へ向かった。

 病院は思っていたほど混んでいなくて、受付をしてから十分もしないで知花は診察室に呼ばれた。

 結果は――


 * * *


「まさか、知花ちゃんがお母さんになるとはね」

 地元の駅前にあるカフェで、親友の海輝がしみじみ呟いた。

 海輝とふたりで近況報告を兼ねたひさしぶりの女子会。

 時々私の家に遊びに来ていて、知花と面識のある海輝も、今回のことはかなり衝撃的だったようだ。

 知花は妊娠二ヶ月と診断され、年内に結婚することになった。

 つまり、私は妹に先を越されることになったのだ。

「でも、知花ちゃんって小学生の頃から赤ちゃんとか小さい子見ると可愛い可愛いって言ってたし、元々子供好きだったんでしょ? いいお母さんになるんじゃない?」

「そうだね」

 そう。知花は小さい頃から自分も子供なのに “子供好き” だった。

 だから、「将来は保育士さんになる」なんて言っていたこともあったし、「大きくなったら結婚して、子供もたくさんほしい」と言っていた。

 結婚願望ゼロで子供も苦手な私とは見事に正反対。

 現在は音大を卒業して子供向けピアノ教室の講師をしている。

 とりあえず生活のために今の仕事を選んだ私とは違って、確かな目標を持って音大に進学し、子供が好きという好きなことを活かして今の仕事を選んだ。

 だから、本当に仕事が楽しそうだ。

 出産ギリギリまで仕事を続けて、落ち着いたらまた復帰したいと言っていた。

 結婚や妊娠というきっかけがなくたって、辞められるなら今の仕事を辞めたいと思っている私とは大違い。

「あのさ。このタイミングで言うのもあれなんだけど……」

 ひとり心の中で妹に対するコンプレックスを感じていた時。

 海輝が言いづらそうに切り出した。

 恥ずかしそうに視線をテーブルに落としたまま “何か” を言おうとしている。

 その何かが、海輝の様子を見てなんとなくわかってしまった。

 聞きたいけど、聞きたくない。

 だってもしも私の予想が当たっていたら……。

 そう思いながら、わざと明るい口調で言ってみた。

「もしかして彼氏出来た?」

「……! なんでわかったの?」

 海輝が勢いよく顔を上げて尋ねた。

「なんでって、なんとなく?」

 おどけてそう言いつつ、心の奥では何とも言えない感情が燻っていた。

 ずっと、自分と同じおひとりさまだと思っていた海輝に、ついに彼氏が……。

 おめでたいことなのに、心底祝福できない自分がいる。

「どこで知り合ったの?」

「えっと……会社の飲み会、なんだけど。二つ上の先輩なの」

「そっか。良かったね」

 平静を装ってそう言いながらも、妹だけじゃなく親友にも先を越されたという事実に、私は内心かなりショックを受けていた。


#年下苦手ですけど、なにか?


「今日から事務研修でお世話になります、河野(こうの)です。一週間よろしくお願いします!」

 九月半ばのある朝。

 私の職場で毎朝行われる朝礼で元気いっぱいに挨拶したのは、今年の春から新入社員として法人部署で働いているという男性。

 今週一週間、事務研修という新人向けの研修で私の職場に来ることになったらしい。

 営業職として働いているという河野くんは、法人取引先との渉外が主な仕事。

 事務に関してはアシスタントの女性職員に任せきりで、まだ知識不足ということで、この二日間で大まかな事務を知ってもらおうというのが趣旨とのこと。

「指導員は岬さんだから、よろしく」

 指導員に指名されたのは後輩の岬ちゃんだった。

 法人部署では、小切手や手形、振込など為替事務を扱うことが多いからという理由で、為替の基本事務を集中的に教えることにしたらしい。

「よろしくお願いします」

 爽やかな笑顔で挨拶する河野くんを見る女性陣の目が、いつもと違う。

 圧倒的な女性職場であるうえに、定年間近の男性しかいないこの職場では、河野くんは新人男性社員と言うだけでアイドルなのだ。

「やっぱり若い子がいると、空気が変わるわよねぇ」

 パート勤務の石田さんが弾んだ声で言う。

「なんかフレッシュな風を感じますよねぇ」

 岬ちゃんがしみじみと呟いたその言葉に、「今年三年目のあなたもまだ充分フレッシュでしょうが!」と内心突っ込みを入れてみる。

 こうして、いつもと少し違う空気の中、今日もいつも通りの仕事が始まった。

 九月は決算期ということもあり、全体的に忙しい。

 次から次へとお客様の対応や書類確認に追われているうちに、あっという間に一日が終わった。

「お疲れ様です~」

 更衣室で着替えていると、岬ちゃんが入ってきた。

 残業で疲れているはずなのに、テンションが高い。

 やっぱり年齢的なものかなと思っていたら、

「今日から研修に来てる河野くん、なかなかイケメンですよね~」

 嬉しそうな笑顔で岬ちゃんが言った。

 ああ、テンションが高い理由はこれかと妙に納得してしまった。

 河野くんは確かに爽やかな顔立ちだけど、個人的に好みの顔ではない。

 「河野くんに頼んで法人部の合コンセッティングしてもらおうかな~。山崎さんも一緒に参加しません?」

「ごめん、私そういうの苦手だから」

 あっさり断った私に、岬ちゃんが「……ですよね~」と苦笑した。

「山崎さん、年下の男性は苦手って前に飲み会で言ってましたもんね」

「そんなこと覚えてたんだ」

 言った当の本人である私ですら覚えてないのに。

 でも、確かに私は年下の男性が苦手だ。

 苦手というより、どう接したらいいかわからないという方が正しいかもしれない。

 妹と二人姉妹のうえに母子家庭で育ってきたから、年下の男子と関わる機会が学校以外ほとんどなかったし。

 それに、自分が長女だからか父親がいないからかわからないけど、いつからか私は年上の男性に憧れることが多かった。

 だから、私はつきあう(結婚する)なら絶対年上だと決めているのだ。

 まぁ、ここだけの話、“彼氏いない歴=年齢”の私は、年上と年下どちらがいいかなんて語れる立場ではないのだけど。

「河野くん、しっかりした年上の女性が好きだって言ってたから、山崎さんがピッタリだと思うって言っておきましたよ~」

「へぇ~……って、え!?」

 おいおい、岬ちゃん何勝手にそんなこと言ってるの!?

 っていうか、いつのまに河野くんから好きな女性のタイプ聞いたの!?

「私、指導員だから、お昼河野くんと一緒に上がったんですよ。その時にさりげなく聞いてみました」

 まるで私の心を読んだかのように岬ちゃんが言った。

 さすが岬ちゃん、そういうところちゃっかりしてるよね。

 そのぬかりなさを仕事でも活かしてほしいよね。

 という一言は黙っておこう、うん。

「お先に失礼します」

 着替え終えた私は、岬ちゃんにそう声をかけて更衣室を出た。

 そのまま駅へ向かいながら、さっきの岬ちゃんの言葉を思い出す。

 “しっかりした年上の女性”か。

 岬ちゃんの中では、私はそんな風に映っているのだろうか。

 もしそうだとしたら、それはそれで悪い気はしない。

 ホームに滑り込んできた電車に乗って、一息ついたところでスマホを鞄から出すと、LINEのメッセージが届いていた。

【お疲れ~!法人部の新人くんはどうだった?】

 送り主は同期の帆波だ。

 この前、うちの職場に研修で法人部の新人が来ることをSNSに書いたからそれを読んでメッセージをくれたんだろう。

【お疲れ~!新人くんはなかなかのイケメンだからスタッフさんも後輩もテンション上がってたよ(笑)】

【そっか。新人男性でイケメンなら職場のアイドルでしょ(笑)】

【うん、ホントそんな感じ。でも7つ下って若いよねぇ。年の差感じる】

【まぁね。でも法人部なら仲良くなっておけば誰か紹介してもらえるかもよ】

【いやいや、さすがにそれはないよ~。1週間しかいないんだし】

【でもさ、そういうところからきっかけつかまないと、出会いなくない?】

 確かに帆波の言う通りだとは思う。

 でもだからと言って、たった一週間しかいない、しかも七つも下の男性と親しくなろうという気には正直言ってなれない。

【私はまだおひとりさま満喫したいからいいや(笑)】

 それが私の本音だ。

 恋愛も結婚も、私は面倒くさいとしか思えない。

 まめに連絡を取り合って、オシャレにも気を遣って、時には駆け引きしたりして。

 それが恋愛の楽しさだと言われればそうなのかもしれないけれど、私にとっての楽しみは恋愛とは別のベクトルを向いている。

 恋をしたくないわけじゃないけど、自分から動いて恋がしたいわけでもない。

 それはただ逃げているだけだとわかっていても、行動に移す勇気がない。


 * * *


「おはようございます」

 夏の暑さも和らいできた九月の終り。

 いつものように制服に着替えて営業場へ行き、挨拶をした時。

「おはよう」

 挨拶を返してくれた清水さんの顔が、なんとなくいつもと違うような気がした。

 かすかだけど、目が腫れているような気がする。

 まるで、泣いたあとみたいな。

「清水さん、どうしたんですか?」

 思わずそう訊いてみたけれど、

「え、どうもしないよ?」

 清水さんはそう言っていつも通り明るい笑顔を浮かべた。

 私の気のせいかな。

 そう思ったけれど、その日の清水さんはやっぱりどこか様子がおかしかった。

 お客様に記入してもらう書類で不備を出してしまったり、アポの時間を間違えていたり、普段ならしないようなミスが続いていた。

 上期末の繁忙日とはいえ、いつもしっかりしている清水さんがこんなにミスをするなんて珍しい。

「清水さん、今日体調悪いのか?」

 課長も、心配そうな表情でそう言うほど。

「なんか、ちょっと疲れが溜まってるみたい。私ももう年かなぁ」

 あはは、と笑うその表情がやっぱり無理しているように見えた。

 きっと、いや絶対、清水さんには何かあったんだ。

 でも、それを必死に隠してる。無理してる。

「清水さん、今日予定ありますか?」

 業後、私は思い切って清水さんにそう声をかけた。

「ないよ」

「じゃあ、たまにはお茶して帰りません?」

「珍しいね、さとちゃんがそんなこと言うなんて」

「そうですね。なんか無性に清水さんとガールズトークしたくなっちゃって」

「あはは。そうなの? じゃあ、可愛い後輩のお誘いだし、行こうかな」

 そして、私と清水さんは仕事を終えると駅前にあるカフェに入った。

 私がミスして落ち込んだ時には決まって清水さんにこのカフェに連れてきてもらって愚痴をきいてもらっている。

 だから、今度は私の番だ。

「さとちゃん、ありがとね」

「え?」

「朝からずっと、私のこと心配してくれてたでしょ? なんか情けないよねぇ。仕事に私情は挟まないって社会人の鉄則なのに」

 声は明るいトーンのままだけれど、清水さんの視線は注文したカフェラテに向けられていて、うつむいたままで。

「ホント、ダメだなぁ……。漣のことが絡むとこんなにボロボロになるなんて……」

 そう続けた声は震えていて、涙を堪えているのがわかった。

「漣さんと、何かあったんですか?」

 私の質問に清水さんは言うのを躊躇していたけれど、少しの沈黙の後、意を決したように顔を上げて言った。

「漣、浮気してるかもしれないの」

「――え?でも、つい先月まであんなにラブラブだったのに」

 この一ヶ月の間にいったい何があったんだろう。

「この前仕事が休みの日に電話した時にね、知らない女の人の声が聞こえて、誰?って聞いたら職場の後輩って言われたんだけど。なんかそれだけじゃない気がして。もしかしたらって。ただ、それだけなんだけど、不安になっちゃって」

 確かに、それだけと言われてみれば、それだけだ。

 電話した時にたまたま職場の女性と一緒にいた。

 それはとてもありふれた出来事で、それだけではもちろん浮気とは言えないと思う。

 だけどきっと、すぐに自分の目で確かめられる距離にいないからこそ、それだけのことでも不安になってしまうのかもしれない。

「“愛があれば距離なんて関係ない” なんて、ただの綺麗事だよね。ホントはすぐ会えない分、ちょっとしたことでもすぐ不安になるし、嫉妬しちゃう。遠距離になる時に覚悟してたはずなのに、心狭いよね、私」

 そう言って自嘲気味に笑う清水さん。

 彼女がこんなに落ち込んでいるところを初めて見た。

 いつも気さくで明るくてみんなの人気者で、仕事も恋愛も順調な憧れの先輩。

 だけど、清水さんだって本当は笑顔の裏でたくさん悩んで苦しんでいるんだ。

 そんな当たり前のことに、今さら気がついた。

「何かあったら、いつでも遠慮しないで話して下さいね」

 ありきたりな励ましの言葉しか出てこなくて、申し訳ないけれど。

 でも、私は本気で清水さんの力になりたいと思っているんだ。

 異動したばかりの時から丁寧に仕事を教えてくれて、ミスしても明るく笑い飛ばしてフォローしてくれる。

 そんな清水さんのことが、私は仕事の先輩としてもひとりの人としても、大好きだから。

「さとちゃん、なんていい子なの! お嫁さんにしたい!」

「え? 漣さんはどうするんですか!?」

「あんなヤツ、もう知らん!」

「えぇっ!?」

「な~んてね」

 可愛らしくそう言った清水さんは、いつもの明るい笑顔に戻っていた。

 
* * *


「おはようございます!」

 翌朝、営業場に清水さんの元気な声が響いた。

 「清水は朝から元気だな」

 「可愛い後輩のお陰です」

 課長の言葉に、清水さんがそう言って私に目配せした。

 “可愛い後輩のお陰です”

 その一言がじんわり心に広がっていく。

「今日も一日頑張ろうね!」

「はい!」

 清水さんの言葉に、私は笑顔で頷いて準備を始めた。


#独身上司ですけど、なにか?



 十月最初の週末、私は都内のある場所へと向かっていた。

 少しずつ秋の気配が深まり、時折吹く風が金木犀の甘い香りを運んでくる。

 見上げた空もいつの間にか秋らしく青く高く澄んでいて、最高のお出かけ日和だ。

 地図を頼りに辿り着いたのは、大通りから外れた道にある小さな三階建のビル。

 入口には“ライブハウス Sound A”という看板が立っている。

 そして地下へと続く階段があり、壁には今日のイベントである【Neo Moon Cover Festival】というポスターが貼られている。

 階段を下りてフロアに足を踏み入れると、そこは思っていたよりも広い空間だった。

 そして予想以上にたくさんの人が集まっている。

 思い切ってステージ前方に場所を取り、鞄からスマホを取り出す。

【今フロアにいるよ。頑張れ~!】

 LINEのメッセージを送ると、すぐに返信が来た。

【来てくれてありがとう!頑張ります】

 頑張れ、と心の中でもう一度エールを送ってスマホを鞄にしまうと、ちょうど開演時間になったようで、フロア内が暗転した。

 拍手が響く中、ステージに現れたバンドのメンバー達。

 それぞれが定位置に着いて、演奏のスタンバイを始める。

 その中には、少し緊張した表情でキーボードの前に立つ同期の帆波がいる。

 そう、今日は同期の帆波が趣味で組んでいるバンドのライブを観に来たんだ。

 しかも私が大好きなNeo Moonの楽曲をコピーして演奏するイベントで、他に出演するバンドもみんなNeo Moonの楽曲のみ演奏するライブだ。

 演奏が始まった瞬間に感じる体中に響く重低音と会場の熱気。

 そしてステージの上では、キーボードを弾き始めた瞬間にキラキラという表現がピッタリの帆波の楽しそうな笑顔と他メンバーの楽しそうな笑顔。

 やっぱり人は本当に好きなことをしている瞬間が一番輝いていると思う。

 帆波は大学時代からバンドサークルに所属し、キーボードを弾いていた。

 社会人になってから、最初は仕事を覚えるのに必死で時間的にも精神的にもバンドをやる余裕はなかった。

 でも、仕事に慣れて来た三年目頃から少し余裕ができて、またバンドを組みたいと思ってSNSの掲示板で知り合った人達とバンドを始めたという。

 メンバーもそれぞれ社会人で家庭もあってなかなか練習の時間を取るのは難しいけれど、それでもみんなで集まって練習をして飲み会をするのは本当に楽しいと前に帆波が話してくれた。

 ライブはたとえ短い時間であっても、今日このステージのために何ヶ月もメンバーと練習をして音を重ね、本番のステージで全てを出し切る。

 それはまるで学生時代の部活動青春みたいで、バンドって生涯青春の象徴みたいだな、とふと思った。

 趣味を通じて出会った仲間と、大人になってもこうして無邪気に楽しめる場所がある。それはきっと、とても幸せで素敵なことだ。

「里花、来てくれてありがとう!」

 ライブ終了後、無事に本番を終えた帆波が客席フロアの方へ顔を出してくれた。

「お疲れ様。すごく良かったよ~」

「ホント!? ありがとう」

「その衣装もよく似合ってるね」

「ありがとう。ちょっと奮発しちゃった」

 照れたように帆波が言った。

 黒を基調にした少しゴスロリチックなワンピースは、Neo Moonのメンバーの衣装の雰囲気にも合っている。

「今日のライブすごく盛り上がったね。やっぱバンドっていいよねぇ」

 しみじみとつぶやいた帆波の表情は、本当に充実していて楽しそうだ。

「私も観ててすごく楽しかった。また誘ってね」

「うん、もちろん! ぜひまた観に来てね」

「このあとメンバーで打ち上げでしょ? 楽しんでね」

 「ありがとう。里花はもう帰る?」

 「うん。一人で来てるし、家までちょっと遠いからね」

「そうだね。今日はホントありがとう!また月曜から仕事頑張ろうね」

「うん、じゃあまたね」

 少し名残惜しい気持ちを抱えながら、私は出口へと向かった。

 外に出るともう真っ暗で、吹いてくる夜風は肌寒い。

 だけど、心の中は温かい気持ちでいっぱいだった。


 * * *


「臨時夕礼を行います」

 週明け月曜日の業後、部長がみんなに声をかけた。

 手元の作業を止めて、みんな部長の周りに集まる。

「本日付で異動がありますので、発表します」

 その言葉を聞いた瞬間、空気が変わった。

 緊張感が漂う中、部長が言葉を続けた。

「岸田課長が海南支店へ異動になります。後任は黒岩支店課長代理の滝下さんです」

 一斉に岸田課長に視線が向けられる。

 本人は、以前から「そろそろ異動だ」と口にしていたから、特に驚いた様子もない。

 他のメンバーも、異動という言葉を聞いた時点で“もしかしたら…”と予想していたらしく、“やっぱりね” という気持ちが言葉にしなくても雰囲気で伝わってきた。

「引き継ぎは明日からになります。まず明日からは岸田課長が引き継ぎをするので不在になります。滝下さんは来週月曜から引き継ぎをして、週末に正式着任となります。以上です。お疲れ様でした」

「お疲れ様でした」

 後任の滝下さんって、どんな人なんだろう?なんて考えていると、

「……らしいですよ~」

 岬ちゃんが何か言っているのが聞こえた。

「へぇ~そうなんだ!?」

 隣で浜中さんも驚いたような声をあげている。
 
「え、なに?」

 話についていけず訊き返すと、「後任の滝下さんって、三十代らしいんですよ~」と岬ちゃんが教えてくれた。

 三十代ということは、少なくともこの職場では一番若い男性だ。

 それで課長として着任ということは、仕事が出来る人ということだろう。

「もし独身のイケメン男性だったらヤバいですよねぇ~。支店内のモテ男子決定じゃないですか? 競争率高いんだろうなぁ~」

 岬ちゃんが瞳を輝かせてひとりではしゃいでいる。

 課長代理の三十代男性という情報だけで、そこまで妄想できるってすごいよ。

「漫画や小説じゃないんだから、そんなことあるわけないでしょ」

 と冷静に突っ込みを入れると、

「山崎さんはそんなクールだからおひとりさまなんですよ」

 という一言で倍返しされてしまった。

 余計なお世話だよ、岬ちゃん。


 * * *


「今日からお世話になります、滝下です。よろしくお願いします」

 翌週金曜日の朝、朝礼で岸田課長の後任として正式に着任になった滝下さんが挨拶をした。

 男性としてはやや低めの身長に、細身の体。

 多くの女性陣が期待していたルックスは、可もなく不可もなく、十人並み。

 強いて言えば、穏やかで優しそうな顔立ち。

第一印象は真面目で大人しそうな草食系男子というところだろうか。

残念ながら、岬ちゃんが言っていたようなイケメン男性ではない。

やっぱり現実はそんなに甘くはないのだ。


* * *


「お疲れ様です。それでは、乾杯!」

「乾杯!」

みんなで声をそろえてグラスを合わせた。

現在午後六時。

少し早めに仕事を切り上げて、駅のすぐそばにある居酒屋で滝下課長の歓迎会が始まった。

「えぇ!? マジですか!?」

歓談を始めて一時間近く経った頃。

いつの間にか滝下課長の隣に座っている岬ちゃんが、大きな声をあげてみんなの注目を集めた。

「なになに、どうしたの?」

スタッフの石田さんが興味津々に尋ねると、

「聞いて下さいよ! 滝下課長って独身なんですって!」

岬ちゃんが再び大きな声で言った。

「滝下さんっておいくつなんですか?」

「今年三十九です」

「あらぁ、じゃあそろそろお嫁さんもらわないと。ここには可愛くていい子がたくさんいますから~」

石田さんはお酒のせいかハイテンションでそんなことを言っている。

「そうそう、たとえば山崎さんとか」

「……えっ!?」

 突然私の名前を出されて、思わず視線を向けると岬ちゃんが意味ありげに笑っている。

 三十九ってことは、ちょうど十歳上か。

 年上派の私としては、ちょうどいい年齢差なんだけどなぁ。

 って、いやいや何考えてるんだ、私!

「へぇ~。山崎さんは、彼氏いるの?」

 滝下課長に訊かれて、一瞬答えに戸惑う。

「……いない、です」

 っていうか、私の人生今まで一度も彼氏なんていたことないんだけど。

 でもそれはトップシークレットだ。

「しっかりしてて気が利くいい子なのにもったいないよねぇ~。滝下さんもお付き合いされてる方がいないならぜひ!」

 なぜか石田さんが思い切り私を推薦してくれている。

「そうですね~。でも僕が良くても山崎さんはアラフォーのオッサンじゃ嫌でしょ」

「……」

 少し照れたような笑顔でそう言った滝下課長の言葉に、何て返したらいいかわからなかった。

 飲みの席でのただの冗談で、本気で言ってるわけじゃない。

 だから、顔が熱くて鼓動が速くなっているのは……きっとお酒のせいだ。


 それから数週間が過ぎ、季節がすっかり秋へと変わった十月の終わり。

「エリア勉強会行ってきます。お先に失礼します」

「おう。今日はエリア長に攻撃されないといいな」

 井波課長に声をかけると、冗談でそう言ってくれて、思わず笑ってしまう。

「今日は大丈夫ですよ、きっと」

 勉強会をしてくれるようになってから、美浜台支店の業績は順調だから。

「今日はエリア長ギャフンと言わせてやります!」

 気合いたっぷりにそう言った清水さんと一緒に電車に乗った。

 まだ帰宅ラッシュ前の電車内は人が少なく静かだ。

 いつもの癖でスマホをチェックすると、どうでもいいメルマガしか来ていなかった。

 なんだかなぁ…なんて思っていると、「あのね、さとちゃんに話しておきたいことあるんだけど」と、突然清水さんが話を切り出した。

「え?」

 珍しくちょっと改まった清水さんの口調に、顔を上げる。

 話しておきたいことってなんだろう?

 私、仕事で何かやらかした?

「さとちゃん、今良くないこと考えたでしょ?」

 からかうように笑いながら清水さんに言われて思わず「はい」と頷くと、「いい話だから安心して」と今度は優しい笑顔で言ってくれた。

「実はね、私……」

 清水さんはいったんそこで言葉を切って。

「……結婚するんだ」

 少しの沈黙の後、意を決したように言った。

 へぇ、結婚するんだ。マジッすか。マリッジすか。

 …………って、

「えぇ!?」

 静かな車内に私の驚きの声が響き渡り、周りの人達が一瞬こちらに視線を向けた。

 慌てて “すみません” の気持を込めて軽く会釈する。

「さとちゃん、驚きすぎ」

「だって結婚するって、漣さんとですよね?」

「もちろん」

「でも浮気してるかもって前に……」

「あれは私の誤解だったの」

「誤解?」

「そう。漣、来年の春に東京に戻ることが決まったんだって。だから、私との結婚を考えてくれて婚約指輪を買おうと思って、去年結婚した職場の後輩に相談してたらしいの」

 そっか。その時にタイミング悪く清水さんが電話してしまったんだ。

 この前の様子だと、もしかしたら悪い結果になってしまうんじゃないかなって私もすごく心配だったけど、誤解が解けて本当に良かった。

「おめでとうございます!」

 異動してからずっとお世話になってきた先輩が結婚するんだ。

 羨ましい、というよりは、純粋に私も本当に嬉しい。

「ありがとう。実は、このこと話したの、職場ではさとちゃんが最初なの。もう少ししたら支店長と課長に言うつもりだから」

「そうなんですか?」

「うん。だから、まだみんなにはナイショね」

 そう言って唇に人差し指を当てた清水さんの笑顔は本当に幸せそうで。

 そんな幸せな報告を最初に私にしてくれたことが、とても嬉しかった。

 ハッピーな気持ちのまま、いつも通り勉強会の会場となる海南支店へ向かう。

 会議室で配られた資料には、相変わらず数字大好きなエリア長が作ったと思われる支店別業績表。

 でも、ボロボロに言われた前回と明らかに違うのは、我が美浜台支店の業績。

 最下位だった順位は、見事三位まで浮上している。

「美浜台支店は最近成約数もかなり上がってますね。ぜひこの調子で頑張って下さい」

 案の定、エリア長は上機嫌な笑顔でそう口にした。

 この手のひらの返しぶりはなんなんだろう。

「店として営業している意味がない」とまで言っていたくせに。

「“頑張って下さい” じゃなくてギャフンって言えっての」

 隣で清水さんが小さくそうつぶやいて、思わずふたりで笑ってしまった。

 でも、“美浜台支店は業績が悪い” っていうイメージはこれで払拭できたと思う。


#おひとりさまですけど、なにか?



 十二月に入ると急激に忙しさが増して、余計なことなんて考える余裕がなくなった。

 店頭も毎日混み合っているし、私も年内に手続きを済ませたいというお客様のアポが連日立て込んでいて、毎日クタクタだ。

「中山様、お待たせいたしました」

 急いで準備した資料を持ってお客様を相談ブースに案内する。

 今日のお客様…中山さんは、五十代の男性。

 先週窓口で定期預金の預け入れに来店したところを、資産運用にも興味があるということで、窓口担当者から紹介してもらってアポイントに漕ぎつけた新規のお客様だ。

「前回地区担当のご挨拶をさせて頂いた山崎と申します。よろしくお願いします」

「ああ、よろしく」

「早速ですが、中山様は運用にもご興味がおありとのことですよね。すでにご経験されている運用商品はございますか?」

「ああ、前に投資信託を少しね。不景気でしばらく定期預金のみにしていたんだけど、最近NISAも話題になっているし、また始めてみようかなと思って」

「かしこまりました。それでは、ファンドのご紹介をさせて頂きますね」

 それから、用意していたパンフレットを見せながら商品の説明をして、投信購入が決まった。

「それじゃ、またよろしく」

「はい。ありがとうございました」

 一通りの手続きを終え、ほっと一安心。

 話してみるとちょっと細かい感じのお客様だったけど、投信成約ができて良かった。

 時計を見ると、十二時をちょっと過ぎたところ。

 今日はもうアポはないし、切りがいいからお昼休憩に行っちゃおうかな。

「投信購入お願いします」

 事務担当の石田さんに書類を渡して私は食堂へ向かった。

 今日のメニューであるカレーライスを食べていると、食堂に置いてある電話が鳴った。

 近くにいた浜中さんが出てくれたけど、私の方に視線を向けている。

 もしかして、私?

「山崎さん、滝下課長から」

 課長から? どうしたんだろう。

 なんとなくイヤな予感がする。

「はい、山崎です」

『食事中に悪いけど、すぐ来てくれる?
投信不備だから』

 「え!?」

 一番聞きたくない言葉を聞いて、思わず大きな声を出してしまった。

 慌てて営業場へ戻ると、穏やかな滝下課長が珍しく厳しい表情をしている。

「山崎さん、書類ちゃんと確認してるよね?」

「え? はい」

 石田さんにお願いする前に自分でも確認したけど、記入漏れも印鑑の押し忘れもなかったはずだ。

「これ、決済口座の番号が違うって」

「え!?」

「中山さん、ふたつ口座があって投信の決済で使ってるのはもう一つの方だった」

 照会一覧を見せてもらいながら言われた言葉に、ハッとした。

 確かに私は決済口座の確認を忘れてしまっていた。

 いつもは必ず確認しているのに、今日に限って。

「幸い石田さんが注文書のデータをセンターに送信する前に気づいてくれたからミスにはならずに済んだけど、受け付けした時点でよく確認するべきだよね」

「はい。申し訳ありませんでした」

 滝下課長の言う通りだ。

 口座番号の確認は基本中の基本なのに……。

「とりあえず、すぐにお客様に連絡して訂正印もらわないと」

「はい」

 でも今は落ち込んでる場合じゃない。

 営業時間内に手続きできなければ、もっと大変なことになる。

 急いで電話をして、連絡がついたものの―

「銀行員が口座番号を間違えるなんてありえないだろう。もっとしっかりしてくれないと困るよ!」

「大変申し訳ございませんでした」

 課長と一緒にひたすらお詫びの言葉を繰り返し、頭を下げる。

 結局、まだお店の近くにいた中山さんが引き返して下さってなんとか訂正印は頂けたものの、かなりお怒りになってしまい、今の状況に至る。

 完全に私の確認不足で私が悪いのだから、言い訳のしようがない。

「今度こんなことがあったら、おたくとはもう取引しないからな」

 厳しい一言を残し、中山さんはお店をあとにした。

「課長、ありがとうございました。申し訳ありませんでした」

 今度はお客様ではなく、課長に頭を下げる。

 ミスをするということは、お客様だけじゃなく、上司にも迷惑をかけてしまうということだ。

 そのことを改めて感じて、悔しさと情けなさと申し訳なさで涙が溢れそうになる。

「確かにお客様の言う通り、口座番号の確認は基本中の基本だからね。しっかり頼むよ」

「はい」

「食事途中だったんだろ? 今からでいいから行ってきな」

「ありがとうございます」

 課長の優しさにまた泣きそうになりながら、私は再び食堂へ向かった。

「あれ、さとちゃんどうしたの?」

 食堂に戻ると、清水さんが驚いたような表情を浮かべて私に言った。

「ちょっと、不備出して呼び出されちゃいました」

 泣きそうなのを必死にこらえて、わざと明るく言ったものの。

「え、大丈夫?」

 清水さんの心配そうな優しい口調に、ふっと張りつめていた気持ちが緩んで、涙が溢れてしまった。

 ミスして泣くなんて、ここ何年もなかったのに。

 こんな基本的なミスをするなんて、本当に悔しい。

「気にしなくていいから、泣いちゃえ泣いちゃえ」

 優しく慰めるように言ってくれる清水さんの言葉に甘えて、私は久しぶりに職場で涙を流した。


 * * * 


 毎日が飛ぶように過ぎていく中、クリスマスを目前に控えた金曜日。

「それでは、今年もあと十日、みんなで乗り切って行きましょう! 乾杯!」

「乾杯!」

 課長の言葉に続いて、みんながグラスを合わせた。

 今日は、美浜台支店恒例のクリスマス会兼忘年会。

 毎年十二月に行っている飲み会で、今年も忙しい中みんなでなんとか仕事を早く切り上げて集まった。

「山崎さん、お疲れ」

「お疲れ様です」

 適当に座った席順で、偶然隣同士になった船堂さんに声をかけられた。

「なんか一年早いよなぁ」

「そうですね」

 ついこの前、年が明けたばかりだと思っていたのに、もう今年も終わろうとしている。

「山崎さんはクリスマス予定あるの?」

「え?」

 いきなりそんなこと訊かれても困るんですけど。

「ないですよ、予定なんて」

 イブもクリスマスも平日だし、どうせ今年も仕事に追われて終わるんだろうな。

「へぇ。じゃあ、俺とデートする?」

「………はい?」

 なに? なんでそんな話になるの?

「冗談やめて下さい!」

「あ、バレた?」

「ホントに冗談だったんですか!」

「いや~山崎さん素直すぎて面白い」

 そう言って笑いだす船堂さん。失礼だと思うんですけど!

「はい、皆さんここで清水さんから重大発表がありま~す!」

 会が始まって三十分が過ぎた頃、隣のテーブルで清水さんの向かい側の席にいた支店長が言った。

「え、なになに!?」

「重大発表!?」

 もったいぶった言い方に、みんなが騒ぎ始める。

 みんなの注目を集めて、清水さんは恥ずかしそうにしながらもどこか嬉しそうな笑顔を浮かべている。

「ホントにここで発表するんですか?」

 照れたように支店長にそう言いながら、照れ隠しで口元に当てた左手の薬指にはさりげなく指輪が光っている。

 ああ、重大発表ってあのことか。

 事前に直接話を聞いていた私は、なんのことかすぐにわかった。

「私、この度、結婚することになりました!」

 清水さんがそう言うと、みんなから「おお~!」という歓声と拍手が起きた。

「おめでとう~!」

 みんなに祝福されて、幸せいっぱいの笑顔で「ありがとうございます」と返す清水さん。

「そっか、清水もついに結婚かぁ~めでたいな~」

 隣でしみじみつぶやいている船堂さんは完全にオヤジ化している。

「お相手はもちろん大阪にいる彼氏でしょ?」

「もう入籍したの?」

「結婚式はいつ?」

「えっと…相手は皆さんご存知の遠恋中の人で、入籍は…クリスマスイブにします。結婚式は来年の夏に身内だけでする予定です」

 みんなから次々飛び出す質問にも、清水さんはひとつひとつきちんと答えている。

 なんだか芸能人の結婚記者会見みたいだ。

 そのあとは清水さんの結婚話で盛り上がって、お開きになった。


 * * *


 クリスマスまであと数日に迫った週末。

 私は自宅でのんびり過ごしているんだけど、最近、海輝の様子が変だ。

 わりとまめに更新していたSNSが全く更新されていない。

 私が更新すると必ずコメントをくれていたのに、それもない。

 どうしたんだろう?と思っていた矢先、仕事帰りに海輝からLINEのメッセージが届いた。

【話したいことがあるんだけど、今週の日曜日空いてる?】

【空いてるよ】

【じゃあ、午後一時にいつものお店で】

 そして、約束の日曜日。

 待ち合わせ時間より少し早めに着いた私は、海輝との女子会で必ず入る喫茶店に入って、海輝が来るのを待っていた。

「お待たせ」

 少しして、海輝が笑顔でそう言って私の向かいの席に座った。

 でも、心なしか前に会った時より痩せている。

 目も、まるで泣きはらしたように腫れている。

「どうしたの?」

 そう訊かずにはいられなかった。

 話したいことがあると言っていたからには、何かあったことは間違いない。

「……とりあえず、何か頼もうよ」

 海輝は私の質問には答えずにそう言って、メニューを開き始めた。

 すぐに話すこともためらうくらい、大きな出来事なのだろうか。

 注文を終えると、海輝はお冷を一口飲んで、ぽつりとつぶやくように言った。

「彼氏と別れちゃった」

「え?」

 思わず聞き返すと、海輝はうつむいたまま続けた。

「なんか、私の方が勘違いしてたみたい」

「勘違い?」

「うん。私は彼氏彼女としてつきあってるつもりでいたけど、彼にとってはただの気の合う友達って感じだったみたいで……」

「やっぱり今は仕事の方優先にしたいって、フラれちゃった」

 海輝はそう言って自嘲気味に笑ったけれど、その笑顔は歪んでいて痛々しかった。

「……そっか……」

 なんて言葉を返したらいいのかわからなくて、そう相槌を打つのが精いっぱいだった。

「それで最近ご飯もあまり食べられなくてさ」

 ああ、やっぱり痩せたように見えたのは気のせいじゃなかったんだ。

「失恋のショックでご飯食べられないなんて、自分が情けないけど……」

 言いながら、海輝の瞳が潤んでいる。

 親友の苦しんでいる姿に、私まで胸が苦しくなって泣きそうになる。

 今の私にできることは、少しでもこの悲しみを癒すことだ。

「よしっ! じゃあ、今日は久々にカラオケでもしてパ~っと遊ぼう!!」

 私がわざと明るく言うと、海輝はまだぎこちなさの残る笑顔で「うん」と頷いた。

 食事を終えて外に出ると、十二月の冷たい風が身に沁みた。

「よ~し! 歌いまくるぞ~!」

 カラオケ店の部屋に入るなり、そう言ってどんどん曲を入れて、歌いまくる海輝。

「あ~クリスマスも年末年始もおひとりさまかよ~!!」

 お酒も入ってハイテンションになった海輝が、マイクで叫んだ。

「あたしもおひとりさまだよこのやろ~!!」

 負けじと私もマイクで叫ぶ。

「え、里花は例の課長といい感じなんじゃないの?」

「ないない、全然ない!」

 ドラマや小説なら、岬ちゃんが言っていたようにイケメン上司が異動してきて、いい感じになって甘々な出来事が起こるのかもしれないけど。

 生憎、私にはそんな展開全くなかった。

「だから、これからもおひとりさま同士女子会しよう!」

 私がそう言うと、海輝が「うん、そうしよう!!」と、力強く賛成してくれた。

「あ、メッセージ来てる」

 ふとテーブルに置いてあるスマホに視線を向けると、帆波からLINEのメッセージが届いていた。

【Neo Moonのアリーナツアーのチケ当たったよ~!!】

「うそ、マジで!?」

「なになに、どうしたの!?」

「Neo Moonのライブのチケ、取れたって!」

「ホントに!? じゃあお祝いに乾杯しようよ!」

 そう言って海輝がビールを頼んだ。

「ねぇ、里花」

「ん?」

「夢中になれるものがあったり、なんでも話せる親友がいればさ、おひとりさまも悪くないよね」

「……でしょ?」

 だから私は胸を張って言いたい。

「おひとりさまですけど、なにか?」って。



【第2話】


#乙ゲ好きですけど、なにか?



汐織(しおり)、好きだよ」

「私も、拓海(たくみ)くんのこと…」

 言いかけたところで、拓海くんの指が私の唇に触れた。

『そこから先は言わないで』と瞳が言っている。

 どうして?

 どうして言わせてくれないの?

 私だって拓海君のこと、大好きなのに―

 ―――ピピピピ

 突然、静寂を破って電子音が鳴り響いた。

「なんだ夢かぁ……」

 電子音の正体は、枕元に置いてあるスマホのアラーム音。

「いいところだったのになぁ……」

 思わずそうつぶやきながら停止ボタンをタップした。

 ホーム画面には、さっきまで夢に見ていた拓海くんの画像。

 昨日の夜も寝る前につい夢中でゲームをやってしまったから、あんな夢を見たのかな。

 それにしてもさっきの拓海くん、カッコ良かったな……。

 なんて、夢の余韻に浸ってる場合じゃない。

 今日は朝一番でお客さんのアポが入っているから、一本早い電車に乗って準備しなくちゃいけない。

 慌てて支度をして、なんとか予定通り一本早い電車に間に合いそう。

 ホームに到着した電車は、通勤ラッシュの時間帯にもかかわらず空いている。

 下り方面の電車だから毎朝座れるというところだけは今の支店に配属になって良かったなと思う。

 座って落ち着いたところでスマホを取り出して、アプリを起動させる。

 今私が最もハマっているゲーム『ときめきデイズ』。

 六人のイケメンと恋愛をする恋愛シミュレーションゲーム。

 最近よくCMでも流れている乙女ゲームだ。

 私は登場する六人のキャラクターの中で岩崎 拓海くんというキャラがお気に入り。

 今はエンディングで拓海君に告白されるために頑張っているところだ。

 とにかく時間さえあればすぐにゲームをしている私だけど、こんなに乙女ゲームにハマっているのには理由がある。

 両親が小さい頃から教育熱心だったから、小学校から私立の学校に通っていて、中学から女子校だったこともあって、今まで恋愛をしたことがないから。

 なんて、周りの人には絶対に言えない秘密。

 だけど、今日も私はゲームの中の拓海くんに恋をしている。



#フツメンですけど、なにか?


水原(みずはら)さん、教育資金贈与口座の成約取れたんだって?」

 自分の席で記入書類の点検をしていると、誰かに声をかけられた。

 顔を上げると、目の前にはイケメン……じゃなくてフツメンのスーツ姿の男性。

船堂(せんどう)さん、いたんですか?」

「いちゃ悪いのかよ」

「いや、そういうことじゃなくて」

 フィナンシャルコンサルタントである船堂さんは、業務時間中は外訪していることが多くて、店内にいることはほとんどない。

 今もてっきり外訪中でいないと思っていたから、いきなり声をかけられて驚いただけだ。

「一千万の大口契約、なかなかやるじゃん」

「ありがとうございます」

 かなり上から目線発言な気がするけど、きっと誉められているのだろうと前向きに受け止めることにして、とりあえずお礼を返す。

「まぁ、川村さんは昔から取引深淵先で有名だからね。優しいし、契約しやすいよね」

「……そうですか」

 なんか今の発言、棘がある気がする。

「でも、俺らの地区はこれで今月の目標百パーセント達成だな」

「そうですね」

 私と船堂さんは同じ地区である美浜台一丁目を担当している。

 営業担当として外訪中心に契約を取るフィナンシャルコンサルタントと、来店誘致をして支店で接客をして契約を取るマネーライフアドバイザーは、ペアになって同じ地区を担当することになっている。

 いわゆる営業担当の私達は毎月収益目標があり、何パーセント達成したか担当者ごとに数字を出されてしまうのだ。

 数字で自分の価値が評価される。

 それは正直なところ精神的にとても大きなプレッシャーだ。

 だけど、目標を達成出来た時は嬉しいし、何よりお客様に喜んでもらえた時には自分でも誰かの役に立てているんだと実感できる。

 生きる上で必要不可欠なお金の相談に乗りアドバイスをするということは、とても責任の重い仕事だけれど、その分やりがいもあると思う。

「先月の目標達成者は船堂さん、清水さん、水原さんでした。船堂さんは目標百二十パーセント達成でエリア内でも一位です」

 業後の支店会議で、井波課長が手元の資料を見ながら発表した。

「達成した三名にはプレゼントがあるので、前にどうぞ」

 課長に促されて前に出ると、支店長からひとりずつ順番に白波銀行のデザインが施されている小さな封筒が手渡された。

 封筒を開けると、中に入っていたのは数千円分の商品券。

 モチベーションをあげるための、ささやかなご褒美だ。

「水原さん、目標達成おめでとう!良かったね」

 会議終了後、山崎さんが笑顔で声をかけてくれた。

「ありがとうございます」

 ひとりで今の地区を担当するようになってから、目標を達成したのは実は今回が初めてだったりする。

「それにしても船堂さん、エリアでも収益トップなんてすごいよね~。これで長身イケメンだったらなぁ」

 と山崎さんがさも残念そうにつぶやいたその時、

「俺がなんだって?」

 後ろから船堂さんの声が聞こえた。

「「なんでもないです!」」

 私と山崎さんの声が見事にキレイにハモッた瞬間、ふたりで思わず顔を見合わせて笑ってしまった。

「なんなんだよ、ふたりして。さては俺の悪口言ってただろ?」

「言ってないですよ」

 そう、決して悪口ではない。

 山崎さんはただ、願望を口にしただけだ。

「ふ~ん。ならいいけど」

 まだ少し疑いの眼差しを向けながらも、船堂さんは自分の席へと戻って行った。

「さ、今日はこのあと新年会だから早く仕事片付けよう!」

「はい!」

 山崎さんの言葉に頷いて、私は残っていた仕事に取りかかった。

 今日は支店全体で行う毎年恒例の新年会がある。

 要するにただの飲み会なのだけど、支店全体の結束をより強くする大事なイベントだ。

「それでは、支店表彰を目指して美浜台支店一丸となって今期も頑張りましょう!乾杯!」

「乾杯!」

 支店長の挨拶で、新年会が始まった。

 支店から徒歩約十分のところにあるホテルの宴会場を貸し切りにして行うビュッフェ形式の立食パーティースタイル。

 乾杯が終わると、みんなが一斉に料理を取りに中央のテーブルへ集まる。

 お寿司、パスタ、サラダ、ケーキ。

 とりあえず少しずつお皿に乗せて最初に乾杯したテーブルへ戻る。

「美味しい!」

 さすがホテルの宴会場で出す料理だけあって、しっかりした味付けだ。

 仕事で疲れてお腹が空いていたから、どんどん食べたくなる。

「相変わらず色気より食い気だな、水原さんは」

 ひとり黙々と料理を食べていたら、後ろから声をかけられた。

「船堂さん、“相変わらず”は余計なんですけど」

「いや、ホントのことだろ」

 私の場合、色気より食い気より乙ゲーなんですけどね~とはさすがに言えないけど。

「早く食い気より色気になれるように頑張れよ」

「なんですか、その絶対彼氏いないだろ発言」

「え、もしかしているのか?」

「もしかしなくてもいませんけど」

「やっぱりな」

「うわ、超失礼!」

「なんなら俺とつきあう?」

「え!?」

「なんてな」

 そうだよね、冗談だよね。

 今一瞬ドキッとした自分が恥ずかしい。

「今ちょっと本気にした?」

「どうみてもフツメンの船堂さんに言われても、ちっともときめきませんから~!」

「残念!」

「なにふたりで夫婦漫才してんの?」

 隣から、山崎さんの冷静な突っ込みが入った。

「「夫婦じゃない!」」

 綺麗に重なった声に、三人で顔を見合わせて笑い合う。

 なんだかんだで、美浜台支店のメンバーは仲が良い。

「このあと二次会でカラオケだって。汐織ちゃん、行く?」

「山崎さんは行くんですか?」

「うん、行くよ」

「じゃあ私も行きます」

 たまには思い切り歌ってスッキリしたいし。

「じゃあ俺も」

「船堂さんは来なくていいです」

「うわ、ひでぇ」

 と言いつつも、結局船堂さんも含めたメンバーでカラオケへ。

 ちなみに船堂さんは、支店長とデュエットなう。

 いつの間に覚えたのか、支店長が大好きな歌謡曲を熱唱している。

「汐織ちゃん、何歌う?」

 デンモクで曲を探しながら山崎さんが言う。

「山崎さん、お先にどうぞ」

「そう?じゃあお言葉に甘えて」

 山崎さんが早速曲を入れた。

 支店長と船堂さんの曲が終わり、山崎さんが選曲した歌は、彼女が大好きなNeo Moonの曲で私が知らないものだった。
 
「この曲、大好きなんだ」

 山崎さんが笑顔でそう言いながら歌い出した。

 画面を見つめて歌う山崎さんの表情は真剣そのもので、完全に歌の世界に入り込んでいるのがわかる。

 他の人達も、山崎さんの感情のこもった歌に自然と聴き入っていた。

「ありがとうございました」

曲が終わると、山崎さんは恥ずかしそうにマイクをテーブルに置いた。

「いい曲ですね」

初めて聴いた曲だけど、歌詞も曲も切なくて私も好きなタイプの曲だった。

「気に入ったなら公式動画に上がってるから聴いてみて」

「あ、じゃああとで検索してみます」

山崎さんとふたりで話していると、

「なにふたりで盛り上がってんだよ~」

突然私たちの間の席に船堂さんが割り込んできた。

「ちょ、船堂さん邪魔なんですけど」

「冷てぇな、しおりんは~」

あ~ダメだ、完全に酔っちゃってるよ、この人。

「ほら、おまえも歌えよ~」

「もう曲入れてますから!」

と言うと同時に、私が入れた曲のイントロが流れてきた。

「お、琴吹 愛歌キター!」

お酒のせいでヘンなテンションの船堂さんを無視して、私は十八番ソングを歌い始めた。

琴吹 愛歌ちゃんの『SECRET MOON』。

年間ランキング上位に入るほど大ヒットした曲だ。

 何度も聴いて何度も歌っている大好きな歌。

 完全に自分の世界に入り込んで歌い終えると、

「愛歌サイコー!しおりんサイコー!」

 船堂さんがはしゃいだ声を上げて拍手してきた。

 誰かこの酔っ払いなんとかして下さい!

 その後もみんなで盛り上がって一時間以上が過ぎた頃。

 支店長と船堂さんのマイク合戦が始まった。

 ふたりとも大のカラオケ好きで、歌い出すとマイクを離さなくなるタイプなんだ。

 しばらく私は歌えなさそうだな…と思いながら、スマホを出してアプリを起動。

 ちょっとだけ、ゲーム進めてよう。

 エンディングまであともう少しなんだよね。

「――なにしてんの?」

 突然横から声をかけられて顔を上げると、いつのまにか歌い終えた船堂さんが私のスマホを覗きこんでいた。

「な、なんでもないです!」

 反射的にスマホの画面をスリープ状態にする。

 今の、見られてなかったよね?

「ん? なんかあやしいな~」

「べつになにもないですって……あっ!」

 船堂さんが、私の手からスマホを取り上げた。

 ダメだ、バレる!

「“ときめきデイズ”?」

 ……あぁ、ついにこの時が来てしまったのね。

「あ、あの、なんか友達が最近このゲームにすごくハマってるらしくて、ちょっとどんな感じなのかな~って見てみたくて…」

 それでも往生際悪く、私はしどろもどろになりながら必死に言い訳をした。

「水原さん、必死過ぎ。別に俺何も言ってねぇじゃん」

 私の動揺ぶりを見て、船堂さんが笑い出した。

 墓穴掘ってどうする私!

「へぇ、でもそっか、水原さんはこういうのが好きなのか~」

 そう言いながら不敵な笑みを浮かべた船堂さん。

 よりにもよって船堂さんにバレるなんて、最悪。

「ちょっとお手洗い行ってきます」

 船堂さんからスマホを返してもらって、私は逃げるように部屋を出た。

 明日から船堂さんにネタにされたらイヤだな。

 やっぱり電車に乗るまで我慢すれば良かった。

 化粧室の鏡に映る自分の姿を見ながら、思わず大きなため息をひとつ。

 お酒のせいで明日には記憶がなくなることを願おう。

 軽く化粧直しをしてみんながいる部屋へ戻ろうとドアを開けると、誰かにぶつかりそうになった。

「すみませ……」

「水原さん?」

謝りかけたところで名前を呼ばれて顔を上げると、目の前にいたのは船堂さんだった。

無言のまま部屋に戻ろうとすると、

「ちょっと待って」

突然、腕を掴まれて引き留められた。

「なんですか?」

振り返った私に、「水原さんって、好きな男いるの?」突然船堂さんが尋ねた。

「え?」

それって、今ここで訊くこと?

っていうか、なんで船堂さんがそんなこと訊くの?

怪訝な表情になった私に、

「まさか、あのゲームの彼が好きとか?」

私の顔を覗き込むようにして、船堂さんが意地悪な笑みを浮かべて言った。

「……!」

「あれ、もしかして図星?」

船堂さん、酔うと急にSになるんだよね。

「ふ~ん。だから彼氏いないんだ?」

「そうですよ、どうせ彼氏いたことありませんよ!それがなにか!」

からかうように言われて、恥ずかしさでヤケになって思わず勢いでそう返すと、

「え、水原さんって今まで男いたことないんだ?」

驚いたように訊き返された。

 また墓穴掘った私、逝ってよし。

「じゃあ、俺がなろうか?」

「え?」

 なにになるの?ゲームのキャラに?いやいや、そんなわけないでしょうが!

 と動揺のあまりひとりで心の中でノリ突っ込みをしていると。

「――俺が初めての相手になろうか?」

 突然真剣な声で言われた言葉。

 ――は!? い、今、なんて?

 数秒考えて、熱くなる頬と速度を増していく鼓動。

「あれ? フツメンの俺にはときめかないんじゃなかったっけ?」

 船堂さんが意地悪な笑みを浮かべて言う。

「と、ときめいてません!!」

 急にヘンなこと言うからビックリしただけで、船堂さんにときめくとかありえません!

「俺はいつでも大歓迎だから、その気になったらどうぞ」

 その気になんてならないし!

「全力で遠慮します!」

 船堂さん、どうみても酔ってます、本当にありがとうございました!

「汐織ちゃん、遅かったね? 大丈夫?」

 部屋に戻ると、山崎さんに心配そうな表情で訊かれてしまった。

「大丈夫です」

「ホント? なんか顔赤いよ?」

「ちょっと、飲みすぎちゃったかも」

 あはは、と笑ってごまかしたけど、頭の中ではさっきの船堂さんの言葉がぐるぐる回っている。

 あれは酔った勢いで言った言葉なんだから、本気にしたらダメだ。

 どうせ明日になったら覚えてないんだから。

 そう自分に言い聞かせながら、二次会は終了した。



#仕事好きですけど、なにか?

 

 翌日から、船堂さんは何事もなかったかのように前と変わらない態度で私と接してくれている。

 ゲームのことでからかってくるだろうと覚悟していたのに、一切その話題にも触れない。

 やっぱりあれは酔っていたからで、本人も記憶にないんだろうなと思う。

 私としても忘れてくれていた方が好都合だから、何も言わず今まで通りに振る舞っている。

「今月から美浜台支店担当になりました舵浦(かじうら)です。よろしくお願いします」

 一月半ばを過ぎたある日、業後の勉強会に来てくれたのは、いつもの川瀬さんではなく舵浦さんという男性だった。

「舵浦?」

 男性が名乗った瞬間、一緒に勉強会に参加していた清水さんが信じられないと言う表情でつぶやいた。

「……清水?」

 舵浦さんも驚いたように清水さんを見ている。

「あれ、もしかしてお二人って知り合いですか?」

 山崎さんがそう尋ねると、

「新人の時に同じ支店だったの」

 清水さんが答えた。

「それはすごい偶然だね」

 うん、ホントにすごい偶然。

 世界は狭いんだな。

「いつの間に異動してたの?」

「ああ、今年の春から海南エリアに異動になったんだよ」

「そうなんだ? 言ってくれれば良かったのに」

「まさか清水が美浜台支店にいるなんて知らなかったから」

 ひとしきりふたりが盛り上がったあと、保険の勉強会が始まった。

「今日はありがとうございました」

 勉強会終了後、片付けをしている舵浦さんに声をかけると、

「こちらこそ、ありがとうございました。何か聞きたいことがあったらいつでも連絡して下さい」

 そう言いながら名刺を渡されて、私も慌てて自分の名刺を渡した。

「汐織さんって、素敵な名前ですね」

「え、あ、ありがとうございます」

 名前を褒められることなんて滅多にないから、嬉しいけど恥ずかしい。

「ちょっと、舵浦!仕事中にナンパしないでよ~」

 後ろから聞こえて来た言葉に振り返ると清水さんが立っていて、いつの間にか会議室には私と清水さんと舵浦さん、三人だけになっていた。

「別にナンパじゃないって」

「どうだか。可愛い後輩に手出したら許さないからね」

 そう言いながら私の前に立って、まるで私を守るように舵浦さんの前に立つ清水さん。

 ふたりのやり取りが面白くて、思わず笑ってしまう。

 そう言えば、さっきふたりは新人時代の同期って言ってたっけ。

 だからこんな風に気さくに話せるんだ。

「おふたりって、新人時代の同期なんですよね」

「うん、そうだよ。それから、漣もね」

 ちょっと恥ずかしそうに清水さんがつけたした。

 そっか、旦那さんも新人時代の同期だったんだ。

「清水さんって新人の頃どんな感じだったんですか?」

「え、ちょっと、それ訊いちゃう!?」

「清水はこんな感じでいつもうるさかったな」

「舵浦、うるさいとか言うな!そこはせめていつも元気って言ってよ!」

「でも、漣の前では人が変わったみたいにおとなしくなってたけど」

「へぇ~清水さんって漣さんの前ではおとなしいんですか」

「ちょっと、も~恥ずかしいからそういうこと言わないでよ~!」

 照れて頬を赤らめている清水さんを、先輩だけど可愛いと思う。

 きっと清水さんは新人時代も明るい支店のムードメーカーだったんだろうな。

「まぁ、こんなヤツだけど、これからも面倒見てやって」

「あ、こちらこそ清水さんにはいつもお世話になっているので。よろしくお願いします」

 そう言って頭を下げると、「いい後輩でよかったな、清水」舵浦さんが笑顔でそう言ってくれて。

 その笑顔を見た瞬間、見覚えのある人物の顔が浮かんだ。

 舵浦さんって誰かに似ていると思ったら、ときめきデイズの拓海くんに似てるんだ。

 特に笑うとよく似てる。

 サラサラな黒髪も、透き通るような綺麗な瞳も、落ち着いていて優しそうな雰囲気も。

「俺の顔に何かついてる?」

 思わず凝視してしまっていたらしく、視線を感じたらしい舵浦さんが不思議そうな顔で言った。

「あ、いえいえ!なんでもないです!」

 ゲームのキャラに似ていて見惚れてました、なんて口が裂けても言えない。

「まさか、舵浦に見惚れてたとか?」

 清水さんから鋭すぎる一言が。

「舵浦って顔はイケメンの部類だから、結構女子に人気あるんだよね。そのわりにどうしてか彼女できないけど」

「清水、余計なこと言うなよ」

 あ、舵浦さん、照れてる。

 そっか、舵浦さんって彼女いないのか。

 ……って、何ちゃっかり気にしてるんだ私。

「まぁ、こんなヤツでも汐織ちゃんが良ければどうぞ」

「えぇ!?」

 どうぞってなんですか!?

「清水、言ってること矛盾してるだろ。さっきは手を出すなとか言ってたくせに」

「あはは、そうだっけ?」

「そうだっけじゃねぇよ」

 ふたりの絶妙な掛け合いは見ていて本当に面白い。

 新人時代もこんな感じで、清水さんの旦那さん、漣さんも一緒に楽しく過ごしていたのかな。

「ま、それは冗談として。これからはガンガン舵浦に頼っていいからね」

「だからなんでそんな上から目線なんだよ」

 なんて清水さんと言い合いながらも、舵浦さんは「美浜台支店がエリア一位になれるように一緒に頑張りましょう」と言ってくれた。

 そしてその後、課長や支店長に挨拶をして帰っていった。

「まさか舵浦がエリア担当になるとは思わなかったなぁ……」

 そうつぶやいた清水さんは、懐かしむような少し戸惑っているような表情で。

 この時私は、清水さんの気持ちも舵浦さんの気持ちも、ふたりの関係も、まだ何もわかっていなかった。


 * * *


「今月の保険成約件数トップは水原さんでした。おめでとう」

 月最終営業日の夕礼中、課長に発表されて周りから拍手が起きた。

 舵浦さんの勉強会で今までにないくらい保険の商品提案に力を入れて、それがこうして結果に結びついたんだ。

 正直なところ、前までは心のどこかで“数字のために仕方なく”と思っていた部分があったけれど、舵浦さんの勉強会後は、お客様のために自信を持って提案できるようになった。

 それで「ずっと考えなくちゃと思ってたことだから今回教えてもらえて本当に良かった」と本当に嬉しそうな笑顔で言ってくれたお客様もいて。

 こんな私でも役に立てたのかなって、私の方が嬉しくなった。

 ほんの少し考え方や見方を変えるだけで、こんなにも状況って変わるんだなぁってつくづく思う。

 きっかけをくれた舵浦さんには本当に感謝してるから、今度うちのお店に来てくれたらお礼を言わなくちゃ。

 そしてあっという間に二月に入った。

 厳しい寒さで、外回り組は本当に大変そうだ。

 基本的に一日支店内にいる私は、暖房の効いた温かい営業場で仕事が出来るからいいけれど。

「マジで凍え死ぬぞ、この寒さ」

 外訪を終えて戻ってきた船堂さんは本当に寒そうだ。

「お疲れ様です」

「おう。喜べ水原、このクソ寒い中往訪したおかげで保険成約三件決まりだ」

「え、ホントですか!?」

「ああ。なんとしてでもエリア最下位は阻止したいしな」

「ですよね」

 もう二度とエリア長に“店として営業してる意味がない”なんて言われたくない。

「そういえば、今日エリア担当の保険コンサルが来る日だっけ」

「あ、そうですね」

 そう、今日は舵浦さんがうちの支店に来てくれることになっているんだ。

 と言っても、今日は勉強会じゃなくて近況報告と今後のスケジュールの確認だけみたいだけど。

「お疲れ様です」

 船堂さんと話していたら、今まさに話題にしていた舵浦さんが営業場に入ってきた。

「先日は勉強会ありがとうございました。おかげで私、先月の保険成約数が支店でトップでした!」

 舵浦さんの姿を見るなり勢い込んで言うと、

「それは良かった。今後もぜひ頑張って下さ
 い」

 私の勢いに面食らいつつも、笑顔でそう言ってくれた。

「お、舵浦くんお疲れ」

 そこへ接客を終えた課長が席に戻ってきた。

「この前の勉強会のおかげで、みんな士気が上がって成果が出始めてるよ」

「お役に立てたなら嬉しいです」

 課長の言葉に、舵浦さんは少し照れたような笑顔を浮かべている。

 やっぱり拓海くんに似てるなぁ。

「次の勉強会は二月二十一日で大丈夫かな?」

「はい、よろしくお願いします」

 その後、課長と少し話をして、

「じゃあ、また勉強会で」

 私に笑顔でそう声をかけて、舵浦さんは慌ただしく営業場を出て行った。

 次回の勉強会、楽しみだな。

 ふとそんなことを思った自分に自分で驚いた。

 勉強会なんて面倒くさいだけなのに。

 もしかして私、舵浦さんに会えることを楽しみだと思ってる……?



#同期好きですけど、なにか?


「保険成約数、月間目標達成お疲れ様でした。乾杯!」

「乾杯!」

 課長の声にみんなが続き、それぞれグラスを合わせる。

「いや~ホントに舵原君がエリア担当になってから一気に成約数が増えたよ。ありがとう」

「いえ、僕はちょっとお手伝いしただけですよ。一生懸命提案して下さった支店の皆さんの力です」

 課長にニコニコ上機嫌でお礼を言われて、隣で恥ずかしそうに謙遜している舵浦さん。

 美浜台支店のメンバーと初めての飲み会に少し緊張気味の様子。

 今日は勉強会のあとに親睦を深めようということで、舵浦さんにも参加してもらっていつもの居酒屋で飲み会をすることになった。

 ちょうど先月の保険成約数が支店の月間目標件数を達成したこともあって、そのお祝いも兼ねている。

「イケメン保険コンサルタントで有名な君に担当になってもらったおかげで、女性陣も嬉しそうだからね」

「そんなことないですよ。お世辞で褒めて頂いても何も出せないですよ」

「お世辞じゃないって。水原さんも舵浦くんはイケメンだと思うよな?」

「えっ!?」

 突然同意を求められて、一瞬焦る。

 っていうか課長、なんで私に振る!?

「そうですね、イケメンだと思います」

 ここはもちろんそう言うべきだよね。

 実際、私もホントにそう思ってるし。

「課長、ずるいですよ。上司に言われて否定できるわけないじゃないですか」

 でも、舵浦さんは私が課に長言わされたと思っているみたい。

 舵浦さんって無自覚イケメンさんなんだ。

「いえ、課長に言わされたとかじゃなくてホントにそう思ってますから」

 私が慌ててフォローすると、

「だってさ。人の褒め言葉は素直に受け取りたまえ」

 課長がわざとらしくふざけた口調でそう言うから、おかしくて思わず笑ってしまった。

「きゃあ!」

「!?」

 和やかな雰囲気の中、突然悲鳴の様な声が聞こえて、ビックリして声がした方を見ると…

「清水さん、ラブラブでいいな~」

 山崎さんが清水さんのスマホを見て羨ましそうな声をあげた。

「なになに?」「どれどれ?」

 近くにいたメンバーが興味津々で視線を向けると、清水さんが恥ずかしそうにしながらもスマホを見せてくれた。

 仲睦まじく顔を寄せ合っている清水さんと漣さんのツーショット待ち受け画面。

「年末年始は久しぶりにふたりでゆっくり過
 ごせたかな」

 幸せオーラ全開で言う清水さんは、新婚生活を満喫しているみたいだ。

「遠距離でもよく続きましたよね」

 山崎さんが感心したように言うと、周りのみんなもうんうんと頷いた。

 私も、本当によく長続きしているなと思う。
 
 遠距離じゃなくたってすれ違うこともあると思うのに。

「長続きの秘訣はなんですか?」

 私が尋ねると、

「それはもちろんお互いの愛でしょう! 愛があれば距離なんて関係ない!」

 堂々と言ってのける清水さんの言葉に、私も含め聞いていたみんなから「おお~!」という感嘆の声があがった。

「清水、惚気はそのくらいにしとけ」

 そんな中、呆れたような口調でそう言ったのは舵浦さんだ。

「独り身が悔しいなら舵浦もさっさと彼女作りなよ」

「余計なお世話だ、バカ」

 ……あれ?

 今なんか一瞬空気が重くなった気がする。

 だけど清水さんは特に気にした様子もなく「バカとか言うな」と返して、また山崎さんと雑談を始めて舵浦さんは席を外してしまった。

「そういえば、舵浦さんって清水さんと同期なんですよね?」

 ふと山崎さんが思い出したように言った。

「そうなんだよ~。だから、よく漣のことも相談に乗ってもらってて」

「そうなんですね」

「舵浦って、なんだかんだ言って優しくて落ち込んでる友達ほっとけないタイプだから悩んでる時、つい頼っちゃうんだよね」

 確かに舵浦さんは穏やかで優しい雰囲気だし、話も上手だから、いい相談相手になってくれそうな感じがする。

 きっと仕事でもお客様から評判いいんだろうな。

 なんて思っていたら、舵浦さんが席に戻ってきて。

「こら清水、俺がいない間に俺の悪口言ってただろ」

 そう言いながら、軽く清水さんの頭を叩いた。

「イタ! 違うよ、その逆で褒めてあげてたんだよ!」

「ホントかよ」

「ホントですよ。優しくていつも相談に乗ってくれるって」

 私がそう言うと、清水さんは「ほらね」と得意気な笑顔になった。

「私が漣と続いてるのは舵浦のおかげでもあるって話してたの」

「あっそう」

「まだ疑ってるの?」

「……いや。もうわかったからいいよ」

 どうやら悪口を言ってたわけじゃないのは信じてもらえたみたい。

 それからまたみんなで飲みながら雑談をして、二十一時を回ったところでお決まりの締めをして、今日の飲み会はお開きになった。

「お疲れ様です」

 駅のホームで同じ方面の人同士に分かれてそれぞれ電車に乗る。

 私は舵浦さんとふたりで同じ電車になった。

「水原さん、地元はどこ?」

「花井沢です」

「そうなんだ。僕は西ヶ丘だから、地元結構近いんだね」

「そうですね」

 西ヶ丘は花井沢と同じ沿線の駅で、駅数で五駅、時間にすると約十五分の東京寄りの駅だ。

「花井沢から美浜台って一時間以上かかるだろ? 毎日大変じゃない?」

「そうですね。最初は毎日グッタリでしたけど、今はもう慣れました」

「そっか。えらいなぁ」

「そんなことないですよ。実家暮らしだからちょっと遠くても通えてるだけで」

それが当たり前だと思っていたから、“えらい”なんて改めて褒められるとちょっと照れる。

「そういえば、舵浦さんと清水さんって、ホント仲いいですね」

なんとなく恥ずかしくなって、さりげなく話題を変えてみた。

「まあ、三年目まで同じ支店だったからな。あいつ結構人遣い荒いから、水原さん迷惑してない?」

「迷惑なんて全然そんなことないです! 清水さんって、本当にいつも明るくて気さくで、お客様からもとても人気があるんですよ。だから、私はとても尊敬してます」

思わず熱弁してしまって、言い終わってから急に恥ずかしくなった。

案の定、舵浦さんは苦笑している。

「そっか、清水も職場ではしっかり先輩やってるんだな。……でも、あいつは人前で弱音吐けないタイプだからさ。結構“いい先輩”になろうとして頑張りすぎてる部分もあると思うよ」

そう言った舵浦さんはとても優しい瞳をしていて。

さっき清水さんが舵浦さんのことを話していた時も、同じように優しい表情をしていたことを思い出した。

さすが新人時代を一緒に過ごしてきたふたりだけあって、お互いのことをよく知っていて信頼しあっているのがわかる。

舵浦さんと清水さんはいい意味でお互いのことをよくわかり合っている同期なんじゃないかなと思う。

「清水さんが、舵浦さんのこと “優しいからつい頼っちゃう” って言ってましたよ」

「頼るっていうか、利用してるの間違いだと思うけどな、あれは」

笑いながら冗談でそう言った舵浦さんだけど、表情が一瞬翳ったように見えたのは私の気のせいだろうか。

「間もなく西ヶ丘駅です」

 タイミング良く聞こえてきた車内アナウンスに、お互い話を止めた。

「じゃあ、今日はありがとう。また今度の勉強会で」

「こちらこそありがとうございました。お疲れ様でした」

 ドアが開くと、舵浦さんは私に手を振って電車を降りた。

 ひとりになった私は、いつものように鞄からスマホを取り出して『ときめきデイズ』のアプリを起動する。

『おかえり。今日も一日頑張ったご褒美、あげる』

 画面の中、おかえりのキスをしてくれた拓海くんの顔がふっと舵浦さんの顔に重なった。

 舵浦さんは……私がゲームに夢中だと知ったらどう思うだろう。

 やっぱりイタイ女子だって思われてしまうのかな。

 そう考えたら、なんとなく虚しい気持ちになった。



#恋愛フラグですけど、なにか?


 いつからだろう。拓海くんより、舵浦さんのことを考えるようになったのは。

 あんなにゲームの世界に夢中だったのに、最近は前よりゲームをしなくなった。

 それはきっと――

「――以上でエリア勉強会を終わります」

「汐織ちゃん大丈夫?」

「え!?」

 ぼんやりしていたら、清水さんに声をかけられて慌てて我に返った。

 いつのまにか勉強会は終わっていて、みんなが帰り支度を始めていた。

「なにか悩みごと?」

「……いえ……」

「ホント? 何か悩みごとあるなら聞くからね?」

「ありがとうございます」

 心配してくれる清水さんの優しさが嬉しい。

 でも、舵浦さんのことを考えていたとはさすがに言えない。

 急いで支度をして、清水さんと一緒に駅へ向かう。

「それにしてもやっぱりムカつくわ、あのエリア長。誉められても全然嬉しくない」

「確かに。業績いいからって露骨すぎですよね」

 ふたりで話しながら、改札に入ったその時。

「清水?」

聞き覚えのある声がして振り返ると、

「舵浦?」

まさかのタイミングで舵浦さんがいた。

「なんでここにいるの?」

「今日、ちょうど海南支店の担当の日だったんだよ」

「……そうなんだ。すごい偶然だね」

あれ? なんかちょっと清水さんの様子が変?

笑顔がちょっとぎこちないような……と思ったら、

「あ、電車来てる! じゃあ、またね!」

清水さんは電光掲示板に表示されている時間を見てそう言うと、慌ただしくホームへ続く階段を上って行ってしまった。

「帰ろうか」

舵浦さんが、清水さんの姿を見送りながら苦笑交じりに言った。

「水原さんの地元、花井沢だったよね」

「あ、はい」

ちゃんと覚えててくれたんだ。

そんな些細なことが嬉しくなる。

ふたりで電車に乗ると、ちょうど帰宅ラッシュ時で、車内はかなり混雑していた。

「大丈夫?」

「……なんとか……」

157センチというほぼ日本人女子の平均身長である私だけど、運悪く周りを男性に囲まれてしまってちょっと息苦しい。

「…きゃっ」

「危ない」

突然電車が大きく揺れて思わずよろけてしまったところを、とっさに目の前にいた舵浦さんが支えてくれた。

一瞬感じた、舵浦さんの温もりと爽やかな香り。

「やっぱ大丈夫じゃなさそうだな」

顔を上げると、目の前で舵浦さんが笑っていて。

その近さに、また鼓動が速くなる。

「勉強会、どうだった?」

さっきとは違う息苦しさに戸惑っていると、舵浦さんが話しかけてくれた。

「エリア長に、この調子で頑張ってほしいって誉めてもらいました。ありがとうございました」

「そっか。それなら良かった。濱野エリア長は数字さえ良ければ機嫌がいい人だからね」

「そうですよね。清水さんは褒められても全然嬉しくないって言ってましたけど」

「あいつらしいな」

そう言った声が、瞳がとても優しくて。

時々なんとなく思っていた“もしかしたら” が、確信に変わり始めた。

清水さんは、舵浦さんの気持ちに気づいているのだろうか。

“頼るっていうか、利用してるの間違いだと思うけどな、あれは”

前に飲み会の帰りに舵浦さんが言っていた言葉を思い出す。

あの言葉の意味は、もしかしたら――

「新人の頃はよくお客さんに怒られて泣いてたけど、タフになったんだな」

「そうなんですか?」

「うん。ああ見えて、清水もけっこう悩んでたから」

私が知る限りでは、清水さんが仕事のことで落ち込んで泣いているところは見たことがない。

そんなに何回も泣くほど落ち込んでいたなんて思わなかった。

つまり、舵浦さんの前ではそれだけ弱いところを見せていたということだ。

清水さんが職場でいつも明るいのは、いつも話を聞いて励ましてくれる舵浦さんがいてくれたからかもしれない。

だけど、それは舵浦さんにとっては残酷なことだったはずだ。

優しいから、突き放すことができなくて。

本当の気持ちを心の奥にしまい込んで。

「これからもいい先輩として頑張ってほしいな」

そうやって、笑顔を浮かべる。

彼の想いを確信した今、その言葉はとても悲しく私の心に響いた。

胸の奥、かすかに感じる小さな痛み。

それは、舵浦さんの想いに気づいてしまったから?

それとも、自分の気持ちに気づいてしまったから?


* * *

一月は行く、二月は逃げる、三月は去るというけれど、三月は年度末だけあって毎日とても忙しい。気づけばあっという間に月末を迎えた。

「臨時夕礼を行います。ロビーに集合して下さい」

PCで今日受けたお客さんの折衝記録を入力していると支店長の言葉が聞こえて来て、一瞬にして営業場が緊張感のある空気に変わった。

このタイミングで臨時夕礼が行われるということは、恐らく誰かに異動の辞令が出たということだ。

私はまだ三年目だし特に支店長からも呼び出されなかったから確実に違うけど、もしあるとするなら…となんとなく感じた不安を抱えながらロビーへ向かう。

「それでは臨時夕礼を始めます」

みんなの前に立ち、支店長が改まった口調で言う。

「本日付で異動の辞令が出たので、お知らせします。清水さんが、東京西支店に異動になります」

その言葉に、みんなの視線が清水さんに集中した。

清水さんは少し恥ずかしそうに視線を床に向けてうつむいている。

もしかしたらとは思ってたけど、本当なんだ。

「引き継ぎ期間は一週間で、清水さんは来月八日が美浜台支店最終日になります。以上で臨時夕礼を終わります」

業後の忙しい時間の合間を縫ったわずか数分の臨時夕礼。

特に感傷に浸ることもなく、みんなやり残した仕事を終わらせるためそれぞれの持ち場に戻っていく。

私もなんとか平静を装いながら自分の席へ戻ろうとした、その時。

「汐織ちゃん、ごめんね」

不意に聞こえてきた言葉に慌てて顔を上げると、清水さんが申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

「結婚することを支店長に話した時、異動希望出してたの。でも、正式な辞令が出るまでは皆に言わないようにって言われてたから」

「そんな、清水さんが謝ることなんてないですよ!」

珍しくちょっと落ち込み気味の清水さんに、わざと明るい声で返した。

確かに、さっき初めて知ってすごく驚いたし、ショックではあるけど。

でも、清水さんが悪いわけではないから。

「あと一週間、よろしくお願いします」

私の言葉に、清水さんもホッとしたような笑顔で「こちらこそ」と返してくれた。

翌日からの清水さんは担当していたお客様への挨拶や現在抱えている案件の引継で毎日とても忙しそうで、私も引継を受けながら、少しずつ清水さんがいなくなることを実感し始めた。

そしていつも以上にあっという間に毎日が過ぎていき、清水さんの美浜台支店出勤最終日前日。

いつもの居酒屋で送別会が行われ、みんな清水さんとの思い出話で盛り上がった。

「お疲れ様でした~」

明日も仕事だからといつもより少し早めにお開きになり、それぞれが駅へ向かって歩きだす。

私も歩きだそうとした時、「汐織ちゃん、このあとちょっとだけ時間ある?」と清水さんが少し真剣な表情で尋ねてきた。

もしかしたらふたりきりで何か話したいことがあるのかなと感じた私は、「大丈夫ですよ」と頷いた。

そしてふたりで入ったのは、駅前のカフェ。

「やっぱり甘いものは別腹だよねぇ~」

そう言いながら、注文したケーキを美味しそうに食べる清水さん。

こんな風に清水さんとここで話ができるのも今日で最後かもしれないと思うと、急に寂しさがこみあげてくる。

同時に、明後日から清水さんがいない中で私は仕事をしていけるのだろうかという不安も押し寄せてきた。

「汐織ちゃんは、好きな人いないの?」

「え!?」

唐突すぎる質問に、思わず清水さんの顔を見つめてしまった。

「好きな人、いないの?」

もう一度、いつもより真剣な表情で同じ質問を繰り返す清水さん。

好きな人”と言われて真っ先に顔が浮かんだのは、もちろんときめきデイズの拓海くん……ではなくて。

「っていうか、舵浦のこと好きだったりしない?」

「……!」

「あ、図星なんだ。良かった~」

私の動揺を肯定と捉えたらしい清水さんは、嬉しそうな笑顔になった。

でも、どうして急にそんな話になったんだろう。

清水さんが話したかったことって、もしかしてこのことだったの?

「汐織ちゃんと舵浦ってすごくお似合いだなぁって思ってるから、頑張ってね」

「頑張ってね」と言われても、リアル恋愛の経験がない私には何をどう頑張ればいいのかすらわからない。

それに、舵浦さんは清水さんのことが好きなのに。

清水さんは、新人時代から舵浦さんと一緒にいるのに、全く彼の気持に気づいてないのだろうか。

「なんてね、私が言うなって話だよね」

「え?」

どういう、こと?

再び顔を上げて清水さんを見ると、自嘲気味の笑顔で言葉を続けた。

「私、汐織ちゃんが思ってくれてるような憧れの先輩なんかじゃない。同期っていう立場を利用して男の気持ち弄んでるようなずるいヤツだよ」

「弄んでるって……」

清水さんには全く似合わない言葉が飛び出して、思わず笑ってしまった。

「ホントだよ。舵浦の気持わかってて、いつもあいつに漣のこと相談してたんだから」

うつむきがちに言った清水さんの言葉が、私の胸に刺さる。

ということは、清水さんは舵浦さんが自分のことを好きだと知っていて、ずっと舵浦さんに頼っていたんだ。

「ね、ずるいでしょ」

私の気持ちを見透かしたように、清水さんが言う。

でも、大好きな先輩を前にして、正直に「ずるいです」と口にすることはさすがにできない。

「……どうして」

かろうじて、それだけが言葉になった。

「舵浦のこと、傷つけたかったわけじゃないの。わざと利用しようと思ってたわけでもない。ただ、本当になんでも話せる同期として相談してた。でも、舵浦はそうじゃなかったんだよね、ずっと」

何かを思い出すように、清水さんは視線を少し遠くに向けて話し始めた。

「結婚する前に、漣が浮気してるかもって言ってた時あったでしょ?」

「ありましたね」

結局清水さんの誤解だったみたいで、無事にふたりは仲直りしたようだけど。

「あの時も舵浦に泣きついたの。もう無理かも、って」

「………」

それは、舵浦さんからしたらすごく残酷なことだったはずだ。

「私がこんなこと言うのも変だけどさ、舵浦からしたらチャンスだったわけじゃない?  でも、ただ黙って私の話を聞いて漣のこと信じてやれって言ってくれて……ホント、バカがつくくらいお人好しなんだよね。舵浦って」

うん、確かに舵浦さんはそんな感じがする。

穏やかで優しくて、自分の気持ちよりも相手の気持ちを優先するひと。

自分よりも、好きな人の幸せを願うひと。

そんな舵浦さんのことを――私は好きになっていた。

「私は舵浦の気持ちに応えることができなくて、いつも傷つけてばかりだったから…あいつには、本当に幸せになってほしい。その相手が、いつもまっすぐで一生懸命な汐織ちゃんだったらいいなって思ってる」

「……ありがとうございます」

まっすぐに私を見て言ってくれる清水さんの言葉に、思わず涙が出そうになる。

やっぱり、清水さんは舵浦さんの気持ちを弄ぶようなずるい人なんかじゃない。

きっと舵浦さんの気持ちに気づきながら、応えられないことに悩んで苦しんだはずだ。

「それに舵浦ならきっと乙ゲー好きな汐織ちゃんも受け入れてくれるだろうし」

「……え?」

清水さん、今なんとおっしゃいました?

「拓海くん、だっけ。舵浦に似てる人」

「ど、どうしてそれを……」

私、清水さんには乙ゲーの話なんてしたことないはずなのに。

あ、待って、もしかして……。

「船堂さんから聞いたの。でも、汐織ちゃんが隠したがってるから突っ込まないでやってくれって」

……やっぱりバラしたの船堂さんか~い!!

「ありえない~!」

という私の叫びがカフェに響いて大注目を浴びてしまったことは言うまでもない。


*  * *


翌日、清水さんは美浜台支店の最終日を迎えた。

最後に涙ながら挨拶する姿に、私までもらい泣きしてしまった。

私から花束を受け取った清水さんは、「仕事でも個人的なことでも、何かあったらいつでも連絡してね」と言ってくれた。

明るくて気さくで、お客様にも職場の皆にも好かれていた清水さん。

そんな彼女の後輩として一緒に仕事が出来て本当に良かったと心から思った。

ちなみに船堂さんに乙ゲーのことを問い詰めたら、「いいじゃん、減るもんじゃないし」と開き直られた。

いやいや、私の“窓口のお姉さんイメージポイント”が減るでしょう!という主張は心の中にグッと留めておいたけど。

* * *


「水原さん、今日十四時からってアポ入ってる?」

清水さんが異動して数週間が過ぎた四月のある日。

自席で書類の確認をしていると、久澄さんに声をかけられた。

「十四時から? 入ってないですけど」

今日は午前中しかアポが入っていないから、午後は少しゆっくりできるかなと思っていたところだ。

「急で悪いんだけど、投信と外貨の相続受付してもらっていい? 謄本は全部揃ってるから」

「あ、はい」

相続は正直まだあまり受付慣れてないけど、やるしかないよね。

「先に取引一覧照会とったから渡しておくね。ちなみに、さっき相続人の奥様から電話かかってきたんだけど、かなり機嫌悪くて。一応当日の受付は担当の都合もあるからって話したんだけど、“担当なんて誰でもいいからとにかく今日にして”って言われちゃって」

「そう、なんですか」

なんだか話を聞く限りかなり要注意なお客様っぽいな。

私が受け付けて大丈夫だろうか。

とりあえず、今のうちに必要な書類と記入の仕方はしっかり確認しておこう。

そう思って、渡された取引一覧を見ながらPCで取引状況を確認すると……。

亡くなった方は貝塚(かいづか) (ひろし)さん、七十歳。

そして今日手続きに来店される方は奥さまの春江(はるえ)さん、六十五歳。

他に相続人として長女の美波(みなみ)さん、次女の愛海(まなみ)さんのふたりか。

取引を見る限りでは、かなり資産があるご一家みたいだ。

そして、約束の午後二時。

時間通り貝塚さんがご来店され、ブースにご案内した。

「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」

「全く、相続ってなんでこんなにメンドクサイのかしらね。おまけに担当がどうこうとか言われて、イヤになるわ、もう」

開口一番文句を言いながら席に着いた貝塚さんは、不機嫌極まりない表情を浮かべていて。

正直、これから数時間受付をしなければいけないのかと思うと早くもイヤな気持ちが胸に広がった。

こんな時、清水さんがいてくれたらフォローしてくれたんだろうけど、もう清水さんはいない。

私ひとりでなんとかするしかないんだ。

「あの、この度はお悔やみ申し上げます」

「そんなご挨拶はいいから、さっさとやってちょうだい。私だって色々忙しいんだから」

なんなんだ、この人。いくら機嫌悪いからって、そんな言い方しなくても!

こみ上げる怒りを必死に抑えながら、手続きを進める。

ふと頭に浮かんだのは、清水さんの言葉。

“嫌なお客様ほど、雑談で気持ちを落ち着かせて”

そんなこと出来る雰囲気じゃなさそうだけど。

「……ご家族皆さん海にちなんだ素敵なお名前ですね」

書類の記入が一段落したところで、思い切ってさり気なく誉め言葉を言ってみると……

「あら、ありがとう。実は主人、海が大好きな人でね。私の名前にも“江”がついてるし、よく『これは運命の出会いだ』って言ってたのよ」

さっきまで不機嫌オーラ全開だった奥様が、急に笑顔になってそんな話をしてくれた。

もしかして、少し機嫌直してくれたのかな?

「だからお嬢様のお名前も海にちなんだお名前なんですか?」

「そうなの。主人がどうしても海に関する名前がいいって言ってねぇ」

ふふ、と少し照れくさそうに話す貝塚さんは、最初とは違う柔らかな表情で話してくれた。

「美波さんに愛海さんってとても可愛いお名前ですよね」

「ありがとう。もうふたりとも結婚してね、去年初孫も生まれたのよ」

「そうなんですか? おめでとうございます」

それから、最初のイヤな雰囲気がウソのように会話が弾んで、最後には今度お孫さんのための資産相談をしたいという話まで聞くことができた。

「本日はお忙しい中ご来店ありがとうございました」

事前に準備していたおかげで無事に今日の手続きが終わって挨拶をすると、

「こちらこそ、色々ありがとう。主人が亡くなってから慌ただしくて疲れが溜まっていたから、最初はイヤな態度になってしまってごめんなさいね」

貝塚さんは申し訳なさそうにそう言ってくれた。

……ああ、なんだ。本当はとてもいい人だったんだ。

「いえ、色々お手数おかけしました」

最初は絶対このお客様とは合わないって思っていたけど。

大切なご主人が亡くなって、悲しみの中でたくさんの謄本を揃えて書類を記入するのは大変だったと思う。

「手際良くやってくれてありがとう。今度ぜひまた水原さんにお願いするわね」

「ありがとうございます! お待ちしています」

どうしよう、なんか嬉しすぎて逆に泣きそうだ。

一生懸命やれば、伝わるものなんだな。

清水さんも、こうやってたくさんのお客様と仲良くなっていったのかな。

貝塚さんの後ろ姿を見送りながら、憧れの先輩にほんの少しだけ近づけたような気がして嬉しい気持ちでいっぱいになった。


* * *


だいぶ春らしくなった五月のある日、美浜台支店の歓送迎会が行われた。

「皆さん、新たな仲間も含めて今期もよろしくお願いします」

いつも通り支店長の言葉と乾杯の音頭で始まった飲み会。

私の隣には先月異動した清水さん、向かい側には久しぶりに会う舵浦さんがいる。

ふたりとも事前に支店長が声をかけて参加を快諾してくれたんだ。

「汐織ちゃん、先月収益獲得件数トップだったらしいじゃん!やるね~」

「そうなんですよ! ありがとうございます!」

恐らく支店の中の誰かから聞いたらしい清水さんの言葉に、満面の笑みで答える。

そう、先月私は個人で収益獲得件数トップの成績になれたんだ。

というのも、相続の手続きに来店された貝塚さんが他行の資産を移して下さったから。

「船堂さん悔しがってたでしょ?」

「なんで知ってるんですか?」

「わざわざ内線でかかってきたもん。『水原に抜かされた~』って」

船堂さんの口調を真似た清水さんの言い方が面白くて、思わず笑ってしまった。

「でも、まさか船堂さんも異動なんてね」

「そうですね。ビックリしました」

つい数日前発表された異動辞令で、なんと今度は船堂さんの異動が決まったのだ。

「しかも結婚するんだってね」

「そうなんですよ。支店のみんなでダブルサプライズだって言ってます」

そう、清水さんに続いて船堂さんも結婚するんだ。

相手は、今年の初めに偶然再会した中学時代の同級生らしい。

実は初めて付き合ったのがその人で、お互いに運命を感じてすぐ付き合い始め、今年の夏に結婚することになったんだとか。

「なんか、みんなどんどん幸せになってくなぁ……」

思わずぽつりと呟くと。

「水原さんはつき合ってる人いないの?」

「いないです」

舵浦さんに訊かれて一瞬ためらいつつも正直に答えると、

「でも、好きな人はいるんだよね~?」

清水さんが意味ありげに笑って言った。

「え、そうなんだ?」

どうしよう。まさか今ここで好きな人はあなたです、なんて告白できるわけないし。

「その人、舵浦に似てるんだって」

「「え!?」」

予想しなかった清水さんの言葉に、私と舵浦さんの声が重なった。

「拓海くんって言うんだよね~?」

そう言いながら、私の方を見る清水さんの表情は、何かを企んでいるようだった。

もしかして、このタイミングで“あの事”をカミングアウトしないといけない?

戸惑う私の様子に気づかず、舵浦さんは「へぇ、そうなんだ」と笑顔を浮かべている。

もう、こうなったら言うしかないか。

「あ、あの。でも、それはゲームのキャラで……」

意を決してそう言うと、舵浦さんが「ゲーム?」と不思議そうな表情で聞き返してきた。

「そ、そうなんです。スマホの恋愛ゲームなんですけど」

「あ、もしかして“ときめきデイズ”?」

「え……」

なんで知ってるんだろうと思ったら、舵浦さんは相変わらず優しい笑顔で言葉を続けた。

「結構夜にCMでやってるから、名前だけは知ってる。最近は色んなゲームがスマホでできてすごいよね」

「そう、ですね」

てっきりからかわれたり、バカにされると思っていたから、あっさりした反応に拍子抜けしてしまった。

「高校生の頃くらいまでは結構ゲームもしてたけど、最近は忙しくて全然してないな~」

「舵浦さんはどんなゲームしてたんですか?」

「RPG系はほとんどしてたかな。学生時代は『恋愛メモリアル』にハマって結構やったりしてたよ」

「『恋愛メモリアル』流行ってましたよね。懐かしい~」

恋愛メモリアルは、恋愛シミュレーションゲームブームの先駆けとなったゲームだ。

主人公が学園生活を送りながら7人の女の子と出会い、卒業式の日にお気に入りの女の子に告白してもらうためにひたすらデートを繰り返す。

場所や季節によってイベントが発生したり、デートの時に選ぶセリフによって相手の好感度が変わる。

ときめきデイズは、恋愛メモリアルのオトナ女子バージョンみたいなものだ。

最初は引かれたらどうしようと思っていたのに、思いのほか舵浦さんとゲームの話で盛り上がってしまった。

そんな私の様子を見て、清水さんは軽く私の肩を叩くと、「あっち行くね」と口パクで言って別のテーブルへ移動した。
気を利かせてくれたのかな。

「あとはドラゴンファンタジーも好きだったな」

「あ、私も大好きでした」

清水さんが席を離れた後も舵浦さんは会話を続けてくれて、

「そういえば、来月ドラゴンファンタジーのコンサートやるみたいですよ」

ふとCMで観て気になっていたことを思い出して口にしてみた。

「あ、そうなんだよね。この前CMで観て行きたいなと思ってたんだけど」

「ホントですか? 私も行きたいんですけど、平日だし周りに一緒に行ってくれそうな子がいなくて……」

「そうなんだ? じゃあ、良かったら一緒に行く?」

「え、いいんですか!?」

「水原さんが良ければ、だけど」

「もちろんです!」

私がそう言ったところで、「お、盛り上がってるな~」と課長がやってきて、私と舵浦さんの話は中断になってしまったけど。

でも、まさか舵浦さんとこんなに話ができるなんて思わなかった。

「今日は本当にありがとうございました」

帰りの電車の中で、改めてお礼を言う。

いくら支店担当とは言え、わざわざ歓送迎会まで参加なんて大変だよね。

もしかして清水さんが来るから参加しようと思ったのかな、なんて考えてしまう。

「いいえ、こちらこそありがとう。前年度保険成約数も年間目標達成出来て本当に良かったね」

「それはホントに舵浦さんのお陰です。私もとても勉強になりました」

「そんなことないって。水原さんが一生懸命頑張ってたからだよ。いつもすごく丁寧にお客様に商品の説明してくれてるし」

なんだか、改めてそんな風に誉められると嬉しいけど恥ずかしい。

「今期もぜひよろしくお願いします」

「こちらこそ」

と話していたところで、舵浦さんが降りる西ヶ丘駅のひとつ前の駅に到着した。

もう少し話していたいのにと思った時、

「そうだ。さっき話してたコンサート、チケット取れたら連絡したいから、連絡先教えてもらっていい?」

舵浦さんがそう言ってスマホを取りだした。

「え、あ、はい」

私も慌ててカバンからスマホを取りだして、お互いに連絡先を交換し合った。

さっきは話の流れの勢いや社交辞令だったのかなと思っていたけど、本当に一緒に行ってくれるつもりなんだ。

ちょうど交換が終わったところで西ヶ丘駅に着いた。

「じゃあ、また」

「はい、お疲れ様でした」

挨拶をして別れた後、改めてスマホに追加された舵浦さんの名前を見る。

どうしよう。連絡先交換したうえに、プライベートで一緒に出かける約束までしちゃった。

これって、いわゆるデートだよね。

突然の急展開でなんだか夢を見ているみたい。

さりげなくきっかけを作ってくれた清水さんに感謝だ。


数日後、舵浦さんから本当に「チケット取れた」と連絡が来た。

公演日当日はお互い仕事があるから、仕事が終わったら直接会場で待ち合わせをすることになった。

清水さんも船堂さんもいなくなってしまったから、仕事は今まで以上に忙しくなって大変だけど、舵浦さんに会える日を楽しみに日々を過ごしてついに当日がやってきた。

朝から楽しみと緊張で落ち着かない気持ちをできるだけ抑えるようにしながら、いつもよりできるだけ早めに仕事を切り上げて、「お先に失礼します」とみんなに声をかけた。

今日はアポなしのお客様も来なかったから、予定通りの時間に上がれて良かった。

メイクや髪形を直して、スーツ姿のまま会場に向かう。

飲み会や清水さんとお茶する時以外はほとんど寄り道せずに帰宅していたから、それだけでちょっとドキドキする。

美浜台から会場までは四十分くらいかかるから、着くのは開演三十分くらい前になりそうだ。

電車に乗って一息ついたところで舵浦さんに連絡をしようとスマホを取りだすと、すでにメッセージが届いていた。

【会場にいるから着いたら連絡してください】

舵浦さん、もう着いてるんだ。早いな。

そういえば、チケットが取れたって連絡が来た時に、職場から十五分くらいで行けるって言ってたっけ。

やっぱり職場が都心だと、仕事帰りでも色々なところへ行けて便利なんだろうな。

そんなことを考えながら【あと30分くらいで着きます】と返信した。

それから無事に会場の最寄り駅に着いて舵浦さんに連絡をして会場へ向かった。

会場の中に入ってすぐのエントランスロビーで舵浦さんの姿を見つけて声をかける。

「お疲れ様です」

「お疲れ様。間に合って良かったね」

「はい。頑張って仕事早く切り上げてきました」

なんてことない会話だけど、初めてふたりきりで会って話しているということが嬉しい。

チケットをもらって早速中に入ると、とても綺麗なコンサートホールだった。

席に着いて入場時に渡されたパンフレットを見ながら、開演を待つ。

「なんかかなり本格的だな。普段コンサートとか全然行かないからアウェイな感じする」

「私もです。でも、音楽よりゲームのファンだから来た人の方が多いと思いますよ」

実際周りを見ても、明らかにゲーマーやオタクっぽい雰囲気の人が結構いるし。

「そうだよね。クラシックとか聴き慣れてないから途中で寝ちゃったらごめん」

「大丈夫ですよ」

なんて話しているうちに、会場に開演時間を告げるブザーが鳴り、コンサートが始まった。

いざ演奏が始まったら、音楽に全然詳しくない私でも感動するくらい素晴らしい演奏に感動しっぱなしで、あっという間に一時間半が過ぎていた。

「さすが一流の楽団だけあってすごかったな」

終演後、会場近くのレストランで食事をしながら舵浦さんが興奮気味に言った。

「寝るかも」と言いながら、初めて体験した本格的なコンサートに感激したみたい。

「やっぱり生演奏は音の迫力が違いますね」

「うん。またあったら行きたくなったよ」

「そうですね」

その後もどの曲が良かったとか、あの曲でゲームのあのシーンを思い出したとか話が盛り上がって、気がつけばお店に入って一時間以上が経っていた。

「そろそろ行こうか」

「はい」

名残惜しいけど、明日も仕事だしあまり遅くなるのは良くないよね。

レジに向かい、カバンからお財布を出して自分の分を払おうとしたら、

「あ、大丈夫だよ。清水に可愛い後輩なんだからよろしくって言われてるし」

と舵浦さんが私の分までお会計を済ませてくれた。

「すみません、ごちそうさまです」

「どういたしまして」

初めて男の人におごってもらっちゃった。

「明日また仕事だと思うと憂鬱だなぁ……」

帰りの電車の中で思わずそうつぶやくと、

「なんか現実に引き戻されたくないよね」

舵浦さんが同意してくれた。

「今期もまた数字数字言われるんだろうし……やだなぁ」

「水原さんはもうどんどん件数取ってくれてるし、大丈夫だよ」

「そうですね。ようやく、少し慣れてきて数字も獲れるようになって楽しいって思えるようになりました」

「お、いいことだね。じゃあ、今期もよろしく」

「はい、頑張ります」

話しているうちにあっという間に西ヶ丘駅に着いた。

「じゃあ、今日はありがとう。帰り気をつけてね」

「こちらこそありがとうございました」

舵浦さんと別れてから数分後、カバンに入れていたスマホが震えた。

確認すると、舵浦さんからのラインのメッセージだった。

【今日は楽しい時間をありがとう。明日からも窓口のお姉さん頑張って】

その言葉がとても嬉しくて、思わず笑みが零れる。

周りの人から見たら、ひとりニヤついてる気持ち悪い人かもしれないけど。

好きな人からのメッセージって、こんなに嬉しいものなんだって思った。

私にとって初めてのリアル恋愛は、大好きな乙女ゲームみたいに甘いわけじゃない。

だけど、焦らずゆっくり少しずつ私のペースで進んでいけたらいいなと思う。

【こちらこそありがとうございました。舵浦さんも頑張って下さい】

メッセージを送信してふと窓の外を見ると、とても綺麗な満月が浮かんでいて。

明日も仕事頑張ろうと素直に思えた。