その日、訪いも告げずにがらりと扉を開いて顔を覗かせたのは、良庵せんせの幼馴染の賢哲さん。
「よぉ! お葉ちゃんは今日もすこぶるべっぴんさんだねぇ!」
「まぁ賢哲さんたら。お上手なんですから」
うふふ、と微笑んで軽くいなすに留めておきます。真に受けたってしょうがありませんし、あたしが別嬪なのはあたしも十分承知の事実ですから。
なんてね。
「ところで良人の奴ぁいるかい?」
よしひと、って良庵せんせの本名ですよ。御存じなかったですか?
庵良人が本名なんですよ。後出しでごめんなさいね。
良庵せんせのご両親はご健在だそうですが、今はお二人で旅に出られているんです。
そして旅に出る際、
『道場は良人、お前に任せる。好きにして良いが、出来る事なら細々とでも畳まずに続けてくれ』
そう言って全てをすぽんと良庵せんせに放り投げて、二人仲良く旅立ったのが一年ほど前だそう。
良庵せんせは『好きにして良い』をこれ幸いと喜んで、道場の倉庫を診察室に作り替え、門には例のあの札『痛みや病いに効く呪い、有り〼』をぶら下げて、勝手に野巫医者を名乗ったんです。
同時に名前の方も――
「賢哲、僕はもう良人ではないと言っているじゃないか。良庵と呼んでくれ」
こちらも勝手に医者っぽい名前を名乗る事に変えたそうなんです。まぁ、ぶっちゃけ可笑しな人ですよね。
「それで? 今日はどうしたんだ? どう見たって元気そうなお前が診察って訳でもないんだろう?」
「違ぇよ。今日はよ、おめぇに会わせたい人がいるんで連れてきてんのよ」
あら、お連れ様がありましたか。という事は門の外でお待ちなんですね。
この間から我が家の敷地には結界が張ってありますからね、何者かが門を潜ればあたしはいつでも気付けるんですよ。
そう言えばあの、あたしにぶち当たった大男はどうなりましたかね?
あれから数日経ちましたが特にやって来る気配もありませんし、例のあの木札の〼に施した結界もこれまでなんの役にも立っていませんよ。
強いて言えばお客さまがお見えになられた時、先に気付ける事だけですね。
「菜々緒ちゃん、入っておくれ!」
賢哲さんのその声に反応したどなたかが、あたしの結界をぐにょんと通り抜け、それに合わせてあたしの背すじがびくんと跳ねます。
………………。
ごめんなさい、黙ってしまいました。だって……この方――
「どうだ良人! お葉ちゃんに負けず劣らずべっぴんさんだろう!」
「こんにちは。菜々緒と申します。久しぶりねぇ、お葉ちゃん」
にこりと微笑むとっても綺麗なこの女性。
だってあたしの姉なんですもの。
「え? 菜々緒ちゃん、久しぶりってぇ事は知り合いかよ?」
「ええ、妹なんです。ね、お葉ちゃん?」
猫かぶってやがりますねぇ、この女。
何しに来たのか知りませんが、どうやら先手を打たれちまった様です。話を合わせるしかありませんね、これは。
「ほんとお久しぶりですね、菜々緒姉さん」
そう言ってにこりと微笑んだつもりでしたが、心の奥が少し表情に出ていたようです。
「お葉ちゃんったら怖い顔。安心してちょうだい、私は常木の家に貴女の事を告げ口する気はないから」
ツネキ……という事は姉は今、常木菜々緒と名乗っているんですね。
姉は私より数十年ほど年上です。つまり尾っぽは七つ。七つの尾だから菜々緒。
なんて安易な名前でしょうね。
って、かつて睦美蓉子を名乗っていたあたしも偉そうな事を言えませんか。
「お葉さんのお姉さんでしたか。道場の稽古までまだ暇がある。お茶くらいしかありませんが、賢哲はともかくどうぞ上がって下さい」
「いや俺だって上げろっての」
あたしに姉がいる事も、旧姓が常木である事さえも、良庵せんせは今初めて耳にした筈ですのに堂々と一つの動揺もない自然体です。
ほんと凄いお人だなって、また少しキュンとしちまいますねぇ。
ま、あたしの旧姓が常木というのはあたしもいま初めて知りましたけどね。
「賢哲さん」
姉がくいくいっと賢哲さんの袖を引いて呼び掛けました。
「上がりたいのはやまやまですけど、あまりお時間が……」
「え? あ、あぁ、そうだったそうだった。すまん良人、お茶はまた今度だ」
「なんだ。忙しいのか?」
「おぅよ。これから町長のとこ行ってよ、アレ頼まなきゃなんねんだよ」
「アレ?」
なんだか頬から頭の先っちょまでを薄赤く染めた賢哲さんが言い淀みます。
あ、言い忘れてました。
賢哲さんもお医者さまっぽいお名前ですけど、その実、お医者さまでなくってお坊さまです。
ですから頭つるつる、それでもお顔立ちはなかなかの、良庵せんせの垂れ目とは対照的なキリッと切長の二枚目でいらっしゃいます。
良庵せんせの方がカッコいいですけどね。
「その、アレだ。な……仲人をな」
うぇっ!? ――っと、あたしらしくない心の声が出ちまいました。危うくうっかり口からも出るところです。
「うぇっ!? って事は賢哲が僕の義兄さんになるって事!?」
良庵せんせもらしくない口調で変な声が出ちゃいましたね。
「あ、そう言われりゃそうなるな。ま、よろしく頼むぜ義弟よ!」
ふははははは! と笑いながら出て行く賢哲さんの後ろをついて行く姉が、一度振り向きこちらへぺこり。
釣られて良庵せんせもぺこり。
あたしは頭も下げずに見詰めていましたが、上げた姉の顔には艶やかな妖しい笑みが張り付いていました。
ややこしいのがやって来ましたねぇ。
一体なにをしに来たんでしょうねあの女狐。
嫌な予感しかしませんよ。